しばらく黙ってから、ゆっくりと頷いた。
普通なら怒っていただろう。
一度了承したくせに高圧的に断ってくる彼の態度を、非難したに違いない。
だが、総司はそうしなかった。土方の言葉裏にある感情を感じとったからだ。
(この人は、傷ついている……)
総司にはわからないが、その神社に何か因縁があるのだろう。彼を傷つける記憶があるに違いない。
ならば、そこへ行く事を拒絶するのも当然だった。そして、何よりも、彼を傷つけてしまったことを後悔した。
「……」
総司は一度目を伏せると、黙ったまま手をのばした。そっと、土方の手にふれる。
それに、土方がびくりと肩を震わせた。驚いたように見下ろしてくる。そんな彼を見上げ、微笑んだ。
「じゃあ他の処にしましょう」
「……総司」
「私、花が見たいのです。土方さん、どこかいい場所知りませんか?」
できるだけ明るい声で言った総司を、土方は信じられないもののように見つめた。しばらく黙った後、掠れた声で言った。
「おまえ……怒らないのか」
「怒る? どうして?」
「どうしてって、俺は今、すげぇ理不尽な事をしたんだぞ。どこでもいいと言っておいて、その場所を言ったとたん断ったんだ。最低じゃねぇか」
「最低なんかじゃありません。だって、土方さん、その神社が嫌なんでしょう?」
「!」
黙り込んでしまった土方の前で、総司は言葉をつづけた。
「嫌だと思っている場所に行くこと、断って当然です。私だって嫌だなぁと思ったら、しっかり言いますもの。たまたま、そうなっちゃっただけ。だから……私は怒っていません」
「総司……」
「はい、もうこの話は終わり。で、どこかいい処知りま……」
言葉が途切れた。
背中と腰に男の腕がまわされたかと思うと、きつく抱きすくめられたのだ。息もとまるほど、抱きしめられる。
「……っ」
突然の抱擁に総司は呆然となった。が、やがて、おずおずと男の広い背に手をまわした。ぎゅっと縋るように抱きつけば、より深く抱きしめられる。
男の腕の中は泣きたくなるぐらい懐かしく、心地よかった。そのぬくもりに、身も心もとけていきそうだ。
が、しばらくして、はっと我に返った。
ここは路地裏でも屯所内の部屋でもない。往来だったのだ。その証に、行き交う人々から視線を感じる。
「土方さん、土方さん」
慌てて男の背をぱたぱた叩いた。それでも離さない彼に注意を促す。
「ここ、往来ですよ!」
「構わん」
「か、構わないって……私が構うのですッ」
そう叫んだ総司に、ようやく腕の力が緩んだ。しぶしぶながらも離してくれた土方に、ほっとした。
しかし、離してくれたと言っても、完全にではない。
どこかへ総司が逃げるとでも思っているのか、その手はしっかり繋がれていた。
何だか怖くなって振り払おうとしたが、土方はにこやかな笑顔で(目は笑っていない)絶対に離さない。
「あの、離して下さい」
「嫌だ」
あっさり答えた土方は微かに目を細めた。指さきですっと手の甲を撫でられ、ぞくりとする。
驚いて見上げれば、熱っぽく濡れた瞳がこちらを見下ろしていた。黒曜石のような瞳が美しくも艶めかしい。
ぼうっとしていると、そのまま柔らかく微笑みかけられた。土方はじっと総司に視線をあてたまま、ゆっくりと繋いでいた手を持ち上げた。そのまま軽く身をかがめ、総司の白い指さきに口づける。
「!」
一瞬で頭が沸騰した。
ぼんっと音が鳴りそうなぐらい、耳朶まで真っ赤になってしまう。魅惑的な笑みをうかべる彼を見ていられなくて俯けば、その耳元に土方が唇を寄せた。
「……可愛いな」
たった一言だけ。なのに、その囁きだけで総司は従順になってしまうのだ。こんなにも魅力的な彼に抗える人など、いるのだろうか。
真っ赤になったまま俯いていると、土方は柔らかくその手を引いた。ゆっくりと歩き出してゆく。
手を繋いだままの事は恥ずかしかったが、この場を離れるのは大賛成だった。何しろ、とにかく視線が痛いのだ。とくに女性からの妬みの視線が痛い、ぐさぐさ突き刺さるようだ。
