目覚めた瞬間、総司は状況がまったく掴めなかった。
そこは薄暗い部屋であり、だが見覚えはある。宿泊しているホテルの一室だ。
そして、総司はその部屋の固いベッドに寝かされていた。
(……な…に……?)
そんな総司に気づいた桜井が、傍らから声をかけた。
「気がつかれましたか……!」
見れば、安堵のためか目に涙までうかべている。他に天使達の姿はないようだった。
総司はゆっくりと片手をあげ、自分の額に押しあてた。
「ぼくは……いったい……」
「あの大聖堂の中で倒れられていたのです」
「倒れていた?」
「そうです」
桜井は心配げに総司を見つめながら、言葉をつづけた。
「倒れていたというより、横たわっていたと申上げるべきでしょうか。祭壇の上に静かに横たわっておられたので、我々も驚きました」
「……」
「いったい何があったのか、お聞かせ願えないでしょうか」
そう訊ねる桜井に、総司は身を起しながら、微かに細い眉を顰めた。しばらく考えこむように宙を見つめていたが、やがて、のろのろと首をふる。
「……わかり…ません」
「それは……」
「何も覚えてないのです。悪魔を追って大聖堂の前まで行ったのは覚えているのですが、それから後の事が何も……ただ……」
総司は口ごもった。
「ただ?」
「何か……誰かと逢ったような、黒い…闇を見た気が……」
そう呟いたとたん、背筋を悪寒が走った。まるで突然、冷や水を浴びせられたようだった。
総司は思わず躯を震わせ、両手で自分の肩をぎゅっと抱きしめた。
「大丈夫ですか」
慌てて覗き込む桜井に、総司は何とか頷いた。
どうしてだか、怖くて不安でたまらない。闇がすぐそこまで迫っている気がした。今にも漆黒の昏い闇の底へ、容赦なく引きずりこまれてしまいそうな……。
「……っ」
一瞬きつく瞼を閉ざしてから、総司は息を細く吐いた。何とか、己を落ち着かせようとする。
それに、桜井はあたたかな飲み物をつくってさし出してくれた。
総司は礼を云って受け取り、それをゆっくりと飲んだ。
ホットミルクだった。とたん、日本にいるはずの愛しい彼の事を思いだしてしまう。
この間のバレンタインの夜、ホットミルクをつくってくれた優しい彼──
(……土方さん……)
たまらなく逢いたくなり、せめて声だけでも聞きたいと思った。思わず、枕もとに置いてある携帯電話に手をのばし、取り上げる。
その時、桜井が遠慮がちに云った。
「……先に申し上げておいた方が宜しいかと思いますが」
「何?」
「今日は……水曜日にあたります」
「えっ?」
驚き、総司は桜井をふり返った。
それに、桜井は沈んだ表情で言葉をつづけた。
「あれから、もう三日たっているのです。沖田さんは三日間昏睡状態にありましたから」
「三日って……じゃあ、状況はどうなったのです! この国は!?」
「……」
桜井は目を伏せ、ゆっくりと首をふった。
それに、総司は愕然としたまま、目を見開いた。
駄目だったという事なのだ。勝敗はもう定まり、この国は邪悪に支配されてしまった。
天使たちは悪魔に負けたのだ。
総司は両手でシーツをぎゅっと握りしめた。呻くような声が喉奥からもれる。
「ぼくの……せいです」
「そんな」
「ぼくが不甲斐ないばっかりに……天使達も、人々も救う事ができなかった。悪魔達の思うがままにされてしまった……」
「我々の力不足です。沖田さんが責任を感じられる事ではありません」
桜井はそう云ってくれたが、総司は到底納得できなかった。きつく唇を噛みしめ、俯いている。
そんな総司に、桜井が云った。
「なるべくここを早く発たなければならないのです。出来れば、今夜中にも……」
「わかりました」
「今の体調ではすぐ飛ばれる事は無理だと思い、飛行機の手配をさせて頂きました。今夜、この国を発つ便がありましたので……」
桜井の気遣いに、総司は小さく頷いた。
一人きりになってから、再び携帯電話を取り上げる。声が聞きたいとは思ったが、それでもつい彼の迷惑を考えてしまった。仕事中かもしれないのだ。
総司は明日帰国するという事だけメールで送信すると、携帯電話を静かに閉じた。
ゆっくりとベッドから降り、身支度を始める。
音に気づいてふり返れば、窓の外は雨が降り出していた。まるで、この国の運命を暗示するかのような、陰鬱な雨。
