あなたのために、してあげたい
いつも、ぼくを愛してくれるあなたのために
心からの想いをこめて
「何か、考えごと?」
不意にかけられた声に、総司は我に返った。
驚いて目をあげると、鏡ごしに、昌子がにっこり微笑んでいる。
それに、「え?」と目を瞬いた総司の髪を、彼女のもつ櫛が丁寧に優しく梳いた。
綺麗に磨かれた鏡に広がるタイル。ガラス張りの壁から射しこんでくる陽光。
ここは、総司のマンションの近くにある美容室だった。この店が出来てから、いつもここで髪を揃えてもらっている。
オーナーは原田という熊のような愛嬌のある男だが、総司の髪をいつも切ってくれるのはその妻である昌子だ。小柄な昌子は可愛らしく、てきぱきしていて、総司もだい好きだった。
その日も髪を揃えてもらいに来ていたのだが、ぼーっと考え事ばかりしていたからだろう。
突然、昌子に訊ねられたのだ。
「何か、考えごと?」
と。
「考えごとっていうか……」
総司は口ごもった。
いったい、どんな風に表現すればいいのか、少しわかりにくい。だが、それをうまく云えないのかと、しばらく考え込んだ。
その姿に、昌子が微笑む。
誰に対しても真っ直ぐで純粋な総司は、とても綺麗だった。その素直で優しい心そのままに、行動も言葉も誠実で丁寧なのだ。
「えーと、つまり」
総司はちょっと小首をかしげつつ、云った。
「誰かに何かをしてあげたい……しかも、それがお礼ともなれば、とても難しいですよね」
「お礼? 贈り物?」
「物じゃなくて、形にならない何かをしてあげたいのです」
「親切だけでは駄目やの?」
昌子は小さく笑った。
「総司さんやったら、ちょっと笑顔見せはるだけで、相手の人は幸せな気分になりはると思うんやけど」
「それは……わかりませんけど」
総司は頬を紅潮させた。
だが、その言葉どおりななのだ。
今も鏡に映る総司は、大天使であることを差し引いても、とても綺麗で初々しかった。
その笑顔はまるで花が咲いたようで、誰もが虜にされてしまう。
……そう。
あの、邪悪で残酷な魔王が魅了され、鏡に映るその姿までも己だけのものにしたいと願う程の美しさ───
「ぼくは、その人が喜んでくれるような……何かをしてあげたいのです」
総司は長い睫毛を伏せ、云った。
「何ができるかわからないけれど……」
「心をこめれば、どんな事でも喜んでもらえるものやよ」
昌子は総司を洗髪台に案内しながら、そう云った。椅子に座ると、緩やかに倒された。
ぬるま湯で髪を濡らされ、昌子の小さな手で優しく洗われ始める。
それを心地よげに受けていた総司は、ふと気づいたように云った。
「髪を洗う……のは、どうかな」
「え?」
「髪を洗ってもらうのって、とても気持ちいいですよね。それってどうかなと思ったのです。……あ、でも、ぼくは昌子さんみたいに上手じゃないし」
「そんなの、上手も下手もあらへんよ」
昌子はくすっと笑った。
「さっきも云ったように、心をこめて優しく洗う。そうすれば、相手の人も気持ちいいって思ってくれはるんやと思うわ」
「そうでしょうか」
「この道うん何年のあたしが太鼓判押すんやから、大丈夫大丈夫」
明るく笑う昌子に、総司は元気づけられる気がした。
この間、異国での戦いに傷つき疲れきって帰った総司を、彼は誰よりも優しく迎えてくれた。その心が少しでも癒されるよう、何もかも受けとめ、ずっと寄り添ってくれたのだ。
だが、彼自身、政界に身を置いているだ。大変な事も沢山あるだろう。
なのに、いつでも総司のことを一番に考えてくれる優しい彼に、何か返したかった。
いつも感謝していること。
愛してること。
それを伝えたいと、想ったのだ。
(土方さんに、逢いたいな……)
鏡に映る自分を眺めながら、総司は綺麗に揃えられた髪に指さきでふれ、そっと微笑んだ。
煌めく宝石を指さきでかかげ、それを眺めた。
彼のしなやかな指さきに、美しい宝石はとてもよく似合う。だが、彼自身はそんな事には全く無頓着だった。
「……なかなかいい物だな」
そっとケースの中に戻しながら、土方は呟いた。
斉藤が頷く。
「ブルータイガーアイの中でも、最高級だと思いますよ」
「この国では鷹目水晶と呼ばれているだろう」
「よくご存知で」
斉藤の言葉に、土方は大きな木製窓の枠に腰かけながら、くすっと笑った。
外は雨だ。斉藤の店の窓ガラスも雨の雫に濡れている。
煙るような雨ごしに見える街の光景は、どこか幻想めいていた。道路脇に停められた黒塗りの車さえ、謎めいて見える。
