「たぶん……」
 総司は躊躇いがちに、言葉をつづけた。
「年明けに帰れるかどうかって感じで……」
「それはまた」
 斉藤はガラスケースに肘をつき、総司の顔をじっと見つめた。
「旅行にでも行く訳? なら、土方さんと一緒に行けばいいのに」
「そ、それはちょっと……」
「じゃあ、仕事で? 書物の買い付け?」
「えっ、えぇ……そんな処……です」
 嘘のつけない総司は、後ろめたそうな表情で頷いた。
 だが、それに、斉藤はすうっと目を細めた。ひっそりと嗤ってしまう。


 知っているのだ。
 総司が何のためにこの国を離れるのか。
 ある国が、瀬戸際まできているという情報が入っていた。
 土方自身はその国に興味がなく、放っておけと云っていたが、斉藤自身はまだ惜しくあれこれ手を出してはいる。
 その国のために、大天使である総司自らが赴くのだろう。
 だが、総司が動くのなら、斉藤もある程度考慮しなければならなかった。


「その事、土方さんには云ったのか?」
 斉藤の問いかけに、総司は「えぇ」と頷いた。
「昨日、電話で話しました」
「それで」
「それでって……何もありませんよ。土方さんも忙しいからって、それだけ」
「……」
 小さな声で答えた総司のきれいな横顔に、淋しさと不安の影を見つけ、斉藤は思わずため息をつきたくなってしまった。


(何をやっているんだ、あの人は)


 あの魔王の事だから、総司をいつものように翻弄しているのだろう。
 それにしても、ここまで不安にさせて、挙げ句、2週間もこの国を離れる恋人に言葉一つかけてやらないなど、ある意味、彼らしくないと思った。
 邪悪で残酷で、冷たくも美しい魔王。
 だが、その魔王は、この大天使をまるで掌中の珠のように愛し、大切に慈しんでいる。
 翻弄し、虜にしてはいるが、それでも傷つける事だけは、決してなかったのに。


(それだけ……何かがおかしいと云う事なのか)


 斉藤は眉を顰め、その土方が見入っていたという絵を見つめた。
 何の意味が隠されているのかは、全くわからない。
 最強の上級悪魔として仕える斉藤とて、あの魔王の事をすべて知り尽くしている訳ではないのだ。それどころか、謎の方が多いと云ってもよい。
「……」
 目の前で、唇を噛みしめる総司を見つめながら、斉藤は言葉にならぬ不安に手を握りしめた……。












 大晦日の夜だった。
 例年どおりのパーティのため、帰宅は真夜中だった。
 さすがに疲れた様子で帰ってきた土方を、冷たい部屋の空気が迎えた。
 明かりを灯し、煩わしげにコートをスーツの上着を脱ぎ捨てる。ベストの釦を外しながら部屋を横切ると、ソファの上に腰をおろした。
 背もたれに頭を凭せかけ、目を閉じた。
「……」
 いつもなら軽く流せる言葉にも苛立ち、気持ちがたまらなくささくれ立った。
 下らないパーティで、突然、何もかも壊してしまいたくなってしまったのだ。その衝動に、後で思わず自ら苦笑してしまったが。
 何を苛立っているのか。
 あの絵を見た時からか、それとも、総司がこの国を離れているゆえか。
「ったく、ざまぁねぇよな」
 決して総司の前では見せない顔で、総司の前では使わない言葉で己を自嘲し、土方は身を起した。
 くしゃりと前髪をかきあげ、しばらく宙を見据えていたが、やがて深く嘆息した。ネクタイを緩め、それを引き抜きながらバスルームへと入ってゆく。
 叩きつけるような熱いシャワーの下に立ちながら、ふと、総司に髪を洗ってもらった時の事を思いだした。


 細い指さきがふれた感触を、心地よく思い出す。
 否、いつでもそうだった。総司にふれられるのは、とても心地がよいのだ。
 大天使だからではなく、総司自身、とても優しい。
 凜として清らかな心と、あたたかな優しさ。
 それが指さきから、すべてから、つたわってくるのだ。
 何よりも澄んだその心にふれるたび、己の中の何かが癒されてゆくような気がした。
 魔王である己が大天使にやすらぎを求めるなど、笑止だとわかっているが、それでも時折、たまらなくあの清らかで優しい大天使をこの腕に抱きしめたくなる。
 長い年月を越え、ようやく取り戻したあの恋人を。