それを総司はしばらくの間、静かな瞳でじっと見つめていた……。
日本へ着いたのは、夕刻だった。
直行便はなく、乗り継ぎをくり返したための時間的ロスだ。
総司は沈みきった気持ちで、成田に降り立った。入国手続きをすませてから、ゲートを出る。
だが、その瞬間──息を呑んだ。
「!」
ゲートから出てきた総司に、ベンチに腰かけていた一人の男が立ち上がったのだ。しなやかな動作で、ゆっくりと歩み寄ってくる。
薄い色合いのサングラスをかけ、濃紺の薄手のセーターにブラックジーンズ、クリーム色のコートというラフな格好をしていた。いつもの端正なスーツ姿とは全く違っていた。
だが、すぐわかった。
それがいったい誰なのか───
「……っ」
思わず彼の名が喉奥まで突き上げ、はっと我に返った。本当は、今すぐ男の腕の中に飛び込みたかったが、それも出来ない。
彼の立場を考えると、感情を抑えなければならないのだ。
ただ立ちつくすより他なかった。
そんな総司に歩み寄ってきた土方は、優しく微笑みかけた。
「総司……お帰り」
「……」
応える事さえできない。
驚きと嬉しさで、涙が今にもあふれてしまいそうだったのだ。
儚げに潤んだ瞳で見上げてくる総司に、土方は僅かに眉を顰めた。そっと指さきで頬にふれてくる。
「随分……疲れた顔をしている」
「土方さん……」
「大変だったみたいだ。大丈夫か?」
問いかけに、総司はふるりと首をふった。
「……心配ないです。大丈夫、だから」
「総司の大丈夫は信用ならないよ」
くすっと笑い、土方は総司の細い肩に手をまわした。柔らかく、そっと抱きよせてくれる。
彼の胸もとから、いつもつけているフレグランスと、まぎれもなく愛しい彼自身の匂いがして、総司は全身から力が抜ける気がした。ほっと安堵の吐息をもらし、男の胸もとに身を擦りよせる。
帰ってきたのだと思った。
自分がいるべき場所に、戻ってこれたのだと。
「とりあえず、俺のマンションへ行こう」
歩き出しながら、土方は云った。それに、総司は小さく頷く。
どこでもいい、どこでも構わなかった。
たとえ、そこが世界の果てでも。
永遠の業火に灼かれる煉獄であっても。
この人と、一緒にいられるのならば───
(……土方さん……)
車に乗ってから、優しく抱きよせてくれる土方の腕の中、総司はそっと目を閉じた。
マンションの部屋の扉を開けてすぐ。
とろけるようなキスから始まった情事は、まるで嵐のようだった。
寝室へ行くまでも我慢できず、総司自身が土方に縋りついたため、リビングのソファで躯を重ねた。半ば脱がされた衣服と彼のぬくもりの中で、何度も甘い快楽の頂きへ追い上げられ、喘ぐように泣いてしまう。
男の腕の中で貪るように愛され、声も枯れるほど叫んだ。
だからなのか、情事が終わった後も、総司の声は少し掠れていた。
だが、その幼くも甘やかな声はむしろセクシャルだと、土方は苦笑まじりに思った。
「喉が渇いただろう」
そう訊ねる土方に、総司は小さく睫毛を瞬かせた。こくりと頷く。
「少し……」
「何かつくってこよう。何がいい?」
「……ホットミルクが欲しいです」
即座にそう答えた総司に、土方はくすっと笑った。白い額にキスを落し、悪戯っぽい瞳で覗き込む。
「バレンタインの夜につくった奴か? 余程、気にいってくれたんだな」
「うん……」
素直に頷く総司が、何よりも愛おしい。
土方は微笑み、手早く衣服を身につけると、キッチンへ立っていった。それを見送り、総司はそろそろと躯を起す。
先程、彼が自らの手で綺麗にあたたかいタオルでぬぐってくれたため、躯は清められていた。シャワーを浴びるのも億劫なほど疲れている総司を、気づかってのことだ。そんな彼の優しさが、たまらなく嬉しかった。
総司は床に散らばっている衣服を引き寄せ、身につけた。かるく髪も整えたところで、土方が戻ってくる。
「ほら……ホットミルクだ」
優しい笑顔とともにさし出され、総司は安堵の気持ちとともにそれを受け取った。一口飲んでみれば、あの時と同じように甘いブランデーの芳香がミルクとまじりあい、とてもおいしい。
「……おいしい」