土方が連れてきたのは、小さな寺だった。人気は少ないが、丁寧に掃除もされて小奇麗だ。
色々な樹木が植えられてあったが、総司の目をひいたのは地面をおおう沢山の小さな白い花だった。今はまだ冬なのに、そこだけ春のようで優しい。
「この水仙は早咲きなんだ」
総司の視線に気づいた土方は、水仙の前で身をかがめながら答えた。彼のしなやかな指さきが花びらにふれる。それが絵のようで思わず見惚れた。
「ささやかで小さな花だが、控えめな感じが俺は好きだな」
「土方さんの女性の好みみたいですね」
思わず言ってから、あ、間違ったかもと思った。一瞬、土方が眉を顰めたからだ。
が、すぐに何気ない調子で返された。
「そうか。確かに、俺は強引で押しの強い女とかは苦手だな。だが、何故、おまえが俺の好みなんざ知っているんだ」
「え」
総司は目を瞬いた。答えようとして答えられない事に気づき、絶句する。
どうして、私はそんな事を知っているの。
苦手で嫌いな男の好みなんて、知る必要もないのに。
知っていると思った瞬間、胸の奥を貫いた痛みにも戸惑った。
自分を揺さぶる悲しみと切なさと、これは……嫉妬?
ふるりと首をふってから、総司は土方を見上げた。
「隊の皆が知っていますよ。土方さんの女遊びは有名ですから」
「ひでぇ言われようだな」
くすっと笑い、土方はまた歩き出した。それを追いながら、ぼんやりと考えた。
どうして、と思う事ばかりだ。
彼や皆の態度ばかりでなく、自分の感情にまで思うなんて。
(一番の謎は、この人だけど)
前をいく男の背を見つめた。
黒い羽二重の羽織を纏った広い背中。黒谷屋敷からの帰りであるため、今の土方は武家の紋付き袴姿だった。逞しく鍛えられた長身によく似合い、思わず見惚れてしまうほどの男ぶりだ。
先程もその姿で抱きしめてくるのだから、尚更慌ててしまったのだ。
どうして、こんな凄い人が自分を構ってくるのだろう。可愛がりたい甘やかしたいと言われたけれど、その意味がわからない。否、わからないふりをしているのだ、自分は。
その方がこの中途半端な状態でいられるから。
苦しいことや切ないことから、全部逃げたまま。
総司は土方の後をゆっくりと歩きながら、静かに目を伏せた。その様子に、ふり返った男が鋭い視線をあてている事など気づかぬままに。
噂が広まっていると聞いたのは、数日後のことだった。
総司はきょとんとして、斉藤を見上げた。いつもの隊士たちのたまり場である広間ではなく、斉藤の部屋だった。
ちょっと聞きたい事があると引っ張り込まれたのだ。そこに原田と永倉がいるのはお約束だ。
「噂、ですか」
「そう、噂だよ」
横合いから原田が言った。面白そうに笑っている。
「土方さんと総司が抱き合っていたっていう、噂。ほんと?」
「えっ」
絶句してしまった総司に、原田はなるほどなーと煎餅をばりばり齧った。
「やっぱり本当かー。じゃねぇかなぁって思っていたけど」
「まだ、私何も言ってませんッ?」
「その真っ赤な顔が物語っている」
ぼそっと言った永倉に原田がうんうんと頷いた。それに総司は思わず頬に両手をあててしまう。
乙女だねぇと呟く原田を一睨みしてから、斉藤が総司に訊ねた。
「で、本当な訳?」
「えーと、その……うん、はい、です」
「……」
「はじめちゃ-ん、顔、般若」
「余計なお世話ですッ。しかし、あの人も往来で何やっているんだか。箍って限界まで外れるんですね」
「まぁ、仕方ないっしょ。長年の想いが実ったんだから。な、総司」
また話を振られた総司は、不思議そうに彼らを見回した。
「長年の想いって何ですか」
「え、だから、土方さんと抱き合っていたんだろ?」
「そうです、けど」
「で、それから?」
「それから? えーと、その後、水仙が綺麗な寺に行きました」
「ほうほう、それで?」
「帰営しましたけど、何か」
「…………」