 寝室へ入った土方は、そのままベッドに躯を滑り込ませた。ひんやりとしたシーツが心地よい。
 今はもう何も考えず眠りたかった。
 魔王であっても、その肉体は人なのだ。
 泥のような疲労感が、彼を深い眠りに誘いこんでゆく。
 やがて、大晦日の夜がその部屋に満ちた。












 目が覚めたのは、数時間後だった。
 突然、ふっと目が覚めてしまったのだ。
「……」
 僅かに身を起し、時計へ視線をやった。
 AM04:00
 新年になっていたが、まだ夜は明けていない。だが、何故かもう眠る気にはなれなかった。
 土方は仕方なく身を起し、着替えを始めた。パウダールームで身支度を調え、ふと思いつく。
 寝室へ戻った彼は、ウォークインクローゼットの中からヘルメットを取り出した。セーターにジーンズという格好の上に、黒革のジャンパーを羽織り、部屋を出る。
 マンション地下の駐車場で引き出したバイクに跨り、エンジンを吹かせた。
 VMAX独特の低い唸るようなエンジン音だ。
 まだ夜も明けぬ闇の中へ滑り出したバイクは、次第に加速していった。都心から郊外への道を疾走してゆく。
 都心を抜けた頃には、100`を軽く越えていた。後ろへ吹っ飛んでゆくような快感がたまらない。車では得られぬものだ。
 海沿いの道を疾走するうち、ようやく陽が昇りはじめた。
 水平線の彼方が乳白色に染まり、美しい朝焼けが広がりはじめる。
 それを見た土方は、バイクを海岸べりの駐車場の一角に停めた。他に人気は全くない。
 ヘルメットを脱ぎ、乱れた黒髪を片手でかきあげた。黒い革手袋をしているので、少し指通りが悪い。
 土方はジャンパーの前を開きながら、ゆっくりと駐車場から海岸への階段を降りた。石段と擦れ、靴の下で砂が鳴る。
 誰もいない海岸に佇み、今ひろがってゆく美しい朝焼けに目を細めた。
 風が吹きすぎ、彼の黒髪をかき乱してゆく。


 荘厳と云ってもよい、夜明けの光景だった。
 美しい教会のステンドグラスを思わせる、光の輪舞。
 紫がかった雲が陽光をあびて輝き、鳥の囀りが清々しく響きわたった。
 清らかな光景だ、と思った。
 闇の頂点に君臨する魔王である己が、呑まれてしまいそうな光景。
 そう考えた瞬間、土方は微かに苦笑した。


(違うな、これは……)


 そんな恐ろしいものではない。
 まるで──あの総司のように、柔らかで優しい光景だ。
 清らかさゆえの、限りない許しなのだ。
 罪への許しではない。
 悲しみへの、孤独への静かな許し。


(本当に、まるで総司のようだ)


 いつも。
 この夜明けの光景のように、優しく包みこんでくれる大天使。
 永遠の恋人。
 優しくも清らかな存在を、土方は、愛おしいと思った。
 そして、逢いたい、と。
 心の底から、そう願った……。





 土方は己を自嘲するかのように、微かなため息をもらした。
 眩いほどの夜明けにもう一度だけ視線をやってから、踵を返す。風がまた彼の黒髪を柔らかく吹き乱した。
 その時、だった。
 不意に翼のはためく音が聞こえ、辺りの空気がより美しく澄んだ。
 それに何気なくふり返った土方は、思わず息を呑んだ。



