晴れ渡った春の空の下だった。
長い道のりを歩いてきた男は、道場の玄関に入ると、框の上に荷物を下ろした。
冷たいほど整った顔だちの、綺麗な男だ。質素な着物を纏っているが、すらりとした長身は鍛えられ引き締まっている。
編み笠を外せば、艶やかな黒髪に、黒い瞳が印象的だった。
切れの長い目に、形のよい唇。
甘やかなとさえ評される顔だちだが、男の瞳にある鋭さ、激しさが、その内にある危ういものを感じさせる。
男は框に腰を下ろすと、草履を脱ぐため身をかがめた。
その時だった。
「――歳三さん!」
不意に、後ろから声がかけられた。
澄んだ甘い声だ。
その声を聞いたとたん、男の黒い瞳が和らいだ。とけそうなほど優しく、甘いものになる。
「宗次郎」
ふり返って呼んだ声も、また、彼を知る者が聞けば驚くほど優しげなものだった。
宗次郎と呼ばれた少年は駆けてくると、何の恐れもなく男の背に飛びついた。後ろから抱きつき、ぎゅっとしがみつく。
「歳三さん、お帰りなさい!」
「あぁ、ただいま」
歳三は笑い、宗次郎の髪をくしゃりと撫でてやった。それを仔猫のように気持ちよさげに受けてから、宗次郎は慌てて立ち上がった。
「宗次郎?」
「お水、用意しなくちゃ。歳三さんに早くあがって貰いたいから」
「おいおい、何でそんな急ぐんだ」
「だって、嬉しいんだもの。歳三さんと一緒にいたいんだもの」
子どもらしく素直に答える宗次郎に、歳三はちょっと虚を突かれたようだった。だが、すぐに明るく笑うと、「ありがとうよ」と云ってやる。
宗次郎は水を汲んでくると、歳三が躯を拭くのを手伝った。そうして、部屋に入ってからは、着替えも何もかも手伝い、一向に離れようとしない。
途中、覗きに来た近藤が「相変わらず、幼妻みたいだな」と肩をすくめていたが、二人ともまるで気にしていなかった。
昔から、兄弟のように育ってきた二人だった。
宗次郎は歳三を兄のように慕い、歳三は宗次郎を弟のように可愛がっている。
十四になったとはいえ、宗次郎はまだまだ子どもだった。ある意味、他の子どもより幼いと云ってもよい。
ほっそりと華奢な躯は、他の子どもたちと比べれば小柄で、二つ程は幼く見えてしまう。歳三の腕の中にいると、まるで愛らしい少女のようだった。
絹糸のような黒髪に、ぱっちりとした目。長い睫毛も、なめらかな白い頬も。
ふっくらした桜色の唇にいたるまで、宗次郎は愛らしく可憐な少年だった。
剣術の腕は天才肌なのだが、それを感じさせないのは、この愛らしい容姿と素直で優しい性格のためだろう。
「歳三さん、あのね」
宗次郎はつぶらな瞳で男を見上げた。その腕に細い指さきがふれる。
「あの、聞きたい事があるのです」
「何だ」
しゅっと帯を締めながら訊ねる歳三に、宗次郎はなめらかな白い頬を染めた。ちょっと躊躇ってから、おずおずと訊ねる。
「あの……歳三さんは、いつまでここにいてくれますか?」
「いつまでって、当分はいるつもりだぜ」
「でも」
「でも、何だ」
「……歳三さん、あの、忙しいみたいだから」
そう云って俯いた宗次郎に、歳三は眉を顰めた。
忙しいという意味がよくわからない。確かに、彼は日野から戻ったばかりだし、江戸で済ますべき用事も色々とある。だが、宗次郎の云い方は、何か別の意味を含んでいるようだった。
黙って眺めていると、宗次郎は小さくため息をついた。
そして、云った。
「歳三さん、お嫁さんを貰うの?」
「……は?」
一瞬、おまえを? と聞きたくなってしまったのは、惚れた男の悲しさだ。
呆気にとられている歳三を前に、宗次郎は哀しげに言葉をつづけた。
