総司は薄く目を開いた。
 一瞬、何があったのか、思いだせない。だが、月光が射し込む小屋の中の様子に、意識がはっきりした。


(そうだ、私は……)


 散策の途中、やくざ者らしい男たちにからまれた。
 刀を置いてきたことを後悔したが、それでも戦えると思っていた。だが、口に布を押しつけられたとたん、躰から力が抜けてしまったのだ。
 何か薬をかがされたことは、明らかだった。
 あの場で殺されなかったのは、何か取引でもするつもりなのか。男たちの意図はわからないが、まずい状況に置かれている事は確かだった。


(どうしよう。このままじゃ、迷惑がかかる……)


 一番初めに思ったのは、土方のことだった。
 この事を知れば、彼はどんなに不快に思う事か。鬱陶しそうに眉を顰め、侮蔑のまなざしで見据える彼の姿が、目にうかぶようだった。一番隊組長としてなっていないと叱咤されることは必定だ。
 彼に迷惑をかけないためにも、何としても、自力でここを脱出しなければならなかった。
 総司は後ろ手に縛られた縄を、ふり返って見た。かなりきつく縛られてある。足も縛られているため、身動き一つ出来ない状態だ。
 幸いにして、総司が閉じ込められている小屋には、他に誰もいないようだった。総司を浚った男たちは別の場所にいるのか、時々、遠くから喧騒が聞こえてくる。
「……」
 きょろきょろと周囲を見回した総司は、投げ捨てられている瀬戸物の破片に気づいた。鋭く尖った部分が丁度よさそうだ。
 総司はそこまで転がると、破片を壁に押しつけ、必死に縄を擦りつけ始めた。時々、手が破片にすれて傷ついたが、痛みなど感じている場合ではない。
 無我夢中で擦りつけ続けると、ようやく縄が千切れた。後は足首の縄をほどき、ここから逃げ出すだけだ。
 そう思って立ち上がりかけた時だった。
 突然、足音が近づいてきたのだ。忍ばせているようだが、息をひそめている総司の耳にはよく届く。
「!」
 慌てて総司は元の場所に戻ると、縄を自分にかけた。縛られているような恰好で、目を閉じる。
 やがて、ぎいっと音が鳴り、戸が開かれた。より月光が明るく射しこみ、中の様子がよくわかる。
 男が微かに息を呑んだ気配がした。とたん、慌ただしく駆け寄り、抱きおこされる。
「……総司っ!」
 聞き慣れた声に、総司は驚いた。見上げると、土方の切れの長い目がこちらを見下ろしている。
「ひ、土方さん……?」
 どうして、ここに彼がいるのかわからず、呆然と訊ねてしまった。
 それをどう受け取ったのか、土方は眉を顰めた。
「……俺だと悪いのかよ」
「そういう事じゃなくて……えっ? どうして?」
「おまえを探しに来たに決まっているだろう。とりあえず、早く逃げるぞ」
 土方は総司の縄をほどこうとして、それが既に解かれていることに気づいた。
「何で逃げようとしなかったんだ」
「縄をほどいて逃げようとしたところに、あなたが来たのです。敵だと思ったから、それで」
 総司は口早に告げながら、立ち上がった。
 少し頭がくらくらする。おそらく、かがされた薬のせいだろう。
 思わず頭をおさえると、土方が心配そうに覗き込んだ。
「大丈夫か、怪我でもしているのか」
「違います。そうじゃなくて……何か薬を嗅がされたので」
「薬を?」
 眉を顰めた土方は、一瞬、沈黙した。不意に総司の腕を掴むと、きつい表情で訊ねてくる。
「それで、何もなかったのか」
「え?」
「何もされていないのか。その……おかしな感じはねぇのか」
 云われている意味がわからなかった。
「? えぇ、別に何も。そもそも、さっきまで気を失っていましたし」
「だが、ふらついている」
「大丈夫です」
 気丈に答えた総司は、支えようとする土方の手を払いのけた。それに、土方が眉を顰める。
「……俺の助けはいらねぇか」
「いりません、一人で歩けます。娘じゃないんですから」
 云い返す総司に、土方は嘲るような笑みをうかべた。黒い瞳に剣呑な光が湛えられる。
「娘じゃねぇと云うなら、刀ぐらい持って出ろ。こんな処に浚われるな」
「浚われたくて浚われた訳じゃありません」
「下手な弁明だ。一番隊組長として恥ずかしくねぇのか」
「恥ずかしいです、だから、一人で逃げようとしていたんじゃないですか」
「あぁ、そうかよ」
 土方は苛立った様子で、ちっと舌打ちした。
「余計なお世話だったって訳か。なら、一人で帰りな」
 冷たい口調で云い捨て、土方は背をむけた。総司を残し、歩き出そうとしている。
 それを、総司は大きな瞳で見つめた。ぎゅっと両手を握りしめる。


 本当は嬉しかったのだ。
 彼が助けに来てくれたこと自体、信じられないぐらいだった。夢のようだと思った。
 なのに、どうしてだろう。
 久しぶりに話をしたのに、また、生意気な言葉を返してしまった。


(どうして、素直に、来てくれてありがとうと云えないの?)