 夜明けの空の下。
 白い鳥が、一人の天使が舞い降りてくる───



 美しい純白の翼が、神の祝福を象徴するかのごとく、陽光にきらきらと輝いた。
 幸福と清らかさと優しさにみちあふれ、大天使の姿は眩いほどだ。


「……総司……!」


 思わず広げた男の腕の中に、大天使は飛び込むように舞い降りた。
 抱きしめた瞬間、まだ翼を広げたままだった為か、二人して躯がふわりとうきあがる。
 それは彼自身が闇の翼をもつ魔王であるが故だったが、その事に総司は気づいてないようだった。
「土方さん……!」
 あどけなく笑いながら、総司は土方の胸もとに抱きついた。広い背に手をまわし、ぎゅっと縋りつく。
 それを抱きとめ、土方は思わず訊ねた。
「総司、おまえ、どうしてここに……」
「それを聞きたいのは、ぼくの方です」
 無邪気な笑顔で、総司は云った。
「海を越えて帰ってきたら、こんな処で土方さんに逢えるのだもの」
 嬉しそうに目を輝かせ、頬を上気させている。
 それに、土方は思わずその細い躯を抱きすくめた。
「海を越えて帰ってきたのか。躯が酷く冷えている」
「でも、少しでも早くあなたに逢いたかったから」
「俺もだ、総司」
 土方は掠れた声で呟き、その柔らかな髪を撫でた。白い額に口づける。
「俺も……逢いたかったよ、総司」
 いつもの彼に似合わぬ切ないまでの声に、総司は目を見開いた。
 だが、出立前の事もあるので、同じ想いを抱いてくれていた彼の様子に嬉しくなり、頬を紅潮させる。
 そんな総司を、土方は優しく両腕に抱きあげた。たて抱きにし、何度も啄むようなキスをあたえる。
 いつもと視点が逆になり戸惑ったが、総司は黙ったまま男の肩に手をまわし、口づけに応えた。
 純白の翼はまだ総司の背にあり、そのため、まるで美しい宗教画のようだった。


 大天使があたえる、許しの……


 乳白色の空が少しずつ明けてゆき、透きとおるような碧へと変化してゆく。
 夜明けの陽光がきらきらと海に反射し、二人の周りを眩いほど輝かせた。
 まるで、世界中が、愛しあう恋人たちを祝福しているかのごとく。
 そんな光景の中で、土方は再び取戻した恋人を、静かに優しく抱きしめたのだった……。 












 しばらくキスと抱擁をくり返してから、土方は総司の躯をそっと砂浜に抱きおろした。
 総司も翼をしまい、それから気が付いたように彼を見上げた。
 戸惑ったような表情の総司に、小首をかしげてみせる。
「何だ……?」
「いえ、その……土方さん」
 総司はちょっと頬を赤らめ、口ごもった。
「いつもと感じが違うから」
「……あぁ」
 土方は自分の黒革のジャンパー、セーターにジーンズという格好を見下ろした。かるく肩をすくめる。
「バイクを走らせていたからね。さすがにスーツではまずいだろう」
「え、バイク?」
 総司は驚き、目を見開いた。
 それに、土方は低く喉を鳴らして笑った。その様も、いつもと違う格好のためか、より精悍で男っぽさが匂いたち、胸がどきどきする。
「俺もバイクぐらいは乗るよ。総司に話した事なかったか?」
「知りませんでした。土方さんがバイクに乗るなんて……」
「似合わないか? こういう格好」
 悪戯っぽい笑みをうかべて訊ねてくる土方に、総司はかぁっと顔を赤らめた。耳朶まで真っ赤になってしまい、慌てたように首をふる。
 大きな瞳で彼を見上げた。
「とても似合っています」
「ありがとう」
 そう云ってから、土方は総司に手をさし出した。え?と戸惑う総司に、柔らかく微笑みかける。
「行こう。後ろに乗せて走るから」
「え、でも……」
「大丈夫だ。ヘルメットも予備があるし、怖がらせたりしないよ」
 ちょっと不安そうな表情ながらもこくんと頷いた総司の手をひき、土方はゆっくりと歩き出した。
 手をつなぎ、静かに海辺を歩いてゆく。
 何も云わず、ただ寄りそって。
 それだけで心の中が晴れ渡ってゆくようだった。澄んだ水が己の中に流れこみ、癒してくれる気がする。
 許しだとか、救いだとか。
 そんな大層なもの以上に大切な、優しいぬくもり。
 今、この瞬間。
 自分の傍で息づく命を、何よりも愛おしい、と───


(魔王たる俺が思うことじゃねぇけどな)


