総司は、一度その店の前を通りすぎた。
だが、ふと思い出したように立ち止まり、ふり返る。
大きな瞳が、小さな看板を見つめた。
「……あ、ここだ」
可愛らしい小鳥のマークが入った看板。細い階段を上がれば、その小さな店はビルの二階に存在している。
そおっと扉を開けると、中から明るい声がかかった。
「いらっしゃいませ」
「……こんにちは」
総司はおずおずと店の中に入り、ぐるりと店内を見回した。
思ったより広いスペースに、アンティーク風の椅子やテーブルがあちこちに並べられてある。
窓際の席に案内され、総司はほっとして腰をおろした。マフラーとコートを外し、メニューを眺める。
注文を取りに来てくれた店員に、マシュマロ入りのココアを頼んだ。それと、キャロットケーキを。
総司はオーダーしたものが来る間、椅子の背に凭れかかり、ぼんやりと窓の外を眺めた。
賑やかな町並みが広がっている。とは云っても、ここは都会の一角でなく、郊外の小さな街だ。
そのため、可愛らしい玩具箱をひっくり返したような町並みが、とても印象的だった。外国の絵本の中にでも、迷い込んだような気さえしてしまう。
古びた石畳に、クリームイエローやオレンジの窓枠が優しい店々。夜の闇に、ぽうっと灯されたレトロな街灯。
それを眺めているうちに、総司はきゅっと唇を噛んでしまった。
(……土方さん……)
本当は、二人で来るはずだったのだ。
この町も、この店にも。
久しぶりにドライブがてら遠出しようかと、前から誘われていた。それに、総司がまだ行った事のないこの街へ行ってみたいと云うと、二つ返事で引き受けてくれたのだ。
この店を教えてくれたのは、土方だった。ココアも珈琲もおいしい店らしいと、優しく微笑んでくれたのをよく覚えている。
だが、二人で来ることはできなかった。
何故なら、一週間前、珍しく喧嘩してしまったのだ。
それは本当に珍しい事だった。土方が怒る事も、総司が我侭を云うことも。
だが、気がつけば、冷たい応酬となっていたのだ……。
「だから、数日延ばして欲しいと云っている」
そう云った土方に、総司は長い睫毛を伏せた。
彼のマンションのソファに坐りこみ、クッションを抱えたその姿はたまらなく可愛らしかったが、今は甘い睦言など通用しそうにない雰囲気だった。
土方は苛立ったように、前髪を片手でかきあげた。
「約束を反故したのは悪いと思っている。だが、仕事で、どうしても仕方がないんだ」
「……いやです」
「総司」
「明日、一緒に行くと約束したではありませんか」
「すまないと謝っているだろう」
「謝ればいいのですか? 謝れば、ぼくに対して何をしても構わないの?」
「……何でそうなるんだ」
言葉尻を捉えてくる総司に、土方は形のよい眉を顰めた。
いつもの総司とはまるで違っていた。いつもなら、彼の多忙さをよく理解し、心よく了承してくれたのだ。
だが、今日は最初から拒絶状態だった。
それを訝しく思いつつも、言葉をつづけた。
「俺がおまえをどれだけ大切に思っているか、愛しているか、知っているだろう。そのおまえに対して、何をしても構わないなんて……そんな事思うはずがないじゃないか」
「だったら、大切に思っているなら、明日だけは優先させて下さい」
「明日だけはって、明日何かあるのか?」
「約束していた日です」
「だから、仕事で仕方がないと」
「……本当に仕事?」
呟くように問いかけた総司に、土方は黙り込んだ。いや、確かに仕事なのだが、その問いの意味がよくわからなかったのだ。
低い声で聞き返した。
「どういう意味だ」
「意味などありません」
「……もしかして、疑っているのか」
「質問に答えて下さい。本当に仕事なの?」
そう問いを重ねた総司に、土方はさすがに眉を顰めた。声音が冷たい響きを帯びる。