土方は斉藤が出した珈琲を一口飲んでから、言葉をつづけた。
「その石は邪気を払うと云われているらしいな」
「オレも聞いた事があります」
「まぁ……迷信だが」
「確かに、迷信ですね」
その鷹目水晶を手の中で転がしながら、斉藤は小さく笑った。その笑みは、やはり悪魔の表情だ。
「それを総司にと思っているのか」
「まさか」
斉藤は即座に否定した。
「これが似合うのは、総司でなく……あなたご自身でしょう」
「……」
「魔王たるあなたになら、よく似合うと思いますが」
「……そうかな」
土方は低く呟き、薄く笑った。
彼の黒い瞳は、美しい黒曜石に例えられることが多い。だが、魔王としての邪悪な冷酷さが剥き出しになる時、確かに、鋭く底光りする鷹目水晶の方がより相応しいようだった。
不意に、彼のスーツの中で電子音が軽やかに鳴った。
「……」
画面を開いてみた土方は僅かに目を細めた。しなやかな指さきで通話を繋ぐ。
『───土方さん?』
甘く澄んだ声が、いつものように問いかけた。それに、形のよい唇の端がつりあがった。
「あぁ、総司。どうした?」
『今……いいですか』
「大丈夫だ」
『あのね、今度の……金曜日、土方さんのマンションに行っては駄目?』
「俺のマンションに?」
聞き返しながら、土方はスケジュールを頭の中でめくってみた。
金曜日は確か小さな会議が幾つかあったが、それ以外は空いているはずだ。とくに、夕方以降は。
だが───
「……金曜日がいいのか?」
『そうなんですけど、6時頃に……駄目ですか?』
電話越しに聞こえる総司の声が、不安げに揺れた。それに、思わず薄く嗤ってしまう。
自分の言葉一つ、声音一つで、揺れうごく素直な総司が可愛くてたまらなかった。
この大天使は、本当に可愛らしい。
「いや、大丈夫だよ」
そう答えてから、土方は、こちらを見ている斉藤の表情に気がついた。
知らぬ顔のまま、言葉をつづける。
「俺が迎えに行こうか?」
『いえ、ぼくが行きます。夕食、一緒につくりましょうね』
「あぁ、楽しみに待ってるよ」
『じゃあ、金曜日に』
うきうきした声で、総司は電話を切った。
携帯電話を仕舞いこむ土方の前で、斉藤がカウンターに肘をゆっくりと付いた。しばらく黙ってから、問いかける。
「金曜日、何の日か総司はわかっているのですか?」
「わかってねぇだろう」
「今年はパーティ開かれないのですね。悪魔たちが皆、がっかりしていましたよ」
それに、土方は肩をすくめた。
「別にそれ以外でも集会はあるだろうに。まぁ、たまには喜ばせてやらねぇと、まずいがな」
「なら、どうして、やめたのですか」
「あのパーティの時、総司はかなり疲れていた」
気遣わしげな口調で呟き、土方は眉を顰めた。
「やはり、あれには刺激が強すぎたのだろう。それに、今は……まだ総司も本調子じゃない」
そう云ってから、窓外の光景へ視線をやった土方の端正な横顔を、斉藤は複雑な想いで眺めた。
あそこまで追い込んだのは、いったい誰なのか。
大天使の身も心も傷つけ、ダメージをあたえたのは、他ならぬ彼ではないか。
なのに、その一方で、誰よりも大天使を気遣い、心から愛しんでいる魔王。
苦しみも歓びも、あれにあたえられるのは、俺だけだ。
いつかの言葉をふと思い出した。
鏡に映るその姿さえも、己のだけのものにしてしまいたいと。
狂気じみた愛と、執着、独占欲に息を呑んだのは、いつの事だったのか。
だが、もはや云うべき事ではなかった。斉藤自身、土方の行動を諫めることができるような心情にはないのだから。
「……」
ため息をついた斉藤の前で、土方はゆっくりと立ち上がった。コートを腕にかけ、店を横切る。
「もう、お帰りですか」
訊ねる斉藤に、土方は扉に手をかけながら答えた。
「また来るさ」
「連絡を待ってます。あぁ、それから……」
「何だ」
「素敵なハロウィーンを」
そう声をかけた斉藤に、土方はふり返った。黒い瞳でまっすぐ見つめると、静かに微笑んだ。
金曜日の夜は、綺麗な星空だった。
ここの処の雨が澄んだ空気をはこんできたらしい。紫色に染まる黄昏の空に、星が一つだけ瞬いていた。
美しい夕闇が忍びよってくる頃、総司は土方のマンションのエントランスをくぐった。エレベーターをあがり、廊下を歩いてゆく。
「──総司」
扉を開けてくれた土方は、既に薄手の濃紺のセーターにブラックジーンズという寛いだスタイルだった。スーツ姿とはまた違う彼の男らしい色気に、どきりとする。V型の襟元からのぞく逞しい胸もとに、今すぐ抱きつきたくなった。
