いや、だなんてあるはずがなかった。
いやどころか、嬉しいのだ。つづくとは思っていなかった夢だった。
なのに、今も、そして、まだしばらく、彼は自分の傍にいてくれる。
「……いやじゃありません」
小さな声で、総司は答えた。
頬をそめ、細い指さきでぎゅっと着物を握りしめる。
「全然、いやなんかじゃ……」
「ならいい」
ぶっきらぼうな口調で、土方が云った。寝乱れた黒髪を片手で煩わしげにかきあげる。
その仕草が男らしい色気を感じさせ、総司はぼうっと見惚れてしまった。だが、そんな総司に気づくことなく、土方は言葉をつづけた。
「まぁ、俺もおまえも休息にはなるだろう。ここの処、忙しかったからな」
「忙しかったのですか?」
「あぁ、おまえもそうだろう。一番隊の出動が多かったし、筆頭師範代としても……」
云いかけ、土方は不意に口をつぐんでしまった。
それに、総司は目を見開いた。
確かに、ここ最近、とても忙しかったのだが、まさか自分よりもっと多忙な土方がそれに気づいてくれているとは、思ってもみなかった。
言葉もかわさぬ仲なのだ。
興味も関心もないと思い込んでいた。
だが、土方は知っていてくれたのだ。
自分のことを、見ていてくれたのだ。
熱いぐらいの歓喜がこみあげた。
嬉しくてたまらず、云ってしまう。
「見ていてくれたのですか、私のこと、知っていて……」
「あたり前だ」
そっけない口調で土方が云った。
「俺は副長だ。幹部たちの状況を知らんでどうする」
言葉は冷たかった。
だが、僅かにそらした視線が、引き結ばれた口許が、彼の照れのようなものを表していて、総司は気持ちが浮きたつのをとめられなかった。
「嬉しい、です」
思わず、その想いを口にした。
土方がびっくりしたようにふり返った。呆気にとられた顔で、総司を見下ろしてくる。
その黒い瞳をじっと見つめ返しながら、総司は言葉をつづけた。
「土方さんが私のこと……知っていてくれて、本当に嬉しいです」
「……」
「関心も何も持たれていないと思っていたから。それがたとえ、副長としてでも……」
嬉しいと告げ、総司は恥ずかしそうに長い睫毛を伏せた。目元が仄かに染まり、色っぽい。
そうして俯いている総司は愛らしく、狂おしいほど煽情的だった。
ただでさえ、お互い、寝乱れた布団の上に坐っているのだ。
華奢な躰に男物の浴衣を纏ったその姿は、背徳的で艶めかしかった。袖口からのぞく細い指さき、微かに開いた桜色の唇に、ぞくりとするような色香が漂う。
その姿は、昨夜は何とか持ち堪えた男にとって、あまりにも刺激的だった。
「……」
気がつけば、手をのばしていた。その細い肩に手をかけると、驚いたように顔をあげた。
大きな瞳で見上げてくる総司がいじらしく、可愛い。
「総司」
低い声で呼びかけると、素直に答えた。
「はい」
「俺は……」
頭の奥が痺れたようになった。総司への激しい情愛だけが突きあげる。
喉奥が酷く乾き、声が掠れた。
視線が絡まりあい、互いの距離が短くなる。吐息さえ感じられるほどに。
土方は褥に手をついて身をのりだし、顔を寄せた。何をされるか気づいたのか、総司が目を閉じる。
あと少しで唇が重なる、そう思った瞬間だった。
「――おはようございます」
入口の方で、仲居の声が響いた。つづいて戸が開かれ、入ってくる気配がする。
「!?」
二人は我に返った。慌てて、ぱっと躰を離す。
土方が素早く立ち上がると、部屋を横切り隣室へ向かった。総司がいる部屋の襖を後ろ手に閉めながら、仲居に応える。
「朝餉か」
「へぇ。床上げもさせてもらって宜しおすやろか」
「いや、それはこちらでする。膳だけ置いていってくれ」
慣れた様子で指示する男の声を聞きながら、総司は呆然と坐りこんでいた。まだ頬が熱く、胸もどきどきしている。
(今の……もしかして……?)
口づけされそうになった。
そう思う他ない男の行動だったのだ。
むろん、土方に片思いする総司にとって、嬉しいことだった。幸せなことだった。
だが、一方で思ってしまうのだ。
どうして? と。
いくら総司が彼に片思いしていると云っても、少しは関心をもってくれていると云っても、土方は総司を恋愛の対象にすることなど万に一つもありえないのだ。
あれほど美しい女たちに囲まれ、よりどりみどりの男が、衆道などに興味を示すはずもない。
花を摘み放題どころか、その腕に美しい大輪の花を抱えている男なのだ。道端の小さな花になど、目もくれるはずもなかった。
(なら、今のは気まぐれ? それとも、私の気のせいだったの……?)
