「……え」
 総司はフォークをとめ、土方を見上げた。
 心底驚いたらしく、目を見開いている。
 それを眺めながら、土方はゆっくりと笑ってみせた。
 ここは、フレンチレストランだった。それ程大きな店構えではないが、知る人ぞ知る老舗の名店だ。
 何度も連れてこられている総司は、小さな坪庭に面した席がお気にいりだった。この店はフレンチレストランであるにもかかわらず、幾つかある坪庭は皆枯山水だ。白い砂利に苔の緑が瑞々しく、とても美しかった。
 むろん、料理もおいしい。フレンチにしては総司好みのあっさりした料理がメインで、それがまた行きつけになった理由でもあった。
「あの……今、何て」
 総司はおずおずと聞き返した。
 それに、土方はかるく肩をすくめてみせる。ワイングラスに手をのばしながら、答えた。
「だから、今度の週末、小さな旅行でもしようかと云ったんだ」
「旅行……」
「久しぶりに時間があいてね。旅行といっても、近場で一泊程度だが」
 そう云ってから、土方は今気づいたように、困惑の表情をうかべている総司の顔を見た。小首をかしげてみせる。
「もしかして……都合が悪いのか」
「えっ、あの……っ」
「どこかへ出かける予定でも入っているのか?」
 土方の問いかけに、総司は俯いてしまった。
 今もって本当の事を云った方がいいのか、わからない。だが、彼を誤魔化すことなど自分にできるのだろうか。


(……自信ないよ)


 総司はきゅっと唇を噛むと、顔をあげた。
 テーブルの向かいに坐った土方は僅かに眉を顰め、じっとこちらを見つめている。
 それに、小さな声で云った。
「……あの……ごめんなさい」
「……」
「今週末は予定が……旅行が入っててて」
「どこへ?」
 土方はさり気なく聞いてきたが、その端正な顔にはどこか苛立ちの表情があった。
 それに、総司は「え?」と目を瞬く。
「どこにって……」
「行き先を云いたくないなら、同行者は? 誰と行くんだ?」
 その問いかけに、総司はようやく気が付いた。土方は総司の浮気を疑っているのだと、思った。
 慌てて身をのりだした。
「ち、違います……!」
「何が」
「だから、そのっ、土方さんが思っているようなのじゃなくて……これは仕事で……っ」
「あぁ、古書の買い付けか」
 とたん、土方は嬉しそうに微笑んだ。あの少年っぽい表情になっている。
「なら、俺も同行させてくれ。一緒に見てみたい」
「違うんです」
「え?」
「買い付けじゃなく、その、店のお仕事じゃなくて……」
 そのまま口ごもってしまった。
 どうしても、大天使という言葉が告げられない。だが、それで土方はわかってくれたようだった。
 一瞬の沈黙の後、微かに目を伏せる。
「……そうか。大天使の仕事か」
「は…い……」
「なら、俺が一緒に行く訳にはいかないな」
 どこか自嘲気味に呟いた土方に、総司は息を呑んだ。その端正な顔にうかぶ憂いの色に、たまらなくなってしまう。
「土方さん……」
 手をのばし、彼のスーツの袖口を先程のように指さきで掴んだ。だが、それは柔らかくもぎ離されてしまう。
「!」
 総司は目を見開いた。


 やっぱり、云うべきではなかったのだ。
 彼は傷つき、悲しんでいる。自分を今、拒絶している。
 こんな風になるのが辛いから、悩んでいたのに……


 泣き出しそうになりながら、総司は手をひっこめようとした。とたん、土方が逆に手をのばした。
 え?と思った時には、きつく指を絡められてしまっている。
「……ぁ」
 小さな声をあげた総司に、土方は小首をかしげてみせた。
 濡れたような黒い瞳が見つめる。
「……淋しいと思ってくれた?」
「土方…さん……」
「俺と離れるの淋しいと、少しでも思ってくれたのか……?」
「あ、あたり前です!」
 総司は思わず叫んだ。ぎゅっと手を握り返しながら、云いつのる。
「淋しくて辛くて、どうしようかと思って……あなたと一緒にいたいのに、なのに」
「総司……」
「す、少しどころか、いっぱいいっぱい淋しいと思ってます……!」
 顔を真っ赤にしてそう叫んだ総司に、土方は微笑んだ。
「ありがとう。とても嬉しいよ」
「……っ」
「俺も淋しい……本当はおまえをずっと傍に置いておきたい」
 優しい声で囁いてから、土方は絡めた手をもちあげ、白い指さきにキスの雨を降らせた。そうしながら、きれいに澄んだ黒い瞳で見つめてくる。
「だから……早く帰っておいで」
「土方さん……」
「待っているから、一日も早く帰っておいで……総司」
「……っ」
 総司は声も出せぬまま、何度も何度も頷いた。


 唇を開けば、泣いてしまいそうだったから。
 大天使としてのしがらみや、立場を意識させず、恋人同士の会話にすりかえてくれた彼の優しさが、たまらなく嬉しくて。
 こんなにも愛され、大切にされている幸せが、体中をいっぱいに満たして。


