「……歳三、さん……?」
 宗次郎は目を見開いた。
 そうとしか、思えなかったのだ。ずっと聞きなれた声だった。
 低い、なめらかないい声だ。今、苦痛のためか掠れていたが、それでも、宗次郎が聞き間違うはずはなかった。
 薄闇の中、透かすように見れば、確かに、端正な男の顔がうかびあがっていた。切れの長い目が宗次郎を見下ろしている。
 安堵のあまり、体中の力が抜けた。
「歳三さん……」
 ほっとし、思わず反射的に歳三の体に抱きついてしまう。
 だが、歳三から匂いたつ血の香りに、ぎくりと体を強張らせた。慌てて見上げる。
「どうしたの? 怪我しているのですか?」
「……あぁ」
 歳三は宗次郎の細い躰を抱きしめたまま、低く答えた。耳もとに荒い息づかいがとどく。
 それに、目を瞬かせた。
「急に入ってくるから……びっくりして。賊かと思っちゃいましたよ」
「雨戸、錠を落とさねぇのか」
「えぇ。ここに賊が入るなんてありえないでしょう。でも、今夜みたいな事があるなら、やっぱり錠はいらないですね」
「どうして」
「だって、歳三さんが来てくれるから」
 男の腕に抱かれたまま、あどけなく笑う宗次郎に、歳三はきつく唇を噛みしめた。思わず少年を抱く腕に力がこもる。
 それに、宗次郎が小さく喘いだ。
「歳三さん……苦しいよ」
「……」
「どうしたの? 歳三さん……何かあったの?」


 一か月ぶりだった。
 このひと月もの間、歳三はずっと悩み、もがき続けていたのだ。
 宗次郎を思い切るべきか、どうすればいいのか。己の恋心をもてあまし、執着と独占欲にもがき苦しんだ。
 幾度か、宗次郎の様子を伺いにきた事もある。
 だが、そのたびに見た、斉藤と一緒に楽しそうに笑う宗次郎の姿に、云いようのない淋しさと嫉妬を覚えた。


(俺がいなくても、おまえはそうやって笑って生きてゆけるのか)


 身勝手な考えだとわかっていた。
 宗次郎にとって、歳三はあくまで兄代わりにすぎないのだ。
 なのに、こんな暗い情念を抱えた挙句、嫉妬してしまうなど。宗次郎が知れば、どれほど驚き、嫌悪することか。
 だが、どうしようもない感情の揺れだった。衝動だった。
 ずっと愛してきたのだ。何よりも大切に思い、慈しみ、この手で育ててきた。
 なのに、今更なのか。
 今更、他の男に奪われるのを、黙って見ていなければならないのか。


