総司がバスルームから出てくると、土方はソファに腰かけ本をめくっていた。
 彼の肩越しに広がる東京の美しいイルミネーションが眩いほどだ。
 いつもながら、土方の部屋を夜訪れた時に感じる、どこかくらりとした酩酊を覚えながら、総司は彼の傍へ歩みよった。
 今夜は土方の部屋で一緒に過ごす約束をしていた。
 外で食事をすませ帰ってきた後は、交代でシャワーをあびた。
 恋人の部屋でシャワーをあびる意味を考えると、頬を染めてしまうが、総司自身も彼が欲しい。
 天使ゆえの特性なのか、それとも総司自身に理由があるのか、感じやすいその躯は彼に抱かれると、いつも甘く狂おしいほどの快楽に溺れこんでしまう。


 身も心もとろけてしまいそうな──はちみつの夜。


 総司は思わず、そっと吐息をもらした。それに、土方がふり返る。
 切れの長い目で総司を見つめ、小首をかしげた。
「どうした」
「……う、ううん。何も」
 慌てて首をふった総司は、土方の隣に腰をおろした。見るともなしに、彼が読んでいる本へ視線をおとす。
 とたん、小さく声をあげた。
「あ、この本……」
「そうだ。前におまえがくれた本だよ」
「ですよね。とても綺麗な教会がたくさん載ってる本で……」
 そう云いかけた総司は、不意に口をつぐんでしまった。
 今、開かれているページに載っている写真に、声を呑んでしまったのだ。
 別に禍々しい写真でも何でもない。
 むしろ、美しく清らかな大聖堂の写真だった。
 かなり高層建築された大聖堂だ。塔が三つそびえだち、青空に美しく映えていた。
 だが、この大聖堂がある国は、今───
「……土方さん」
「ん?」
「この教会がある国って、今……内乱ですよね」
「あぁ、そうらしいな」
 土方は僅かに眉を顰め、答えた。そっと、しなやかな指さきで写真にふれる。
「もっとも、この教会は無事でまだ美しい姿を保っているらしいが」
「調べたのですか」
「少し気になったからね。だが……それがどうかしたのか?」
「いいえ……」
 総司は口ごもり、俯いてしまった。


 本当に、彼は何も知らないのだろうか──?
 この国は今、内乱の真っ最中にあり、それは悪魔たちが暗躍している事を意味しているのだ。
 しかも、この国は天使達にとっても重要なポイントであるため、互いの争いが今、激化しつつある。
 近いうちに、伊東か総司自身が向かわなければならない事になっていたのだ。
 その事を、彼は本当に知らないのか。


(……でも、知らなくて当然だよね)


 総司はそっと土方の様子をうかがい、唇を噛んだ。
 悪魔といっても、彼はとても力の弱い悪魔なのだ。最近少し力を増したようだが、それでも、その邪悪さも闇も力も下級悪魔にさえ及ばない。
 そんな彼が対天使との戦いなど知るはずもなかった。
「総司……ほら、ご覧」
 土方はしなやかな指さきで、写真をさし示した。
「この建築法は中世のものだが、とても繊細で美しい。とくに塔の表面をおおう彫刻が本当に見事だ」
「本当に、綺麗ですね」
「この塔の上から望む眺めも、素晴らしく美しいものらしいよ」
 どこか、うっとりした口調で話し、土方は微笑んだ。
 こんな時の──彼が最も好むものの話をする時は、いつも大人びた彼が少年のような瞳になる。
 それを見るのが、総司はとても好きだった。
「いつか……内乱が終わったら、一緒に行ってみたいですね」
 そう云った総司を、土方は驚いたように見下ろした。だが、すぐに優しく微笑んでくれる。
 細い肩を抱きよせ、髪に頬に口づけた。
「……あぁ、そうだな。一緒に行って、この塔の天辺にのぼってみよう」
「はい」
 素直に頷いた総司を、土方は濡れたような黒い瞳で見つめた。指さきがそっと頬から首筋へすべらされる。
 とたん、甘やかな疼きが躯の芯を震えさせ、総司は小さく喘いだ。
 それに、土方はくすっと笑った。
「……可愛いよ」
「土方さん……」
「おまえだけを愛してる」
「ぼく…も、ぼくも愛してます……」
 唇を深く重ねられ、総司は目を閉じた。
 突然、ふわりと躯が浮く。土方に抱きあげられたのだ。
 総司は抗う事なく、細い両腕で彼の首をそっとかき抱いた。


