接吻でもするように身をかがめる男に、総司は目を見開いた。
 びっくりしたあまり、何も言えないし何もできない。逃げればいいのに、全く躰が動かないのだ。
 そんな総司に、土方はゆっくりと顔を近づけた。
 じっと見つめてから、ぽんっと手に何かを持たせた。見下ろせば、菓子を握らされている。
「……何です、これ」
「忘れ物。おまえ、好きだろ、その菓子」
「…………」
「じゃあな、早めに食えよ」
 それだけ言うと、あっさり土方は身を離した。総司の傍をすり抜けるようにして、縁側に出ていく。
 副長室へ向かうのか、そのまま遠ざかってゆく男の背を見送った総司は、やがて、ふるふると震えた。


「やっぱり、全部忘れたい!」


 叫びは青空に消えた。











 断固として、あの黒歴史は忘れるべきなのだ!
 でなければ、これからも彼に翻弄される日々がつづいてしまう。
 彼に対していま一つ以前のような冷たい態度をとることが出来ないのは、どう考えても、あの里での日々が影響していた。
 あの糖度凝縮な甘々の日々が記憶にあるから、あの人を見て、格好いいなんて思ってしまうのだ。絶対絶対間違っているのに! きぃぃーっ!


「あああ、記憶って面倒―ッ」
 総司は頭をかきむしりたい気分で叫んだ。
 ちなみに、ここは一人部屋ではない。隊士たちのたまり場でもある部屋だ。そうであるからして、当然のことながら周囲は隊士たちがたくさんいた。
 平隊士たちはびっくりしたような顔で見ているが、総司の周囲にいる原田や斎藤など、大幹部たちはさして驚いてはいない。江戸からのつきあいなので、総司の本当の性格的なものはよく把握しているのだ。
「面倒って、何か忘れたいわけ?」
 パリパリと煎餅をかじりながら、原田がのんびりと聞いた。それに、総司がきっと顔をあげる。
「決まっているでしょう! 例の里にいた時の記憶ですっ」
「あーそれ聞いた聞いた。隼人さーん、小鳥って呼び合って、仲良く暮らしていたんだってぇ?」
「……」
「あの二人が! 新撰組副長と一番隊組長が! マジ笑えるんだけどー」
 言葉どおりギャハハハと笑う原田に、総司が細い目になった。その冷気を見てとった斎藤が慌てて口出しをする。
「前も聞いたけどさ、そんなに嫌だったわけ? 実は喧嘩ばかりだったとか?」
「違いますよ。いえ、むしろその方が良かったかも」
「なんで、喧嘩するより仲良い方がいいだろ」
「色々と私にも事情ってのがあるんです」
 まさか、仲良くしていたせいで今も彼に見とれたりドキドキしたりするなんて、言えるはずがない。総司にだってプライドというものがあるのだ。
 むすっとしていると、原田が言った。
「しかしさー、なんで隼人な訳? 小鳥なわけ?」
「里の人たちが隼みたいな印象だということで、つけたらしいです。私のことも……」
「小鳥、いいじゃん。可愛いねー」
「…………」
「隼と小鳥って似合いだし。いや、小鳥だと食べられちゃうか。あ、それって事実と通じてる?」
「?」
 不思議そうなに総司は小首をかしげた。
 まったく意味がわからなかったのだ。
「食べるって、何をですか」
「だから、総司をだよ。土方さんが総司をた……」
「はははは原田さんッ」
 完全に裏返った声で斎藤が遮った。きょとんとしている総司の前で、原田の口をふうじる。後ろから、永倉が絶妙な間合いでパシンと原田の頭を小突いた。
「いってぇー、新八ちゃんひどいなぁ」
「酷くない。総司にそんな事言ったと知れてみろ、大変な事になるぞ」
「えー、そう? 逆に感謝されるんじゃね?」
「???」
 きょとんとしている総司の前で、斎藤はコホンと咳払いした。それから、問いかける。
「で、総司はこれから土方さんと仲良くするつもりはない訳?」
「ありませんッ!」
 一刀両断ですっぱり言い切った。
 ぶんぶんと首をふりながら、両手まで振る。
「絶対にごめんですよ。仲良くなんて出来るはずないでしょ」
「あれれ? 総司、仲良くしたいんだー」
「そうじゃなくてっ。だいたい、土方さんも望んでいないはずですし、会話が成り立ちませんよ」
「会話? 里にいた時みたいにやればいいじゃないか」
「だーかーら、あの時とは違うのです」
「どこが」
「全部ですっ」
 断言する総司に、斎藤は不思議そうに首をかしげた。それに、唇を尖らせてしまう。
 なんでこうも皆、自分の気持ちを理解してくれないのか。今までさんざん罵り合ってきた男と、いきなり仲良くなんて出来るはずがないのだ。二度と会いたくないぐらいなのに。


