「隼人さんー!」
 明るい声に振り向けば、一人の愛らしい若者が満面の笑顔でこちらに走ってくる処だった。
 小柄な躰に淡い色合いの着物を纏い、艷やかな黒髪を後ろで一つに束ねた様子は、まるで可憐な少女のようだ。むろん、違うが。
 手にした籠に沢山の野菜が入っている処を見れば、若者を可愛がっている村人がまた野菜を分けてくれたのだろう。
「小鳥」
 そう呼んで微笑んだ彼に、小鳥は駆け寄った。にこにこと笑っている。
 彼が思ったとおりで、「ほら見て」と籠をさし出した。
「また貰っちゃったのです、こんなに!」
「そうか。小鳥は愛想がいいからな」
「隼人さんも、もっと他の人にも笑えばいいのに。愛想よくなりますよ」
「なんか、笑うのに慣れてねぇんだ」
「それっておかしいの」
 くすくす笑いながら、小鳥は家の中へ入っていった。それを見送り、隼人はまた薪割りを始める。
 小さな家だが、小鳥がいつも丁寧に掃除をしているため、庭も家もとても清潔だ。見上げた青空は美しく、春の訪れを感じさせた。


 ……数日前から二人はここで暮らしている。


 村の前でぼーっと立っていた二人に気づいたのは、村の村長だった。
 身なりもよく刀まで持っている様子に、どう見ても侍なのだが、ふたりともまったく記憶がなかったのだ。何を聞いてもわからないと首をふる二人に困惑した村人たちは、とりあえず、空き家と食べ物を提供した。もともと豪農が多く、豊かな実りに恵まれ余裕のある村だったことが幸いした。
 そのため、どこの誰とも知らぬ二人であっても、あたたかく迎え入れてくれたのだ。
 むろん、二人の身なりがよく、また、大変見目がよかったことも理由の一つだった。
 隼のようだと言われ、隼人と呼ばれている男は、役者かと思うほどの男前だった。艷やかな黒髪に、切れの長い目、黒曜石のような瞳が印象的だ。すっと引き締まった口元に、頬から顎にかけての鋭い線。しなやかで長い手足も、引き締まった長身の躰つきも、誰もが惚れ惚れとするほどだった。
 一方、その隼人の対として小鳥と呼ばれている若者も、玲瓏な少女のようだ。柔らかな絹糸のような黒髪に、大きな瞳、ふっくらとした桜色の唇。華奢で小柄な躰はとても可愛く、男の庇護欲をひたすら煽ってくる。
 そんな隼人と小鳥の組み合わせであるため、当初、二人は何処からか逃げてきた念兄弟ではないかと思われた。むろん、今もそれはわからない。ただ、一緒に記憶を失うなど、縁深い相手じゃないかと、小鳥は内心思っていた。
 二人はどうやら村近くの崖から落ちたようだった。あちこち傷は負っていたが、幸いにしてそれほどのものではなかった。否、記憶を失ったことは大変な事だったが。


(でも、今、幸せだし)


 小鳥はこくりと頷いた。
 当初はかなり慌ててしまったが、記憶が戻っても戻らなくてもいいとさえ思っている。この村で隼人という男と二人、のんびり暮らしていくのもいいなぁと考えてしまうのだ。
 隼人との暮らしはとても穏やかで楽しかった。彼はぶっきらぼうな処もあるが、小鳥にはとても優しいし、色々と気遣ってくれる。
 そのため、小鳥は彼に恋心さえ抱きはじめていた。どうやら隼人の方も同じくらしく、挨拶がわりのように、頬や首筋に口づけを落とされたり、その力強い腕で抱きしめてくれたりもする。
 そのたびに、小鳥はどきどきして、頬を上気させてしまうのだ。


(隼人さんって格好いいし、優しいし、本当に好きになっちゃうよね)


 小鳥は頬を緩ませながら、手早く昼飯の支度をした。出来上がると、隼人を呼びに庭へ出る。
「隼人さん」
 駆け寄ろうとした小鳥に、隼人が振り返った。とたん、小鳥の足がもつれた。石でつま先をひっかけてしまったのだ。
「あっ!」
「おい」
 驚いた隼人が慌てて小鳥の腕をひっぱるが、強すぎたらしい。そのまま彼の胸元へ飛び込むような格好になり、勢いで倒れ込んでしまった。
 ごんっと地面に頭を打ちつける。
 二人して。
 その、瞬間。


