歳三は一瞬、唇を噛みしめた。
 それから、宗次郎の細い躰をそっと胸もとにかき抱いてくる。
「……そうだな、おまえの事を思うと記憶が戻った方がいいのかもしれねぇな。少なくとも、今、おまえが抱えている不安は取り除くことが出来る」
「……」
「だが、俺は……望んでいないんだ。身勝手な話だが、いつまでもおまえの記憶が戻らなければいいと思ってしまう」
「それは」
 宗次郎は少し躊躇ったが、言葉をつづけた。
「別れ話が出たからですか? 私が、別れようと言ったから……」
「あぁ。記憶を取り戻せば、おまえは再び別れようと言ってくるだろう。ましてや、俺はあの夜、おまえを手込めにした。尚更、おまえの憎しみは深いはずだ」
「憎しみ、なんて……」
 あなたに対して、そんな気持ちを抱くはずがないのに。
 そう言いたかったが、口にすることは出来なかった。確信がないのだ。今の宗次郎に、その時の総司の気持ちがわかるはずもない。何故、別れを告げたのかさえわからないのだから。
 黙りこんでしまった宗次郎を抱きよせ、その首筋に顔をうずめた。
「俺はおまえを手放したくない……ずっと傍にいて欲しい。このまま愛しつづけたい」
 きつく、息もとまるほど抱きしめられる。
 耳もとで、彼の声が囁いた。
「だから、頼むから……別れるなんて言わないでくれ。他の誰に去られてもいい、だが、おまえだけは……総司、おまえに去られたら、俺は駄目になっちまう」
「歳三さん……」
 目を見開いた。
 まるで、縋りつくような声音だった。宗次郎から見れば、歳三は完成された大人の男だ。ましてや大勢の男たちを率いて闘い続ける、新選組副長だった。宗次郎には優しく穏やかに接してくれていたが、仕事になると、一切情を切り捨て冷酷に振る舞う彼を宗次郎も見ていた。だからこそ、驚いたのだ。
 自分のような子供に、別れないでくれと縋るように言う彼の姿に、たまらないほどの切なさがこみあげた。


(歳三さんは冷たく見えるけど、私を傷つけたけれど……でも、本当は脆くて心淋しくて、優しい人なんだ……)


 好きだ、と心から思った。
 守ってあげたいと、願った。
 彼は自分よりも、ずっと年上で強くて大人だけど、それでも、その身も心も自分のすべてで守ってあげたかった。
「……歳三さん」
 彼の名を呼ぶと、宗次郎は両手をのばした。そっと彼の背に手をまわして、抱きつく。
 出来るだけ明るく、柔らかな声で言った。
「私はここにいます。あなたが望んでくれるなら、ずっと傍にいる」
「総司……」
「記憶なんてなくてもいい。私が今、あなたを愛してる。それが一番大切だと思うから、だから」
 宗次郎は澄んだ瞳で、歳三をまっすぐ見つめた。
「歳三さんも、私を愛して。ずっと傍にいると約束して」
「傍にいるよ」
 歳三は真摯な声で答えた。宗次郎の顔を見つめ返し、しっかりと答えてくれる。
 それに、宗次郎は花が綻ぶように笑った。












 翌朝、屯所に帰ってきた二人を迎えたのは、呆れた顔をした斉藤だった。
 廊下でたまたま会ったとたん、斉藤は肩をすくめた。
「結局、仲良く外泊届けですか」
「当然だろう、俺たちは念兄弟だ」
 堂々と言ってのける土方の傍で、総司は頬を赤らめている。それをちらりと見やってから、斉藤は訊ねた。
「もしかして、一夜を共にしたという訳ですか」
「据え膳食わねば、さ」
「妻を娶るのに?」
「そんな事しねぇよ。あの縁談はきっぱり断った」
 土方の答えに、斉藤は、へぇと目を見開いた。ちょうどそこへ山崎が報告を持ってくる。
 副長室に立ち去る土方を見送りながら、斉藤は総司に視線を移した。
「今の話、本当なのか?」
 心配げに訊ねる斉藤に、総司はこくりと頷いた。
「はい、昨日、歳三さんがちゃんと否定してくれました。この間、江戸へ行った時に断ったって」
「そうか」
 斉藤は頷き、微かに小首をかしげた。
「しかし、また分からなくなったな。オレはまたそれが、総司が別れ話を持ちだした理由だと思っていた」
「私もそう思ったのです。でも、歳三さん、記憶をなくす前にちゃんと私に話をしていたそうです。だから、理由にならないのです」
「なるほど」
 結局の処、総司の気持ちは分からずじまいなのだ。
 だが、こうして今、記憶がなくても二人仲睦まじく過ごしていけるのなら、総司が幸せであるのなら、それでいいのではないかと思った。
 斉藤にとって、総司が幸せであることがとても大切なのだ。むろん、恋敵である土方に総司を好きなようにされていることは悔しい。それでも、総司が土方しか好きになれないのだから、仕方がないのだ。
 何よりも、総司が沈んだ様子でいるところを見たくなかった。
 あの頃のように……。
「斉藤さん」
 気がつくと、総司が大きな瞳で覗きこんでいた。それに我に返り、答える。
「何だ」
「あのね、私、どんなふうでした?」
「え?」
「記憶を失う前、私、どんなふうだったのかなと思って。幸せそうだったのか、それとも……」
「土方さんとつきあうようになってからは、幸せそうだったよ。けど」
「けど?」
 聞き返す総司に、一瞬、躊躇った。だが、隠しても仕方がないと思い、言葉をつづける。
「この屯所に移ってからかな……何だか、妙に沈んでいた。憂い顔で考え事ばかりしていて、オレが何かあったのかと聞いても、首をふって淋しそうに笑うばかりで……」
「歳三さんと上手くいってなかったって事ですか」
「いや、土方さんと一緒にいる時は、今までどおりの総司だった。けど、どこか無理しているような感じもあったな。土方さんは気づいていないみたいだったが」
「無理をしている……」
 呟き、黙りこんでしまった総司に、斉藤は何か言葉をかけようとした。だが、何を言えばいいのか、わからない。
 結局の処、支えになってやりたいと思いながら、こうして見守ることしか出来ない己に、唇を噛みしめた。