片思いしているから、そう意識してしまうから、土方の行動をつい都合のいいように捉えてしまうのだろうか。
そうであるのなら、とんでもない自惚れだと思った。彼みたいな極上の男が、自分など好きになってくれるはずもないのに。
どんどん落ち込んでしまう思考に沈んでいると、襖がすっと開いた。
慌てて見上げれば、土方が戻ってきた処だった。
泣きそうな表情の総司に一瞬眉を顰めたが、すぐさま跪くと、頬に手をかけて仰向かせてきた。低い声で囁きかけられる。
「……泣くな」
「泣いて、なんか……」
「怖がらせちまったのは悪かったよ。俺もつい、な」
(つい、何……?)
追及したい気持ちはいっぱいだったが、総司は唇を噛んで堪えた。
聞くのが怖いし、聞いても応えてくれない気がしたのだ。
黙りこんでいると、土方は頬を手のひらで撫でてから、そっと細い肩を抱いた。柔らかく立ち上がらせてくれる。そのまま隣室に入り、膳の前に坐らされた。
まるで人形相手のように世話をしてくる土方を、総司は呆然と見ていたが、椀の蓋をあけてくれた処で我に返った。
「ひ、土方さんっ」
慌てて椀を取り返し、自分で置いた。
「何でこんな事をするのですか? 私、子供じゃありませんよ」
「俺がしたいんだよ」
あっさり答える土方に、総司は理解できないと思った。昨夜はまだ自分で何もかもやっていたのだ。それが当然なはずだった。
なのに、先ほどから、土方は抱きこむように総司の世話を焼いている。
呆気にとられているうちに、土方は、焼き魚をほぐし、卵を割った。自分の食事などそっちのけで総司の世話を焼いてから、ようやく己の膳の前に腰をおろす。
綺麗な動作で食事を始める土方に、総司は我に返った。慌てて小さな声で礼を云った。
「その……ありがとうございます」
「あぁ」
「でも、私、大人です。自分で全部できますけど」
「世話を焼かれるのは、嫌か」
「嫌とかそういう事じゃなくて……」
優しくされるのに、馴れていないのだ。それも、とろけそうなほど甘い土方に、戸惑ってしまう。
口ごもると、土方が柔らかく微笑んだ。
「なら、いいじゃねぇか。俺の好きにさせてくれよ」
「土方さんの好きにって……」
「ほら、早く食おうぜ。料理が冷めちまう」
促され、箸をすすめた。
外は冷たい冬の雨が降っているが、部屋の中は静かであたたかだった。
その上、だい好きな彼と向き合って食事をしているのだ。心の奥まで、ほっこりとあたたまるようだった。
食事が済むと、土方は総司の分まで膳を手早く片づけ、部屋の外に出した。布団も、総司が着替えているうちに、さっさとあげてしまう。
昨夜土方が買ってきてくれた着物に、総司は着替えた。水色で柔らかな感じが綺麗だ。
土方は黒い長着を着流していたが、着替え終えた総司が部屋に戻ると、目を細めた。
「あぁ、よく似合っているな」
「ありがとうございます」
礼を云ってから、窓のすぐ傍に坐った。いつまでも降りやまぬ外の様子に、隊のことがふと気になった。
「あの、隊の方へ知らせは……?」
問いかけた総司に、土方は肩をすくめた。
「この雨だ。使いも出せるはずがねぇだろう」
「そう、ですよね」
「まぁ、おまえを探しにこっちへ赴いた事は、知らせてある。川止めの知らせも届いているだろうから、近藤さんあたりなら察しているさ」
「少し安心しました。皆、心配しているだろうと思うので」
「早く帰りたいか」
不意に冷たくなった声音に、どきりとした。慌てて顔をあげると、冷たく澄んだ瞳がこちらを見据えている。
総司は目を瞠った。
「土方、さん?」
「こんな俺みたいな男と一緒なんだ。早く帰りたいのは、当然のことだよな」
「そんな事ありません」
思わず叫んだ。
「さっきも云ったでしょう? 私、いやなんかじゃ……」
「無理をするな」
唇の端をあげた。
「俺とおまえは江戸の頃からの犬猿の仲だ。ここ数年は口さえきいた事がなかった。嫌だと思って当然のことさ」
「じゃあ、土方さんは」
総司はぎゅっと両手を握りしめた。大きな瞳で男を見上げる。
「土方さんは、いやなのですか? 私と一緒にいること……土方さんこそ、嫌なのでしょう?」
「俺が?」
土方は虚を突かれたようだった。驚いた表情で、総司を見下ろす。
しばらく黙ってから、僅かに目を伏せた。
「……嫌じゃねぇよ」
「嘘」
「嘘なものか。俺はおまえと一緒にいて、嫌だと思った事は一度もねぇよ。もっとも、おまえと二人きりなど……これが初めてだけどな」
確かに、彼の言葉どおりだった。
土方と二人きりになるなど、本当に初めてのことなのだ。
ずっとずっと憧れ、恋してきた人。その傍に寄ることさえ、許されなかった人。
だが、今は違うのだ。
この一時だけは、彼は自分の傍にいてくれる。
彼の瞳に映るのは、自分だけだ。そのことがたまらなく嬉しかった。
