それは、一枚の絵だった。
 深い森の奥を覗き込むような絵だ。
 大きなキャンパスに在る色彩は昏く沈み、蒼ざめた樹木の輪郭を静かに描き出していた。見つめていると、まるで吸い込まれてゆくような感覚に襲われる。
「……」
 総司はそれを見てから、そっと隣に佇む男の横顔を見上げた。
 土方は怜悧な表情で、じっとその絵を見つめている。
 黒い瞳に湛えられた感情は伺えず、ただ見つめているだけのようにも思えた。
 だが、一方で、どこか人を寄せつけぬ冷たささえ、感じた──。





 二人で訪れた美術館だった。
 海外の大きな美術館から運ばれてきた展覧物であり、もともと総司が行きたいと云ったものだった。土方自身は当然、絵にも造詣が深い。芸術的なものに鋭い批評眼も持ち合わせているため、何人かの若い芸術家の支援もしていると聞いた事があった。
 だが、この絵に対する土方の態度は、それとは違う気がした。
 批評だとか、好みだとか、そういうものを遙かに超えた何かを見据える表情。
 この絵を見た瞬間、まるで囚われてしまったようだった。
 先程から、もう長い間、この絵の前に佇み、見つめている。





「……土方さん」
 声をかけるのも、躊躇われた。
 だが、いつまでも同じ場所に留まっている訳にもいかず、総司はそっと声をかけた。肘あたりに手をかけると、土方が僅かに視線を流す。
 戸惑ったような表情の総司に気づき、微かに苦笑した。
「あぁ……すまない」
「いえ、別に構わないのですが……そんなに気にいったのですか?」
「そうだね。気にいったというより、むしろ……」
 低い声で呟き、土方はまた視線を絵に戻した。そのまま黙り込んでしまう。
 短い沈黙の後、総司は小さな声で云った。
「ぼく、先に進んでいますね。見終わったら、この館内にあるカフェに来て下さい。そこで待っていますから」
「……すまない」
 いつもなら一緒に行こうと云う土方は、そう口にはしなかった。ただ、謝意だけを伝えてくる。
 そのこと自体にも不安を覚えながら、総司は彼から静かに離れた。
 その閲覧室を出る前、ふり返ってみると、土方はその絵の前に端然と佇んでいた。スーツ姿で、かるく両腕を己の躯にまわしている。
 まるで、彼こそが美しい芸術品のように思える姿だった……。












 違う光景のはずだった。
 土方自身、見た事もない光景だ。
 もともと、この絵は異国のものであり、この国の森を描いたものではないのだから。
 だが、何故だろう。
 この絵は、あの日の森の光景を思い起こさせた。
 総司の亡骸をその腕に抱き、鬼と化した己に絶望しながら、分け入っていった森の光景を。


 土方は僅かに吐息をもらし、片手をあげた。くしゃりと前髪をかきあげ、目を細める。


 いったい、何に惑わされているのか。
 ようやく取り戻した恋人が傍にいる今、こんな絵一つに惑わされてしまうなど。
 だが、気が付けば見入ってしまっていた。傍にいる総司の存在さえも忘れ、呼吸さえとめて見入ってしまった。
 気にいったという訳ではない。
 ただ、まるで、心が過去に引き戻されてゆくような、妖しい感覚。
 あの昏い衝動、絶望、狂気。
 すべてが身の内に蘇るかのようだった。
 それに恐れを抱いているのか、戸惑っているのか、己自身でもわからないが。


(まったく、埒もない)


 微かに苦笑した。
 ゆっくりとその絵に背を向け、離れてゆく。
 とたん、少し呼吸が楽になった気がした。だが、同時に自嘲してしまう。
 それ程までに──囚われているのか。


 あの過去に。
 総司を失った瞬間の記憶に。
 俺は、今なお、囚われているのだろうか──?


 土方はゆるく首をふり、部屋を出た。階段を下り、総司が待っているだろうカフェへ向って歩いてゆく。
 あと少しでそのカフェだという処だった。ちょうど、総司が出てきたのが見える。
 だが、まだこちらには気づいていない。
 しかも、総司は一人ではなく──
「……」
 形のよい眉が顰められた。












 総司は窓際の席に坐り、窓の外に広がる中庭の光景をぼんやりと眺めていた。
 フレーバーティがテーブルで香りを漂わせている。


(土方さん……)


