斉藤は背筋が寒くなる思いで唇を噛みしめた。


(総司も、とんでもない男に狙われたものだ)


 そう思ったが、事ここに至ってはどうしようもない。
 だいたい、土方が総司に抱く感情は複雑すぎて、斉藤には到底理解しがたいものだった。ただ、これだけはわかる。
 土方は今、総司を己のもとへ引き寄せるため、少しずつ周囲を固めていっているのだ。地ならしをしているのだろう、着実に。
 それが吉と出るか凶と出るかはいざしらず、総司の意思がそこにない事は確かだった。それが斉藤には納得できない。斉藤にとって、総司は片恋の相手である以上に、誰よりも幸せを願う相手だった。凛とした雰囲気を纏いながら、可憐で愛らしくて、時折やんちゃな子猫のような無邪気さと気ままさを見せる総司は、誰の心も惹きつける花のような若者だ。
 斉藤は、その総司の幸せを心から願っていた。この男との事も、総司が幸せであるならと思ってはいたが、どう考えても一方的すぎるし強引だ。それが総司の幸せにつながるのかどうか、斉藤も判断がつかなかった。


 ため息をついて部屋を出ていった斉藤を見送ることなく、土方は文机に向き直った。
 山積みになった書類を裁きながら、ふと考える。


(逃さない、か)


 難しいことだとわかってはいた。
 何しろ、相手はあの総司なのだ。気まぐれな子猫のような若者。土方自身、何度手を焼かされたかわかったものではない。
 だが、それでも。欲しいものは欲しいのだ。手に入れたくてたまらないのだ。
 その狂気じみた執着、独占欲を否定しようとは思わない。ましてや抑えるつもりなど毛頭ない。千載一遇の機会をあたえられて、それを生かさない奴がいるだろうか。
 それに、何よりも。

 土方は目を伏せた。


 総司をもう……泣かせたくなかった。
 この腕の中でこぼれた綺麗な涙を、今も覚えている。忘れられるはずがない。
 あの時聞いた切ない声も、自分の着物を掴んでいた細い指さきも、震える唇も、何もかもが愛しくて愛しくてたまらなかった。
 幸せにしてやりたいと思ったのだ。


 存在さえもわからぬ神に――祈るほど。
 
 
 
 
 







 ゆっくりとした時が流れていた。
 土方が過ごす公の副長室は常に張り詰めている。だが、今朝は違った。
 朝餉を終えた後、総司は土方に頼まれ仕事を副長室で手伝っていた。書類を分けていく簡単だが、少し時のかかる仕事だ。
 土方が書類に目を通す傍らで、総司は端座して丁寧な手付きで仕分けていた。二人の距離は近い。出来上がったものを渡すのに丁度よい近さだったが、以前ならもっと離れた処に座っていたはずだった。何よりも、こんな穏やかで優しい雰囲気の中で過ごすことはなかっただろう。


(それもこれも全部、私のため? それとも、土方さんの?)


 おそらく二人ともなのだろう。
 土方の態度が軟化したことも、それに対して総司の心が動かされたことも。
「……」
 ふと視線を感じて顔をあげれば、土方がこちらを見ていた。濡れたような黒い瞳に見つめられ、どきどきする。
 頬が熱くなるのを感じながら、総司は慌てて顔を伏せた。そこへ、障子の外から訪いの声がかけられる。
「山崎です、よろしいでしょうか」
「あぁ」
 障子が開き、山崎が入ってきた。総司が副長室にいることに驚くどころか、当たり前のように一礼し、土方に対して報告を始める。
 それを見ながら、なんかなぁと思った。
 最近、誰も彼もが、総司が土方の傍にいることを当たり前のように扱ってくるのだ。当然のことなのだと、思っている節がある。
 ただ声を大にして言いたいことは、総司自身が行動したゆえではないのだ。土方がやたらめったら呼んでくるから、それも仕事絡みだから、一緒にいざるを得ないのだ。


(そう言っても誰も納得してくれないんだけど)


