一方、屯所へ駆け戻った総司は、自分の部屋の真ん中でへたり込んでいた。
 はぁはぁと肩で息をしながら、真っ赤な顔で宙を見つめている。
 かと思えば、「やだやだやだーっ」と叫びながら畳に突っ伏し、ぶんぶん頭をふって。
 はっきり云って、傍から見れば変な人だが、幸いにして周囲に人影はなかった。
 やがて、落ち着いてくると、総司はむっくり起き上がり、ごしごし腕で顔をこすった。それから、はぁっとため息をつく。

「……ほんと、何やってんのかなぁ」

 少しでも彼の反応を見たくて。
 斉藤さんと念兄弟になりました、なーんて云ってみたら、ちょっとぐらい動揺して反対してくれるかなと思っていたのに。
 結局、びっくりはしてたみたいだけど、一度だって反対の言葉を口にしてくれなかった。
 契りの事まで云っても、無関心みたいだったし。
「やっぱり、あの人にとって、私は子供なのかなぁ」
 いや、子供ならいいのだ。
 土方のだい好きな可愛い可愛い男の子のままだったら、こんなに思い悩むこともないだろう。
 子供でなくなったから問題なのであって、だが、しかし。
 人間、いつまでも子供のままでいられるはずがないのだから……。
 総司は両膝を抱えると、小さく呟いた。
「だいたい、昔だって、あの人、私が可愛い男の子だったから可愛がってくれたんだものね。私が私じゃなくても、どうでもよかったはずだし」


 そんなの恋と云えるはずもなかった。
 愛でもないだろう。
 総司の方はずっとずっと、彼だけに憧れ恋してきたのに。
 そりゃ、格好いい容姿にだって惹かれたが、基本的には、彼のあの冷たくて優しくて少年っぽくて、脆くて強くて、時々我が儘で──そんな誰よりも矛盾にみちた男である土方自身を愛したのだ。
 なのに。


「報われないんだから、ほんと。こーんな笄までつくっちゃうぐらい、私はだい好きなのに」
 そう呟きながら、総司は懐へ手をやった。本来なら刀につけておくものだが、総司は綺麗な袱紗に包み込んで懐にしまっていたのだ。
 懐に。
 だが。
「……え?」
 総司は懐に手を入れたまま、固まった。


 な…い?
 ない……ない、ないって!
 え、え、えぇっ──!?
 私、あの笄をなくしたのぉッ!?


 総司は、さぁーっと血の気がひくのを覚えた。


 大切な大切な笄なのだ。
 だい好きな彼の代わりなのだ。
 もう遠くへいっちゃって、こっちを見てもくれなくなったあの人のかわりに、いつも懐に抱いていた笄なのだ。
 なのに、どうして?
 いつ、どこで落としたの?
 今日一日の行動を頭の中で日めくり暦のごとく(そんなものがこの頃にあったかどうかは知らないが)バラバラバラーッと遡ってきた総司は、突然、はっと息を呑んだ。

(ま、まさか……っ)

 あの時、土方さんに突然笄のことなんか云われて、めちゃくちゃ焦っちゃって。
 頭の中まっ白状態で、もう後先考えずに蕎麦屋を飛び出した。


 も、もしかして、あの時!?
 あの時、落としたのっ!?


「うわぁあぁんっ」
 総司は思わず畳に突っ伏してしまった。


 最悪!
 そんなの最悪だ!
 蕎麦屋で落としていたりしたら、絶対絶対、彼に見られているに違いない。
 でもって、全部ばれちゃってるに違いない。
 いくら何でも、もう少しまともな形で、この恋を知られたかったのに。
 なのに……!


 そうぐるぐる回っていた総司は、はたと気がついた。
 もそもそと起き上がり、よーく考えてみる。

(……あれ?)

 そうだ。
 蕎麦屋を出た後、一度、自分は笄を見ているのだ。屯所に帰ってきてすぐ、庭の処で取り出して見た。
 それでも気持ちが落ち着かず、結局、部屋でへたりこんでいたのだが。

(なぁんだ、じゃ……大丈夫…って……)

 違う違う。
 全然、大丈夫ではないのだ!
 とりあえずの危機は脱したが、以前、目の前には「無くした笄」という問題が、ぶら下がっている。
 しかも、放っておけば、今度こそ、土方の目にふれてしまうかもしれないのだ。