 そうだ!
 逢わなければいいんだ!
 あの人に逢わなければ今の状況もなんとかできるはず……


「んな事できるはずないじゃんー。副長と会わないで一番隊組長の役目どうやってやるの」
「……ですよね」
 がっくりする思いで、総司ははぁっとため息をついた。立ち上がると、とぼとぼと広間を出てゆく。
 それを見送った永倉が呟いた。
「あれは……土方さんも前途多難だな」
「そうですね。いったいどう対処するつもりなのか……まぁ、ある意味自業自得ですけど」
「さすが、片恋しているはじめちゃんは、厳しいねぇ」
「余計なお世話です」
 面白そうに笑った原田は、半目になる斎藤に肩をすくめると、ばりばり煎餅を齧ったのだった。












 一方、彼らの会話など知るよしもない総司は、自室に戻る途中である男と行き合っていた。
 慌てて頭を下げた。
「……伊東先生」
 廊下の向こうから歩いてきた伊東は、総司を認めると少し驚いたように目を見開いた。
「総司、もう大丈夫なのですか」
「え」
「いや、体調が悪かったと聞いていたのですが」
「あー、はい、確かに」
 こくこくと頷いた総司に、伊東は尚更心配げな表情になった。額に手をあててくる。
「熱はありませんね」
「はい、大丈夫です。伊東先生もお元気でしたか?」
「元気というか、きみが行方知れずになっていた間、私が心配していたとは思わないのですか」
「すみません……ご心配おかけしました?」
 大きな瞳で見上げると、伊東は苦笑した。総司の頭に手をのせると、柔らかく撫でてくる。
 いつも思うことだが、彼は自分を猫か子供のように思っているのではないだろうか。そんな感じがついしてしまうのだ。
「それはとても心配しましたよ。どこで迷子になっているのだろうと」
「迷子って……」
「まぁ、土方君と一緒だとわかって、安堵しましたが」
「どうして安堵?」
 ちょっと唇を尖らせてしまった。
「あの人と一緒なら安堵って、おかしくありません? 喧嘩ばっかりで大変と思われなかったのですか?」
「……思いませんよ」
 少し複雑な表情で、伊東は答えた。鳶色の瞳でどこか探るように総司を見つめる。それを訝しく思って見返せば、くすりと笑われた。
 それに、目を見開く。
「何ですか」
「いや、また拗らせているなと」
「??? 意味がわからないのですが」
「わからなければいいのです」
 伊東は微かに笑いながら、今度は、総司の頭をぽんぽんと軽く叩いた。それから、さっさと歩み去ってゆく。
 それを見送り、総司は小首をかしげた。














