土方がその噂を聞いたのは、それから数日後の事だった。
 そもそも噂というものは、尾ひれがどんどんつきまくり、めぐりめぐって当人の処──もしくはその近しい存在へやってきた時には、とんでもない事になっているのものだ。
 むろん、この総司の場合も、全く例外ではなかった。





「つまりだな」
 近藤は厳つい顔をより厳つくし、まるで重大な事件が起ったような表情で声を低めた。
「……何でも、総司には、心底惚れ合った恋仲の娘がいるらしいのだ。だが、相手の娘は色々と訳ありで、そのため、滅多に逢えない。だから、二人は互いの好きな花を彫らせた笄と櫛を持ち合っているとか」
「好きな花……」
「つまり、総司は相手の娘が好きな花を、笄に彫らせているという話なのだ。実際、大切そうに見つめている姿を、多くの隊士たちが見ているしな」
「……大切……」
「なぁ、歳」
 ずいっと身を乗り出し、近藤は問いかけた。
「この話、おまえはどう思う?」
「……」
 土方は眉間に皺を刻んだまま、押し黙ってしまった。





 どう思うも何も、そんな話、たった今聞いたばかりなのだ。
 正直な話、今すぐにでも近藤の襟を掴み上げ、
「そんな話を聞かせるなんざ、あんた、俺に喧嘩売ってんのかよーっ!」
 と、ぎりぎり締め上げてやりたい心境だが、一方で新撰組副長としての理性がぎゅうぅぅっとそれを押え込む。
 だいたい、隊内での噂はともかく、近藤にすれば、総司は土方の弟みたいなものだ。
 そのため、日頃から総司に対して抱いている、よこしまな感情──いやいや、恋心を剥き出しにする訳にはいかなかった。
 それも、初めて逢った頃──総司がまだ宗次郎と名乗っていた十才の頃からだなどと知られれば、この親友である近藤にも白い目で見られる事は間違いない。
 我が身の立場を考慮するぐらいの常識は、土方もちゃんと持ち合わせていた。
 ……一応。





「……どう思うも何も、そんな話、何で俺にするんだ」
「何でって」
 近藤は不思議そうに土方を眺めた。
「えらく落ち着いているんだな。もしかして、おまえ、知っていたのか」
「全然、知らねぇよ。けど、何でそう思うんだ」
「いや、落ち着いているからだ。いつも、おまえ、総司の事になると別人みたいに大騒ぎするからな」
 そう云って、わははははーっと笑う近藤の前で、土方はぷいっと顔をそむけた。ちょっと首筋が赤くなっている。
 だが、仕方ないのだ。
 自分でもどうかなと思うぐらい、昔から、総司の事となると頭に血がのぼり、いてもたってもいられなくなってしまう。
 実際、今だってそうなのだ。


 総司に恋人?
 恋仲の娘がいて、お揃いで笄?
 お互いの好きな花を彫りあってるなんざ、冗談じゃねぇよっ!
 ずーっとずーっと我慢してきた俺の気持ちは、いったいどうなるんだ!?


 ……むろんのこと。
 土方だって、よーくわかってはいるのだ。
 自分が総司に対して抱いている気持ちなど、総司が知るはずもないし。
 もしも知ったとしても、あの純情可憐な総司のことだ。
 たちまち嫌悪の表情をうかべ、「土方さんなんか、だいっ嫌いッ!」とかなんとか、その一言だけで土方の目の前が真っ暗になるそうな言葉を投げつけてくるだろう。
 だから、せめて嫌われないように。
 ほんの少しでもふれたり、話せたりできたら、それだけで幸せだと、必死に我慢して。
 だが、本当は、本心は!
 もっともっとさわりたいし、べたべたさわりまくって抱きしめて、口づけて。
 出来る事ならもっともっと先へも進んだりしたくて。
 だが、それらすべてを、ずっとずっと我慢して。
 忍耐の二文字を念仏のように唱える日々を、ひたすら過ごしてきたというのに。
 なのに!


 恋仲の娘!?
 相手の好きな花を彫った、笄!?


