朝の光が部屋に射しこんでいた。
 白っぽい朝の光だ。この分なら、川止めも解かれるだろう。
 そんな事を思いながら目を開いた土方は、次の瞬間、はっとして飛び起きた。
「……総司?」
 腕に抱きこむようにして、眠ったはずだった。なのに、その姿はどこにもなかったのだ。
 慌てて立ち上がった土方は、隣室への襖を開いた。とたん、肩から力が抜けた。
 総司は既に身支度を整え、窓傍に坐っていたのだ。端坐し、窓の外を眺めやっている。
「えらく早かったんだな」
 そう云いながら歩み寄りかけた土方は、ふと眉を顰めた。総司の様子に、おかしなものを感じたのだ。
 先に起きていた事も奇妙だが、それだけでなく、土方がこの部屋に入ってきても、視線一つ寄越さなかった。じっと押し黙ったまま、窓外を見ている。
 それは、まるでこの宿に来る前の頑なな総司のようだった。
「……総司?」
 呼びかけた土方に、ようやくふり返った。
 だが、その表情にも瞳にも、甘さは欠片もなかった。昨夜の艶めかしさなど、全くみあたらない。
「おはようございます」
 丁寧に挨拶した後、総司は言葉をつづけた。
「川止めは解かれたようです。先ほど、宿の人に聞きましたので」
「そうか」
「私、先に隊へ戻らせて頂いてもよろしいでしょうか」
「え?」
 思いもかけぬ言葉に、土方は虚を突かれた。
 いったい、何を云っているのか。
「先に戻るとは……何故だ、一緒に戻れば済むことだろう」
「副長と一緒に戻る訳にはいきません。私とあなたは犬猿の仲だという事で通っていますし」
「……」
 総司の云っている言葉の意味が、全くわからなかった。


 しかも、副長とは!
 昨夜、躰を重ねた相手を役名で呼ぶなど、いったい何を考えているのか。


 初め呆然としていた土方も、次第に怒りがこみあげてくるのを感じた。
 苛立った表情で寝着の裾をひるがえし、部屋を横切った。総司のすぐ傍に片膝をつくと、瞳を覗きこむ。
「総司」
 呼びかけると、総司は大きな瞳で彼を見上げた。
「はい」
「おまえ、何を考えているんだ。いや、……何を怒っているんだ」
 間近で見て、ようやく気付いたのだ。
 どう考えても、総司は怒っていた。固く唇を引き結び、ぎゅっと両手を握りしめている。
 だが、その理由を告げる気はないようだった。目を伏せると、押し黙っている。
 ようやく、桜色の唇を開いたかと思うと、とんでもない言葉を吐いた。
「私……後悔しているのです」
「後悔?」
「あなたに抱かれたことを、後悔しています。あんな事、しなければよかったと」
「おまえ、何を……っ」
 激昂しかけた土方を遮り、総司は言葉をつづけた。
「今更と思われるのはわかっています。でも、なかった事にして頂けませんか? 隊でも、今までどおり冷たく接して下さい。私も、あなたを副長として……」
「総司ッ!」
 不意に一喝され、総司はびくりと肩を跳ねあがらせた。
 だが、勝気な性格らしく、ぐっと腕を掴んだ土方を、大きな瞳で見返してくる。
「何ですか、副長」
「……」
 その言葉に、何も云う気が失せた。
 否、それよりも、きつい表情で見返してくる総司に、無性に腹がたってしまったのだ。


 何が面白くなくて怒っているのかわからない。
 だが、子供のように拗ねられても、わからない以上、対応のしようがないではないか。
 確かに、拗ねている総司も可愛かった。しかし、それにも限度がある。
 初夜をなかった事にしてくれと云われ、笑っていられる男がいたら、余程のお人よしだろう。
 生憎、土方はそこまで丸い性格ではなかった。
 それどころか、とことん尖って鋭い俺様な性格なのだ。


「……勝手にしろ」
 低い声で吐き捨てた。
 そのまま乱暴に総司を突き放すと、土方は背を向けた。さっさと部屋に戻り、着替えを始める。
 しばらく後、隣室で総司が出ていく気配がした。
 だが、それでも追う気にはなれなかった。


 何を拗ねているのか、わからない。
 そうである以上、追いかけても、無意味な応酬になるばかりだった。
 ならば、もう少し日を置き、頭を冷やしてから話しあった方がいいだろう。


「……あいつがその機会を与えてくれたら、だがな」
 思わず苦笑した。
 あんなふうにすげなくされても、愛しくてたまらず、何とかして譲歩しようとする己に、笑いがこみあげたのだ。
 どこまで骨抜きにされているのか、なんてざまだと自嘲するが、一方で、総司だからこそだと思いもした。
 総司だからこそ、愛しいのだ。
 どんなに腹をたてても、結局は許してしまう。
 それが情けなく、だが……甘く切ない疼きを含んでいた。
 総司が突きさしてくる小さな棘さえも、彼には甘い疼きをともなっているのだ。
「俺は本当に駄目だな……」
 土方は腰をおろすと、ため息をつきながら黒髪をかきあげた。