 しばらくの間、日々は平穏に過ぎていった。
 新撰組にとってではない、総司にとってはだ。
 むろん、何度も土方とは顔をあわせた。何しろ同じ建物に住んでいるのだ、全く逢わないという訳にはいかない。
 打ち合わせはもちろん、廊下や広間でもよくすれ違った。故意じゃないの? と聞きたくなるぐらい、やたら遭遇率が高かった。
 総司は当然ながら出来る限り回避しようとした。彼の姿を遠目に見るなりクルリと方向転換し、逃げ出したのだ。が、無駄だった。
 あっという間に追いついた土方に、つかまえられまくったのだ。一度などは猫のように首ねっこを掴まれた。
「な、ななな何をするんですッ」
 裏返った声で叫んだ総司に、土方は肩をすくめた。
「何って、おまえを捕まえている」
「これが一番隊組長にすることですか! 子供か猫みたいにっ」
「似たようなもんだろうが」
「はぁ!? 私が子供だと猫だと言いたいんですかっ?」
 首ねっこを掴まれたまま睨みつけるが、今ひとつ迫力がない。彼の手をぱしんと叩けば、ようやく離してもらえた。
 乱れてしまった襟元を整えようとすると、しなやかな指さきがのびた。びっくりして見下ろした総司の視界に、真剣な顔で襟元を整える彼の表情が間近に入ってくる。


(あ、睫毛長い……)


 なんてことない事を思ってしまった。ぼーっと見惚れる。
 土方は僅かに目を伏せるようにして、総司の襟元を整えていた。しなやかな指先が袷を引き、柔らかく整えてゆく。こんな事をするなら初めから首ねっこ掴むなんてやらなきゃいいのにと思うが、ものすごく真剣な表情で作業している彼を見ると、何も言えなくなってしまう。
 黙り込んでいる総司に、土方は一歩後ろへ下がって確かめると、満足したように頷いた。
「よし、これでいいか」
「……一応、ありがとうございますと言っておきます」
「いや、俺も悪かった。すまん」
 あっさり告げられた謝意に、目を見開いた。
 まさかまさか、彼がこの自分に謝るとは! 天地がひっくり返ってもありえない状況に戸惑ってしまう。
 もしかして、この人は別人? 土方さんの顔をした別人だろうかと、思わずマジマジ凝視してしまった。それに、土方が眉を顰める。
「何だ」
「いえ、本当に土方さんなのかなぁと」
「は?」
「謝られるとは思わなかったので」
「……おまえの中で、俺という人間の認識はどうなっているんだ」
「認識ですか? えーと」
 小首をかしげた。
「そうですね。冷徹で容赦なくて俺様で自分勝手で女好きで遊び好きで、この世の中は自分を中心に回っていると本気で信じている人……ですか」
 指折り数えて言った総司に、土方は渋面になった。しばらく黙った後、呟く。
「ひでぇ認識だな」
「そうですか。的確だと思いますが」
「おまえには遠慮とか躊躇いってものがねぇのか」
「ないです。どうしてそんな無駄な事しなくちゃいけないのです」
「…………」
 土方は、はぁとため息をつくと踵を返した。さっさと歩み去ろうとする。それに慌てて声をかけた。
「何か用があったんじゃないのですか」
「ねぇよ」
「ないのに、追いかけたんですか」
「総司」
 不意に呼びかけられた。見れば、土方がこちらを振り向き、黒い瞳でまっすぐ見つめている。
 形のよい唇の端がつりあがった。それに戸惑う。
「な、何ですか」
「いいか? 覚えておけよ」
「え」
「男ってのは、逃げるものを追いたくなる習性があるんだ。追いかけられたくなきゃ逃げねぇ事だな」
「で、でも、それじゃすぐに捕まるでしょ」
「それもそうか」
 くすっと笑い、土方は身をひるがえした。歩み去ってゆく彼に「土方さん!」と叫べば、背を向けたまま、ひらりと手を振られる。
 そのしなやかな指さきに、藍色の着物が似合う広い背に、思わず見惚れた。
 春の青空に、胸が痛くなった。