 苛立ちと嫉妬と独占欲に、気が狂いそうになりながら、歳三は江戸の町をさ迷い歩いた。
 さんざん遊び、女を抱いて酒も飲んだが、気持ちが晴れる訳もなかった。挙句、刃傷沙汰になり、多勢に無勢で傷をおい、気が付けば試衛館に来ていたのだ。
 宗次郎の離れを訪れたのは、無意識のうちだった。
 普段の彼であったなら、己の部屋へ転がりこんでいただろう。そうして一人で傷の手当てをしたに違いない。
 だが、異常なほど血が猛っていた。まるで己が獣にでもなったような気分だった。
 それを、宗次郎も敏感に感じ取ったのか。
 じっと歳三の様子を見ていた宗次郎の目が、見開かれた。
「……歳三さん……?」
 怯えている。
 男の体に下に組み敷かれたまま、宗次郎は少しずつ怯え始めていた。その証に、体が固くなり、頬も強張っている。
 それを、歳三は、むしろ愉悦さえ覚えながら感じた。ゆっくりと目を細める。
「……何だよ。おまえ、怯えているのか」
「そ、そんな」
「俺が怖いのかよ、宗次郎」
 薄く嗤いながら問いかけた歳三に、宗次郎は必死に首をふった。
 だが、彼を怖がっていることは明らかだ。
 歳三から、まぎれもない雄の獣の匂いを感じとったのだろう。自分の上にいるのが、しなやかで強靭な躰をもつ男であることに、ようやく気付いたのだ。
 この小さな愛らしい少年は。
 歳三は、低く喉を鳴らした。手をのばし、宗次郎の頬を指さきで撫でてやる。
 とたん、宗次郎がびくりと震えるのがわかった。
「おまえ……本当に綺麗だな」
「と、歳三さん……」
「可愛くてきれいで……おまえみたいな別嬪、女でもいやしねぇ」
「……」
 自分に向けられたとは思えぬ言葉に、宗次郎は目を見開いた。
 酔っているのかと思ったが、歳三からするのは血の匂いばかりだ。
 その事を思い出し、宗次郎は云った。
「あの、歳三さん……怪我をしているのでしょう? 傷の手当てを」
「そんなもの、後でいいさ」
「後でって、じゃあ今は何を……」
 何をするのかと、問いかけた、その時だった。
 不意に、宗次郎の背に男の大きな手のひらがまわったかと思うと、乱暴に抱きおこされた。あっと思った時には男の胸もとに抱えられている。
 驚いて見上げた宗次郎に、歳三が顔を近づけた。薄闇の中、濡れたような黒い瞳がじっと見つめているのがわかる。
 次の瞬間、深く唇を重ねられていた。
「!」
 宗次郎は目を見開いた。
 初め、何をされているのか、わからなかったのだ。
 歳三は貪るように、宗次郎の唇に口づけた。唇を吸い、舐め、舌をさしいれて絡めてくる。
 それはまったく初心な少年相手にするような接吻ではなかった。手練れの遊び女でさえ陶然と痺れてしまうような、濃厚で甘い口づけだったのだ。
「んっ、ぅ……ぁ、ぁ……っ」
 当然、初心な宗次郎が太刀打ちできるはずもなかった。
 たちまち男の腕にぐったりと抱かれ、口づけられるままになってしまう。
 それでも感じている証に、細い躰が熱をおびた。無意識のうちにか、男の逞しい胸もとに縋りついている。
 やがて、小さな手は男の背を抱き、ぎゅっとしがみついた。
「……は、ぁ…っ、ぁ……」
 口づけの合間に、歳三は宗次郎の首筋や胸もとに、唇を押しあてた。それにさえ感じて、宗次郎は小さく悶える。
 そのさまが可憐で艶めかしかった。幼いゆえの色っぽさに、歳三はたまらなくなる。


(いっそ、このまま抱いちまうか)


 そう思いもした。
 だが、そんな事をすれば、宗次郎を永遠に失う事はわかりきっていた。
 それに、何の準備もしていない。
 男を受け入れさせるには、それなりの準備をしなければ壊してしまうと、歳三もわかっていた。
 ましてや、宗次郎は人並み以上に小柄で華奢な少年だ。決して、壊すような事はしたくなかった。
 もしも手にいれる事ができるなら、優しく甘く愛してやりたいのだ。
「……っ」
 歳三は宗次郎の躰をきつく抱きしめてから、そっと布団の上に下ろした。
 潤んだ瞳が戸惑いがちに、男を見上げてくる。
 それに、歳三はもう一度だけ、口づけを落とした。深く唇を重ね、宗次郎の意識も感覚も翻弄する。
 再び、ぐったりと身を横たえた宗次郎に、歳三は身を起こした。後はもう何の言葉もかけぬまま、するりと部屋から出てゆく。
「……」
 障子が閉められる音を聞きながら、宗次郎は呆然と薄闇の中に身を横たえていた。


(今の……何? 何だったの、いったい……)


 頭が混乱していた。体がひどく熱い。
 今まで経験したこともない甘く熱い痺れが躰中を支配し、震わせてゆく。それは、歳三がふれた時、口づけたことを思うだけで、ぽっと火が灯されるようだった。
 宗次郎は混乱したまま、自分の体に両手をまわした。
 そして、何かから守るように、ぎゅっと抱きしめたのだった。