「…………え?」


 世界が、現実が――――戻ってきた。













「……迎えに来ましたけどね。なんなんです、これ」
 仏頂面としか言いようのない表情で、斎藤が言った。
 それに、土方は無言のまま、框から立ち上がった。既に、この村に来た時そのままの武家装束だが、雰囲気はまるで違う。腰には両刀を備え、切れの長い目で斎藤を見据える様はどこからどう見ても、京を震撼させる新撰組副長そのものだった。
 が、表情は冴えない。
 返事なしですかーと呟いた斎藤は、駄目元で訊ねた。
「総司はどこにいるのです」
 これには答えが返ってきた。
「世話になった連中に挨拶にいっている」
「あなたはいかないのですか」
「俺が? 挨拶して回る俺、想像できるか?」
「……できませんねー」
 肩をすくめた斎藤の前で、苦々しげに土方が呟いた。
「想像できても、総司が嫌がるさ」
「……」
 沈黙していると、外でパタパタと音がして総司が駆け込んできた。斎藤を見ると、ぱっと顔を明るくする。
「斎藤さん、来てくれたんですね! よかったー」
「心配したよ。大丈夫か、総司」
「はい、元気です。まぁ色々うんざりすることもありましたけど、でも、元気ですよ」
「そ、そうなんだ」
「じゃあ、早く帰りましょう。駕籠ですか? 馬ですか?」
「総司は駕籠で帰った方がいいかなと思って用意してきた。馬は……」
「わかりました。じゃ、駕籠に乗りますね」
 完全にもう一人の存在はガン無視状態で、総司はにこにこと頷いた。そのまま、さっさと背を向けて出ていってしまう。
 それを呆然と見送ってから、斎藤は呟いた。
「……状況、全く変わっていないというか、むしろ悪化していませんか」
「知るかよ」
「二人で記憶失ってここで暮らしていたんですよね? その間に仲良くならなかったのですか?」
「記憶がねぇのに、仲良くできるはずがないだろ」
「うーん」
「これ以上のごたくはいい。帰営するぞ」
「はいはい」
 うんざりしたように頷いた斎藤は、土方と共に家を出た。庭には二頭の馬がおり、道の向こうには遠ざかってゆく駕籠が見えた。総司はもはや出発してしまったらしい。
 驚愕ものの冷たさに口を開けてしまったが、斎藤は我に返った。ここで呆けている場合ではない。とにもかくにも、さっさとこの新撰組副長を帰営させなければならないのだ。
 無言で突っ立っている男に、斎藤は馬を指さした。
「どっちに乗ります」
「……どっちでもいい」
「はぁ」
 頷いた斎藤を一瞥してから、土方は馬へ歩み寄った。それを見てから、もう一度だけ総司が去った方を見やる。


(絶対、なんかおかしい気がするんだが)


 奇妙な違和感を持て余しながら、斎藤は馬に歩み寄ったのだった。














 信じられないとはこの事を言うのだ!


 西本願寺屯所の前で駕籠を降りながら、総司は思った。


 突拍子のない事が起こるのがこの世だとしても、あそこまで奇妙奇天烈な事は珍しいだろう。
 この自分が!
 新撰組一番隊組長沖田総司たるこの自分が!
 記憶喪失になっただけでも驚きなのに、あの男と一緒にいて、しかもしかも、仲良く暮らしていたのだ。


 小鳥だ隼人だと呼び合っていた記憶は、生憎としっかり残っていて消し去ることもできない。それもまた苛立つ原因だ。
 総司にとって、土方は、この世で一番嫌いな男だった。
 苦手とか遠い存在とかいうレベルの話ではない。本当に嫌い、なのだ。冷たく整った顔は何を考えているのかわからないし、あの切れ長の目で莫迦にしたように見られると、むかむかした。実際、何度も嘲られたこともある。もちろん、勝ち気な総司が黙っているはずもない。
 そのため、二人は顔をあわせれば喧嘩ばかりだった。
 相性が悪いのだろう。この世には合わない人間がいるのだ。
 江戸の頃からの犬猿ぶりに、そう思わずにはいられなかった。だからこそ、出来るだけ顔をあわさないようにした。避けまくって公の場でも最小限の会話に留めてきたのだ。
 なのに!