斉藤、原田、永倉の三人は無言で総司をじっと凝視した。それから、ささっと総司に背を向けると、こそこそ小声で話し始める。
「まさか、告白なし?」
「いや、それより手を出さなかった事の方が」
「っていうより、総司、全然意味わかってね?」
「あのー」
意味のわからない会話をする三人に、総司は呼びかけた。
「私の行動、何か問題があるのですか」
「問題、問題あるんだけど……うーん、どうだろう」
斉藤が唸った。
「この場合、問題あるのは土方さんの方じゃね?」
「ですよねー。往来で抱擁するなんてこと出来るなら、一気にいけばいいのに」
「仕事はともかく、私的な事になると詰めが甘い」
さんざんな言われようである。
だが、とにもかくにも噂は隊中に広がっているらしく、あちこちで総司は聞かれた。それに曖昧な笑みで答えていたが、当然、その噂は土方の耳にも入ったらしい。
彼からの誘いが来たのは、その翌日のことだった。
「少し……同行して欲しい所がある」
そう言ってきた土方は、どこか固い表情だった。切れの長い目は怜悧で、とても静かだ。
日頃から護衛だなんだと連れ回されている総司は、今更と思いつつ頷いた。が、それに土方が微かに眉を顰める。
その表情に小首をかしげた。
「? 何です」
「……私用なのだが、いいか」
「あー、そういう事ですか」
どうしようかなぁと思った。もしかして土方も噂を気にしているのかもしれない。
だが、先日の抱擁から、総司の意識も変わっている。不思議なほど苛立ちが消えていたのだ。
それは自覚したからもしれなかった。自分は逃げているのだ、と。
自分の中にある何かから、逃げているのだ。それは今のぬるま湯のような状況がとても心地いいから、この状態が壊されるのが怖いから。
土方のさり気ない言動、斉藤や近藤からの言葉すべて、意味がわからないふりをして逃げている自分を、知ってしまった。
(私はとても臆病だ)
土方が柔らかく優しく寄りそってくれるからと、それをいい事に甘えている。甘やかしたかったなんて言われたが、その実、これ以上ないぐらい甘やかされてきたのだ。
奥にある本当の気持ちが揺れてしまうほど。
「わかりました。ご一緒します」
こくりと頷いて答えた総司に、土方は安堵の表情をうかべた。ほっとしたように笑いかけてくる。
「よかった。なら、後で玄関前に来てくれ。馬をまわしておく」
「え、馬なのですか」
「乗れるだろう?」
「はい、大丈夫です」
答える総司に頷いてから、土方は踵を返した。袴の裾をひるがえすようにして歩み去っていく。すっと伸びた背が端正で、とても綺麗だった。
それをしばらく見送った総司は、自分の部屋に戻った。少し身支度を整えてから、玄関へ向かう。が、玄関先に出た総司は「え?」と目を瞬いた。
土方が小首をかしげた。
「どうした」
「どうしたって……馬、一頭しかいないんですけど」
「あぁ、俺がおまえを乗せる」
「えぇっ?」
びっくりして声をあげてしまった。それに、近くにいた隊士が驚いたようにこちらを見る。
慌てて声をひそめた。
「相乗りってことですか? それはちょっと」
「ちょっと、何だ」
「は、恥ずかしいというか、照れるというか……」
「俺は別に恥ずかしくねぇよ。ほら、さっさと乗れ」
土方は総司の腕を掴み、馬の上へ押しあげてしまった。それにあたふたしていると、声をかけられる。
「もう少し前に詰めてくれ」
「えっ、え……ま、前ですか?」
「あぁ」
彼の言葉どおり前へ詰めると、土方が鐙に足をかけた。次の瞬間、ひらりと馬に跨ってくる。まるで体重を感じさせない敏捷な動きだった。
呆気にとられているうちに、土方は総司の躰を包みこむようにして手綱を握った。それに、思わず目を見開く。
「わ、私が前? 前ってこういうこと?」
「後ろの方が良かったか」
「え、う、うーん……それもどうでしょう」
後ろだと土方の腰に抱きつくことになってしまう。それはそれで恥ずかしい限りだが、この状況もかなりやばい。まるで土方に後ろから抱きしめられているような感じなのだ。