「こ、こうしてる場合じゃ……!」
 総司は慌てて立ち上がると、部屋を飛び出した。
 そして、一目散に、自分が笄を見ていた中庭にむかって走り出していったのだった。










 一方、総司に冷たく飽きられたと思いこまれている土方は、混乱しきった頭を抱えたまま、とぼとぼと屯所へ辿りついていた。
 もっとも、端正な容姿をもつ彼のことだ。
 たとえ落ち込んでいたりしても、傍から見れば精悍に見えるのだから、男前ってのは得だね〜と原田などあたりから、云われそうである。
 もちろん、斉藤に云われたとおり、蕎麦屋の支払いは全部ちゃんと済ませてきた。
 だが、頭の中は総司の事だけでいっぱいだったため、こっそりぼったくられていても全く気づかなかったであろう。





「……わからねぇ」
 屯所の門をくぐった処で、土方は深い深いため息をついた。
 蕎麦屋から屯所への道のり、ずっとずっと考えつづけてきたのだが、結局さっぱりわからなかったのだ。
 明敏な頭の持ち主である彼だが、こと恋愛──というより総司のことになると、とことんまで鈍ちんだった。
 ずーっと長年片思い状態がつづいてきただけに、何でもかんでも悪い方へまずい方へと考えてしまう癖がある。
 今回の総司の行動も、斉藤の言葉も、いったい何を意味しているのか、土方にはまったく理解不可能だった。
 しかも。
「……九才も年齢差あるものなぁ……若い奴らの気持ちなんざ、わかるはずねぇよなぁ」
 などと。
 斉藤あたりが聞いていれば、「考えつくのは、そこですかっ」と突っ込みたくなるような事を、ぶつぶつ呟いている。
 だが、しかし。
 土方から見れば、斉藤は総司にとって同じ年である気安さもあり、仲のよい友で剣術師範同士としてお互いを高めあってゆく存在でもあった。
 どう見ても、自分といるより、斉藤といる方が楽しそうだし(嫉妬に狂った男の目から見れば、そう見えるのだ!)一緒にいる事も多い。
 それが内心羨ましくて仕方がなかったところに、今回の騒ぎだった。
 結局、嘘だったとわかって胸を撫でおろしたが、依然わからないのは総司の動機だ。


 いったい何の目的で、あんな事をしたのだろう?
 俺をからかうつもりだったのか?
 いつもの冗談です〜と笑うつもりだったのか?
 こっちは、十年もの間、ずっと恋焦がれてきたのに。
 斉藤と並んで坐っているのを見ただけで、叫び狂いそうだったのに。


「……いつもの冗談だったら、絶対許さねぇ」
 思わず、ぐぐっと拳を固めてしまった。
 何もない虚空をきっと睨みつける。


 男の恋ってのは、粘着質で恐ろしいのだ。
 しかも、こっちは総司が十歳の時から長年想い続けてきた、筋金入りだぞ!
 総司への想いとなると生半可なものじゃねぇし、可愛い総司の事なら日頃無口な俺でも、一晩中喋りまくれるぐらいの自信がある(……何の自慢にもならねぇが)。
 そんな自分に、念兄弟です〜♪などという冗談をかましたら、いったいどうなるかわかっているだろう!
 それとも、何か?
 そこまで、俺はとことん無視されてるのか?
 男として相手にされてねぇのか!?


 そう思ったとたん、総司の無邪気な一言が耳奥に蘇った。


『兄代わりですし』


「……兄代わり」
 その一言を思い出したとたん、土方の気勢はたちまちザックリ削がれてしまった。
 がっくりと項垂れてしまう。
 いくら盛り上がり、絶対許さない!などと叫んでいても、所詮は虚しい独り相撲なのだ。
 何しろ、総司は彼の気持ちなど知る由もないのだから。
 恋愛対象の範疇にさえ入っていない。
 だからこそ、あんな残酷で無邪気な冗談を仕掛けられるのだろう。
 ただの兄代わりとしか、思ってないからこそ……。
「……っ」
 土方は、はぁっと大きくため息をついた。