「つまり、おまえは俺を疑っている訳だ。この俺がおまえに対して偽るような男だと」
「……」
総司は小さく息を呑んだ。
そんな事、思っていない。
だが、本当に全部信じているのかと聞かれれば、わからないとしか答えようがなかった。
「……ぼくは……」
総司は俯いた。
ぎゅっと目を閉じると、瞼の裏にある写真がちらつく。それが自分の邪推にすぎないとわかっていても尚、切なくてたまらなかった。
このまま彼の前にいれば、もっともっと酷い事を云ってしまいそうで。
「ごめんなさいっ」
突然、総司は立ち上がった。抱えていたクッションを放り出し、代わりに白いコートを掴む。
「総司」
「今日はもう帰ります。ごめんなさい」
「……」
一礼して出てゆこうとする総司に、土方は唇を噛んだ。部屋を横ぎると、手をのばして総司の腕を掴もうとしてくる。
それを、総司は小さく身を捩ることで避けた。
「いや」
「総司」
「このままじゃ、駄目になる」
「ここで帰る方が駄目になるだろう」
「違うのです、ぼくが駄目になるのです」
あなたを傷つけて、疑って、泣いて。
みっともない自分を見せてしまいそうだから。
こんな醜い心の一端、絶対に知られたくない。
だから。
「ごめんなさい」
もう一度そう云うと、総司は身をひるがえした。ぱたぱたとスリッパの音をたてて玄関へ走る。
当然のことながら、土方は追ってきた。
玄関で、靴を履く総司をふり向かせた。かるく身をかがめて目線をあわせ、宥めるような口調で云った。
「総司、帰らないでくれ。少し落ち着いて話そう」
「今日はもう帰ります」
「俺の云い方が悪かったのなら、すまない。明日はどうしても駄目だが、この埋め合わせはきちんとするから」
「そういう事じゃないの。本当に……ごめんなさい」
総司は俯いたままそう云うと、ドアノブに手をかけた。そのまま押し開き、部屋の外へ出てゆく。
パタンと扉が閉じられる時、土方の「総司」という声を聞いた気がしたが、ふり返らなかった。ふり返ることなど出来なかった。小走りに廊下をゆき、ちょうどやってきたエレベーターに飛び乗る。
地上へと降りてゆくエレベーターの中、総司は両手で自分の肩を抱いた。
何だか、自分がとんでもない過ちをした気がした。
今頃になって、膝が震えてしまう。
このまま彼を失ってしまうような予感に、怖くてたまらなくなった。本当は今すぐあの部屋へ戻り、彼のあたたかい胸もとに飛び込みたかった。
揺れる気持ちも嫉妬も切なさも、苦しくて苦しくて、今にもあふれ出しそうだ。愛する彼に、何もかも優しく受け止めてほしい。
でも、そんなのあまりにみっともなさすぎるから。
自分が駄目になるから。
「……ごめんなさい、土方さん」
総司はマンションを出ると、ゆっくりと歩き出した。ふと気が付いて見上げたとたん、どきりと心臓がはね上がる。
ベランダの手すりに寄りかかり、土方がこちらを見下ろしていた。総司に気づくと、しばらく視線を絡めたが、ふっと顔をそむけた。そのまま部屋へと戻っていってしまう。
「……」
冷ややかな態度に、総司は自分故とはいえ、涙がこぼれそうになった。
本当に、怒らせてしまったのだ。
我侭で意地っぱりな自分に、あの人は呆れてしまったのだ。
もう……終わり、なのだろうか。
総司はあふれそうな涙を堪えながら、足早にその場から立ち去った……。
「──お待たせ致しました」
柔らかな声に、はっと我に返った。
慌てて見上げると、トレイを手にした店員がにこやかな笑顔で立っている。
目の前に、白い陶器のカップと、ケーキを載せた皿が置かれた。ココアの上には白いマシュマロがのせられ、とても可愛らしくおいしそうだ。
「ごゆっくりどうぞ」
店員が去ってから、総司はそっと両手でカップを持ち上げた。ふうっと息をふきかけてから、一口飲んでみる。
