「熱はないようだが……無理をさせて悪かったな」
「え」
「遅めまで休んでいていいぞ」
 そう言うと、土方は再び歩き出した。それをぼうっと見送ってしまったが、はっと我に返り慌てて追いかけた。












 実際のところ、お言葉に甘えて寝坊しようと思っていたのだ。
 だが、習性とは恐ろしいもので、しっかりいつもどおり起きてしまった総司は、当然ながら寝不足で欠伸ばかりしてしまう。
 猫なら、ふにゃあと鳴きたい気分で朝餉をとるため広間に向かって歩いていると、後ろから腕を掴まれた。
 驚いてふり返れば、土方が不機嫌そうな表情で立っている。
「あ……おはようございます」
「……おまえは、まったく」
「え」
「遅めまで休んでいろと言っただろうが」
 そのまま腕を引かれ、どこかへ連れていかれる。どんどん遠ざかってゆく広間と呆気にとられた顔の斎藤に、(あ、朝ごはん)と思ったが、土方の迫力におされるかたちで何も言えなかった。
 何よりも、寝不足のためか、頭がぼうっとしていたのだ。
 いつのまにか、土方の腕に肩を抱かれるようになっていたが、それに隊士たちが唖然としていたが、全く気づくことなく総司は小さく彼の名を呼んだ。
 
「土方さん」
「何だ」
「……呼んでみただけ」
 そう言ってくすくす笑う総司を、土方は呆れたように見下ろした。
 軽く舌打ちする。
「そんな事言ってる場合じゃねぇだろうが」
「……」
「ほら、着いた。さっさと寝ろ」
 土方が連れてきたのは、なぜか、副長室だった。公の方だ。その隣室に彼自ら布団を敷いてくれる。ぼーっとそれら一連の行動を見ていた総司は、小首をかしげた。
「どうして、ここなのですか」
「寝ぼけていても、場所はわかるか」
「わかりますよ! じゃなくて、何でここなのです」
「放っておいたら、また仕事をしだすだろうが。無理して倒れられたら困る」
「倒れませんよ」
「嘘つけ。今もふらふらしているくせに」
「ふらふらなんて、していませ」
 言いかけたとたん、とんっと肩を押された。それ程強い力でもないのに、ぺたりと布団の上へ座り込んでしまう。
 土方は唇の片端をあげた。
「ほらみろ、ふらふらだろうが」
「……っ」
「おとなしく寝てろ」
 強引な言い方に唇を尖らせた。それに布団の上に片膝をついた土方が覗き込み、喉奥で笑う。間近で見せられた男らしい笑い方に、どきりとした。
 くしゃりと髪をかき上げられた。
「おまえが体調を崩したのは、俺のせいだ。だから、これぐらいはさせてくれ」
「土方、さん」
「今日はゆっくり休め」
 そう言って土方は立ち上がった。部屋を出ていく男の背をぼんやり見送った。
 襖が静かに閉じられてから、総司はころんと布団の上に転がった。子供のように躰を丸めた。
「……」
 隣室で土方が仕事をしている気配がする。時折、墨をする音や書類をめくる音がした。それが不思議と心地よく、眠りを誘う。
 ゆらゆら揺れるような意識を感じながら、総司はゆっくりと目を閉じた。
 とても深い安堵感とともに。












 最近、総司は、あれこれ考える事が多くなった。
 否、あれこれではない。彼のことばかりだ。
 おかしいなぁと思うのだ。どうして、こんなに逢う事が多いのか、声を掛けられることが多いのか、まるで仲の良い友人のように話しかけられ、自分も普通に会話しているこの奇妙な感じに、幾度も戸惑ってしまう。
 あんなに苦手だったのに。今でも、苦手で嫌いなはずなのに……たぶん。
 あの一夜から、土方との距離がとても近くなった。
 色々と用事を言いつけられたりすることが多くなったのだ。用事というより、護衛とか、仕事の手伝いとか。どれも全部、公務のことなのでさすがに断れない。
 しかも、忙しい時や非番の時なら断れるのに、ちょうど手があいた時を見計らったように声をかけてくる。……たぶん、見計らっているのだろう。
 今もそうだった。


