その四半刻ほど前。
 件の料理屋で、斉藤は思いっきり仰け反っていた。
「な、な、何だってぇっ!?」
「しいっ、声が大きいです」
 総司は細い指を斉藤の唇に押しあてると、悪戯っぽく笑ってみせた。
 にこにこ笑っているが、今、総司が口にした頼み事はとんでもないもので──


「オ、オレとおまえが念兄弟になるって……っ」
「そうです。嬉しくありません?」
「嬉しいというか、嬉しくないっていうか……」


 もちろん、当然、あたり前に。
 嬉しい!
 ずーっと総司に片思いしてきた斉藤にすれば、念兄弟になれるなんてことは、嬉しいに決まってるのだ。
 今、目の前で大きな瞳をちょっと見開き、つやつやした桜色の唇で笑っている総司を、自分だけのものにできるなんて!
 こんな幸せがあるだろうか。いや、ない。


 斉藤は、清水の舞台から身を乗り出して拳突き上げ、「やったぞぉぉーッ!」と歓喜の雄叫びをあげたいくらいだった。


 だが、しかし。
 その喜びも長くは続かない。
 幸せとは、かくも短く儚いものである。





 総司はにっこり笑いながら、云った。
「あ、でもね」
「え?」
「もちろん、本当の念兄弟になる訳じゃありませんよ。ふりだけ、です♪」
「……ふり?」
「そ。ふりだけです」
「…………」
 斉藤は思わず、がっくりと卓上に突っ伏してしまった。


 一瞬喜んでしまっただけに、その反動は大きい。
 斉藤一、どこまでも報われない男だった。


 だが、そんな斉藤の気持ちも全く知らず──というか、関心さえ向けぬまま、総司は頬杖をつきながら、言葉をつづけた。
「ちょーっとだけ、ふりをして貰いたいんです。斉藤さんは、ほとんど口をきかず座ってくれてたらいいですから」
「口をきかずって……誰かに、その嘘を云うのか?」
「えぇ、土方さんに」
「──」
 とたん、斉藤の背筋がしゃきーんっ!と伸びた。
 素早く両刀を掴みあげたかと思うと、そそくさと腰をあげて立ち去ろうとする。
「……さーて、オレも忙しいし、そろそろ」
「まだ、注文もしてませんよ。斉藤さん、御飯たべないのですか?」
「いやぁ、オレ、屯所の飯の方が良いし」
「ふうん」
 突然、すうっと総司の目が細くなった。
「斉藤さん、逃げるんだぁ」
「え……」
「今朝、道場で勝負する時、云いましたよね。負けた方が勝った方の云う事を聞くって」
「あ、あぁ。けど、あれはその……」
「それで、勝ったのはどっちでしたっけ? 斉藤さんだった訳?」
「おまえだ。総司、おまえがオレを叩きのめして、道場の真ん中で飛び跳ねまわって喜んでたじゃないか。やったぁ、やったぁ!って。……くっ、あの屈辱は忘れないぞ」
「斉藤さん、しつこい〜。そんな昔のこと、いつまで覚えてるんですか」
「そんな昔って、今朝の事だろうが!」
「今朝ですよね? 今朝、斉藤さんは私に負けたんですよね? 負けた方が勝った方の云う事を聞くって勝負に、斉藤さんは負けたんですよね?」
 たたみかけるように、負けた負けたとくり返す総司に、斉藤はむっとして黙り込んだ。


 事実は事実なのだ。
 斉藤一、一生の不覚!
 今度こそ絶対に負けないぞとは思うが、それはそれ、今は今。
 とにかく、目の前に差し迫った危険の方が大問題だった。


「オ、オレは絶対に屯所へ帰るぞ。絶対に……」
「ふーん、斉藤さん、約束破るんだ」
「……う」
 自分の髪を一筋弄びながら、総司は大きな瞳で、固まっている斉藤を見た。
 桜色の唇が、にっこり笑う。
「まさかねぇ。斉藤さんともあろう人が、約束を破ったりしませんよねぇぇ」
「……」
「だって、斉藤さん、武士ですし」
「そ、それは、オレだって色々と事情が……っ」
 慌てて弁明しようとする斉藤に、とどめの一言が放たれたのだった。


「武士に二言はない」
「……」
「ですよね?」
「…………はい」  


 力なく頷いた斉藤に、逃げ道は残されていなかった……。









 で、またまた刻は戻って。
 やってきた土方の前で、その嘘っぱち念兄弟宣言を、にこにこ笑顔の総司がしたばかりである。





「……今……何て……」
 土方は、己の声が喉にからむのを感じた。
 何とか平静を装うとするが、心なし声が震えてしまったような気がする。


 絶対絶対、今!
 俺の顔は、衝撃に引き攣っている!


 土方はそう確信した。
 だが、そんな彼に、総司は可愛らしく小首をかしげた。
「え?」
「だ、だから……今、何て云ったんだ」


 聞き間違いであって欲しい!
 頼むから、突然、俺の耳が変になったんであってくれ!