 総司を溺愛しまくってる土方からすれば、これこそまさに青天の霹靂!なのであった……。








「……好きな花、か」
 土方は近藤の部屋を辞した後(正直、あの天然で脳天気な親友に、あれ以上つきあっていられなかった)、自室に戻りながら小さく呟いた。
 そんな物を彫った笄を持っているなど、よほど好きあった相手なのだろう。
 総司は心底、惚れ込んでいるに違いない。
 それを思うとはらわたがぐつぐつ煮えくり返るような気がするが、自分にはもうどうする事もできないのだ。
 男の横恋慕など、みっともないの極みだろう。
 それも、相手は九つも年下の弟同然の若者なのだ。
 ずっと小さな頃から可愛がって、愛して、心から慈しんで。
 いつか、その瞳に自分だけを映してほしい。
 その声が、愛情をこめて、自分の名を呼んでほしいと。
 叶うはずもない願いだと知りながら、望んでいたのだが……。
「……ったく、みっともねぇな」
 己の不甲斐なさに舌打ちし、土方はくしゃっと片手で前髪をかきあげた。が、不意にその手がとまる。
 切れの長い目が見開かれ、次に、吸い寄せられるように一点だけを見つめた。
 その視線の先にいたのは、むろん──愛しくて恋しくて、本当に目の中にいれても痛くないほど可愛くてたまらない若者、総司だ。





 他には誰もいない渡り廊下。
 その真ん中付近で佇み、総司はぼんやりと庭を眺めていた。
 柔らかな髪がさらさらと風にふれ、細い肩に落ちかかるさまが美しい。
 煙るように長い睫毛はふせられ、その瞳は僅かに潤んでいるようだった。きゅっと噛まれた唇は、つやつやの桜色で、まるで甘い果実のようだ。
 ほっそりと華奢な躯に白い小袖と紺色の袴を纏い、その清楚な装いが、総司の可憐さ、玲瓏さを、より引き立てていた。


(……総司……)


 こんなにも、可愛いのだ。
 愛おしいのだ。
 目の前にいるだけで、そのほっそりした躯を抱きしめたくて抱きしめたくて、たまらなくなってしまうぐらい……。
 他のどんな女にも、むろん、美童にも感じた事がない衝動、熱さ、恋しさが、身の内を息がとまりそうなほどの勢いで突き上げてくる。
 正直、これは欲情というのだろうと、わかっていた。
 恋だ何だという、可愛らしい、綺麗ごとではない。ままごとがしたい訳ではないのだ。
 ただ、総司を手に入れたい。
 口づけたい、抱きたい。
 そして、誰よりも愛したい。
 愛されたい。
 そんな事が叶うはずがないとわかっているからこそ、尚、その想いは強くなるばかりで……。

(あぁ、もうほんっと限界かもしれねぇ)

 土方は吐息をもらし、きつく両手を握りしめた。
 いっそ、今、ここで明かしてしまおうかと思う。


 惚れた相手が目の前で奪われてしまうのを、このまま指をくわえて眺めているのか!
 そんなの、男のする事じゃねぇ。
 云ってしまえ。
 そうだ、云って思いっきりふられちまった方が、いっそ清々しい。
 云え、云っちまうんだ!


 土方は決意を固めると、総司の方へ一歩踏み出しかけた。
 だが、その次の瞬間、鋭く息を呑んだ。
 総司がゆっくりと刀から笄を外し、それを手にして見つめたのだ。
 まるで、愛おしい相手がそこにいるような表情で、見つめ、そして──そっと口づけた。
 手にした、笄に。
「──」
 土方はごくりと喉を鳴らした。
 のばしかけた手が、のろのろと落ちてしまう。
 そのまま、しばらく総司を見つめていたが、やがて踵を返した。総司に気づかれぬよう、そっとその場を離れた。
 自室へと戻りながら、ため息をついた。

(……もう手遅れって訳か)

 云えるはずがなかった。
 あんな光景を見せられて尚、愛の告白が出来るぐらいだったら、とっくの昔にできていたのだ。
 何しろ、総司が十才の頃からずーっと一緒だったのだから、いくらでも機会はあった。
 だが、それでも出来なかったのは、総司に嫌われるのが怖かったからだ。
 あの大きな瞳が自分を見つめ、あの綺麗に澄んだ甘い声で「土方さん」と呼んでくれる。
 その、ささやかな幸せを壊したくなかったからだ。
 だが、そうして、彼が総司への恋に煩悶しつつ、ぐずぐずしているうちに───

「鳶に油揚げをさらわれちまった訳か……」

 そう呟くと、土方はゆるく首をふった。








 その数日後の事だった。
 土方は総司に呼び出され、ある蕎麦屋へ急いでいた。
 朝、突然、お昼を外で食べましょうと誘われたのだ。
 一応不承不承といった態度で頷いてみせたが、総司からの誘いなど滅多にない事だったので、本当は超舞い上がっていた。
 例の笄の事が気にはかかっていたが、それはそれ、これはこれ。
 可愛い総司からの誘いは、何よりも特別なのだ。
 実際、周囲が不気味に思ってしまうほど、その日の午前中、鬼の副長は上機嫌だった。





 蕎麦屋の暖簾をくぐったとたん、奥から総司がひょこっと顔を出した。
 桜色の唇をちょっと尖らせている。
「もう、土方さん、おそーい!」
「悪かった、出がけに少しごたごたしてな」
「お仕事なら仕方ないけど、先に私たちだけで食べちゃう処でしたよ」
「……私たち?」
 総司の言葉に、土方はふと眉を顰めた。