「何だ、用事でもあったのか」
 黒谷からの帰り道、屯所への道を辿りながら土方が総司を見下ろした。それに、言葉を返す。
「別にありません」
「なら、いいだろう。寄り道ぐらい」
「いつもそんな事をなさらないでしょう? 規律に厳しい副長は」
 ちくりと刺した総司に、土方は笑いながら答えた。
「結構やるぜ、規律に厳しい副長でも」
「……」
「あぁ、ここだ」
 土方が誘ったのは、小さな茶店だった。茶店というか、いかにも甘味処という感じのお店だ。
 こんなところに彼が入って口に出来るものがあるのかなと思ったが、総司は黙って後に続いた。
 店は小さいが、周囲が樹木や花々に囲まれている事もあり、とても居心地がよかった。瑞々しい緑や花が風にふわりと揺れる中、綺麗に磨かれた縁台に腰かける。
 まるで恋人同士のように並んで腰掛けたことに、後から気づいたが、総司は場所を移ろうとは思わなかった。肩がふれあいそうでふれない距離感が心地よい。
「何にする?」
「そうですね、あ、お団子……おいしそう」
「じゃあ、それにしろ」
「土方さんは?」
「茶だけでいい」
「やっぱり」
 笑うと、土方が切れの長い目で総司を見下ろした。
「何がやっぱりだ」
「ここ甘味処だから、土方さんが食べれられるものないだろうなぁと思っていたから」
「あぁ、まぁ……そうだな」
「わかっていたのに、どうして入ったのですか?」
「おまえが好きだろうと思ったから」
「……」
 あっさり返された答えに、目を見開いた。呆気にとられていると、そこへ茶店の娘がお団子と茶を運んでくる。
 お団子は思ったとおり、とても美味しかった。ほのかな甘味と程よい柔らかさで、いくらでも食べてしまえそうだ。
 総司がお団子を食べている隣で、土方は黙ったまま湯呑を口元に運んでいた。時折、総司の方を見ているらしく、視線を感じる。
 それに視線を返した。
「……? 何ですか」
「いや、何も」
「何もって、じっと見ていたでしょ。あ、お団子……食べます?」
 差し出されたお団子に、土方は小さく苦笑した。
「いらねぇよ。俺は甘いものは苦手だ」
「ですよねー」
「わかっているなら勧めるな」
「わかっていましたけど、まあ、一応」
 総司はこっくり頷いてから、お団子を頬張った。もぐもぐ、ごっくんと食べてから、小首をかしげる。
「こんなに美味しいのに、どうして苦手なのかな」
「好みなんざ、人それぞれだろ」
「あー、なるほど」
 彼の言う通りだと思った。
 誰にでもだいたい好かれる総司が、どうしてか、土方に嫌われていることも、しごく当然のことなのだろう。人の好みはそれぞれなのだから。
 総司自身、彼のことは好きでも嫌いでもないから、どうでもいいが……って、いや、違う。
 嫌いなはずだ、彼のこと。


(だいきらい)


 ぽつりと心の中で呟いて、とたん、つきりと痛んだ胸に首をかしげた。
 切なさと、仄かな罪悪感がわきおこったのだ。
 それに戸惑いつつ、総司は土方を見上げた。
 ぼんやりと視線を緑へ投げている男の横顔。さらりと風にゆれる黒髪、形のよい眉に、眦の切れ上がった目。黒目がちな瞳は黒曜石のようで、形のよい唇はいつもより優しげだ。


(この人って、本当に綺麗)


 総司も可愛いとか綺麗だとか言われたことが多々あるが、彼の場合は違った美しさを備えていた。
 容姿の端麗さだけではない、完成された男の逞しい体躯、佇まい、所作、その身にまとう凛とした雰囲気まで、すべてが美しかった。思わず見惚れてしまうほどだ。


(黒が似合う、よね)


 この間、着ていた着物もよく似合っていたなぁなどと、のんびり考えていると、不意に土方がこちらを見た。ばちっと視線があってしまう。
「……っ」
「何だ」
「く、黒が似合うなぁと思って」
「は?」
 唖然とする彼を見ながら、内心赤面した。何を言っているの、自分! である。
 慌てて口早につづけた。
「土方さん、黒い着物とか小物がとても似合うなぁと思ったのです。それだけ、なのです」
「それだけって……」
「それだけ、なのです」
 断言する総司に、土方は呆れた表情になった。しばらく奇妙なものを見るように総司を眺めていたが、やがて、微かに苦笑した。
「……本当に突拍子ねぇな」
「……」
「まぁいい。おまえがそう思うなら、今度、着物でも見たててくれよ」
「えっ、な、なな何で私がっ」
「いいか、頼んだぞ」
 そう言い切ると、土方は銭を置いて立ち上がった。両刀を差している姿に、また見惚れてしまう。彼の大きな手が刀を掴み、無造作に差し込む一連の動きが格好よくて、どきどきしたのだ。
 が、こちらを見下ろした彼の表情に、慌てて総司も立ち上がった。店を出て銭を払おうとしたが、当然のように断られてしまう。
「誘ったのは、俺だ」
「ありがとうございます」
「礼を言われるようなものじゃねぇよ」
 そう言ってさっさと歩き出す土方に、慌てて従った。
 屯所への道をたどる二人の頭上に、青い空が広がっていた。