そう呟いた総司に、土方は微笑んだ。傍らに腰を下ろし、その細い肩を抱きよせる。
「こんな誰でもつくれる簡単なものだが、気にいって貰えて嬉しいよ」
「ううん……誰でもいい訳じゃないのです」
総司はふるりと首をふった。大きな瞳でまっすぐ彼を見つめる。
「あなたがつくってくれたものだから、おいしいの。嬉しいのです……幸せなの」
「総司……」
「土方さん、あなたに逢いたかった。あの国で……辛い時、怖い時、一番初めに思い出したのは、あなたの事だった。あなたに逢いたくてたまらなかった……」
「俺もそうだよ」
土方は柔らかく総司の躯を抱きよせ、その髪に頬に口づけを落とした。
「俺もおまえに逢いたかった。おまえが日本にいない間……とても淋しかったよ」
そう云ってから、くすっと笑う。
「日本にいてもいつでも逢える訳じゃないのに……不思議だな。距離が遠ざかっただけで、おまえが恋しくてたまらなくなる。総司がいない事がこんなにこたえるなんて、俺自身、思ってもみなかったよ」
「土方さん……」
総司はそっと土方の胸もとに寄りそいながら、訊ねた。
「だから、迎えに来てくれたの?」
「あぁ」
「でも、不思議」
「何が」
土方は小首をかしげた。それに、総司がくすくす笑いながら答える。
「だから……飛行機の時間です。どうして、わかったのかなぁって。まるで、探偵なみの推理力ですね」
「あの国からのルートは限られているさ。調べれば、すぐわかったよ」
「わざわざ調べて、それで……迎えに来てくれたの。土方さん、忙しいのに」
長い睫毛を伏せた総司に、土方は微笑んだ。
「さっきも云ったように、逢いたくてたまらなかったからね。……それに、三日も連絡がとれなかったんだ。心配もするだろう」
「ごめんなさい」
そう謝った総司を、土方は深く澄んだ黒い瞳で見つめた。
しばらく黙ってから、ゆっくりとした口調で訊ねる。
「向こうで……何かあったのか」
「……」
「さっき、辛い時、怖い時って云っただろう? 何か……そう思う事があったのじゃないのか」
そう訊ねられ、総司はきゅっと唇を噛みしめた。
本当はあまり土方にも話したくない。──否、土方だからこそ話したくなかった。
大天使と悪魔という立場を、できるだけ認識して欲しくないから。
ここにいるのは、ただひたすら愛しあう、どこにでもいる恋人たち。
そう、思っていたかったから……。
だが、それでも、彼に縋りたくなったのも本当だった。
以前に云ってくれたように、甘えてしまいたい。
弱さも辛さも不安もさらけ出して、縋りついて───
「……あのね」
総司はそっと土方の手をとった。
そのしなやかな指さきに縋るように自分の指をからめながら、話しはじめた。
「少し……怖かったのです」
「……」
「色々とうまくいかなくて。結局、みんな失敗してしまって」
「……」
「その上、ぼく……大聖堂の中で失神してたのです。三日も昏睡状態で……」
「三日?」
土方は驚いたように総司の顔を覗き込んだ。その黒い瞳が心配そうに揺れている。
「大丈夫なのか、そんな三日も昏睡状態などと」
「はい、大丈夫です。躯の調子が悪くなった訳じゃないから……ただ……」
「ただ?」
総司はきゅっと唇を噛んでから、言葉をつづけた。
「……どうしてだか、ぼく……記憶がなくて」
「記憶がない?」
「その、倒れた時の記憶が全然ないのです。大聖堂まで行った処で途切れてしまっていて……それに、それに、何だか……怖くて……」
「……」
静かに見つめる土方の前で、総司はそっと身を震わせた。すうっとそのなめらかな頬が一瞬、青ざめる。
きれいに澄んだ瞳が不安に揺れた。
「その時の事を思いだそうとすると、怖くて怖くてたまらなくなるのです。真っ黒な闇に飲み込まれてしまいそうな気がして……不安で……」
「総司……」
「だから」
総司は顔をあげると、微かに潤んだ瞳で彼を見つめた。
「空港で土方さんに逢った時、とってもほっとしました。嬉しくてたまらなかった……」
「……」
「思わず抱きついて、泣いてしまいそうになりました」
はにかんだように微笑う総司に、土方は目を細めた。かるく頬にキスをおとしてやる。
「なら、そうしてくれれば良かったんだ」
「できませんよ、そんなの恥ずかしくて」
「でも、俺は嬉しいよ」