 こういう甘い態度をとってしまうから、総司も我儘を云ってくるのだろう。
 あぁして反発もするに違いなかった。
 総司自身、無意識のうちに土方の中にある甘さを見抜いているのか。
 以前、近藤にも注意されたことだった。
 口喧嘩ばかりしていた頃、おまえが甘すぎるからだと云われたのだ。
 それに、唖然とした。


「何でだよ」
 呆れ、思わず反論した。
「俺はあいつに甘くなんかねぇぞ。どれだけきつい事を云っていると思うんだ」
「それでもだ」
 近藤はため息をついた。
「おまえ、自分で気づいていないのか」
「何をだ」
「矜持の高いおまえが、あれだけ反発されても相手にするのは総司だけだぞ。他の奴なら、無視して切り捨てているだろう」
「……」
 確かに、近藤の云うとおりだった。


 他の者があんな云い方をしてきたら、即座に切り捨てているだろう。
 一切無視し、まるでいないかのように振る舞ったに違いない。
 なのに、総司相手だと、そんな事は出来なかった。どんなに生意気な事を云われても、無視するなど出来やしない。
 土方にとって、総司は特別だった。
 宗次郎と呼ばれていた頃から、大切な大切な宝物だったのだ。
 この世の何にも代え難い宝物……。


「けど、それにしたってなぁ」
 はぁっとため息をついた。
 好きだ、愛しているとまで告げて、契りまで結んで、その翌朝、このざまなのだ。訳のわからぬ事で拗ねられた挙句、宿に置き去りにされてしまった。
 近藤にいったい何と云われるか。
 呆れたような顔で、「おまえ、どうかしているぞ」と云ってくる様が、目にうかぶようだった。
 土方は、隊に戻ってからの弁明を考え、もう一度深くため息をついた。













 信じられない。
 まさに、その一言だった。
 総司は本当に、彼の言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になったのだ。文字通り、まっ白だった。
 次の瞬間にきたのは、「何、それっ!?」だった。
 契りを結んだ翌朝、まさかこんな事になるとは思ってもみなかったのだ。
 目覚めた時は、とても幸せだった。
 ずっと片思いしてきた男の腕に抱かれ、目覚めた朝なのだ。それも、契りを結んだ夜の名残が躰に残っている。
 うっとりとした表情で、総司は土方を見上げた。
 土方はまだ眠っていた。優しく両腕で総司の細い躰を胸もとに抱きすくめ、眠っている。
 寝着が少しはだけ、褐色の逞しい胸もとが覗いているさまが、男の色香を感じさせた。どきどきしてしまう。
「……土方さん」
 小さな声で囁き、総司は手をのばした。男の胸もとや肩にふれ、その後、頬にもふれてみる。
 少しざらりとした顎の感じが、男の精悍さを思わせ、即座に昨夜の情事につながった。
 まるで獣のように抱いてきた男の激しさに翻弄された夜。
 その熱くて激しい快感の残り火が、まだ総司の躰の奥で疼いているようだった。
 うっとりとした吐息をもらし、総司は身を起こした。土方の頬にふれ、唇を押しあてる。
 ちゅっ、ちゅっと、甘い口づけを何度も落とした。
 その時だった。
「……やめろよ……」
 寝ぼけた声で、土方が云った。まだ目は閉じているから、半分眠りの中にいるのだろう。
 かるく眉を顰め、寝返りを打とうとした。それに、もう一度口づけると、微かに笑った。
 そして、云ったのだ。
「悪い……うめ、今は寝かせてくれ……」
「――」
 総司の目が見開かれた。


(……うめ!?)


 どう聞いても、女の名だった。いや、何よりも、総司の名前ではない。
 呆然としている総司の前で、土方はまた、すうっと眠りに落ちていった。
 だが、もう彼を起こすどころの騒ぎではなかった。
 文字通り、頭の中がまっ白になっていたのだ。
 震える手で己の着物をかき寄せると、それを抱えこんだ。のろのろと部屋を出て、着替えていく。
 手を動かすうち、何とか頭がまわるようになってきた。
「……何、それ」
 小さく呟いた。
 まさに、それしかなかった。
 いったい何なの、それ! である。
 契りを交わした夜の翌朝、口づけをした恋人に云う言葉が、他の女の名とは!
 さんざん遊んでいる男だとわかっていたが、それでも、特定の女はいないと思っていたのだ。いや、自分のことを誰よりも愛していると云ってくれたが、あれは嘘だったのか。
「――」
 不意に、はっと思いだした。
 噂で聞いたことがあったのだ。土方が最近、休息所を構えたと。
 むろん、ただの噂だと思っていた。否、そう思ってしまいたかったのだ。
 休息所を構えるとは、つまり、妾を置くことだ。他の誰かを愛し、慈しむだろう土方を想像するだけで、嫉妬に頭がおかしくなりそうだった。躰中が熱くなり、いやいやと泣き叫んでしまいそうになる。
 だから、総司は出来るだけ考えないようにしたのだ。ただの噂だと自分に云いきかせていたのだ。
 だが、あの噂は、真実だった……。