「おいしい……」
まろやかで甘い味が口の中に広がった。少し甘さ控えめだが、この後、マシュマロがとけてくれば丁度よくなるのだろう。
そんな事を思いながら、総司はココアをゆっくりと飲んだ。
その時だった。
「あら」
新しく入ってきた客が総司の傍を通り過ぎようとして、不意に声をあげた。それに驚いて顔をあげた総司は、思わず息を呑む。
「……黛、さん」
そこに立っていたのは、まさに黛だった。
以前、斉藤の店で一度会っただけだが、それでも、トップモデルとして名高い彼女を忘れるはずがない。
それに、今の総司にとっては、もっとも逢いたくない女性だった。
顔を強ばらせる総司に気づいた様子もなく、黛は艶やかに微笑った。
「奇遇ね」
「え、えぇ」
「ここ、いいかしら?」
相席を求められ、総司は言葉につまった。だが、断る理由などない。
おずおずと頷くと、黛は「ありがとう」と微笑み、店員がひいた椅子に腰を下ろした。
前に見た黒のスーツ姿と違い、今日はお忍びなのか、薄い色合いのサングラスをかけ、黒のセーターに深紅のタイトスカートという格好だった。相変わらず華やかで美しい。
波うつ黒髪を白い指さきでかきあげ、黛は、どこか悪戯っぽい目で総司を眺めた。
「こんな処で一人きり。どうしたの?」
「あ……いえ。前から来たいなぁと思っていたのです」
「ふうん。土方さんと一緒じゃないの?」
そう聞かれ、総司はぎゅっと両手を握りしめてしまった。長い睫毛を伏せ、俯く。
それを、黛は小首をかしげながら眺めた。赤いルージュを塗った唇をちょっと尖らせるようにして考えていたが、やがて、くすっと笑った。
笑みを含んだまま、問いかける。
「ね、もしかして……喧嘩した?」
「──」
「図星でしょ。しかも、原因はあたしなんじゃない?」
「!」
弾かれたように、総司が顔をあげた。
それがもう答えだ。
椅子の背に凭れかかりながら、黛は仕方ないわねぇと云いたげに、肩をすくめた。
「雑誌の写真、見たのね。パーティでエスコートして貰った写真」
「……」
「あれ見て、やきもちやいちゃったんだ。そうなんでしょ?」
「……え、その……」
口ごもる総司の頬が、かぁぁっと紅潮した。耳朶まで桜色にそめて俯いてしまうあたりが、とても素直で可愛らしい。
黛は、本当に可愛いわと目を細めながら、頬杖をついた。
「あんなの気にする必要ないのに。あのパーティが女性同伴必須で、仕方なくあたしに白羽の矢がたったのよ。それにね、あの人にとって、あたしは使い捨ての花同然なの」
「使い捨ての花?」
驚いたように目を見開く総司に、黛は小さく笑った。
「そ。使い捨ての薔薇ってとこかしら? ほら、パーティとかで華やかに活けられている花って、終わったら全部すぐ捨てられちゃうじゃない。それと同じよ。所謂、花を添えるだけってこと」
「そんな、でも……」
「あ、儚んでいる訳じゃないのよ。あたしは政治家がバックにいるって事になるし、あの人も少しぐらいの色をそえられるし、fifty-fiftyって事よ」
「大人…なんですね」
そう呟いた総司に、黛はくすっと笑った。運ばれてきた珈琲カップを持ち上げ、口をつける。
「大人なのは、あなたじゃない。云いたい事も全部我慢して、もっと素直になっちゃえばいいのに」
「そんな事をしたら、本当に子どもですみっともなさすぎるし、土方さんを困らせるだけです」
「あら、そうかしら。逆に喜ぶんじゃないの?」
「え」
総司が目を瞬いた時、不意に、黛がひらりと手をあげた。
そして、よく透る声で云った。
「斉藤―! こっちよ」
「……えっ」
慌ててふり返った総司の目に、こちらも唖然としている斉藤の姿が映った。
まずは斉藤さんと黛さん登場。次で、土方さん、出てきます。