「聞いたのです、歳三さんに縁談があるって。それで、お嫁さんを貰ったら、あまりこちらにも来られなくなるだろうって」
「……」
歳三は黙ったまま、目を細めた。しばらくの間、じっと宗次郎の可愛い顔を見つめていたが、やがて、ゆっくりと身をかがめた。
愛らしい少年の顔を覗き込み、視線をあわせる。とたん、ぱっと頬を染めた少年に目を細めつつ、低い声で問いかけた。
「おまえは、どう思ったんだ」
「え……?」
「俺に縁談があると聞いて、おまえはどう思った?」
「そ、それは……」
宗次郎は長い睫毛を瞬かせ、きゅっと唇を噛んだ。
「淋しいなぁって思ったけど、でも……」
「でも?」
「仕方ないから。歳三さんも、いつまでも独り身って事はないだろうし」
「……そうか」
歳三の瞳に、一瞬、苦い翳りが落ちた。だが、すぐそれを振り払うようにして、口角をあげる。
「まぁ、縁談も決った訳じゃねぇからな」
「そうなのですか?」
「あぁ。そのうちって話だし、俺自身、その気がねぇよ。まだまだ遊んでいてぇからな」
そう云った歳三に、宗次郎は安堵したようだった。こくりと頷いてから、部屋を出てゆく。
向こうで呼んだおつねの声に、はぁいと返事し、軽やかな足取りで駆けだしていった。
それを見送った歳三は柱に凭れかかると、ため息をついた。
(仕方ない、か)
先程の少年の言葉が、胸に突き刺さった。
どれだけ可愛がっても愛していても、所詮、その程度の存在なのだ。宗次郎にとって、歳三はあくまで兄代りでしかない。
それは、むしろ、当然の事だった。
宗次郎がもしも娘なら話は違っていただろう。十四なのだ。少し早いだろうが、歳三の妻として迎えられる年頃だった。
だが、宗次郎は歴とした武家の子であり、少年だ。そうである以上、どうしようもない事だった。
歳三は、宗次郎を愛していた。
それこそ、目の中に入れても痛くないほど、可愛くて可愛くてたまらなかった。
むろん、当初は弟のような感覚だったが、いつしか、宗次郎への気持ちは深い愛へと変わっていったのだ。とくに、宗次郎が大人びた表情を見せるようになってからは、そのすべてを愛したい、己のものにしてしまいたいという欲求が、強くなった。
歳三自身、初めは驚き、戸惑った。
そんな好みなどないはずだった。どれほど美しい少年を見ても心動かされた事など全くなかったし、女遊びでは百戦錬磨の歳三だ。少年など、論外のはずだった。
なのに、気がつけば、宗次郎をいつも目で追っている自分に気づいたのだ。
宗次郎のすべてが愛しかった。その瞳も、笑顔も、ひたむきで素直な性格も。
あれ程女遊びでならした男が今や、ただ一人の小柄な少年に夢中だった。己の命で贖っても構わぬほど、愛していた。
だが、その想いが成就する事はない。
宗次郎は歳三に対して、兄としての好意を寄せてくれていた。ただ、それだけなのだ。
いつも慕ってくれているし、懐いてくれている。だが、それでも、幼い宗次郎は、男に愛されるなど想像もつかぬに違いない。
ましてや、ずっと兄代わりとしてきた歳三から、そんな目で見られていたと知れば、どうなるかわかりきっている。初で真っ直ぐな宗次郎の事だ、たちまち好意は嫌悪に変わるに違いなかった。
それを理解しているからこそ、歳三は己の感情を表に決して出さぬよう気をつけていた。宗次郎が他の者から傷つけられぬよう気をつけるのと同じく、彼自身からも傷つけられる事がないよう、心がけていたのだ。
(一縷の望みもない、恋か)
歳三は柱に凭れかかり、目を細めた。
今回は自分の縁談だったが、いつか、宗次郎も大人になり嫁を娶ったりするのだろう。その時は、どんなに辛くとも、兄代わりとして祝福してやるつもりだった。その覚悟は、宗次郎の傍にずっと在りつづけるためには、絶対に必要な事だったのだ。