 恋人たちの甘いはちみつのような夜は、まだ始まったばかりだった……。 














「それでは……構いませんね?」
 そう訊ねた伊東に、総司はこくりと頷いた。
 いつもの東京タワーではない。総司自身の書店だった。
 伊東は滅多にここを訪れる事はないのだが、今日は他に都合がつかなかったのだ。
 カウンターごしに、伊東は鳶色の瞳で総司を見つめた。
「無理だけは決してしないように」
「大丈夫です」
「向こうもかなり数をくり出してきているはずです。上級のものも多いやもしれません。くれぐれも油断はしないようにして下さい」
「はい」
 総司は真剣な顔で頷いた。





 結局、例の国へは総司が赴くこととなったのだ。
 天使たちだけの力では防ぎきれず、大天使である総司自らが赴いて直接指揮をとる事になっていた。
 総司はその可憐で可愛らしい容姿に騙されがちだが、いったん大天使としての戦いに入れば、的確な指揮を下し、また自らも有能な戦士となる。
 大天使だけに許された光の剣を容赦なく振るうその姿は、美しいだけに恐ろしいものがあった。





「大丈夫です、油断などしません」
 そう答えた総司に、伊東は苦笑した。
「わかってはいますが……きみはともすれば、熱くなりすぎるから」
「熱く?」
 小首をかしげると、伊東は僅かに目を細めた。
「戦いに我を忘れてしまうという事ですよ。大天使としての責務を果たそうと夢中になるあまり、深入りしすぎるきらいがある」
「深入り……してはいけませんか」
「いけませんね」
 伊東は諭すように、ゆっくりと言葉をつづけた。
「深入りした先にいるのが、下級悪魔なら構わない。だが、もしも上級悪魔だった時……それも複数だった場合、今度は逆に、きみ自身の身が危険に晒されてしまうのですよ」
「……」
「何事も慎重に、無茶をせず。それがきみの覚えておくべき一番の事です」
「……はい」
 こくりと頷いた総司に、伊東は微笑んだ。かるく髪を撫でてやってから、店の中を見回す。
「いつ来てもいい店ですね……とても落ち着いた感じがする」
「もし何かお気に召した本があれば、ご遠慮なく……」
「そうですね、また時間のある時に見させてもらいます」
 伊東の言葉に、総司は小首をかしげた。
「何かご用事が……?」
「えぇ、この後、大学で講義を受け持っているのです」
「それは……お忙しいところ、わざわざすみませんでした」
 ぺこりと頭をさげた総司に、伊東は微笑んだ。
「こちらこそ。私が行くべきところを、きみに頼んでしまった。この埋め合わせは必ずするつもりです」
「そんな……」
 総司はふるりと首をふった。
 いつも、この天使長の伊東の手を煩わせてばかりいるのだ。そのため、伊東は常に多忙な身の上だった。
 総司自身もっと早く大天使として成熟しなければならないのだが、まだまだ経験が足らなすぎる。
「では、報告を待っています」
「はい」
 こくりと頷いた総司に微笑みかけてから、伊東は店を出ていった。それを見送り、総司は吐息をもらす。
 椅子に腰かけ、ぼんやりと宙を見つめた。
 この一件で、しばらくの間、ここを離れなければならないのは確実だった。
 それはもう大天使としての責務であり、仕方のない事なのだが……


(……土方さんに何て云おう)


 正直に話す訳にはいかなかった。
 何しろ、彼は力が弱いとはいえ悪魔なのだ。
 そして、自分は大天使。
 先日の事からも、極力避けてしまいたい話題だった。
 総司は、土方に自分が大天使であることも、彼が悪魔であることも、再認識してほしくないのだ。
 だが、それは決して、土方が悪魔であるがゆえではなかった。
 むしろ、逆だ。
 総司が大天使であることを忌み嫌い、彼が離れていってしまう日のことを、総司は心から恐れていた。
 ただの人であるなら、よかった。
 せめて、ただの天使であるのなら。
 だが、自分は大天使だった。
 大勢の悪魔をこの手で倒してきた──悪魔たちにとっては最も憎むべき存在。
 なのに、土方は自分を愛し、恋人としてくれた。
 それを至上の幸福としながらも、総司は不安でたまらなかったのだ。


 いつか、その恋から覚めてしまい、彼が総司を大天使として忌み嫌ったら?
 もしも……別れを告げられたら?