 斉藤の言葉は衝撃だった。
 歳三といるときに、無理をしていたということは、その頃から別れを決意していたのか。気持ちが彼から離れてしまっていたのか。
 あんなにも優しい彼なのに、あんなにも愛されているのに。
 どうして別れようなどと思うのか、宗次郎にはまったくわからなかった。


(でも、きっと何か理由があったんだよね)


 でなければ、自分から別れを切り出すことなどするはずがなかった。
 ましてや、記憶を失ってしまったのだ。それはとりもなおさず、歳三のことを嫌っていた頃に戻りたいと願ったからではなかったか。
 それがわかっているからこそ、歳三も、記憶を取り戻さないでくれと言うのだ。記憶を取り戻せば、再び別れを告げてしまうだろう恋人。もしかしたら、明日訪れるかもしれない時を怖れている歳三に、胸が痛くなった。


 愛してる、と思う。
 守ってあげたいと、心から願う。


 歳三を愛してゆけるなら、記憶なんていらなかった。
 記憶は二人で今からつくっていけばいいのだ。愛する男を苦しめる記憶など、消えたままでいい。
 そんな事を思いながら、宗次郎は副長室へ向かっていた。巡察から帰ってきた後の報告へ向かうためだった。
 もう少しで副長室につく、そう思った時だった。
 突然、喉元に熱いものがこみあげてきた。あ、と思った次の瞬間、目の前が真っ赤に染まった。
「……っ……」
 慌てて両手で口もとをおさえたが、もう遅い。指の間からぼたぼたと血が滴り落ちた。
 それに、呆然と目を見開く。
 自分が労咳という病にかかっているのだと、聞かされてはいた。確かに熱っぽくなったり、躰が怠くなったりすることはあったが、喀血などは全くなかったため、実感することが出来ないでいたのだ。
 だが、今、宗次郎は喀血していた。とめたくてもとまらない血に、恐怖に、心が悲鳴をあげる。
「……総司ッ!」
 鋭い声がその名を呼んだ。慌ただしく誰かが駆け寄ってくる気配がする。
 それに顔をあげようとした瞬間、躰から力が抜けた。そのまま男の腕の中へ、ぐったりと倒れこむ。
「総司っ! 総司、しっかりしろ!」
「……歳三、さ……」
「医者だッ! 早く医者を呼べ……っ!」
 自分を抱きしめた歳三が叫ぶのを聞きながら、宗次郎は暗闇の中へと落ちていった……。