「土方さん……愛してます」
 そう囁き、総司は逆に彼の手を引き寄せ、唇に押しあてた。目を閉じ、何度も指さきへのキスをくり返す。
 彼の優しさへ、感謝するように。
 だからこそ──総司は何も気づかなかったのだ。
 その様をじっと見つめる土方の瞳が、冷徹な光をうかべていた事に。


「……愛してるよ、総司」 


 囁きは、どこまでも甘やかだった……。












 総司がその国へ着いた時、事態は切迫していた。
 どう見ても天使達の方が劣勢となっていたのだ。しかも、それはより押されつつある。
 あらかじめ押さえておいたホテルで、総司はコートを脱ぎながらそれを聞いた。ホテルと云っても、まともな部屋ではない。こんな内戦状態の国では、市民生活も機能してないも同然なのだ。
 大天使直属の身である桜井が、きつく唇を噛みしめた。
「……申し訳ありません。沖田さんが来られる前に、少しは挽回しておきたかったのですが」
「あなた達のせいではないでしょう」
 総司は柔らかく微笑んだ。
 そっと手をさしのべ、桜井の肩にふれてやる。
「よくここまで頑張ってくれました。これからは、ぼくも一緒に戦いますので、協力して下さいね」
「はい」
 桜井はほっとしたように頷き、大急ぎでテーブルに地図を広げた。他の天使たちもそれを囲む。
「このポイントと、このポイントは既に悪魔たちに押さえられてしまいましたが、ここはまだ大丈夫です。ただ、ここを押さえれるとかなり状況は……」
「悪化しますね」
 総司は細い眉を顰め、見下ろした。
 そこは、あの例の大聖堂だったのだ。そこに神が存在する訳ではないが、やはり、天使達にとって重要なポイントである事は間違いない。裏を返せば、ここを悪魔達に押さえられてしまえば、この国での勝敗は決したと云っても過言ではなかった。
「実は、数日前から悪魔たちの勢いが異様なほど増しております」
 桜井は沈んだ声音でつづけた。
「おそらく、上級悪魔が直接指揮をとり始めたのだと思うのですが」
「上級悪魔? けど、それなら今まででも……」
「たぶん、大天使を相手にしても戦う事ができる程の、レベルの高い上級悪魔でしょう」
「……」
 天使達の会話を聞きながら、総司は唇を噛みしめた。
 気が引き締まってゆくのを感じる。
 もしも、そのレベルの高い上級悪魔の存在が真実であるのなら、今回の戦いはそう簡単に勝てそうもないのだ。いっそこちらの被害が少ないうちに引いてしまうかとも思うが、それでは伊東に任された総司のプライドが許さない。
 信頼し任せてくれた伊東のためにも、この国を邪悪に染める訳にはいかなかった。
「……」
 総司は目を伏せると、きつく両手を握りしめた。








 暗闇の中を、総司は駈けていた。
 先程、この街の片隅で悪魔達を見つけ出したのだ。人々を集め、邪悪な闇へ引き入れようとしていた。
 総司の姿を見たとたん、ひいっと悲鳴をあげ、逃げ出した下級悪魔達。少しいった処で一人は処刑したが、もう一人は取り逃がしてしまった。今、それを追っているのだ。
 他には誰もいない夜の街。
 濡れた石畳に、足音だけが高らかに響く。
「……っ」
 総司は剣を握りしめたまま、周囲を見回した。
 いったい、どこへ逃げたのか。
 何が何でもつかまえ、処刑しなければならないのだ。絶対に。
 そう決意を固めながら、唇を噛みしめた。
 その時、だった。
「!」
 総司は弾かれたように後ろをふり返った。
 突然、大きな鐘の音が闇に鳴り響き始めたのだ。
 神々しくも美しいはずの大聖堂の鐘。
 祝福と歓びにみちた鐘の音色。
 だが、それは今、なぜか心騒がせる不吉な音色と化していた。真夜中の暗闇に響きわたる鐘の音は、空恐ろしいほど禍々しい。


(……何、これ……)


 総司は剣を下げたまま、のろのろと広場へ足を踏み入れた。
 そこにあるのは、見上げるほど巨大な大聖堂だった。
 月明かりの中、そびえ建つそれは闇へと沈みこみ、不吉な翳りを纏わりつかせている。
「この大聖堂……」
 思わず目を見開いた。
 昼間に聞いた時は失念していたのだが、この大聖堂は彼と一緒にいつか行こうと約束した場所だったのだ。
 微笑みながら抱きしめてくれた彼。
 あの時、一緒に見た美しい写真。
 だが、今──その大聖堂はぬば玉のような闇を従え、不気味にそびえ建っていた。
「……」
 きつく唇を噛みしめ、総司は踵を返そうとした。
 だが、その瞬間だった。
 不意に、体中がぞおっと総毛だったのだ。
 背筋を悪寒が走る。
「!?」
 総司は反射的に上を見上げた。
 目に映るのは夜空と、細い月、大聖堂の尖塔だけだ。
 だが、そこから禍々しい闇が押し寄せてきていた。人の心のどこかには必ずあう邪悪へと引きずり込む、甘い誘惑。
 ねっとりと濃厚で魅惑的な闇の気配。
 黒い雲が、青ざめた美しい月の光を覆いつくしてゆくようだった。


(あの時と同じだ……!)


