「……宗次郎」
 後ろからかけられた声に、びくりと肩が震えた。
 手拭いを握りしめたまま固まっていると、しばらくの間、男はそれを眺めているようだった。ふり向こうとしない宗次郎に呆れたのか、ため息をつくと土間から出ていってしまう。
 遠ざかる足音を聞きながら、宗次郎は大きく息を吐き出した。
 近藤たちが出かけて行ったその夕方だった。約束どおり、歳三が日野からやって来たのだ。
 だが、それを宗次郎は迎えようとしなかった。怖くて不安で、自分でもどうしたらいいのかわからなくて、土間で一生懸命夕餉の支度に励んでいたのだ。
 そこへ、かけられた声だった。むろん、歳三だとわかっている。
 別にきつい声音でも何でもなく、いつもどおりの優しい声だった。
 だが、それでも、答えられなかったのだ。否、答えようと思ったのだが、喉がつまって声が出てこなかった。


(私、どうしちゃったの……)


 歳三の前でこんなに緊張するなど、ありえない話だった。
 だが、一方で、念者にするとまで云われた男と、数日間、二人きりになるのだ。不安で緊張しないはずがなかった。
 ただ、自分でもよくわからないのが、その不安が、怖いとか恐ろしいとかじゃなくて、恥ずかしいとか緊張するとか、何だかふわふわしたような心地になっていることだった。
 どこかに、不思議な甘ずっぱさがあるのだ。
「……」
 宗次郎はふるりと首をふると、また夕餉の支度を整え始めた。きちんと二人分を膳にのせると、いつも皆で食事する母屋の部屋へ運んでゆく。
 ちょっと躊躇ったが、歳三の部屋へ行き、声をかけた。
「……歳三、さん」
 小さな声に、答えは返らなかった。どうしようと思っていると、するりと障子が開く。
 はっと見上げた宗次郎の目に、こちらを見下ろしている歳三が映った。それに、慌てて言葉を紡いだ。
「あの、夕餉です。用意ができました」
「わかった」
 歳三は頷くと、すっと部屋を出た。宗次郎に声をかける事もなく、さっさと奥の間へ歩いてゆく。宗次郎は何だか泣きそうになりながら、それを追った。
 食事の間も、沈黙ばかりだった。今までなら、二人きりでいればいるほど、楽しく賑やかな会話があったのに、今はそんな事が嘘のようだった。二人とも押し黙り、食事をとりつづけている。


(こんな毎日が続くの?)


 宗次郎は、初日から泣き出しそうになってしまった。
 食後、土間に膳をはこび、洗い始める。そうしながら、涙がこぼれるのを感じた。いけないと思うのに、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちてしまう。
 どうしたらいいのか、本当にわからなかった。
 だい好きだったはずの歳三が、とても遠く感じるのだ。今まで思っていた彼は間違いだったのかとさえ、思ってしまう。
「……ふっ、く…ぅ……っ」
 手の甲で涙をぬぐった。こんなところを誰かに見られたら、子供だと思われてもしまうだろう。ただでさえ、小柄で華奢な宗次郎は幼く見られやすい。なのに、こんな泣いているさまなど、誰にも見られたくなかった。
 きゅっと唇を噛んで嗚咽をこらえつつ、宗次郎は洗い物を終えた。手を拭きながらふり返ったとたん、どきりとする。
 いつからそこにいたのか、歳三が柱に寄りかかり、じっとこちらを見つめていたのだ。
 大きく目を瞠ったまま立ちつくす宗次郎に、歳三はかるく眉を顰めた。
「……泣くほど嫌か」
「……っ」
 やはり、泣いていたところを見られてしまったのだ。今までも何度も見られている事なのに、何故だか、宗次郎は恥ずかしいと思った。ぎゅっと両手を握りしめ、俯いてしまう。
 そんな宗次郎に、歳三はため息をついた。
「そんなに嫌か。俺といるのが、そんなに嫌なのかよ」
「……ちが、います」
 宗次郎は喉につまったようなものを感じつつ、懸命に云った。それだけは違うのだと伝えたかったのだ。
「私、そんな嫌とか……歳三さんと一緒にいて思ったことないし」
「なら、何で泣くんだ」
「そ、それは……」
 うまく伝えることが出来なかった。
 あの夜から気まずくなってしまった歳三との関係が、悲しくて辛くて泣いていたのだ。
 だい好きだった歳三が遠くなってしまったようで、不安で、そのくせ、あの口づけを思い出すたびに躰を熱くする自分に戸惑うばかりで。様々にうずまく感情を、宗次郎はとても言葉にできなかった。
 どうしたらいいのかわからず、俯いてしまう。
 だが、そんな宗次郎の態度は、歳三の目には拒絶しているようにしか見えなかった。違うと云われても、嫌われているとしか思えないのだ。
「……ちっ」
 短い舌打ちが聞こえ、宗次郎は、はっとして顔をあげた。だが、その時にはもう、歳三は忌々しげに顔をそむけていた。大股に土間を横切り、出ていってしまう。
 それを、宗次郎は呆然としたまま見送った。
 どうして急に、歳三が出ていったのかさえ、わからないのだ。追うべきなのか、追ったら更に怒られるのではないかと、また泣きたくなってしまう。
 宗次郎は潤んだ瞳で、歳三が消えた闇を見つめた。
 そして、切なげに目を伏せたのだった。