 何だか、いや〜な予感がしたのだ。
 とんでもなく嫌な予感だった。
 おそるおそる奥の席へ歩み寄り、屏風の上から見下ろした。
「──」
 そこに総司以外の人物の姿を見つけたとたん、ぐぐっと眉間に皺が寄った。


「……何で、おまえがここに」
 思わず出た問いかけも、地を這うがごとく低い低い声だ。
 それに、総司はにこにこと答えた。
「やだなぁ、そりゃ一緒に御飯を食べるためですよ」
「だから、何で! 俺とおまえ、二人だけじゃねぇんだっ」
「え? 私、二人だけなんて云った覚えありませんけど」
「ねぇけど、そりゃ聞いた覚えねぇけど……普通そう思うだろうが!」
「そうかなぁ」
 可愛らしく小首をかしげた総司は、同意を求めるように、隣に坐る男の方に視線をやった。


 新撰組三番隊隊長、斉藤一に。


「……どうも」
 斉藤は小さく呟き、かるく頭を下げた。
 だが、その顔つきはとても歓迎しているとは云い難い。
 何だか、その表情が斉藤自身も邪魔された事を不満に思っているように見え、余計にむかついた。
 とは云っても、ここで騒いでも仕方ないし、第一、みっともない。
 土方はそう思い直し、座敷にあがった。両刀を外しながら、腰をおろす。
 だが、とたん、面白くねぇ!という顔になってしまった。
 何故なら、総司と斉藤は二人仲良く並んで座っていたのだ。
 しかも、やけに甲斐甲斐しく、総司は斉藤の世話を焼いてやっている。
「斉藤さん、お蕎麦が来ましたよ。はい」
「あぁ」
「お箸も、はい。あ、薬味がいりますよね?」
「あ、うん」
「これでいい? お蕎麦もし足らなかったら、云って下さいね。私のちょっとあげますから」
 にこにこと笑う総司に、世話されている斉藤。
 そんな端から見ればいちゃつきまくりの二人の姿に、土方は、怒りと嫉妬で腹の底がぐつぐつ煮えくり返る気がした。
 思わず、嫌味をぼそりと云ってしまった。
「……仲がいいんだな」
「え?」
 総司はきょとんとした表情で、土方をふり返った。目を瞬き、ちょっと小首をかしげる。
 「あら、今まであなたのことなんか全然目に入ってませんでした〜」と云わんばかりの態度に、むっとしたが、言葉をつづけた。
「えらく仲がいいんだなって云ったんだ。箸ぐらい、自分で取れるだろう」
「でも、私が渡してあげたいんです」
 総司は桜色の唇を尖らし、すっぱりきっぱり云いきった。
「それに、別に、土方さんには関係ないでしょう?」
「!」


 関係ない!
 俺には関係ない!


 あまりにも冷たい言葉に、土方はぐさぐさーっと胸の奥を貫かれた気がした。思わず「う」と胸をおさえてしまう。
 そんな彼を、総司は不思議そうに眺めた。
「土方さん? どうかしました?」
「……いや、何でもねぇよ」
「そうですか」
 あっさり頷き、総司は自分の箸に手をのばした。
 ちょうど土方のも来たので、三人は黙ったまましばらく蕎麦を食べた。
 だが、気のせいか(いや、絶対に気のせいでなく)、その空気には緊迫感がみちみちていた。
 まさに、一触即発だ。
 それをどっかーん!と打ち破ったのは、案の定、怖い者知らず向かうところ敵なし!の新撰組一番隊隊長、沖田総司だった。





 蕎麦を食べる手を休めぬまま、総司は可愛い澄んだ声で云った。
「あのね、土方さん」
「……あぁ」
「今日、ここへ来て貰ったのは、お話があったからなんです」
「話?」
 土方は思わず箸をもつ手をとめ、顔をあげた。
 妙に真剣な表情で、総司がじーっと彼を見つめている。
 それに眉を顰めた。
「話って……何だ。屯所ではしにくい話なのか」
「だから、呼んだんですよ。聞いてくれますか?」
「あぁ」
「よかった! あのね」
 総司は箸をきちんと置くと、隣で蕎麦を食べる斉藤の腕にそっと手をかけた。
 その細い指が自分以外の男にふれる様に、思わず顔を顰めてしまう。
 だが、そんな土方に気づくことなく、総司はにっこり笑った。
 そして。
 爆弾発言を、落としたのだ。



「私ね、斉藤さんと念兄弟になりました♪」





 ───その瞬間。

 土方の頭の中は文字通りまっ白!になり、その手から箸がぽろりとこぼれ落ちた……。