 総司の視界の中で、土方が不意に歩みをとめた。じっと闇の向こうを見据えている。
 どうしたのかと思っていると、土方は勢いよくふり返った。足早に戻ってくると、総司の手首を掴んだ。
「ひ、土方さんっ?」
「まずい、奴らが出てきた」
「え」
 さすがに血の気がひくのを感じた。
 いくら土方と総司とはいっても、声の様子から察するに、相手は十数人いるのだ。とても戦えるものではなかった。
 しかも、総司は薬のせいで万全でない。ここは逃げる他ないのだ。
 総司が閉じ込められていたのは、廃寺の境内にある小屋のようだった。垣根をこえたところで、後ろで怒号が走る。どうやら総司が逃げたことに気づいたらしかった。
 土方は総司を半ば抱えるようにして、走り出した。総司も必死に彼と共に駆ける。
 寺近くの雑木林を駆け抜けると、大きな川の前に出た。一艘の小さな舟が止められてある。
「早く乗れ」
 促され、慌てて総司はその小舟に乗った。縄を解いてから、土方が敏捷な動きで舟に飛び乗ってくる。
 二人が乗った舟が川半ばまで出た頃、男たちがようやく追いついてきた。怒号をあげているが、もう追いつくことは出来ない。舟は他にないのだ。
「やれやれだな」
 土方はふうっと息をついた。それに、総司が小首をかしげる。
「私、場所がわからないのですが……ここはどこですか?」
「北山の方だ。さっきいた場所は市中側なのだが、逃げるためだ、仕方がない」
「え、ということは、あちらの岸に戻らないと、帰れないってことですか」
「まぁ……たぶん、他に方法もあるさ」
 呑気なことを云う土方を、総司は呆れたように見上げた。いつも完璧で手抜かりのない副長の言葉とは到底思えない。
「他に方法って……」
 思わず呟いてしまった総司を、土方は何だと云わんばかりの表情で、見返した。彼の黒い瞳は深く澄み、そこに、どんな思惑があるのか全くわからない。
 だが、今は彼に従う他なかった。他に方法などあるはずもないのだ。
「いえ、何もありません」
 少し強張った声音で答えると、総司は夜の闇をじっと見つめた。













 土方は用心のため、川を下った。
 ゆらゆら舟に揺られながら下ってゆくと、多くの明かりが見えてくる。小さめだが、宿場町らしいことが見てとれた。
「この辺りは来たことがないので知りませんが……宿が多いのですね」
「あぁ。まだ開いているようだ、助かったな」
 土方は手早く舟をつけると、岸へ飛び移った。縄で舟をとめてから、総司に手をさしのべてくる。
 それに、今度は総司も拒絶しなかった。素直に手をあずけてくる。
 土方はそんな総司に安堵しながら、抱えるようにして岸へ渡らせた。華奢な躰は、大人の男の腕には軽いものだ。
 軽々と岸へ渡らせると、総司が大きな瞳で彼を見上げた。
「……ありがとうございます」
 小さな声で礼を云う総司に、土方はちょっと驚いた。
 思わず「おまえが素直に礼を云うなど、珍しいものだな」などと皮肉を口にしかけるが、呑みこんだ。
 せっかく総司が素直になってくれているのだ。余計なことを云って、また拗れさせたくない。
「……」
 黙ったまま頷くと、総司を連れて宿場に入った。
 まだ宿は開いているようで、歩いていくと、いくつかの宿から呼び込みをされた。
 その中から、土方は適当に選んだが、意外といい宿のようだった。あまり旅人もいない季節らしく、奥まった離れのような部屋に案内される。
「いい部屋ですね」
 案内された部屋を見回しながら、総司が云った。それに、肩をすくめる。
「まぁ、一泊だけだからな。別に何でも構やしねぇと思ったが」
「悪い部屋より、いい部屋の方がいいに決まっていますよ。それに……副長の奢りでしょう?」
 いきなり副長と云われ、また嫌味かと思ったが、総司はにこにこと笑っている。
 ほっとしつつ、土方は答えた。
「奢ってやるよ。助けに来たついでだ」
「そう云えば……」
 総司がふと気づいたように、訊ねた。
「どうして、私があそこにいるとわかったのですか?」
「駕籠屋だよ」
 土方はあっさり答えた。
「おまえを乗せた駕籠屋をつきとめて、どこで下したのか聞き出したのさ。むろん、気絶したおまえを運んでいるんだ、しっかり締め上げてやったが」
「なるほど、随分遠くまで運ばれていたんですね」
 感心したように云う総司に、土方は苦笑した。
「何を感心しているんだ。こっちは、ここまで馬飛ばしてきたんだぞ」
「それはありがとうございました」
 妙に素直にお礼を云ってから、総司が小首をかしげた。何だと見返せば、じっと大きな瞳で見つめてくる。
 短い沈黙の後、唇を開いた。
「でも……なぜ、土方さんが来たのですか?」
「……」
 あらためて訊ねられ、土方は黙り込んでしまった。