 そんな不安があるからこそ、総司は自分が大天使であることを、土方に思い出させたくもなかったのだ。
 ただの少年として、愛する男の前では存在していたかった。
 すべてのしがらみも捨て去って───


(そんな事できるはずもないって、わかってるけど……でも……)


 総司は再び、大きくため息をついた。





 その時だった。





「そんなにため息ばかりついていると、幸せが逃げるぞ」
「……え」
 突然の声に、総司はびっくりして顔をあげた。「あっ」と声をあげてしまう。
 いつのまに来たのか。
 そこにはたった今まで考えていた彼──土方その人が佇んでいたのだ。
「──」
 思わず目を瞠った。
 ほの暗い店内の中、その場に佇む彼は息呑むほど美しかった。
 すっきり整えられた癖のない艶やかな黒髪も、総司を見下ろしている濡れたような黒い瞳も、しなやかな指さき一つにいたるまで、思わず見惚れてしまう程だ。
 それも儚げな美ではなく、精悍でしなやかな力強い美だった。
 古書がならぶ薄暗い店内で、静かに佇む端正な彼の姿は水際だっている。
 まるで、そこだけ別世界のようだった。
「……総司」
 土方はかるく腕を組み、微笑みながら総司を見下ろしていた。
 切れの長い目で見つめ、くすっと笑った。
「そんなに驚く事もないだろう」
「だ、だって……」
 総司は思わず口ごもった。ふるりと首をふる。
「ぼく、あなたが来たこと、全然わからなくて……」
「……なるほど」
 土方は唇の端をかるくあげた。
「大天使のおまえに気配を読まれないとは、俺もなかなかなものだ」
「……っ」
 彼の言葉に、総司はびくっと肩を揺らせた。だが、その感情を読まれたくなくて、さり気なく視線をおとす。
「この近くに……用事でも?」
 そう訊ねた総司の前で、土方はカウンターに片手をついて寄りかかった。どこか悪戯っぽい瞳で総司を見つめ、微笑みかける。
「用事などないよ」
「じゃあ、どうして……」
「恋人を訪ねるのに、理由が必要か?」
「そ、そんな事ないけど……」
 総司は慌てて首をふった。だが、先程まで考えていた事のせいか、どうしてもぎこちなくなってしまう。
 それを敏感に察したのか、土方の端正な顔から表情がすっと消えた。しばらく沈黙してから、やがて、しなやかな動作で身を起す。
 え?と見上げた総司を、冷たく澄んだ瞳が見下ろした。
「……どうやら迷惑だったみたいだな」
「え」
「今日は失礼するよ。また連絡する」
 そう云って、土方は踵を返した。そのまま歩み去ろうとした──が、それが不意に阻まれた。
「……総司」
 ふり返ってみると、総司が俯いたまま彼のスーツの袖口をとらえていた。袖口を縋るように掴んでいる細い指が、何ともいじらしい。
「……」
 幼い恋人の仕草に、目を細めた。


(……可愛い事をする)


 実を云えば、先程伊東とすれ違っていたのだ。もっとも向こうは全く気づかず、土方が乗る車の傍を通り過ぎていったが。
 その後に店へ入ってみれば、総司は何やら考えこんでしまっている。ため息ばかりつきながら。
 それに思わず苦笑してしまった。





 総司の考えている事など、すべてお見通しだった。
 おそらく大天使としての仕事でこの国を離れるにあたり、自分に何と云い訳をしようか思い悩んでいるのだろう。
 彼自身に、大天使である事を再認識させたくないがために。
 だが、土方にしてみれば、総司の悩みはまるで裏返しなのだ。
 大天使であるがゆえに、土方は総司に惹かれた。大天使だからこその清らかさ、その瑞々しさに魅了され、どうしても欲しくなってしまったのだ。
 むろん、今は総司のすべてを愛している。
 人でも大天使でも悪魔でも、いっそ土方自身は構わなかった。
 だが、魔王の恋人とするには、人どころか上級悪魔でも無理があるのだ。
 心を身を重ねれば、たちどころにすべてを奪われ、土方の意のままに動く人形と化してしまうだろう。そんな相手に何の興味もわかなかった。
 土方が求めているのは、人形ではない。
 世界中で、たった一人の恋人なのだから───





(総司……おまえは、俺の永遠の恋人だ)


 土方は疼くような愛しさを覚えながら、総司の手にそっとふれた。
 そのまま指さきを柔らかくからめて持ち上げ、ゆっくりと身をかがめた。
 驚いたように見つめる総司に悪戯っぽく笑いかけてから、白い指さきに恭しく口づける。
 まるで姫君にでも対するようなキスに、総司は目を見開いた。
「……ぁっ」
 微かな声をあげ、思わず手を引っ込めた。
 それから、はっと我に返り、慌てて周囲を見回した。幸い、店内に人影はなかったが、もう耳朶まで真っ赤だった。
 それに、土方は微笑んでみせた。
「わかってるよ」
「土方…さん」
「帰ったりしない。少し意地悪しただけだ」
「……」
 総司はちょっと目を瞠ってから、すぐに、その桜色の唇をつんと尖らせた。拗ねたような表情になってしまっている。
 そんな処も可愛いと笑いながら、土方はカウンターに片手をついて身をのりだした。
 僅かに目を伏せ、そっと唇を重ねてゆく。


「……愛してる……」


 誰よりも愛おしい恋人からあたえられる、甘やかな囁きとキスに、総司は夢見るように目を閉じた……。

















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