「さいあく……ッ」


 はぁとため息をついた総司に、傍らから声がかけられた。
「そこまで嫌がるなんて、本当に何があったんだ」
 見れば、斎藤が小首をかしげるようにしてこちらを覗き込んでいる。それに肩をすくめた。
「別に、何もありませんけど、でも、嫌なのです」
「嫌って……」
「私とあの人が犬猿の仲ってこと、よーく知っているでしょ」
「うーん」
 唸る斎藤をよそに、総司は局長室へと真っ直ぐ向かった。とりあえず近藤に挨拶しなければと思ったのだ。
 だが、訪いを入れて障子を開けた瞬間、げっとなった。
 考えてみればわかることだったのに。こちらを見た男の憮然とした表情に、いらっとする。
 しかし、そんな二人の思惑など知ったこっちゃない(知っていても気づかないふり?)の近藤は、にこやかに言った。
「おう、総司か。歳ともども無事に帰ってきてくれて安堵したぞ」
「はぁ」
「入りなさい。ほら、総司の好きな菓子もある」
 子供じゃないんだけどなーと思いつつ、総司はするすると局長室に入った。近藤側に近く、土方からは遠い場所に座る。
「今も歳に話を聞いていたが、大変だったらしいな。ケガはもう良いのか」
「はい、大丈夫です。村の人たちも親切でしたし」
「歳と二人、一緒だったことが幸いだったんだなぁ。いやあ、よかったよかった」
「…………」
 全然よくねーよ。
 二人ともに思ったことだろう。最初にして最後の同意に、総司はため息をつきたくなった。が、それは師に対して失礼かと、堪える。
 気まずい沈黙の後、近藤は、「お、おお! そうだ」とポンと膝を叩いた。かなり、わざとらしい。
「おれは今から黒谷だった。こうしてはおれん、また後でな」
「近藤さん」
「総司、帰ってきてから話そう」
 呼び止めようとした土方を無視して、近藤はさっさと部屋を出ていってしまった。障子が閉まり、足音が遠ざかってゆく。
 シンと部屋の中に沈黙が落ちた。
「……」
 総司は気まずいなぁと思い、唇を噛んだ。
 つい数刻前まで、この今、目の前にいて眉間に皺を寄せている男と、「隼人さぁん」「小鳥―」などとキャピキャピ仲睦まじく呼び合っていたのだ。信じられない絶対信じたくないッ話だった(だが、現実)。
 挙げ句、自分はこの男に恋心まで抱きかけていたのだ。思い出すだけで、うきゃああああああと転げ回ってしまいたくなる話だ。
 まさに黒歴史だった。
 何がなんでも忘れたいほどに!


(わすれるわすれるわすれる……)


 念仏のように呟いてると、その気配を察したのか、土方がこちらに視線を向けた。
 挙げ句、ぼそりと言われる。
「今朝までのこと、おまえ、忘れたいって思っているだろ」
「当たり前でしょう!?」
 思わず叫んでしまった総司に、土方は肩をすくめた。
「人って不便なものだな。忘れたい事は忘れられなくて、忘れたらまずいことは忘れるか」
「あの時、記憶を失ったことは、誰のせいでもないでしょ」
「そうだな。誰のせいでもねぇよな」
 低く呟いてから、土方は目の前にある湯呑を取り上げた。それに、総司はツゲツケと言った。
「あなただって、今朝までの事は、忘れたいんじゃないですか」
「別に」
「えっ」
「俺にとってはどうでもいい事だ」
「!」
 冷ややかに切り捨てられ、総司はかっと頬を紅潮させた。


 この人はいつもそうだ。関心がないとばかりに切り捨て、冷たく拒んでくる。
 感情を顕にすればするほど、莫迦だ愚かだと断じてくるのだから、どこまでも腹がたつ男だった。
 同じように対してくれるならまだ感情のもっていきようがある。
 だが、こうも違う次元で対している、上から見下ろしていると言わんばかりの態度をとられるから、余計に腹がたつのだ。嫌いになるのだ。


「そうですか。私にとっても同じくですけど」
「ふうん?」
「まったく全然どうでもいい事ですけどっ」
「なら、よかっただろ」
「え」
「忘れる努力しなくて、よかったじゃねぇか」
「…………」
 うっと詰まってしまった総司がおかしかったのか、土方がくすっと笑った。
 それに、ちょっと、どきりとした。


(顔だけはいいんだよねー)


 自称他称の面食いである総司にとって、彼の顔の綺麗さは認めざるを得ないことだった。
 しかも、いつも冷たい表情の土方が少しでも笑えば、本当に本当に格好よくなるのだ。思わず見とれてしまうぐらいの男前ぶりなのだ。
 伏せられた男にしては長い睫毛、濡れたような黒い瞳。形のよい唇にうかべられた笑み。冷たく整った顔だちが少年のような柔らかさで、総司の心を惹きつけてしまう。
 嫌いだ嫌いだと思っても、見惚れてしまう男ぶりなのだ。
「……」
 思わずじいっと見ていると、土方がその視線に気づいた。目をあげ、こちらを見返してくる。
「何だ」
「いえ、別に」
「俺がいい男だから見惚れたか」
「ち、ちちち違いますよっ。何うぬぼれているんですか」
「うぬぼれじゃねぇだろ。実際、俺は顔だけはいいからなって、おまえも思っているはずだ」
「顔だけはっ、顔だけはですからね!」
「はいはい」
 土方はくっくっと喉を鳴らした。それに莫迦にされてるっと思った総司は勢いよく立ち上がった。
 たたたっと部屋を横ぎり、障子を開く。とたん、びっくりした。
 後ろからいきなり手首を掴まれたのだ。反射的に振り払いそうになったが、その柔らかな握り方にどきりと心臓が跳ね上がる。
 おずおずと振り返れば、土方が唇の片端をあげた。身をかがめ、瞳を覗き込んでくる。


(え、……えぇっ!?)


 口づけでもされそうな雰囲気に、総司は硬直した。