 その光景を見た瞬間、躰中の血の気が引いた。
 気配を感じて障子を開き、廊下へ出た。
 そこに総司が立っていたが、様子がおかしかった。歩み寄ろうとした瞬間、総司が口もとを手でおさえる。
 ぱぁっと血が飛び散った。白い指の間から滴り落ちる血が、総司の命を削っていくようだった。
「総司……ッ!」
 叫びながら、こんな事は前にもあったと思っていた。
 池田屋事件からしばらくした頃だ。総司が喀血をして倒れた。
 そして、その後、総司は彼に想いを告げてくれたのだ。
 だが、目の前で倒れこむ総司の姿に、そんな思いはどこかへ消えた。後はもう無我夢中だった。
 失神してしまった総司を抱きあげ、自室へと運び込んだ。布団を敷いて寝かせたところに、医者がやってくる。手当をしている間も、総司は身じろぎ一つしなかった。長い睫毛が頬に翳りを落とし、今にも消えてしまいそうな儚さが、土方の胸を抉った。
「……総司」
 また、無理をさせてしまったのかと思った。先日の契りが総司の躰に負担をかけたのかもしれない。
 何よりも、記憶を失ってからの総司の事情に気がとられ、その躰を気遣うことが出来なかった。総司自身、己が労咳であるという自覚が薄いのだから、自分がもっと気を配るべきだったと悔いたが、今更だった。
 医者が帰った後も、土方は総司の傍にいた。むろん、多忙な副長の身で、いつまでもここにいられる訳ではない。そろそろ副長室に戻らなければいけないと思い始めた頃、ようやく総司が目を開いた。
 長い睫毛がまたたき、ぼんやりと天井を見上げている。それに、声をかけた。
「気分はどうだ」
 そう訊ねた土方に、総司はゆっくりと視線を向けた。一瞬、目を見開いてから、こくりと頷く。
 掠れた声で答えた。
「もう……大丈夫です」
「大丈夫なものか、しっかりと休め。……いや、こんな事を言えた義理じゃねぇよな。数日前、おまえに酷い負担をかけてしまった」
「……」
「すまない。おまえ自身が自覚ないのだから、もっと気遣ってやるべきだった」
「でも……」
 総司が微かに笑った。
「あなたが私を欲しいと、そう思ってくれたからでしょう……?」
「あぁ」
 土方は頷いた。そっと総司の手をとり、その指さきに唇を押しあてた。
「俺はおまえが欲しいよ、いつでも欲しがっている。おまえしか欲しいと思わねぇんだ」
「どうして……?」
「愛しているからに決まっているだろう。今更、何を言っているんだ」
 そう言ってから、土方はゆっくりと総司の手を離した。布団を直してやりながら、身をかがめ、頬に口づける。
「すまない、仕事で行かなきゃならねぇ。しっかり……休んでいろよ」
「申し訳ありません……迷惑をかけて」
「迷惑なんかじゃねぇよ」
 土方は微かに笑ってみせると、立ち上がった。障子に手をかけて出ていこうとした瞬間、総司が小さな声で言った。
「ありがとう、土方さん」
「……あぁ」
 振り向くことが出来なかった。
 低い声で答えを返してから、土方は障子を開いた。そのまま後ろ手に閉め、廊下を歩き出す。
 総司の部屋から随分と離れてから、だった。
 傍の柱に凭れかかり、固く瞼を閉ざした。その唇から、吐息がもれる。


(……総司……!)


 明らかなことだった。
 目を覚まし、こちらを見た瞬間、わかってしまったのだ。気づいてしまったのだ。
 総司は記憶を取り戻していた。彼が何者であるのか、わかっている表情だった。
 決定的なのは、呼び方だった。記憶を失っていた時の総司は、いくら注意しても「歳三さん」と呼んでいた。もはや癖になってしまったようで、土方もいつしかそれを受け入れていたのだ。
 だが、先ほど、総司は、はっきりと言った。
 土方さん、と。
 久しぶりに呼ばれた言葉だった。
 だが、それを懐かしいとは思わなかった。むしろ、果てしない苦痛と絶望をあたえる言葉だった。
 今、そこにいる総司は、彼を憎んでいる若者なのだ。別れを告げたのに手込めにされ、記憶を失うまで追い込んだ男に対して、どれほどの憎しみや嫌悪を抱いているのかは、わからない。
 それでも、総司が、あの明るく可愛らしい笑顔を、二度と自分にむけてくれることがない事は確かだった。
 つい数日前、二人は結ばれたばかりなのに。
 身も心もとけあうように愛しあい、ずっと傍にいると約束したばかりなのに。
 その事に思い至ったとたん、ほろ苦く笑わずにはいられなかった。


(何を今更……初めから決まっていた事じゃねぇか)


 土方は目を開くと、頭上に広がる青空を仰いだ。
 この日が訪れることは覚悟していたはずだ。こんな幸せがいつまでも続くはずがないと思っていた。
 彼という男を素直に愛して、ずっと傍にいますと約束してくれた総司は、もういないのだ。夢は終わってしまったのだ。


(こんな事なら、いっそ……好きにならなければよかった)


 繰り言だと思いながらも、思わずにいられなかった。
 愛さなければ、こんな苦しみも辛さも味わうことはなかったのだ。だが、総司を愛さなければ、あの胸が熱くなる喜びも得られなかったことは確かだった。


(……総司……)


 愛しい恋人の名を一度だけ呼んでから、土方は身を起こした。
 そして、怜悧な副長の表情になると、静かに歩き出したのだった。一度もふり返ることなく。
 前だけを見据えていく男の肩に、初夏の光が落ちていた。