「俺は、いつまでも……おまえの兄代りさ」
それぐらいは許して欲しいと、ほろ苦い思いで、歳三は瞼を閉じた。
宗次郎にとって、歳三はあくまで兄代りだった。
そういった意味では、歳三の推測は全く外れていなかったのだ。
何しろ、物心ついた頃からのつきあいだ。
九つも離れた頼り甲斐のある、優しい人。女遊びが好きで色男で、ちょっと危ない処もあるけれど、宗次郎にはとても甘くて優しい男。
ずっと小さい頃から、一緒にいた。道場に来る前、手を繋いで歩いてもらったり、行商に連れていって貰ったり。背負ってもらった事もあるし、遊んで貰った事も何度もある。
いつでも困った時や、泣きそうな時、ふり返ると、すぐそこにいてくれた。手をさしのべ、大丈夫だ、俺がここにいると守ってくれたのだ。
「でも……いつまでもって訳にはいかないよね」
宗次郎は一人、道場を磨きながら呟いた。
自分でも子どもっぽい性格がよくわかっている。また、いつまでも歳三ばかりに頼って、迷惑をかける事にいかないことも自覚していたのだ。
歳三は、いつでも宗次郎を優先してくれた。一番に考え、どれほど美しい女にしなだれかかられても、宗次郎が泣いていると聞けば、すぐさま駆け戻ってきてくれたのだ。その甘やかしぶりは、周囲が驚く程だった。
むろん、宗次郎は、その男の言動の意味を全く理解していないが、それでも、ここのままではいけないと思いつつある。
だい好きだからこそ、迷惑をかけたくないのだ。
早く大人になって、きちんと独り立ちするべきなのだ。
「頑張らなくちゃ」
宗次郎は小さな手を、ぎゅっと握りしめた。
結局の処、歳三が望む形とは全く違っていたが、宗次郎は幼いながらも色々考えていたのだ。もともと、宗次郎は利発で、見かけよりもずっと芯の強い少年だった。決して弱くもないし、また、人に頼るような性格でもない。まずは、何事でも、出来るだけ自分で解決しようとする少年なのだ。
だが、そんな宗次郎にとって、歳三は特別だった。あまりにも昔からいてくれた為、転ぶ前に歳三が手をさし出してくれるのが、当たり前になってしまっていたのだ。
ずっと、そのままだと思っていた。そうであることを疑いさえしなかった。
しかし、それが間違いなのだと思い知らされたのは、昨日の事だった。
「え、歳三さんに縁談?」
宗次郎は目を丸くした。
それに、原田や永倉たちが楽しそうに笑った。
「らしいぜ? そろそろ、土方さんも年貢のおさめどきって事だろうなぁ」
「年貢のおさめどき……」
「宗次郎、おまえと年頃の変わらねぇ可愛い娘っ子なんだとよ。歳三さんも幸せもんだね」
「そう……ですか」
宗次郎はちょっと俯いた。
あの歳三が嫁を娶る。
想像はしてみたが、全くその姿が思い浮ばなかった。ましてや、相手の娘の姿など、思い浮ぶはずもない。
宗次郎が思い描けるのは、自分にむけられる彼の笑顔と、その彼にしなだれかかっている美しい女、だった。
どちらもあまりに見慣れたものだったので、歳三と縁談という話がすぐには結びつかなかったのだ。
だが、考えてみれば、歳三も、もう二十三だ。とっくの昔に妻を娶っていてもおかしくない年頃だった。
きっと、日野の佐藤家あたりが動いたのだろう。
「宗次郎も淋しくなるな」
そう云われ、宗次郎は「え?」と目を見開いた。意味がわからなかったのだ。それに、原田が苦笑しつつ、言葉をつづけた。
「嫁を娶りゃあ、ここにも来づらくなるさ。というより、それどころじゃねぇだろうし」
「……」
「まぁ、そろそろ兄離れってところかな」
「う、うん」