 彼の事が気になって仕方がなかった。
 本当は、あの絵の前に置いたまま去りたくはなかったのだ。
 だが、自分が拒絶されているかのように、思えてしまった。気のせいだとは思ったが、あの絵を見つめる彼の表情には、立ち入る事を許さない何かがあった。
 彼の身の内に秘めた闇を、知らない訳はない。
 何しろ、土方は力が弱いとはいえ悪魔なのだ。その彼がもつ闇を、悪を、総司は時折感じる事があった。
 だが、それとは別の、彼の中に、たまらない孤独を見てしまう事があるのだ。
 闇ゆえの孤独、なのだろうか。
 ただの力の弱い悪魔ではない、人としての悩みなのか、否、もっと深く狂おしい孤独。
 それを、総司は彼から切ないほど感じる事があったのだ。
 救ってあげたい──と思った。
 大天使としてではなく、ただの恋人として。少しでも力になり、彼の傍に寄り添ってあげたいと。
 だが、先程、絵の前に佇む彼に、寄りそう事はできなかった。立ち入る事の許されぬ何かに、ふれてはならない禁忌を見たゆえの判断なのか、総司は黙ってその場を去る他なかったのだ。


 総司は目を伏せ、カップを口元にはこんだ。


 彼は……いつも優しい。
 総司の手を拒む時も柔らかで、冷たく撥ね付けたりはしない。
 だが、だからこそ、切なくなる時があった。どこか他人行儀な気がして、たまらなくなってしまうのだ。
 以前、知りたいと願った総司に、彼は云った。
 待っていて欲しい──と。
 その言葉に、待とうと思ったのだ。
 彼が自分に話してくれる気になるまで、その心に抱えた悲しみを苦しみを話せる時がくる日まで、いつまでも待ちつづけようと。
 今も、その決意は変わっていない。
 だが、せめて、寄りそう事はしたいのだ。黙って傍にいる事だけでも……と、心から願っている。
 なのに───