 己の甘さに、土方はふと苦笑した。
 だが、その甘ささえも、心地よかった。
 あの絵を見た時に受けた昏く鋭い棘は、今尚、心の奥底にある。永遠に取り除かれる事はないだろう棘。
 あの瞬間の狂気を、あの慟哭を、あの苦痛を、自分は恐れているのかと思っていた。だが、そうではないのだ。
 喪失の予感に、怯えているのだ。
 再び奪われる悪夢を、失うことゆえの狂気を、子どものように恐れ、怯えている……。


 土方は手をつなぎあい、傍を歩いている総司を、そっと見下ろした。
 彼の視線を感じた総司が顔をあげ、澄んだ綺麗な瞳で微笑みかけてくれる。
 それに微笑い返してやりながら、心から思った。
 恐れてもいいのだと。
 弱さを、さらけだしてもいいのだ。
 この大天使の前でなら、素直になれる。
 自分にとって、この恋人はすべてを優しく受けとめてくれる、唯一の存在なのだから。












 バイクを停めてあった駐車場まで戻ると、総司は驚いたように目を瞠った。
「大きなバイクですね。こんなの運転できるなんて、すごい」
「たまに直に風を感じて走りたくなる時があるからね」
 そう云ってから、土方は携帯電話を取り出した。秘書の山崎にかけ、今日一日は強引にオフにしてしまう。
 一日ずっと一緒にいてくれると知った総司は嬉しかったが、やはり聞かずにはいられなかった。そっと彼のジャケットの袖をひいて、訊ねる。
「いいのですか、お仕事の方……」
「せっかく、総司が俺の傍に戻ってきてくれたんだ。休みにするよ」
 そう云って、土方は悪戯っぽく笑ってみせた。頬を指さきで優しく撫でてくれる。
 それにほっとしつつ、総司は小首をかしげた。
「これから……どこへ?」
「そうだな、どこか静かな処へ行こう。一緒に食事をして、それから……おまえを感じさせてくれ」
「え……」
 思いもかけない男の言葉に、総司は目を瞬いた。だが、色香をふくんだ彼の笑みに、たちまち頬を紅潮させてしまう。
 耳朶まで真っ赤になってしまった総司に、土方はくすっと笑った。
 恥ずかしそうに俯く少年の頭を胸もとに抱きよせ、その薔薇色の耳もとに囁きかける。
「可愛い総司……」
「土方…さん」
「本当に……このまま、どこか遠くへ浚ってしまいたい」
「どこか遠くへ? ぼくを……?」
 総司は顔をあげた。一瞬、不安げにその大きな瞳がゆれる。
 それをしばらくの間、土方は無言で見つめていたが、やがて、ふっと苦笑をうかべた。ゆっくりと柔らかな髪を撫でてやりながら、囁きかける。
「……いや、そんな事しないよ。ただ、どこかで食事をして、おまえと一緒に過ごすだけだ」
 優しい笑顔で云った土方は、総司の頬にそっとキスを落としてからヘルメットをかぶせてくれた。バイクに跨り、総司に後ろに坐るよう促す。
 それに従い、彼の腰に手をまわしながら、総司は目を伏せた。
「……」
 バイクが加速し、疾走してゆく。風を切り、突っ走る。
 風が唸るように鳴り響く中、彼の体温だけを感じながら、総司は思った。


 いつか、こうして彼に浚われる日がくるのかもしれない。
 本当の意味で、今まで慣れ親しんだ世界から、引き離される日が来るのかもしれない。
 今までの──正しいものは正しく、美しいものは美しいとしてきた世界に、別れを告げる日がいつか。
 そんな予感がするのだ。


(……だけど)


 その時、ぼくは躊躇わないだろう。この人についてゆくだろう。
 どこへ浚われてもいい。
 それが煉獄であっても、この人と共になら構わない。
 ぼくの願いは、ただ、この人の傍にいたい。
 ずっと、この人を愛していきたい。
 ただ、それだけなのだから……。


 黙ったままより強くしがみついた総司に、土方はちらりと視線を向けた。
 微かに笑った。
 何もかも──総司の想いもすべて見透かすように。
 そして。
 二人を乗せたバイクは風をきり、疾走したのだった。







      闇と光がとけあう
      ───彼方へ