 総司の主張を聞いた時、皆がうかべた生温かい笑みを思い出し、ちょっとイラッとした。
 何だか、自分だけが置いてけぼりを食らっている気がするのだ。皆が皆、知っていることを、自分だけが知らない、気づいていない。そんな気がして、総司は最近、機嫌が悪かった。
 それに気づいているのかいないのか、土方は今日も総司を呼びつけてくる。ますます総司のイラッはヒートアップした。
 山崎が出ていった後、総司は言った。
「これ、終わりました」
「そうか」
「じゃあ、私はこれで……」
「この後すぐ昼餉だろう。おまえもここで」
「お断りします」
 きっぱりすっぱり言い切った総司に、土方はちょっと目を見開いた。それから、にやりと唇の片端だけで笑う。器用な男だ。しかも、やっぱり格好いいから腹がたつ。
「何を怒っているんだ。ここで食べた方が楽だろうが」
「楽とかそういう事じゃないのです。私の意思です」
「ほう、広間で食べるのがおまえの意思か。効率的じゃねぇな」
「昼からここに戻ってこないなら、効率的じゃないですか」
「昼からは黒谷へ行くから、護衛だ」
「……」
「ほら、ここで食べるほうが効率的だろ」
「……」
 ぎゅっと唇を噛みしめた。いつもなら黙って従っていたかもしれない。だが、しかし! 総司のイラッはピークに達していた。突然の土方の態度の変化も、皆の反応も、腑に落ちないことばかりでそれに振り回されている自分が情けなくて。
「いい加減にして下さい」
 総司は大きな瞳で、きっと土方を睨んだ。
「私はあなたの思い通りになる駒でも人形でもない。意思というものがあるから」
「え」
 その言葉に、逆に土方は驚いたようだった。え? 俺がいつおまえを人形扱いした? という顔になっている。
 それに、ますますイライラッとしながら、言葉をつづけた。
「何で、いつもいつも勝手に私の行動や意思を決めつけるの。命令するの。私、あなたに従うなんて言っていないし、あなたのこと好きじゃないし、好きどころか、だ、だいっ嫌いだしッ」
「……」
「だいっ嫌い、一緒にいるのも嫌」
「……」
 押し黙ってしまった土方に、総司は少し怖くなった。形のよい眉を顰めて沈黙している男は、以前の彼のようだ。あの侮蔑にみちた冷たいまなざしを向けてきた……
「……そうか」
 ふ、と、土方が息を吐いた。静かな低い声だ。
「おまえは俺が嫌いか」
「……」
「だが……生憎、俺には関係ねぇな」
「!」
 驚いて凝視してしまった。まさか、関係ないなどと言われるとは思っていなかったのだ。
 ずきりと胸奥が痛む。嫌いと言ったのは自分だ、こっちが悪い事もわかっている。なのに、どうして、深く傷ついた。
 思わず、震える声で呟いてしまった。
「関係ないって。私のことなんて、土方さんには関係ない……」
「は?」
 土方は唖然とした顔で総司を見た。
 それに、総司は叫んだ。
「そんなの酷いッ!」
「……」
「嫌いとか言ったのは私だけど、今までさんざん振り回してきたのは土方さんなのに、今更関係ないなんて! 酷すぎます……ッ」
「総司」
 深々と、ため息をつかれた。
「おまえ、俺の話……全然聞いてねぇな。いや、聞いていても理解していない」
「ちゃんと理解しています」
「いや、理解していない。俺が言った関係ないは、おまえが俺のことを嫌いだろうが関係ないの、関係ないだ」
 まるで早口言葉のような感じで、土方はさらりと言った。
 が、総司はその前で目を丸くしたまま固まっていた。というか、「関係ない」が何度も繰り返されたせいで、ますます頭がこんぐらがってしまったのだ。
「……え、えーと……?」
「……」
 土方は頭が痛くなる気がした。
 もともと総司はとても利発で聡明な若者だ。だが、一方で、早とちりな所があるし、思い込みも激しかった。今までも会話の途中で話がこんぐらがって、喧嘩になったことは多々あったのだ。
 そうならないためには、感情に流されない事だった。とにかく冷静にだ。
 ここは落ち着け、俺と、土方は深呼吸した。怒ったら負けなのだ。
「俺の言い方が悪かったな。つまり、俺は、おまえが俺のことをどう思っていようが関係なく、これからもおまえを傍に寄せ続けると言いたかったんだ」
「………………ああ! そういう事ですか!」
 長い沈黙の後、ようやく理解した総司はぽんと手のひらを打った。ほっとしたようで笑顔になっている。
「やっとわかりました。安心しました」
「そうか、それはよかった」
「じゃ、えーと、あ、昼餉の話でしたね。ご飯、ここで食べられるのですか? 私、自分の分も一緒にとってきます」
「……あぁ、すまんな。頼む」
「はい」
 素直にこくりと頷いて、総司は敏捷な動きで部屋から出ていった。それを見送った土方は腕組みをして唸ってしまった。
「あいつ、頭がいいのか悪いのか、さっぱりわからねぇな」
 喧嘩腰になっていたはずなのに、その原因が昼餉の事だったはずなのに、今の総司は完全に忘れてしまっていた。それどころか、自分からいそいそと昼餉を取りに行ったのだ。
「しかし……だいっ嫌い、か」
 苦々しく呟いた。