 屯所の門を入った処で立ち止まり、そうやって一人ぶつぶつ何やら呟き、怒ったり落ち込んだりしている彼の姿は、通りすぎてゆく隊士たちから見れば「ただの変な男」だったが、むろん鬼の副長相手にそんな事を云える命知らずは誰もいない。
 皆、胡乱げな目つきで眺めながら、ささっと避けてゆくだけである。
 それを全く気にもとめず(というか、全然気がつかず)、土方は玄関から框にあがった。
 気持ちを切り替えようと頭を一振りしてから、副長室へ向かう。
 中へ入ろうと障子に手をかけた時だった。
「……副長」
 ぱたぱたと走ってきた鈴に声をかけられた。
 それに「あぁ、何だ」と答えながら、障子を開く。
 鈴は土方の後ろについて副長室に入ると、きちんと正座した。実の兄であり、これまた内緒だが念兄でもある清之助から厳しく躾けられているのだ。
「あの、一つお訊ねしても宜しいでしょうか」
「何だ」
「これは、副長のものではございませんか?」
 そう云ってさし出された袱紗の包みを、土方は訝しげに見やった。
 全く見覚えのないものだ。
 思わず眉を顰めた。
「いや、俺のものではないが……覚えもない」
「そうですか」
 頷いた鈴に、土方は訊ねた。
「どこかで拾ったのか?」
「はい、庭で拾いました。それで迷いはしたのですが、中身を改めさせて頂きますと……」
「俺のものが出てきたとでも云うのか?」
「そうではありません。ただ……」
 口ごもる鈴に首をかしげながら、土方は袱紗を受け取った。
 するりと中身を開いてみると、一本の笄が現れる。
「? 何だ……?」
「これ、副長の家紋ではありませんか? その家紋が刻まれてあったので、私も副長のものだと思いこんでしまったのですが」
「いや……違う。俺の笄はここにある。同じ家紋って事なのか? それとも……」
 理解できぬ物の出現に、土方は眉を顰めた。





 その時、廊下から大きな声がかけられた。
「あぁ、それ! 総司のだよ」
「えっ?」
 驚いてふり返ると、巡察を終えたばかりらしい原田が入ってくる処だった。報告に訪れたのだろう。
 どかっと土方の前に坐りながら、彼が手にしている笄を指さした。
「それ、総司のだ」
「どうしてわかるんだ」
「だって、おれ、総司がこれを受け取る処を見てたからさ。ちょっと変わった形をしているだろ。だから、よく覚えていたんだ」
「だが、これ……俺の家紋が彫ってあるんだぞ」
 そう云った土方に、原田はかるく目を見開いてから、にやぁっと笑った。
 胡座をかいた膝上に頬杖をつきながら、にやにや笑う。
「ふうーん、あんたの家紋がねぇ」
「……」
「いったい、何でだろうなぁ。不思議な話だよなぁ」
 原田はどこか間延びした口調で云うと、意味ありげな目つきで土方を見た。
 それを土方も眉間に皺を寄せたまま、じっと見返す。
 間にいる鈴が、きょろきょろと男二人を見比べた。
「……あ、あのう……いったいどういう……」
「子供はわからなくていいのさ」
 原田はぽんぽんっと鈴の頭を叩いた。
 それに、鈴がぷうっと頬をふくらませる。
「私は子供ではありませんっ。兄上だって、もう子供じゃないと……」
「なるほど。鈴はもう身も心も子供じゃないって事だな」
「し、知りません……っ」
 鈴は真っ赤になると、大急ぎで出ていってしまった。
 それを笑いながら見送った原田は、自分もよいしょっと立ち上がった。それから、土方を見下ろして云う。
「総司もさ、もう子供じゃねーって事だよ」
「……」
「巡察、無事終了。報告する事何もなし、以上」
 そう云い終えると、原田はさっさと副長室を出ていった。





 一人残された土方は、笄を握りしめたままため息をついた。
「……子供じゃない、か」
 わかってる。
 そんなこと、もうとっくの昔にわかっている。
 だからこそ焦っていたのだ。
 今にも他の誰かに奪われてしまいそうで、それが不安でたまらなくて。
 可愛い可愛い総司が、どんどん大人になり、思わず息をとめて見惚れてしまうほど綺麗になって。
 あっという間に、手の届かない処にいってしまうのが恐ろしかった。
 それでも、いったいどうすればいいのかわからず、他の男たちと笑いあう総司を遠くから眺め、ぎりぎり歯がみするばかりだったのだ。
「……」
 土方はもう一度ため息をつくと、手元の笄に視線をおとした。


 確かに、そこには自分の家紋が彫ってある。
 だが、原田の話では、これは総司のものだという。
 それはいったい、何を意味しているのか──?


 土方はゆっくりと笄を裏返した。
 そこにも何か彫ってある。


 何か。
 そう……花が。
 笄に彫られた、花……


「……!?」


 次の瞬間。
 土方の目が、大きく見開かれた───