「……畜生っ」
 部屋に戻った歳三は、板間に持っていた手拭いを投げつけた。
 本当は宗次郎のことが心配で、気になって、土間へ行ったのだ。手伝ってやることで、少しでも気持ちを開かせることが出来たらと思っていた。
 だが、行ってみると、宗次郎は泣いていたのだ。それも、小さな肩を震わせ、声を殺して。
 歳三の胸に、やるせなさと怒り、嫉妬が渦巻いた。
 やはりという思いの方が強かったが、そんなにも自分といるのが嫌なのかと思った。嫌がって泣いているとしか、思えなかったのだ。
 近藤から話があったのは、一昨日のことだった。
 大方の予想どおり花街で遊んでいた歳三のもとを訪れてきた近藤が、いきなり云ったのだ。





「箱根へ湯治に行ってくる」
 と。
 はじめ、宗次郎も一緒なのだと思っていた。あれほど可愛がっているのだ。まさか一人残していくとは思わなかったのだ。
「ふうん」
 と興なさげに頷いた歳三を、近藤はまっすぐ見据えた。
「おまえ、宗次郎に何をした」
「何って」
「最近、おまえと宗次郎の仲が拗れているみたいだと、原田が云っていた。おつねも心配している。おまえ、とうとう宗次郎に手を出してしまったのか」
「……まだ手は出してねぇよ」
 不機嫌そうに答えると、近藤は不思議そうに首をかしげた。
「手は、とは?」
「だから、つまり……あぁ、もうどうだっていいだろ! そんな事より、あんたらは箱根へ湯治に行く。その話をしに来たんだろうが」
「そうだ。湯治に行く。おまえと宗次郎は留守番だ」
「……は?」
 一瞬、意味がわからなかった。
 明敏な歳三にしても、あまりの話の飛びように頭がついていかなかったのだ。
「留守番?」
「そうだ、留守を頼む」
 近藤は重々しく頷いた。
「宗次郎一人では心配だからな、おまえにも泊まってもらうことにした。明後日の夕方頃には来てくれ。では、頼む」
「ちょっと待て」
 慌てて歳三は腰を浮かし、近藤の袖を掴んだ。
「いったい、どういう事なんだよ。俺と宗次郎が留守番って、そんな話聞いてねぇし。それに、原田や永倉は? あいつらもいるはずだろうが」
「二人とも故郷へ戻っている」
 そう云った近藤は歳三の方へ向き直ると、その肩をがしっと掴んだ。脅しているのかと云いたくなるような、迫力で云ってくる。
「おまえも宗次郎が一人では心配だろう? 何かあったらと思わんのか」
「そ、そりゃ心配だけど」
「だったら、一緒に泊れ。留守を守れ。それがおまえの務めだ」
「俺の務めって……ちょっと、近藤さん」
 呼び止めようとする歳三に構わず、近藤はさっさと帰っていってしまった。そして、結局、宗次郎を一人で留守番させるなど心配で仕方のない歳三は、試衛館へ泊り込みに来てしまったのだが。





「俺なんかお呼びじゃねぇってか」
 ごろりと床の上に横になり、歳三は呟いた。
 腹がたつが、宗次郎の中で彼はもう頼りがいのある兄でもなくなってしまったのだろう。あんな事をしたのだから当然かと思いもするが、男の性か、拒まれれば拒まれるほど、欲しくて欲しくてたまらなくなる。
 正直な話、箍が外れてしまったのかもしれなかった。
 あの夜、宗次郎の躰を抱きしめ、その桜色の唇に口づけてから、箍が完全に外れてしまったのだ。
 ずっと押し殺しただけに、反動は大きかった。
 一度味わってしまったのだ。もう一度欲しいと思うのは、当然のことだろう。
 何もかも己のものにしていまいたいと、渇望するのも、男として当たり前のことだった。
 だからこそ、歳三は翌日、その衝動のまま宗次郎に告げたのだ。


 おまえを俺のものにすると。


 だが、宗次郎の怯えた顔を目にすると、躊躇いを覚えずにはいられなかった。
 もはや後戻りは出来ないとわかっていながら、宗次郎が彼を避けるたび、胸を抉られるような痛みを覚えた。前のような兄弟の関係で十分だったではないかと、己の行為を悔いもした。
 だが、その傍から叫ぶのだ。全身が叫んで求めて仕方がないのだ。