 総司はため息をつき、長い睫毛を伏せた。その横顔は透きとおるように美しい。
 自身は気づいてない事だったが、このカフェの中で、注目の的だった。
 微かなため息をもらし、憂いにみちた表情で窓外を眺めやっている姿は、まるで雨に打たれた可憐な花のようだ。
 格好や髪型からも、少年である事は明らかだったが、それでも、男達の視線は総司にちらちらと向けられている。
 だが、それに全く気づく事なく、総司はカップに手をのばした。そっと甘い紅茶を口にはこぶ。
 その時だった。
 不意に、目の前の席に誰かが座ったのに気づき、総司は顔をあげた。土方だと思ったのだ。
 だが、その目が見開かれた。
「?」
 まったく見知らぬ男だった。若い男だ。
 いきなりテーブル越しに話しかけてきた。
「ねぇ、きみ一人?」
「……」
「だったら、一緒にどこか行こうよ」
「……」
 総司は呆れかえった表情で、男を眺めた。
 こんな美術館の静かなカフェで、ナンパするような人間がいるとは思ってもいなかったのだ。
 あらためて見ると、いかにも今時の若い男だ。
 長めの髪に、そこそこ整った顔だち、ファッション雑誌をそのまま参考にしたような格好。だが、総司にとって、全く好みでない事は明らかだった。大天使である総司には、こんな若い男は子どもに見えてしまう。
 思わず細い眉を顰めた総司に、男は余程己の容貌に自信があるのか、にやにや笑いながら言葉をつづけた。
「なぁ、いいだろ? 名前は?」
「……」
 総司はため息をつき、カップをソーサーに戻した。男には全く知らぬ顔のまま、さっさと立ち上がってレジへ向う。
 それで諦めるかと思ったのに、男はしつこく追いかけてきた。支払いをしている総司に、云ってくる。
「なぁ、これから一人でつまらないだろ。面白いところ連れていってやるからさ」
「……」
「一緒に行こうぜ」
 そう云って、男は馴れ馴れしく総司の肩に手をまわそうとしてきた。それに嫌悪を覚え、反射的に身を捩る。
 いい加減、何か云ってやろうと思った瞬間、不意に後ろから腕がとられた。
 驚き、見上げた瞬間、柔らかく抱きよせられる。
 甘いブルガリ・ブラックの香りと、慣れた気配に、強ばっていた総司の躯から力が抜けた。
「! 土方さ…ん」
 思わず身を寄せた総司を抱きすくめながら、土方は切れの長い目で男を見据えた。
 その黒い瞳にあるのは、ぞっとするほど冷たい光だ。
「……っ」
 男は唖然とした顔で、土方を見た。彼が誰なのか、わかったのだろう。
 身なりの違いだけではない。匂いたつような大人の男の艶、彼が常に纏う威圧感と迫力、それら全てがもたらす男としての明らかな差違に、思わず後ずさった。
「……」
 声もなく逃げてゆく男に、土方は一瞥さえあたえなかった。その代わりに、己の腕の中におとなしくおさまる総司の躯へ、鋭い視線を走らせる。
 それに、総司はすぐさま首をふった。
「大丈夫です。何もされていません」
「ならいいが……いや」
 土方は眉を顰め、低い声で謝した。
「俺のせいだ。一人で待たせて、すまなかった」
「そんな……。土方さんのせいじゃありません、謝らないで下さい」
 小さな声で答えた総司は周囲を見回し、そっと土方の胸もとを手でおさえた。
 それに気づいた土方は手を離すと、すっと踵を返した。
 彼自身は、二人の事が暴かれスキャンダルになっても、何ら悔いる事はないのだが、総司自身がそれを強く恐れている。だが、一方で、そうして躯を離される瞬間、総司が淋しそうな表情をしてしまう事も確かだった。
 それをちらりと見やってから、土方は美術館の奥へと歩を進めた。人気のない一角へ向う彼に、総司は戸惑ってしまう。
「土方さん……?」
 呼びかけたが、土方はふり返らなかった。無言のまま階段をあがってゆく。
 総司は慌てて彼の後を追った。
「……っ」
 思わず、手をのばした瞬間、不意に土方がふり返った。
 あっと思った時にはその広い胸もとに抱かれ、廊下の一角へ引き込まれてしまっている。
 見上げた総司の頬を、冷たい指さきが包み込んだ。男の意図を察して目を閉じれば、その願いはすぐさま叶えられる。
「っ…ぁ、ん……っ」
 深く唇を重ねてきた男に、総司は縋りついた。つまさき立ちになり、その首を細い両腕でかき抱く。
 男の指さきが頬から首筋をたどり、やがて、柔らかな髪にさし入れられた。愛撫のように、かき乱してゆく。
 何度も角度をかえて唇を重ね、あたえられる甘く濃厚なキス。
 くらくらと目も眩むような酩酊感に、総司は躯の芯が甘やかに痺れてゆくのを感じた。
 唇を重ね、舌を絡めて。
 互いの身も心もとけあわせるように、まるで情交の前の口づけのように。
「ぁ…は、ぁ……っ」
 キスが終った後も、総司の動悸はなかなかおさまらなかった。男の胸もとに凭れかかり、目を閉じて喘いでいる。
 そのなめらかに紅潮した頬に、土方はそっと唇を押しあてながら囁いた。
「……総司」
「土方…さん……」
「このまま……どこかへ浚ってしまいたい」
「──」
 いつも生真面目な彼とも思えぬ言葉に、総司は目を瞬かせた。
 それに、土方は総司の小さな頭を、ゆっくりと己の胸もとに抱えよせた。髪を撫でながら、低い声でつづけた。
「どこかへ浚って、閉じこめて。おまえを俺だけのものに出来れば……こんな想いから逃れられるのだろうか」
「土方さん……?」
 顔をあげようとしたとたん、しなやかな指さきが総司の細い首を撫であげた。どこか、絡みつくような仕草。
 それに、総司は云いしれぬ不安を抱いた。
 まるで……縊り殺されるような錯覚さえ、おぼえてしまったのだ。


(そんな事、あるはずないのに……)


 おそるおそる見上げれば、土方は目を細め、総司をじっと見つめていた。
 黒い瞳は深く澄み、何の感情も伺わせない。
 冷たく整った顔は静かで、美しい。
 だが、瞬間、そこにあるのは──虚無だと思った。
 彼がずっと抱えている、底知れぬ闇ゆえの孤独なのだ、と。
「……土方、さん」
 小さな声で呼びかけた総司に、土方は形のよい眉を僅かに顰めた。唇を噛みしめたまま、じっと総司だけを見つめ返している。
 奇妙な沈黙が落ちた。
 だが、土方はすぐ手を離すと、何事もなかったように笑みをうかべた。いつもの優しい柔らかな笑みだ。
「冗談だよ」
「え……」
「怖がらせてしまったね。総司とどこかへ行きたいのは本当だが、無理強いをするつもりはない」
「……」
「つまらない事を云って、おまえを怖がらせてしまった。謝るよ」
 そう云うと、土方はもう一度だけ総司の頬にキスをおとした。それから、すっと踵を返し、歩き出していってしまう。
「……」
 総司はその広い背を見つめ、唇を噛みしめた。
 冗談などではない。
 今、彼は一瞬、己の心の内を明かしたのだ。孤独を見せてくれたのだ。
 なのに、それをきちんと受け止めてあげられなかった事が、悔しかった。
 理解したいのに、誰よりも愛しているのに。


 こんなにも遠く感じるあなたに、ぼくは何をしてあげられるの──?