 何だか会話増えてない? と気づいたのは、二月ほどたった頃だった。
 昔どおりに総司は土方を避けていたし、なるべく話もしないようにしていた。が、気がつけば、なんだかんだと話しかけてくる土方に、ほだされてしまっている気がする。
 これはあれだろうか。彼も、里での記憶があるから昔通りにいかないって事か。
 まぁ、それは……わかる。
 総司だって、あの「隼人さん」「小鳥」の記憶があるから、色々わたわたしてしまっているのだ。あれさえなければ、心平和に過ごせたはずなのに。
「このままじゃ、困るー」
 総司は打ち合わせ前の広間で、頭を抱え込んだ。それに、隣にいた斎藤が首をかしげる。
「何で、困る訳」
「だって、そうでしょ。私が土方さんと会話しまくっているんですよ。困りますよ」
「だから何で。仲良くていいじゃないか」
「本気で言ってます?」
「いや、隊の平和のためにはいい事だよ」
 斎藤は小さく笑った。
 それに唇を尖らせた。
「斎藤さん、私が土方さんと仲良くした方がいいの?」
「それは、うーん、ちょっと微妙かな」
「? さっき平和のためにはいいって」
「それは建前。けど、本心は仲良くした方がいいとわかっているけど、オレ的には面白くないし」
「面白くない?」
「そ。オレは、土方さんと総司が仲良くしたら面白くない。でもさ」
 斎藤はちょっと真面目な顔になった。
「オレ的には絶対譲れない事があるんだ」
「何ですか」
「おまえの幸せだよ」
 しみじみと言った斎藤に、目を瞬かせた。
「私の……幸せって」
「言葉どおり、オレは本心からそれを願っているんだ」
「そ、それは……ありがとう、ございます?」
「何で疑わしげな訳」
「だって、意味わかんないし」
 斎藤の言葉を翻訳するなら、つまり、土方と総司が仲良くすることが総司の幸せにつながる事になってしまう。
 全然意味がわからなかった!
 あの人と仲良くすることが幸せに直結するなんて、本気で言っているのだろうか?
 むっと黙り込んでいると、不意に頭の上から声が降ってきた。
「斎藤」
 低い声に驚いて顔をあげれば、不機嫌そのもので眉を顰めた土方がこちらを見下ろしていた。斎藤に向かって傲慢に顎をしゃくってみせる。席へ戻れということであろう。
 それは斎藤にも伝わったらしく、「はいはい」と返事をして彼は席へ戻っていった。ぼんやり眺めていれば、土方がさっさと総司の隣に腰を下ろす。
 いや、別に他意はない。そこが打ち合わせの定位置なのだ。つまり、隊内での地位に応じて席順も決まっている。土方の向かい側は伊東で、その隣では二番隊組長の永倉が欠伸をしていた。当然ながら、副長の土方の隣は、一番隊組長の総司であり……


(この席順、どうなんだろう)


 突然、総司は思ってしまった。
 何でこの席順と決まっているのか。これはむしろおかしいのではないだろうか。
 考え込んでいると、近藤が入ってきて席についた。
「では、打ち合わせを始める」
 土方が口を開き、本日の議題について話そうとした瞬間だった。
「はい!」
 勢いよく総司が手をあげた。空気も場も土方の感情も全く読んでいない行動に、皆が呆気にとられる。
 短い沈黙の後、近藤が答えた。
「……あー、その、どうした。そ……沖田君」
 公の場であるため沖田君呼びした近藤に、総司は大きな瞳を向けた。
「よろしいでしょうか、近藤先生」
「うむ」
「私、この席順おかしいと思うのです。例えば、私が副長の隣と決まっていること、変じゃありません?」
「む? つまり、各々自由にと?」
「とりあえず、副長の隣は私の席じゃないと思うのです」
 男の気持ちなど全く斟酌することなく、鬼の副長自身の隣でそう言いきった一番隊組長の勇気(鈍感ぶり)に、全員息を呑んだ。