「土方さん、本当に休息所を持っているんだ……」
 そこに、うめという妾を住まわせているのだろう。
 あの土方のことだ。余程愛らしく、綺麗な娘なのか。
 先ほどの声音も、とても優しいものだった。親しげで、甘くて、柔らかな口調。
 しかも、微笑みながら云ったのだ。
 休息所に泊まった翌朝、そんな甘い戯れをいつもしているのか。可愛らしいうめという娘と、口づけをかわし、あたたかな布団の中で戯れているのか。
 いけないと思うのに、総司はどんどん想像してしまった。
 笑いかける土方の表情や、うめという娘の姿かたち、二人が睦言をかわす様子まで、目にうかぶようだった。
「……」
 総司はぎゅっと両手を握りしめた。
 その時だったのだ、土方が部屋に入ってきたのは。
 自分が口にした言葉を知らない男が笑いかけてくるのにさえ、腹がたった。
 どうしても笑顔をみせることが出来ず、拗ねてしまったのだ。
 だが、矜持の高い土方にとって、それは最悪の方法だったと気づいたのは、すぐ後のことだった。
「……勝手にしろ」
 凄みのある低い声に、はっと息を呑んだ。
 慌てて見上げると、鋭い瞳がこちらを見据えていた。怒りを帯びた表情が、男の酷薄な一面をあらわしているようだった。
 ふいっと顔をそむけ、立ち上がってしまう。思わず手をのばして縋りたくなったが、土方の背は、そんな総司の甘えもまったく拒絶していた。
 土方は部屋を横切ると、隣室に戻ってしまった。後ろ手に閉める襖の音が耳に痛い。
「……っ」
 ぽろりと涙がこぼれた。


 本当は、こんな朝など望んでいなかったのだ。
 昨夜の名残のまま、甘い一時を過ごしたかった。
 それに拗ねて喧嘩しても、彼が優しく宥めてくれるような気がしていた。甘えがあったのだ。
 だが、矜持の高い土方が折れてくれることなど、ありえないのだ。
 どんなに美しい女に云い寄られても、すげなく切り捨てていた彼だ。
 なのに、自分だけは特別だと思いこんでいたなんて。


(私は、思い上がっていたの……?)


 涙を手の甲で拭い、立ち上がった。
 ちらりと隣室への襖を見るが、何の物音もしない。
 土方は総司に呆れ、切り捨ててしまったのだろう。他の女と同じように。
 そうである以上、ここにいる訳にはいかなかった。
「……」
 総司は俯き、のろのろと部屋を出た。支払いは土方が先に過分に渡していたので、何も必要なかった。
 その事に感謝しつつ、宿を出る。
 自分の言葉どおり、一人屯所に戻る他なかった。本当なら、二人で仲良く戻っていけるはずだったのに。
 そう思うと尚更、目の前につづく道が涙でぼやけた……。












「……は?」
 近藤は目を丸くした。
 屯所へ戻った土方は、案の定、すぐさま近藤に掴まえられた。
 先に戻った総司が何も説明せず、ただ「ご心配をおかけし、申し訳ありません」とだけ述べて自室に閉じこもってしまったから、尚の事だ。
 玄関で待ち構えていた近藤に局長室へ引きずりこまれ、事の次第をあらいざらい吐かされた。
 挙句、近藤は呆れかえった顔で、土方を眺めた。
「おまえ、どうかしているぞ」
「……云われると思ったよ」
 うんざりした表情で、呟いた。それに、つらつらと近藤は云ってくる。
「そこで、どうして先に帰すのだ。総司はおまえの何かに怒って拗ねているのだろう。なら、何故、理由を聞かん」
「聞いたさ、けど答えねぇんだ。仕方ねぇだろう」
「思い当たる節はないのか」
「全然ない」
 あっさり答えた土方に、近藤が目をつりあげた。
「即答するな! 少しは考えてから答えんかッ」
「考えたって。帰る道々、えんえんと考えていたんだ。もう十分だよ」
「ならば、諦めるしかないな」
 重々しく裁きを下す近藤に、土方は眉を顰めた。
「俺の恋だぞ。何で、あんたが勝手に判断するんだ」
「長年ぐるぐるまわってきた挙句、成就したと思ったとたん、喧嘩別れだ。これで上手くいくと思う方が、余程の呑気者だろう」
「生憎、俺はその呑気者なんだよ! 諦める気なんかねぇからな」
 ばんっと畳を叩いてから、土方は局長室を出た。
 すっかり時を無駄にしてしまったが、本当なら、さっさと副長室へ戻ってこの三日で溜まりにたまった仕事を、片付けなければならないのだ。
 その証に、ほら、あそこで山崎が書類を抱えて立っている。
 はぁっとため息をついた土方は、そちらに向けて歩き出した。
 だが、角から覗き、一瞬で引っ込んでしまった姿に、息を呑む。
「総司!」
 慌てて走り寄った土方に、総司は脱兎のごとく逃げ出そうとした。しかし、遅い。
 乱暴に腕をつかむと、大きな瞳が彼を見上げた。
「何ですか、副長」


 ……状況、朝と全然変わってねぇ。


 気落ちするのを奮い立たせ、土方は低い声で云ったのだった。
「話がある」