「宗次郎……大丈夫か? おまえには、きつい話だったか」
心配そうな表情で云われ、宗次郎は慌てて笑顔をつくった。
歳三の縁談話に、ちくりと胸奥が痛んだのは確かだったが、それが兄代わりを奪われるという子どもじみた感情だったのか、それとも、別の何かなのか、宗次郎自身にもわからなかった。
「大丈夫です」
澄んだ瞳をまっすぐ向け、宗次郎はきっぱりと云った。
「淋しいけど、いつかは来る事だから。仕方ないなって、思うから」
まるで、自分にそう云い聞かせているみたいだと、宗次郎は思った。だが、それでも仕方がなかった。
仕方がないと思うより、他なかった。
兄代わりの歳三が傍にいてくれなくなるのは、淋しいが、自分ではどうしようもない事だった。
いつかは、やってくる事なのだから……。
宗次郎はふるりと首をふった。
再び、道場の掃除のつづきを始めようとする。
その時だった。
「お頼み申します」
凜とした声が玄関口の方で響いた。
それに、宗次郎は慌てて立ち上がった。「はい!」と返事をし、駆けてゆく。
だが、玄関に出ていった宗次郎は、ちょっと目を見開いた。声からして大人の男だと思っていたのだが、そこに佇んでいたのは、宗次郎より少し年上の少年だったのだ。
しっかり鍛えられた長身だが、まだ線の細い感じがする躯つきの少年だ。髪を後ろで束ね、深く澄んだ鳶色の瞳が印象的だった。
少年は、出てきた宗次郎を見ると、少し驚いたようだった。子どもだと思ったのだろう、かるく身をかがめた。
「……ここは、試衛館道場かな」
「そうです」
宗次郎は、少年の態度にちょっと唇を尖らせてから、答えた。
「私は内弟子の沖田宗次郎といいます。貴殿は?」
できるだけ大人びた口調で返すと、少年は目を瞠った。だが、すぐさま態度をあらため、きちんと答えを返してくる。
「これはご無礼を。私は斉藤一と申す者。近藤先生とお約束があり、まかり越しました」
「近藤先生と」
となれば、客人だ。
宗次郎はぺこりと頭を下げ、奥に伺いをたてた。すぐさま、近藤が出てきて鷹揚に笑いながら、斉藤を招き入れる。すれ違う瞬間、斉藤の鳶色の瞳がちらりと宗次郎にむけられた。それをきっと見返せば、にこりと笑いかけられる。
初めの印象より、子どもっぽく優しい笑顔だった。
「……」
その背を見送りながら、宗次郎はちょっと小首をかしげた。
斉藤一は、宗次郎と同じ年だった。
そのこと自体に、宗次郎は面白くないものを感じてしまったのだが、それはさておき、斉藤はとても気持ちの良い少年だった。
剣術の腕も優れ、またそれに驕ることもない。淡々としていて、言葉数は少ないが、優しく物静かで、宗次郎は傍にいて居心地がよいと思った。斉藤の方も宗次郎を気にいってくれたらしく、試衛館に来るたび、声をかけてくれる。
同じ年という事もあり、二人の仲は急速に深まった。
一緒に剣の稽古をしたり、様々な話をしたり、一緒に出かけたり。
宗次郎は、次第に、この初めて得た同じ年の友人が、だい好きになっていった。一緒にいることが楽しくて楽しくて、仕方がなかったのだ。
もともと宗次郎は、年上ばかりに囲まれて過していた。一番年の近い相手でも、原田や永倉だ。しかも、宗次郎はだい好きな歳三から、離れなければと思っていた。彼に迷惑をかけないため、自立しなければと強く思っていたのだ。
そこへ、突然現れたのが、斉藤だった。
宗次郎がどんどん斉藤に惹かれ、関係を深めていったのも、当然の事だろう。
だからこそ、全く気づいていなかったのだ。
仲が良くなってゆく二人を、じっと見つめている男の存在に。
中編の新連載スタートです。歳宗の初恋物語。おつきあい下さいませね♪