 わかっていた事とはいえ、やはり応えた。可愛い、愛おしいと思っている相手からの刃だ。負わされた傷は深い。
 これが他の誰からの言葉であっても、まったく応えないだろう。それどころか、冷笑してみせられる自信がある。だが、総司はだめなのだ。総司にだけは手もなく感情を揺さぶられてしまう。
 総司はあぁ言っていたが、振り回されているのは完全に己の方だった。総司の笑顔に、行動に、言葉に、一喜一憂してしまう自分が抑えられない。
 むろん、総司のためなら何だって出来るし、振り回されるのも本望だ。いや、振り回されたいからこそ、傍に置いていると言ってもいい。そんな事を言えば、近藤あたりから半目で眺められるだろうから、絶対に言わないが。
 しかし、傍に置いている状態に、総司はかなり苛立っていた。その結果、あの「だいっ嫌い」発言になったのだろうが。


「どうしたものかな」
 文机に寄りかかり、考え込んだ。
 この場合、総司を傍に寄せないという選択肢は初めから無い。土方にとって、今の状況は千載一遇の機会なのだ。誰が逃がすかよと舌なめずりするぐらいだった。
 総司をこれ以上苛立たせず、なんとかして己の手元に引き寄せたい。否、この腕の中に囲い込んでしまいたいのだ。
 土方は己の想いに沈みながら、ゆっくりと目を細めた。












「……え」
 総司は目を見開いた。
 今、とんでもない事を聞いた気がしたのだ。
 ぱちぱちと目を瞬き、前に立つ友人を見上げた。斉藤は酸っぱいものでも食べたような顔になっている。というか、「あ、間違った」の顔だろうか。
「なんか、今……びっくりーなを聞いた気がするんですけど」
「気がするんじゃなくて、実際そうなんだが」
 斉藤はうーんと唸ってから、「仕方ないか」と呟いた。それを総司はぼんやりと見つめた。
 そこは、屯所の渡り廊下だった。黒谷行きの護衛から戻ってきた土方はそのまま局長室へ向かい、総司は彼と別れて自室へ帰る最中だった。そこで逢った斉藤に声をかけられ、外出の理由を話したとたん、苦々しい顔をされたのだ。
「最近、総司は土方さんと一緒のこと多いな」
「そうですけど、私が望んだ事じゃないですよ」
「けど、拒絶もしていないだろう? やっぱり、里で一緒に過ごしたからか?」
「それは……」
 総司は小首をかしげた。
 確かに里で一緒に過ごしたからか、土方に対して当たりも弱くなっていたのだ。前の総司ならどんなに強引に命じられても断っていただろう。否、それ以前に、土方があんな優しい笑顔で声をかけてくるなど、ありえなかった……。
「確かに、そうかもしれませんね。一緒に記憶を失って過ごしていたんですから、共感するというか何というか」
「共感って。土方さん、記憶あったのに」
「……え」
 呆然と、斉藤を見上げた。
 何が何だかわからなかった。記憶があったとは、いったいどういう事なのか。


 誰が、何が。
 記憶って……?


 ぼんやりしている総司の前で、斉藤は覚悟を決めたようで言葉をつづけた。
「つまりさ、土方さんは記憶があったんだよ。総司にあわせて記憶がないふりをしていただけだ」
「……」
「こっちに戻ってからもおかしいと思わなかったか? 土方さんの名だよ。隼人って、土方家当主の名だろ?」
「そう…です、けど。え……えっ?」
 ようやく事態が呑み込めた総司は、かっと目を見開いた。
「あの人、土方さん、私を騙していたのっ? 嘘ついていた訳!?」
「!」
 今頃になって、斉藤が慌てた。
「あのさ、土方さんにもいろいろと事情が……(などなど)」
 土方を擁護しようとしていたが、そんな事知ったこっちゃないし、もはや聞こえない。
 わなわな震える手を握りしめた。


 冗談ではない!
 彼は自分を騙したのだ。この、新選組一番組長沖田総司を!
 そんなこと許せると思いますか?


「許せる訳ないでしょ!」
 一声叫んだ総司は、くるりと向きを変えた。