思わず俯いてしまった総司に、土方は微笑んだ。
「外は寒かったか?」
「いえ、そんなに」
「良かった。ほら、早く入って」
「はい」
部屋に入った総司はコートを脱いで手を洗うと、さっそく夕飯の支度を手伝った。いつも互いの家を訪れた時は、二人でつくる事と決めているのだ。
今日の夕食は、帆立の焦がしバターソースに、グリーン野菜と生ハムのサラダ、ポタージュという組み合わせだった。
手伝うと云っても、土方のマンションに来た時はほとんど彼がつくってしまうのだが、いつもながらの手際の良さと、その綺麗でおいしい料理に、総司は感嘆する。
ダイニングで二人きりの夕食をとりながら、総司は云った。
「とっても綺麗でおいしくて……本当に、シェフなみですね」
「そうかな」
土方は小首をかしげた。
「自分の食べたいものを作っているだけだから、よくわからないよ」
「でも、とってもおいしいです」
「ありがとう。そう云って貰えると、嬉しいね」
テーブルごしに、土方は優しく微笑んだ。とてもきれいな笑顔だ。
それに、総司は頬が火照るのを感じた。
昌子はあぁ云ってくれたが、自分などではなく、この人の笑顔こそ、幸せな気持ちになれるのだ。
いつも、この人に微笑みかけられるたび、心が浮き立つような気がする。
この人に愛される日々は、まるで、降り舞う花びらの中にうずもれるようだ。
夕食の後、土方は冷蔵庫から小さな箱を取り出してきた。
それに、総司が小首をかしげる。
「何ですか? ケーキ?」
「いや、パイなんだ。食後のデザートにと思って。今、食べるか?」
「食べたいです。何のパイだろ」
総司は子どものように目をきらきらさせ、その箱の中を覗き込んだ。
オレンジ色のパイだ。とても可愛らしい。
「わぁ、パンプキンパイ!」
「好きか?」
「はい、だい好きです」
「なら良かった」
土方は微笑み、皿に載せてくれた。
あまり甘くないものなので、彼も食べることが出来るらしい。
総司はさっそく、そのパンプキンパイをフォークで切り分け、口にはこんでみた。しっとりしていて、とてもおいしい。
「このパンプキンの部分も、下のタルト部分もさくさくしてて、おいしいですね」
「そうだな」
「でも、どうして? いつもケーキとかあまり買わないのに」
「さぁ……どうしてだろうね」
くすっと笑った土方に、総司は小首をかしげた。だが、結局、それ以上追究する事なく、食べ終えてしまった。
食事の後片付けも終わると、リビングへ移り、しばらく色々とお喋りをした。土方は、総司の話をいつも楽しそうに聞いてくれる。そのため、総司も一生懸命、店であった事とか、先日見た映画の事とか、話すのだ。
そうして楽しい一時を過ごしていた総司は、ふと時計の針の位置に気がついた。
(あっ、そうだった。あれをしなくちゃ)
慌ててきちんと座り直した総司に、土方が訝しげな表情で視線をやった。
そんな彼を、大きな瞳でまっすぐ見上げた。ちょっと躊躇ってから、彼の手をとる。
「あのね」
総司は頬を紅潮させつつ、口ごもった。
「あの……したい事があるんだけど」
「したい事?」
「お風呂……その、お風呂一緒に入りません?」
「あぁ、いいよ」
「それで、あのっ、ぼくが土方さんの髪を洗ってあげたいなって……」
「俺の髪を洗う?」
いきなりな言葉に、さすがの土方も驚いた。
この大天使には時々驚かされるが、これもまたびっくりするような言葉だ。
「どうしてまた」
「ぼくはいつも土方さんにして貰うばかりで……」
総司は俯きがちになりながら、懸命に言葉をつづけた。
「だから、何かしてあげたいって思ったんですけど、なかなか思いつかなくて。それで、髪洗うのってどうかなって。気持ちいいから、少しは喜んでもらえるんじゃないかなって、思ったのです」
「……」
「こんな事ぐらいしか思いつかなくて、ごめんなさい」
「……」
「だめ、ですか……?」
不安げに大きな瞳で見上げてくる総司に、土方は思わず喉奥で笑ってしまった。
素直で純粋な総司が、たまらなく可愛らしい。
土方は両手をのばし、その細い躯を胸もとに抱きすくめた。そっと髪を撫でてやる。
「ありがとう……とても嬉しいよ」
「えっ、じゃあ、洗ってもいい?」
嬉しそうに声を弾ませた総司に、土方はくすくす笑った。頬にキスを落としてやる。
「あぁ、お願いしようかな」
彼の優しい返事に、総司は「はい」と頷き、幸せそうに笑った。