 宗次郎が欲しい、宗次郎だけが欲しくてたまらないのだと。


 餓えた獣のように求めれば、尚のこと、宗次郎は逃げてしまう。
 それがわかっていながら、まだ若い男である歳三にはその衝動を抑える術がなかった。欲情するあまり、宗次郎を傷つけてしまいそうで、歳三はしばらく距離を置く事にしたのだ。
 そのため、馴染みの女のところに身を沈めていたのだが。
「ったく……近藤さんに乗せられたな」
 宗次郎が心配で、宗次郎の顔を見たくて、ついつい戻ってきてしまったのだ。
 だが、土間で見つけた宗次郎に声をかけてはみたが、ふり返ることもしてくれなくて。狂おしいまでの愛しさをかみ殺し、部屋へ戻るしかなかった。挙句、先ほどの夕餉、やり取りだ。
「情けねぇ。この俺がなんてざまだよ」
 色恋沙汰にかけては、十六の時から遊びに遊びつくしてきたのだ。
 どんな美しい女も手玉にとり、云い寄らせるだけ寄らせた挙句、飽きれば冷たく捨て去ってきた。縋りつく女の涙にも、心ひとつ動かされたことはない。むしろ、鬱陶しさを感じるばかりだった。
 なのに、宗次郎は違うのだ。宗次郎が泣いているのを見ると、自分のことのように辛くなってしまう。胸奥が痛くて苦しくて、その涙の理由を消し去ってやりたくなるのだ。
 本気の恋だからなのか。
 それほど、愛しいと思っているからなのか。
 今まで本気で誰かを愛したことのない歳三にすれば、何もかもが初めてづくしだった。
 しかも、相手は初心で幼くて、恋さえ知らない少年だ。ほんの少し間違えば、その優しくて素直な心も体も壊してしまいそうだった。
 だからこそ、躊躇いを覚えてしまうのだ。どう手出ししていいのか、わからなくなってしまうのだ。
「どうしたらいいんだよ、まったく」
 いっそ、ここを出ていこうかと思った。
 だが、そんな事をすれば、宗次郎を一人にしてしまう。いくら貧乏道場とはいえ、一人きりで留守番させるなど、考えただけでぞっとする話だ。
 それぐらいなら、宗次郎に怯えられつつも我慢し、日々を過ごしていく方が余程ましだろう。
 歳三は憂鬱そうにため息をつくと、固く瞼を閉ざしたのだった。 












 翌日、宗次郎は朝から一生懸命働いた。
 歳三とはうまくいっていないが、せめて、彼の身のまわりの世話はきちんとしたかった。ここにいてくれる間、気持ちよく過ごしてもらいたいと思ったのだ。
 その思いが少しは通じたのか、昼飯の時、以前、彼がおいしいと云ってくれた卵焼きを上手に焼いて出すと、歳三は一口頬張ってから「うまいな」と云ってくれた。それに、ぽっと胸の奥があたたかくなる。
 思わず箸を握りしめ、「本当に?」と問いかけてしまった。それに、歳三はちょっと驚いた顔をしたが、すぐ微かに笑ってくれた。
「あぁ、うまいよ」
「……嬉しい、です」
 宗次郎はきちんと正座したまま、頬を染めた。こうして二人きりで向き合い、食事をするのもこれで三度目だ。
 いつも二人は、母屋の部屋で向かい合い、膳を置いて食事をしていた。給仕はもちろん、宗次郎がやっている。気まずい雰囲気は相変わらずだが、今、少しだけほぐれた気がした。


(私がつくった卵焼き、ほめてくれたんだもの)


 緊張して、どきどきして。
 でも、一生懸命つくったご飯を褒めてくれて、おいしいと云ってくれて、笑いあって。


(何だか、新婚さんの夫婦みたい……)


 味噌汁の椀を口にはこぶ歳三を見ながら、不意に、宗次郎はそんな事を考えた。だが、思った傍から、ぱっと耳朶まで真っ赤になってしまう。
 不思議そうにこちらを見る彼に首をふり、慌ててご飯をかきこんだ。


(な、なに考えているの、私。歳三さん相手に、何で)


 だが、実際は口づけまでした仲なのだ。いずれ念者にするとまで云われていた。
 それはつまり床を共にするという事であり、歳三と体のつながりをもつという事を意味しているのだろう。
 宗次郎はとても幼い少年だったが、原田や永倉から、色恋沙汰については色々と聞かされていた。
 その中には、菊の契についての話もあったのだ。一年ほど前のことだが、それを聞いた時、宗次郎はなぜか、歳三の顔がぱっと思い浮かんだ。
 思わず顔を赤くしてしまい不審がられたが、あの頃から、もしかすると今の甘ずっぱい気持ちが宗次郎の中にあったのかもしれない。
 では、その甘ずっぱさとは何か? と聞かれれば、宗次郎には答えることが出来なかったのだが。


(この気持ちって何なんだろう)


 怖いような、不安なような、淋しいような。
 でも、その人のことばかり考えてしまって、その人のことを考えると、甘ずっぱい感じがして。
 それは。


(いったい、何……?)


 宗次郎は両手で胸もとをぎゅっと握りしめた。どきどきする胸を抑えるように。
 そうして立ちつくす少年の細い背を、歳三が見つめている事にさえ、気づかぬまま。



















そろそろ宗次郎も恋の自覚です。

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