男の逞しい腕にすっぽりと包まれている状況に、総司は耳朶まで赤くなるのを感じた。恥ずかしい。しかも、この二人のやり取りを、隊士たちが呆気にとられ見ているから、尚更だ。
彼の腕の中で縮こまっていると、土方がくすっと笑うのが聞こえた。それに、ちょっとむっとして見上げようとしたとたん、彼が手綱を裁き、馬を歩ませ始める。
街中では安全のため歩ませていたが、京の町中を抜けた後は駆け足になった。普通ならかなり躰が揺れるが、土方がしっかりと左腕で腰を抱き支えてくれているので、とても楽だ。それよりも、総司は密着した男の躰に、緊張しっぱなしだった。
自分の腰を抱く男の力強い腕、背にあたる硬く厚い胸板、時折耳もとにふれる彼の息遣い。何かもが総司をどきどきさせた。
が、やがて、周囲の光景に、その緊張が消えていく。それどころではなくなったのだ。
「土方さん」
思わずその名を呼んだ総司に、土方がちらりと視線を向けた。
「何だ」
「これって、もしかして、あの……里へ向っているのですか?」
「違う、里じゃねぇ」
「それじゃ、いったい」
「着けばわかる」
彼の言葉に細い眉を顰めてしまったが、何も言わなかった。これ以上聞いても答えてくれないのであれば、仕方がないと思ったのだ。
やがて、馬は小高い山に登った。山の中腹の平地になっている所で馬を降りる。ここは大津へ抜ける道の途中にあるのだが、それよりも何よりも、視線を引き寄せられたのは崖下に広がる光景だった。少し離れた処に見える里。あれはまさしく総司たちが過ごした里だ。
「やっぱり、里じゃないですか」
「違う、この場所だ」
「?」
不思議そうに見上げた総司に、土方は眉根を寄せた。総司の顔をじっと見つめ、何かを堪えるように唇を噛みしめる。
低い声が訊ねた。
「……何も思い出さないのか」
「どういうことですか」
「ここで何があったのか、おまえは覚えていねぇのか」
「え」
総司は周囲を見回した。草むらと樹木があるだけの何の変哲もない光景だ。覚えなどあるはずもなかった。
だが、目の前に立つ土方へ視線を戻した瞬間、どきりと心の臓が跳ね上がった。
何の変哲もない光景。なのに、そこに彼がいるだけで、彼が自分を見つめているだけで、何か強い感情が喉奥から込み上げてくるのだ。我を忘れて叫びたくなるのだ。
「……わた、し……」
両手で口元を覆った。
がんがんと耳奥が激しく鳴った。息がつまりそうになる。
誰かが叫んでいた。泣いていた。
もう駄目、今更どうにもならないのだ、と。
あれは、私。
抱きしめる彼を拒絶し泣いているのは、私なの。
「……ッ!」
大きく目を見開いた。その総司の腕を掴み、土方が引き寄せる。
あっと思った時には抱きしめられていた。きつく――息もとまるぐらい。
その強い抱擁に、総司は抗わなかった。抗うことなどできなかったのだ。
「……っ」
震えながら、男の背に手をまわした。そのまま、ぎゅっとしがみついた。
己の中にある何かを、確かめるように。
深く感じられるように。
……愛していた。
ずっとずっと大好きで、皆に隠れて、甘い甘い蜜のような時を過ごしてきた。
ふれあう指さきも、ぬくもりも、かわしあう視線も。
全部、互いだけのものだとわかっていた、信じていた。
なのに、一つの切っ掛けで離れていってしまった二人。いがみ合って傷つけあい、憎しみに似た瞳で互いを見るようになった。
世界中の誰よりも愚かな子供だった、私たち。
ううん、違う。子供だったのは私だ。
何度も手をさしのべようとした彼を、意固地に拒絶しつづけた私。
ぽろぽろと涙がこぼれた。我慢しようと思っても、涙があふれ零れてしまう。
それでも、総司は涙に濡れた瞳で、土方を見上げた。
ぼやけた視界に、こちらを見つめる男が映る。
世界中の誰よりも大切な、愛しい彼が。
「土方、さん……」
……そう。
今ならわかる。
私たちは、私と土方さんは。
秘密の恋人だった……。