 それぐらい察しろよ! と思うが、むろん、無理なことはわかっている。
 確かに、総司が疑問に思うのも当然のことなのだ。
 一隊士の探索に、副長自ら乗り出すなど、聞いたこともない。
 それがいくら一番隊組長とはいえ、総司自身とは土方は個人的に仲が悪いのだ。
 他の誰かを差し向けるのが、この場合、当然だった。


 押し黙ってしまった土方に、総司は困惑したようだった。
 不意に、なめらかな頬を赤らめると、慌てたように云う。
「べ、別に、その、理由なんていいのです。おかげで助かったのですから。その……本当に、ありがとうございました」
「いや……そう何度も礼を云われる事じゃねぇよ」
 ぶっきらぼうな口調で答えたが、土方も妙な心地だった。


 無我夢中で探しまわっていた時は意識していなかったが、あらためて考えてみると、かなり取り乱していたと思う。
 だからこそ、彼らしくないほど乱暴で荒っぽいやり口で駕籠屋も締め上げたし、総司が閉じ込められている寺へも単身で乗り込んだのだ。
 新選組副長として常に冷徹に振る舞っている彼からは、到底考えられない行動だった。
 あまりに己の情愛をむき出しにした行動に、今更ながら気恥ずかしくなる。


 ちらりと見やれば、総司も頬を赤らめ、長い睫毛を伏せていた。
 何となく気恥ずかしいような、妙に甘酸っぱい雰囲気が、二人の間に漂った。妙な気分になり、お互いを見ることさえできなくなってしまう。
「……」
 二人して黙り込んでいると、突然、部屋の外から声をかけられた。仲居が料理を運んできたようだった。
 それに土方は妙に救われた心地で、応えを返した。すぐさま仲居が入ってきて、膳を手早く並べていく。
「食べようか」
 膳の前に坐りながら促すと、総司もこくりと頷き、坐った。
「おいしそうですね」
 膳に並べられた料理を見て、土方に微笑いかける姿が愛らしい。こうして宿屋で向かい合って食事をとっていると、まるで恋人同士のようだと思う。
 目を細めて見やると、その視線をうけて、総司は恥ずかしそうに長い睫毛を伏せてしまった。
 どこかふわふわした心地になりながら、二人は食事を始めた。
 食事の間も、意外なことに、会話はつづいた。
 土方は隊のことなど何も話さず、世間話に終始した。時々、面白い逸話もまじり、それに総司はびっくりしたり笑ったりした。
 いつもの彼らを知る隊士たちが見れば、驚くほどのなごやかさだった。
「本当ですか? それ」
「あぁ。いつだったか、近藤さんと行った時のことさ。驚くだろう?」
「びっくりしました。でも、私も見てみたいです」
「いつか見ることが出来るさ」
 そう云って、土方は優しく微笑んだ。それに、総司の頬が熱く火照った。


(まるで、夢みたい……)


 今、自分の前でくつろいだ様子で食事をとる土方を、うっとりと見つめた。


 こんな一時が訪れるなど、今日の昼までは思ってもみなかったのだ。
 だが、今、確かに土方は自分と一緒に食事をとってくれている。
 それも、くつろいだ様子で微笑い、話しかけてくれるのだ。まるで仲違いなどした事がないように、昔からずっと仲がよかったように。
 それも、こんな隊から離れた地にいるからなのか、普段の自分たちを知る者が誰もいないからなのか、その理由はわからなかったが、あれこれ考えようとも思わなかった。
 総司も同じだったのだ。
 先ほど、助け出された時はまだ反発していたが、二人で手を繋いで逃げるうち、どんどん心の頑なさがとけていった。
 自分でも不思議なほどだった。
 素直に、今の幸せを感じていたかった……。


 食事が終わると、土方は浴衣を衣装箱から取り出した。総司をふり返る。
「さっき仲居が云っていたが、この宿は風呂も自慢らしい。今日はあまり泊り客もいないから、ゆっくりつかれるだろう」
「そうですね」
 こくりと総司は頷いた。そんな総司の手に、土方が取り出した着替えなどを手渡した。
 総司が驚いたように目を見開いた。
「これは?」
「宿に入る前に買った。後で買いに出るのも面倒だからな」
「慣れているんですね」
「急に宿泊りになることも、あるからな」
 女の人と? という問いかけが喉奥まで出かかったが、呑みこんだ。黙っていると、土方が云った。
「先に入ってこいよ」
「え」
 総司は目を見開いた。
「土方さんは入らないの?」
「おまえが戻ってきたら、俺も入るさ」
「どうして?」
 無邪気に訊ねた。
「一緒に入ったらいいじゃないですか。その方が早いでしょう?」
「……」
 土方は唖然とした表情で、総司を見下ろした。