 総司は息をつめ、剣を握りしめた。
 あのハロウィーンの時の気配と、まったく同じなのだ。
 上に誰かがいるのは、もう間違いようがなかった。尖塔の付近から、邪悪な気配は放たれているのだ。
 下級悪魔たちがこの大聖堂を中心として、集まってきていた。皆、狂ったような哄笑と、歓喜の声をあげながら。
 それを痛いほど感じながら、総司は一瞬、目を閉じた。
 伊東の言葉は胸にある。だが、それでも確かめたかった。ここで逃げたくはなかった。
「……っ」
 きっと唇を引き結ぶと、総司は目を開いた。大きな瞳が睨みすえるように、上空を見つめる。
 次の瞬間、ばさっと音が鳴り、神々しいまでに美しい翼が闇に羽ばたいた。
 かるく地を蹴り、飛翔する。
 総司は速度をあげて飛び上がってゆきながら、剣を握り直した。
 一気に勝負をつけなければ、いけないのだ。迷いも躊躇いも禁物だった。
 大聖堂の壁、窓、尖塔へとぐんぐん高度が上がってゆく。
 それにつれて、邪悪な気配はより強まり、総司は手に汗をかいているのを感じた。胸の鼓動が早い。


 ───そして。


 ついに、目前が開けた。
 闇の中にある美しい尖塔。
 そこに、一人の男が佇んでいた。あきらかに人ではない。
 この凄まじい邪悪さと冷酷な気配は、彼が何者であるかを如実に示していた。
 悪魔達の上に君臨し、世界を邪悪で支配する事を望んでいる───


(……魔王……!)


 総司は尖塔と同じ位置まで飛び上がった瞬間、剣を大きく振り上げた。
 だが、しかし。
「……え」
 一瞬、意味がわからなかった。
 目の前にあるものすべてが、理解できなかったのだ。









 尖塔の上に、一人の若い男が悠然と佇んでいた。
 黒いシャツにブラックジーンズ、裾の長い黒のコートを纏うすらりとした長身。
 風にさらさらと梳かれてゆく艶やかな黒髪。
 こちらをまっすぐ見つめている、切れの長い目。濡れたような黒い瞳。
 形のよい唇にうかべられた、微かな笑み。
 闇にとけこむような、その姿。
 それは───





「……土方…さん……?」
 総司は呆然としたまま、その名を呼んだ。
 だが、目の前にある状況が何を意味しているのか、全くわからなかった。否、本当はわかっているのに、総司の中にある柔らかな心が拒絶しているのか。
 そんな総司を前に、男はゆっくりと微笑んだ。
「……」
 思わず見惚れるほど、きれいな微笑み。
 優しい恋人の微笑みだった。
 まるで、二人きりで甘やかに愛しあっている時のような。
 呆然としている総司を見つめ、彼は柔らかく愛おしげに微笑みかけてくる。
 尚更、総司は混乱し、ゆるゆると首をふった。
「……な…に? どうして……」
 それに、答は返らなかった。
 土方は微かに唇の端をつりあげ、ふっと嗤った。目を細めると、ゆるやかに右手をさしあげる。
 しなやかな指さきが、すうっと宙を切った。
 そして、次の瞬間。
 昏い闇の閃光が、彼の指さきから一気に迸ったのだ。


「──!?」


 凄まじい衝撃が、総司の頭の奥を貫きとおした。
 一瞬にして、視界が闇に染め上げられる。
 その躯からすべての力が失われ、純白の美しい翼は力なく折れた。
「……ぅ……っ」
 微かな呻きを最期に失神し、足下に広がっていた深い闇へと堕ちてゆく。それに、大聖堂の下にいた下級悪魔たちが歓声をあげた。
 だが、その細い躯は男の腕ですばやく抱きとめられた。
 ばさっと音が鳴ったかと思うと、漆黒の翼が大きく広がったのだ。男の背にある闇の翼は、妖しくも美しい。
 彼はその翼をひろげ、大天使の躯を柔らかく包みこんだ。
 両腕で抱きすくめ、漆黒の翼でおおいつくして。


 ……まるで。
 大天使の美しい躯も
 その清らかな心さえも
 邪悪な昏い闇に染め上げるかのごとく──





 己の腕の中、ぐったりと気を失った大天使を見下ろし、男は低く嗤った。
 しなやかな指さきで、総司のなめらかな頬をそっと撫でる。
 そして。


「……愛してるよ」


 そう囁きかけると、魔王は愛しい大天使を抱きすくめたのだった……。







         月と闇だけが支配する

         永遠の夜の中で───















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