総司はそっと目をあげ、目の前に坐る土方を見つめた。
(……綺麗……)
本当に綺麗な人だと思った。
それも、強い鋼のような美しさをもった男なのだ。
切れの長い目に、黒い瞳。形のよい唇に、引き締まった頬から顎にかけての線。
すらりとした長身に、引き締まった躰つき。その躰に黒い着物を着流し、片膝をたてている姿は、まるで絵のようだった。大人の男の色香が匂いたつようで、うっとり見惚れてしまう。
だが、あまりに長く見つめすぎてしまったのだろう。
視線に気づいた土方が訝しげに眉を顰めた。
「何だ」
「いえ、何も……」
口ごもり、俯いた。
まさか見惚れていましたとは云えない。
耳朶まで真っ赤になってしまった総司をしばらく眺めたが、土方もそれ以上追及する事はなかった。
そんな彼の様子に安堵を覚えつつ、総司は熱くなった頬にそっと手の甲をあてた。
結局、雨は一日中降りつづいた。
そのため、川は増水し、とても渡れたものではない。
土方は雨が小降りになった時を見計らい、身の回りのものを手早く買ってきた。あと幾日ここで過ごす事になるか、わからぬのだ。用意しておくにこした事はなかった。
総司は、彼ひとり行かせることを拒んだが、足手まといになると云われれば、どうしようもなかった。唇を噛んで俯いてしまう。
だが、土方の本心は違った。
冬の冷たい雨に、総司をさらしたくなかったのだ。そんな事をすれば、この病弱で華奢な総司のことだ、たちまち熱を出してしまうだろう。
(いや、熱を出せば、この宿に二人きりで留まれるか……)
そんな歪んだ事さえ考えてしまう己に、土方は苦笑した。
むろん、総司を雨にさらす気にはなれない。
だが、一方で、この夢のような時の終わりを少しでも先のばしたいと願っている事も確かなのだ。
十年来も狂おしいほど愛してきた若者と、一緒にいられる。その澄んだ瞳に見つめられ、甘く澄んだ声を聞き、時折、ほんの気まぐれのように見せてくれる可愛い笑顔。
どこまで溺れているのかと思うが、それも総司ゆえであれば何もかも許せてしまう。
ずっと遠くから見つめてきた存在だった。いつか手にいれたい、あの笑顔をむけられたいと渇望してきたのだ。
総司が他の男に笑いかけるたび、叫びそうになった。
あれは俺のものだ、俺だけのものだ。
誰もさわるな、ふれるな……! と。
そんな事を新選組副長たる彼が口にすれば、気が狂ったかと思われた事だろう。
だが、もしも総司が手に入るなら、それでも構わなかった。
土方にとって、総司は欲しくてたまらない宝物なのだ。愛してやまない存在なのだ。
この愛しくも美しい生き物が手に入るなら、他の何を失ってもかまわなかった。
買ってきたものを手に部屋へ戻ると、総司が迎えてくれた。
土方を見上げ、にこりと笑う。
「お帰りなさい」
甘い言葉に、思わず抱きしめそうになった。それを懸命に堪えたため、そっけない口調になってしまう。
「……ただいま」
だが、云ったとたん、後悔した。総司がひどく哀しげな表情になり、俯いてしまったのだ。
せっかく笑顔を見せてくれたのに、その気持ちを遠ざけるような事をした自分を激しく悔いた。
土方は腰をおろすと、包みを開いた。不安げな瞳でこちらを見ている総司に、「おいで」と出来るだけ優しく手をさしだす。
とたん、ぱっと総司の表情が明るくなった。いそいそと近寄ってくる様が可愛い。
「あ、お菓子」
びっくりしたように声をあげる総司に、思わず笑った。
「一番はそれか」
「だって、とてもおいしそう」
蜜をからめただけの菓子だった。だが、とてもおいしそうだ。
総司は喜んで受け取ると、口に頬張った。優しい甘さが口の中にひろがる。
「おいしい! これ、とってもおいしいですよ」
「そうか、それは良かった」
思わず微笑んだ土方に、総司は頬を赤らめた。だが、すぐに気づいて小首をかしげる。
「土方さんは食べないのですか?」
「甘いものは苦手だ」
「でも、とてもおいしいのに」
総司は菓子を手に取ると、土方にむかってさし出した。男の唇に、菓子を押しあてる。
「……」
その行為に驚きつつ、思わず食べてしまった。
素朴な感じが確かにうまいが、それよりも他の事が気になって仕方がない。
総司は意識していないようだが、今の行為は、どこから見ても恋人同士がやることだった。その上、総司は全くわかっていない様子で、にこにこ笑っている。
「ね? おいしいでしょう?」
「……あぁ」
「おいしいものも、二人で食べるともっとおいしくなりますね」
そう云った総司に、土方は先日見た光景を思いだした。
いつだったか、総司と斉藤が縁側に並んで坐り、菓子を食べていたのだ。
斉藤にむけられていた愛らしい笑顔を思いだしたとたん、嫉妬の焔が燃えあがる。
気がつくと、低い声で云ってしまっていた。
「……斉藤とのことを云っているのか」
「え?」
総司の目が見開かれた。