くすっと笑ってから、土方は総司の細い躯に両腕をまわした。柔らかく膝上に抱きあげる。
「あ」と声をあげて頬をそめた総司だったが、土方はその華奢な体を膝上に抱いたとたん、僅かに眉を顰めた。
「……さっきも思ったが」
「え?」
「総司、少し痩せただろう? 三日も昏睡状態では仕方がないだろうが」
「うん……それに、その後も何だか食事が進まなくて……」
「気持ちはわかるが、それでは体を壊してしまうぞ」
そう云ってから、土方は腕の中の総司を両腕で囲むように抱きすくめた。
ゆっくりと、まるで子どもをあやすように柔らかく揺らしてやりながら、優しい声で話しかける。
「総司……もう何も心配するな」
「土方…さん……」
目を瞠った総司に、言葉をつづけた。
「俺がいる。おまえの傍には、いつも……俺がいるよ」
「……」
「どんな不安や怖さからだって、この俺が守ってやる。だから、もう何も不安がる事はないんだ」
「……っ」
たちまち、総司の大きな瞳が涙にぬれた。
肩を震わせて泣きながら、土方の胸もとに顔をうずめる。
あたたかく包みこむように自分を受けとめてくれる彼の優しさが、嬉しかった。
なんて幸せなのだろう、と思った。
こんなにも愛されて。
この人を愛することができて、本当に幸せで……
「土方さん……ありがとう」
総司は柔らかく抱きしめてくれる土方の腕の中、たまらない幸福感に満たされながら、云った。
「ぼくを愛してくれて……ありがとう」
「総司……」
土方は総司の頬に額にキスを落とすと、そっと腕の中に再び抱き込んだ。
そして。
己の胸に顔をうずめさせ、髪を優しく撫でてやりながら、僅かに目を細めた。
(……何も覚えてねぇ、とはな)
むろん、それを意図した上で闇の光を放ったのだ。
記憶を失わせ、失神した総司を大聖堂に運んだのも彼だった。
だが、一方では、ひそやかな期待もあったのだ。
もしかすると、すべてを覚えているかもしれない。
この世で最も邪悪で冷酷な存在である魔王が、己の恋人だったのだと。そう、記憶に残されているかもしれないと。
むろん……わかっていた。
総司があの時のことを覚えていれば、すべては終わりだ。
彼に剣をふるうか、それとも、嘆き苦しみながら彼を選びとるのか。
だが、どちらにせよ。
その事によって、総司自身の心──彼への愛の深さを確かめる事ができるはずだった。
もっとも、彼が魔王である事を知った総司が、拒絶したとしても、今更手放すつもりなどないが。
(……俺の愛しい大天使)
「……愛してるよ」
土方は総司の躯を起させると、その瞳を覗き込んだ。
涙をためた睫毛に口づけ、そのまま深く唇を重ねてゆく。
甘く濃厚なキス。
躯の芯まで、蜂蜜のようにとろけてしまいそうな……
「ぁ…ぅ、んっ……」
柔らかなソファへゆっくりとその華奢な躯を沈みこませた。それに、総司が目を瞬く。
「土方さん……?」
「おまえがあまりに可愛い事を云うから、たまらなくなってしまった」
「え」
「もう一度……」
土方は驚く総司の耳もとに唇を寄せると、なめらかな低い声で囁きかけた。
「おまえを……感じさせてくれ」
「……っ」
低めのいい声で囁きかけられ、総司はどきりとした。頬が紅潮し、躯の奥が彼を求めて疼きはじめる。
黙ったまま彼の逞しい胸もとに縋りついた総司に、土方は低く笑った。
「可愛いな、総司」
「だって……」
拗ねたように、桜色の唇を尖らせる。
そんな可愛い恋人の頬や首筋に、羽毛のようなキスを落した。
「愛してるよ……誰よりも」
「土方さん……」
総司が長い睫毛を瞬き、土方を見つめた。
僅かに背を起すと、細い両手をさし出した。愛しい彼の頬にふれ、幸せそうに微笑む。
「ぼくも……ぼくも愛してます」
「総司……」
「土方さん、あなただけを……いつまでも」
そう告げてくれた大天使に、土方は微笑んだ。
そして。
……真実も。
己が失った記憶も。
闇の夜に出逢った男の存在さえ知りえず──ただ、無邪気に一途に彼を愛する大天使を、魔王は優しくそっと抱きしめたのだった……。
月と闇だけが支配する
永遠の夜のなかで
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