 総司はたまらない焦燥感にかられながら、目を伏せた。












「……あ、この絵です」
 総司は小さく声をあげ、一つの頁を指さした。
 それに、斉藤は僅かに首をかしげながら、鳶色の瞳を瞬かせた。
 宝石がならべられたガラスケース。
 その上に今、一冊の厚い本が置かれてあった。
 本来なら、書籍は総司の商売物であるが、二人がいるのは斉藤の店である。
 この本も斉藤の店に置いてあるものだった。
 斉藤は土方ほどではないが、ジュエリー作家である事もあって、趣味が広い。特に芸術に関しては、様々な知識を広範囲にわたって有していた。そのため、総司がある作家の名前を告げると、一冊の本を取り出してきたのだ。
「これを、土方さんが?」
 斉藤は訝しげに眉を顰めた。
「その美術館で気にいったみたいだったというのか?」
「いえ、気にいったって云うのとは、少し違う感じだったんだけど……」
 総司は思わず口ごもってしまった。


 あれを、いったいどう表現すればいいのか。
 気にいったというより、まるで魅入られたと云うべきであるような。
 だが、土方が、そんな何の変哲もない絵一枚に、そこまで引き込まれる訳がないと思うのだが。


「とにかく、いつまでもその絵を見ていたのです。ぼくが先に行っても構わず、ずっと……」
「それは珍しいな」
 斉藤は苦笑した。
「あの土方さんが、総司よりも他の何かを優先させるなんて」
「そんな」
 総司はなめらかな頬を染め、抗弁した。
「珍しい事なんかじゃありませんよ。土方さんには、ぼくよりも大事なものが沢山あるはずだし」
「そうかな」
 斉藤はくすっと笑った。
「オレから見れば、土方さんにとっての一番は、総司だよ。あの人にとって、総司は特別な存在だから」


 ───愛しい恋人である以上に。


 含められた言葉の意味には気づかぬまま、総司は桜色の唇を尖らせた。
「からかわないで下さい。それよりも、この絵、斉藤さんは心あたり、ありませんか?」
「全然ないね」
 かるく肩をすくめた。
「こういう景色ってよくあるものだろうし、まぁ……淋しい感じがするなって印象だけで」
「そうですよね……」
 総司は、絵が載った頁にそっと指さきでふれ、長い睫毛を物憂げに伏せた。


 ……淋しい感じ。
 土方から感じたのも、まさにそれだったのだ。
 深い孤独と、寂寥感。
 立ち入る事の許されぬ、どこか遠い暗闇の中に身を置いているような、彼。
 大天使である総司がどんなに手をのばしても、ふれようとあがいても、指さき一つとどかない。声さえもとどかない。
 そんな錯覚さえ覚えるような淋しさを、この絵から、そして、この絵を見つめる土方から、総司は感じたのだ。


「けどさ」
 ぼんやりとその絵を眺める総司に、斉藤が声をかけた。
 え? とふり返れば、どこか探るように鳶色の瞳で見つめられる。
「総司も、どうしてそんなに気になるんだ」
「……」
「たかが絵の事だろう。それとも、その後のデートで喧嘩でもしたとか」
「喧嘩なんてしていませんけど……」
 口ごもりながら、指さきをきゅっと折り曲げた。
 喧嘩などしていない。
 だが、あのキスの後、妙に緊張した空気が流れていたのだ。
 美術館を出た後、食事をして、その途中で結局急ぎの電話が入ったため、土方は仕事へ向ってしまったのだが。
 優しい笑みも、食事の時の会話も、別れ際のキスも、何もかもいつもどおりだったはずなのに、総司は違和感を覚えて仕方がなかった。
 彼の心がどこか遠くにあるような気がしてならなかったのだ。


(どんどん、ぼくは我侭で欲張りになってしまう……)


 あれだけ忙しい彼なのだ。
 仕事の事などを考えていて、上の空になる事など幾らでもあるだろう。
 あぁして忙しい合間をぬって、逢う機会をもうけてくれているだけでも、幸せだと思わなければいけないのに。
 なのに、ほんの少し、彼の気持ちがそこにないから、不安になってしまうなんて……。


「少し……土方さんと逢えなくなるから、かな」
 そう呟いた総司に、斉藤が小首をかしげた。
「土方さんから忙しくて逢えないとても、云われたのか?」
「ううん、そうじゃなくて」
 総司は目を伏せ、小さく笑った。
「ぼくの方が少し忙しくて、あの人に逢えなくなるから」
「どれぐらい」
「たぶん、二週間ぐらい……この国を離れるのです」
「二週間も? じゃあ、年末の頃まで?」
 そう問いかけた斉藤に、総司はこくりと頷いた。