「なんか、不機嫌だな」
 そう言われ、総司は顔をあげた。
 見れば、斉藤が井戸から水を汲み上げている処だった。こちらを見ぬまま言葉をつづける。
「気持ちが苛立っているだろう」
「そうですか。別に稽古の時も変わらなかったと思いますけど」
「変わっていたよ。なんか、苛立っている」
「皆に悪い事しましたか」
「それはないけど、でも、何かあったのか」
 訊ねてくる斉藤に、総司は唇を噛んだ。


 あったと言えばあるし、ないと言えばない。


 黙り込んでいると、斉藤が言った。
「土方さんのこと、だろ」
「わかります? やっぱり」
「原因はわかるけど、でも、苛立つことか?」
 それに、総司は俯いた。


 確かに、苛立つことではないのだ。
 どちらかと言えば、戸惑っているのだろう。
 土方の言動に、その言動に振り回されつつ従ってしまう自分に。
 だいきらいだったはずなのに、今も嫌いで苦手なはずなのに、どうしてか彼を目で追ってしまう、こちらに視線を投げられると見返してしまう、笑顔にどきどきしてしまう。
 苛立っているのは、たぶん、自分自身にだった。


「最近、伊東先生とあまり一緒にいないんだな」
「え」
「前はいつも一緒にいただろう。行方知れずになる前」
「そうですね……」
 山南の切腹の後、伊東の傍にいることがとても増えた。土方と顔をあわせれば諍いばかりで疲れ果てて、伊東の懐に逃げ込んだのだ。伊東もまた、総司を拒むことなく受け入れてくれた、ごく自然に。
 総司は、ふと呟いた。
「そう言えば……とても酷い状態だったんだ」


 酷い状態だなどと言うものではない。
 犬猿の仲どころか、憎しみあうような関係だった。
 山南の切腹は、二人の関係を完全に断ち切ったのだ。介錯を命じられ、それでも助命を嘆願した総司と、それを冷徹に切り捨てた土方の関係が、それ以前のままであるはずがなかった。
 犬猿の仲と言われながらも、なんだかんだ言って口喧嘩で済んでいた二人の関係が、最悪なものになったのだ。
 なのに、どうしてだろう。
 二人して行方不明になって戻ってきてから、完全に忘れていた。むろん、山南の死や経緯を忘れたわけではない。ただ、彼への感情、関係性を忘れていたのだ。
 江戸の頃のような関係に戻っていた。
 そして、今も、心のどこを探しても、あの時のような感情はない。氷を抱くような絶望と切なさ、苦しさがないのだ。


「私、なんであんなに意固地になっていたのだろう」
 斉藤と別れ、部屋に戻りながら手を握りしめた。
 どうしても理解できないのだ。己の感情なのに、理解できない。
 なぜ、あそこまで彼に抗ったのか、彼を憎んだのか。
「憎む……?」
 小さく呟いて、はっとした。
 そこまでの感情を抱いていたのかと、衝撃を受けたのだ。
 嫌いどころではない、憎んでいた男。
 ほとんど殺意を覚えるような激しい憎しみを抱いていたこと、それ自体が衝撃だった。恐ろしかった。
「私……」
 体が震えた。思わず両手で己の体を抱きしめてしまう。
 とたん、肩に手がおかれ、思わず飛び上がった。慌てて振り返れば、びっくりした顔の土方がそこに立っていた。
「な、ななな何ですか! いきなりっ」
「いや、すまん。なんか気分が悪そうだったから」
「だったら、先に声かけて下さい!」
 きゃんきゃん叫んでから、総司はハッと我に返った。


 そうだ、自分はこの人を憎んでいたのだ。
 そして、その事自体に衝撃を受けていたのだ。


 思わず唇を噛んでしまった総司に、土方を眉を顰めた。身をかがめ、覗き込んでくる。
「どうした、やっぱり気分が悪いのか」
「土方さんは」
「?」
「何故、私に構うのです」
 この際だ、はっきり聞いてやろうと思った。
 あんなに憎んでいた彼、そして、彼も自分を憎んでいたはずだった。
 今も覚えているのだ、あの頃、向けられた冷たいまなざし。侮蔑するような冷笑。それは今、目の前に立っている土方からは想像もつかぬ表情だった。
「最近、土方さんは私ばかり重用しているでしょう。護衛とか色々。何でなのです」
 たぶん、彼ははぐらかすだろうと思った。策士である土方がこういった問いかけに答えぬ事は当然なのだ。
 ちょっと覚悟しながら聞いた総司を、土方は見下ろした。
「そうだな」
 腕組みしながら、微かに笑った。その表情を見て思う。ほら、やっぱりはぐらかすんだ。
 ぐっと両手を握りしめた。
「はぐらかさないで、ちゃんと答え」
「俺がおまえを傍におきたい、おまえに傍にいて欲しいから」
「…………は?」
 あっさり返ってきた答えに、目を瞬いた。