 一縷の望みを抱いて、必死に訊ねた土方の想いを、総司はあっさりきっぱり打ち砕いた。
「斉藤さんと念兄弟になりましたって、云ったんですよ♪」
「…………」
「まぁ、私と斉藤さんの私的な事ですけどね、一応、土方さんには報告しておくべきかなぁと思ったから」
「そ、それは……ご丁寧な話だな」
「だってぇ、土方さんは私の兄がわりですし♪」 

(……兄がわり……)

 云われ馴れてるはずの言葉だ。
 だが、その何気ない言葉が、この胸にグサリ!と突き刺さるのは、いったい何故だろう。
 それは、きっと自分が深く深く総司を愛しているからなのだ。
 この若者のことを。
 それこそ目の中にいれても痛くないぐらい、めろめろでれでれに可愛いと思って、とことん惚れきってしまっているからなのだ。





 そんな事をしみじみと噛みしめている土方に(そんな事をしてる場合じゃないのだが)、総司は尚もどんどん追い討ちをかけた。
「あ、でも、安心して下さいね。屯所の中では、私も斉藤さんもそんな色々したりしませんから」
「色々って……?」
 まさか!?という表情で凝視した土方に、総司は頬をぽっと染めた。
 その表情は、まるで祝言挙げたての花嫁のように初々しい。
「やだなぁ、もう♪ 色々って、そんなの決まってるじゃないですか〜」
「決まってるって……なら、そういう事もしちまったのかッ!?」
「え? そういう事って……。あぁ、契りのことですね……はい」
 恥ずかしそうに耳朶まで桜色に染めながら、総司はこくりと頷いてみせた。
 ちらりと隣に坐る斉藤を見やる表情が、何とも可憐で艶めかしい。
「…………」
 それを見たとたん、土方は体中の血がざぁーっと音をたてて逆流した気がした。
 頭の中がまっ白になり、嫉妬と怒りでぐらぐら目眩までしてしまう。
 ぎりりっと奥歯を噛みしめた土方は、恐ろしく底光りする目で、ぎろりと斉藤を見据えた。

(斉藤! おまえ、よくも俺の総司に手を出しやがったなぁッ!)

 視線で人が倒せるなら、それこそ一撃だっただろう。
 むろん、そんな土方の反応を、斉藤は即座に知った。というより、予測していた。
 慌てて必死に目で訴える。

(してません!してません! 手、出してませんってば!)
(手出したんだろうがッ! 斉藤、覚悟しろよッ)
(だから、覚悟も何も……頼みますから、勘弁して下さいよ〜っ)

 二人が目線で会話しあってる間、総司はまったく気づかず、呑気に茶をすすっていた。
 こくこくこくーっと呑んでから、ふと気づいたように念押ししてくる。
「とにかくですね」
「……」
「土方さんに報告しましたから、みとめて下さいね。っていうか、黙認して下さいね」
「……笄」
「え?」
「笄だ」
 土方は不意に視線を総司に戻すと、低い声で問いかけた。
「おまえが持ってる例の笄には、斉藤の好きな花が彫ってあるのか」
「……そんなこと誰に聞いたのです」
 とたん、すうっと総司の顔が真面目になった。
 さっきまであれほど桜色だった頬も、青ざめてしまっている。
 だが、それに気づかず、土方は言葉をつづけた。
「噂になっている。おまえが、惚れあった奴の好きな花を笄に彫らせ、大事にしていると」
「そんなの……嘘です!」
 がたんっと音をたてて、突然、総司は立ち上がった。
 大きな瞳で土方を見つめ、ぎゅっと両手を握りしめた。
「嘘……絶対に嘘!」
「嘘って……」
「ほ、惚れあってなんか、好みの花なんか……私、知りませんからッ!」
 そう叫ぶなり、総司は身をひるがえした。
 慌ただしく草履に足をつっこんだかと思うと、とめようと手をのばした土方をふり返る事もなく、店の外へ駆けだしていってしまう。
 まさに、脱兎のごとくの素早さだった。








 その素早さに呆気にとられつつ、土方は思わずそれを追いかけようと腰を浮かせた。
 だが、しかし。

(……いや、待てよ!)

 それよりも今は。
 こいつと話をつけるのが先だと気づいた土方は、向かいへ視線をやった。
 向かいの席に座っている男、斉藤一を。
「……」
 斉藤はうんざりしきった表情で、もう完全にのびてしまった蕎麦を食べている。