「どうした、宗次郎」
 近藤の言葉に、はっと我に返った。
 宗次郎は慌てて箸をもちなおし、菜をとった。だが、どうしても意識がそちらへいってしまう。
 翌朝だった。
 あれは夢だったのかと思いながら起き出し、宗次郎はいつもどおり朝餉の支度をした。そうして膳を運んでいったとたん、息を呑んだ。
「……!」
 そこに、歳三がいたのだ。藍色の着物を粋に着流し、平然とした様子で胡坐をかいている。
 固まっていると、歳三は切れの長い目でそれをちらりと一瞥した。だが、それだけで声をかけてくる事もない。
 呆然と見ている総司に、近藤がにこやかに云った。
「今朝早く着いたらしい。まったく気まぐれな男だ」
「そう、ですか」
 まだ夢のような気がしていた。昨夜のことは、夢だったのかと。
 だが、近藤の言葉に、はっと息を呑んだ。
「どこで傷を負ったのか、怪我をしてな。腕に傷をおっているらしい」
「……」
 突然、血の匂いが蘇った。


 真夜中の出来事。
 きつい血の匂いを纏わりつかせながら、自分を抱きしめた男。
 あの甘い口づけ―――


 なら、あれは夢ではなかったのだ。
 現にあった事だったのか。
 宗次郎はのろのろと頷き、いつもの場所である歳三の隣に座った。だが、緊張しているため、まともに喉を通らない。
 何を食べているのかさえ、ほとんどわからなかった。
 その上、歳三も全く声をかけてこなかった。いつもなら、色々と世話も焼いてくれるし、むろん、話しかけてもくる。
 だが、今朝はまるで別の男のようだった。
「……」
 食事の途中、そっと見上げてみたが、冷たく整った横顔は、まるで宗次郎を拒絶しているようだった。ひやりと冷たいものさえ感じる。
 まったく違う男がそこにいる気がした。


(あれは夢だったの? それとも、本当のことだったの?)


 混乱した頭のまま、宗次郎は食事を終えた。
 慌ただしく片づけをすませてから、いつも通り道場の掃除をする。床を拭いていると、誰かが道場に入ってくる気配がした。
 顔をあげた宗次郎は、目を見開いた。
「……っ」
 そこには、両腕を組んだ歳三が佇んでいたのだ。切れの長い目が宗次郎を見つめている。
 それに息が詰まる思いがした。
 何も云うことができず見上げていると、歳三が低い声で問いかけた。
「……覚えているんだな」
「え」
「その様子だと、覚えているんだろう? 昨夜あったことを」
「!」
 とたん、宗次郎の顔がぱっと赤くなった。
 自分でも訳がわからないが、たまらなく恥ずかしくなってしまったのだ。
 耳朶まで真っ赤になって俯く宗次郎の前に、歳三はゆっくりと跪いた。顔を覗き込み、訊ねてくる。
「覚えているんだな? 宗次郎」
「……は、はい」
「なら、話は早い。俺はもう諦めない。おまえを俺のものにする」
「え……?」
 きょとんと顔をあげた宗次郎に、歳三は低い声で言葉をつづけた。濡れたような黒い瞳がまっすぐ見つめている。
「意味がわからねぇか」
「はい……」
「いつか、おまえを抱くって云ったんだよ。俺とおまえは念者になるってことだ」
「ね、念者? えっ、だって……」
 宗次郎はびっくりして、思わず後ずさってしまった。それに歳三が不機嫌そうに眉を寄せた事にも気づかず、首をふる。
「歳三さん、そういうの興味ないはずでしょう?」
「何でそう決めつける」
「女の人といっぱい遊んでるし。それに、私も……よくわからないし」
「わからなくても構やしねぇ」
 歳三は肩をすくめた。
「俺はな、もう諦めない事にしたんだよ。何があっても、おまえを手にいれる」
 そうきっぱり断言すると、男は立ち上がった。さっと着物の裾をひるがえし、大股に道場を横切ってゆく。
 そのまま出ていってしまった歳三を、宗次郎は呆然と見送った。
 あまりにも急展開してしまった状況に、まったくついてゆけなかったのだ。


(私を手に入れるって、念者って……)