「……おい」
「何でしょう」
「蕎麦なんざ食ってる場合か。おまえ、さっきの話……」
「あれ、全部嘘ですよ」
「嘘!?」
「そうです。オレと総司が念兄弟だってのも、契り結んだってのも、ぜーんぶ嘘です」
 蕎麦を食べおわった斉藤は、店の小女に「あ、蕎麦湯こっちに一つねー!」と手をあげた。
 それから、土方の方へ向き直り、言葉をつづける。
「今朝、道場で総司との勝負に負けてしまいましてね。で……」
「で!?」
「その負けのために、この芝居につきあわされたって訳です」
「…………」
 嘘だったと聞いたとたん、土方は強ばっていた自分の躯から力が抜けるのを感じた。
 正直、清々しいほどの開放感だ。
 嘘だったとは!
 念兄弟ではなかったとは!
 いやいや、それはともかく、総司はまだ「新品」なのだ。
 誰の手にも汚されていない、綺麗で無垢でまっさらでぴかぴかの可愛い総司のまま。

(……あぁ……よかった)

 土方は卓に両肘をつくと、全身で安堵のため息をついた。その端正な顔には歓びがみちあふれている。
 それをちらりと見た斉藤は、呆れたように首をふった。

(ここまでお互いわかりやすいのに、何でうまくいかないんだろーな)
(お互い、好き好きって全身で云ってるのに)
(総司は総司で、鈴のことばかり気にしてるし、肝心の土方さんもなぁ……)

 そんな事をこもごも考える斉藤の前で、不意に土方を顔をあげた。
「……だが」
 安堵したとたん、疑惑がむくむくとわいてきたようだ。
 訝しげに眉を顰めながら問いかける。
「だが、嘘なら何で、こんな芝居をあいつはしたんだ?」
「さぁ」
「俺をからかったのか? こんな事をして何をするつもりだったんだ?」
 それに、斉藤は小さく苦笑した。
「総司も相当だけど、土方さんもかなり鈍感ですからね」
「……?」
「ま、鈴のことで総司もいろいろ複雑だったみたいですし」
「鈴って……榊のことか?」
 土方はますます意味がわからないという表情になった。
「あれがどうしたんだ。榊は、会津藩からの預かり物だ。だからこそ、俺の傍において気をつけてやるって事になったんだが」
「それが問題なんですよ」
「だから、何で」
「自分で考えて下さい。オレがここで云っても仕方ないでしょう」
「……」
 土方は眉間に皺を寄せたまま、黙り込んでしまった。
 両腕を組み、じっと視線を落としている様は、まさに策略などを熟考する新撰組鬼の副長そのものだが、頭の中は仕事なんかよりも、可愛い可愛い総司のことだけでいっぱい満杯状態だ。





 しばらくの間、土方は必死になって、あれこれ考えてみた。
 だが、いくら考えてもわからなかった。


 何で総司があんな事をしたのか。
 で、どうしてここに榊の事が出てくるのか。
 いったい、何がどう繋がっているのか。


 人よりも遙かに明敏な男なのだが、色恋沙汰にしてもさんざん経験をつんできているはずなのに、どうしてだか、総司の事となるとまったくの鈍感になってしまう。
 正直、斉藤などから見ると、めちゃくちゃ歯がゆい程だった。

(これ以上ぐずぐすしてたら、あなたの可愛い可愛い総司、オレがもらっちゃいますよ?)

 そんな事を考えていると、不意に、またぱっと土方が顔をあげた。
 真剣な目で、斉藤をじぃっと見据えてくる。
 ようやく理解できたのかと思った斉藤の前で、土方が云った。
「なぁ、斉藤」
「はい」
「おまえの好きな花って、何だ」
「……」
 斉藤は、がっくり肩を落とした。


 この人はいったい何を聞いていたんだというか、何でそこから離れられないんだっ。
 後ろから蹴り入れて、目ぇ覚ましてやろうか!


 鬼の副長に対して不遜極まりない事を考えつつ、斉藤は仕方なく答えた。
「水仙ですけど……でも! まだそんな事を云ってるんですかっ」
「だが、俺は近藤さんから聞いたんだ」
 土方は生真面目な表情で、云った。
 相変わらず眉間に皺を刻んでいるし、目も据わっている。
 苦悩にみちたその表情は男前だからこそ許されるが、そうでなかったらただの天然ボケだ!と、斉藤はきっぱり思った。
 だが、そんな斉藤に全く構わず──というより、全然目に入ってないまま、土方は言葉をつづけた。
「あいつが……総司が、惚れた相手の好きな花を笄に彫らせ、大切にしていると」
「だから!」
 斉藤の苛立ちは頂点に達し、思わず大声をあげてしまった。
 ばんっと卓を叩く。
「だから、それは……っ」
 思わず云いかけ、だが、それを自分が口に出すのはおかしいと思った。


 何で、恋敵に塩を送らなきゃならない?
 もう既に、結果は見えているのに。
 自分だって、総司の事をずっと想ってきたのに。


「あああ、もう知りません!」
 斉藤は思いっきり叫んだ。
「ばかばかしくて、これ以上つきあいきれませんよっ。失礼します。云っておきますけど、ここの払い、全部まかせましたからね」
「どうして」
「迷惑料です!」
 斉藤はそう叫ぶなり、さっさと店を出ていってしまった。
 それを呆然と見送っていた土方は、やがて、本日何度めかの深い深いため息をついたのだった……。