 今まで兄として慕ってきた男だった。
 それが突然、剥きだしの男としての面を見せられ、挙句、念者にすると云われたのだ。混乱しない方がおかしかった。
 宗次郎は、今まで信じていた世界がぐるりと反転したような感覚に襲われた。












 それはある意味、世界が本当の意味で色づいた瞬間だった。
 まだ眠っていた宗次郎の心が目覚め、彼という男を知った時でもあったのだ。
 宗次郎にとって、歳三はあくまで兄代わりだった。自分でも甘え、頼りすぎていると思ってはいたが、男として意識する事などありえなかった。
 だが、真夜中、宗次郎は歳三から男の匂いを感じとった。彼が大人の男であり、自分との契りを望んでいるということを、教えられたのだ。
 歳三はすぐには行動をおこさなかった。試衛館にとどまり起居していたが、あれきり宗次郎に口づけることもなかったのだ。
 それがなんだか中途半端で、宗次郎にとってはもどかしいような気持ちにさえ、なってしまった。


(べ、別に、期待してる訳じゃないけれど)


 宗次郎は箒をぎゅっと握りしめた。知らず知らずのうちに、顔が赤くなる。
 歳三がどんな気まぐれであんな事をしたのか、全くわからなかった。自分を念者にするなど、今となれば戯れだとしか思えない。
 だが、歳三との関係が微妙に変わってきている事も、また確かだったのだ。
 喧嘩する訳ではなかった。かといって、睦まじくなる訳でもない。
 ただ、不思議な緊張感が、二人の間に漂うようになっていたのだ。


(息がつまりそう)


 今まで思いもしなかった感覚に、宗次郎は戸惑うばかりだった。
 なるべく歳三と二人きりになる事を避けている。
 だが、それに気づいた歳三が不快げに眉を顰めると、たまらなくなった。
 離れていこうとしていた足がとまってしまうのだ。そのくせ、歳三が「宗次郎」と低い声で呼びかけ、肩にでもふれたとたん、たちまち躰中が熱くなって、どうしようもなくなって逃げ出してしまう。
 彼の前で、いったいどんな態度でいればいいのか、全くわからなかった。今まで、自分はどうやって彼と笑いあったりお喋りしたりしてきたのか、それさえも思い出せなかった。
 初めての経験に、宗次郎は戸惑うばかりだったのだ。
 そんな宗次郎に対し、歳三はいつもどおり振る舞っていた。皆の前では今までのように話しかけてくるし、笑いかけてもくる。
 そのくせ、他に誰もいない時、ひどく熱っぽい瞳で見つめられることがあった。どきりとするほど、艶っぽい濡れた瞳で宗次郎を見つめているのだ。
 それは、宗次郎が今まで見たことのない歳三の表情だった。
 まさに、男の顔だった。
 その瞳で見つめられるたび、宗次郎は身が竦んだ。怖くなった。だが、一方で胸がどきどきして、頬が熱く火照って仕方がなかった。
 恥ずかしげに俯くその仕草こそが、男を欲情させるのだと知らぬまま、宗次郎は歳三の視線から逃れるように目をそらすしかなかったのだ。
 そんな日々がつづいた、ある夜のことだった。
 ここ数日来、歳三も原田、永倉も故郷に戻っていた。もっとも、歳三は建前でその実、花街にいるのかもしれないが。
 近藤が夕餉の席で、突然、云ったのだ。
 旅に出る、と。
 突然の事に呆気にとられる宗次郎に、近藤は鷹揚に云った。
「義父母、おつねも一緒にだ。箱根へ湯治に行ってこようと思っているのだよ」
「箱根……」
「宗次郎にはすまないが、留守を頼めるかな」
「はい」
 宗次郎はこくりと頷いた。一人で少し心細いが、頑張ろうと思ったのだ。
 だが、そんな宗次郎に、近藤が云った。
「歳にも頼んであるから大丈夫だ。明日から来てくれるだろう」
「え……」


 歳三さんと二人きり。


 突然つきつけられた事実に、宗次郎は目を見開いた。


















次は、どきどき新婚さん(?)です。

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