ベッドの上に寝転がった。
 綺麗にプレスされたまっ白のシーツだ。
 ホテル仕様の上質のベッド。
 部屋の中は淡い明かりにみたされ、大きな窓ガラス越しに、東京の煌めく夜景が広がっていた。
 スーツ姿のまま仰向けに横たわり、土方は天井を見あげる。端正な顔には何の表情もうかんでいなかった。ただ、深く澄んだ黒い瞳で、美しく装飾が凝らされた天井を眺めている。
 しばらくそうしていた土方は、ふっと息を吐いた。電子音が鳴ったのだ。
 ベッドに寝込んだまま、おもむろに携帯電話を取り出した。表示も見ずに、通話を繋いだ。
「……はい」
『土方さん……!』
 相手は、総司だった。
 むろん、初めからわかっていたのだが。
 土方は僅かに苦笑した。
 それを感じとったのか、総司が声をひそめる。
『……大丈夫、なのですか』
「あぁ、たぶん」
 身を起しながら、答えた。
『たぶんって……』
「少し失敗した。だが、まぁよくある事だから」
『土方さんには何もしてないのでしょう? なのに、こんな』
「信じてくれてありがとう」
 優しい声でそう云った土方に、総司は一瞬黙った。
 それから、涙まじりの声で訴えてくる。
『そんなの……そんな、あたり前! 土方さんがぼくの事だけ愛してくれてるの、ちゃんと知っているもの』
「あぁ。愛してるよ……総司」
『土方さん……』
 総司の声が縋るようなものになった。
『あのね、今……どこにいるのですか? マンションじゃないでしょう? どこ?』
「ホテルだ。その方がいいと云われてね」
『ぼく、そこに行っちゃ駄目? 今すぐあなたに逢いたいのです』
「……」
 土方は黙ったまま、僅かに目を細めた。


 心優しい天使の言葉は、耳に心地よい。
 もう幾日、この恋人に逢っていない事か。
 今回の騒動が起ってからは、尚のことだった。むろん、早急に始末はするつもりなのだが。
 だからこそ、土方はここにいる。
 魔王としての強力な結界が張りめぐらされた、この場所に。


「……悪いが、駄目だ」
 土方は僅かに乱れた黒髪を指さきでかきあげながら、答えた。
「ここに来れば、おまえにも迷惑がかかる」
『でも……』
「約束する。すぐ逢えるから、早くこの事を片付けて逢いに行くから……それまで俺を信じて待っていてくれないか?」
 真摯な男の声に、総司は一瞬だけ黙った。
 しばらくの沈黙の後、微かな吐息が電話ごしに伝わる。
『……わかりました。ちゃんと待っています』
「ありがとう、総司」
『でも、体には気をつけてね。無理だけはしないで下さい』
「あぁ」
 土方は頷き、もう総司の眠る時間だからとおやすみの囁きを残そうとした。それを察したのか、総司が小さな声で呼びかける。
『……土方さん?』
「ん?」
『愛してます……あなただけを、誰よりも』
 甘く掠れた愛の告白をラストに、電話は切れた。
 携帯電話を手にしたまま、土方は微かに苦笑した。
「まいったな……」


 せっかく我慢していたのに。
 総司に迷惑はかけたくなかったのに。
 あんな声を聞いたら、たまらなく逢いたくなってしまう。


「とは云っても、そんな事できるはずもねぇか」
 土方は肩をすくめると、携帯電話をベッドの上に放り出した。立ち上がりながらネクタイの結び目に指をさし入れ、しゅっと引き抜く。
 スーツの上着を脱ぎ捨てつつ、部屋を横切った。
 熱いシャワーでも浴び、気分を切り替えようと思ったのだ。
 総司の清冽な空気にふれたいという欲求が、たまらなく胸奥を突き上げてくる。
 汚泥にみちたものに纏わりつかれているだけに、尚更のことだった。
「……ったく」
 土方は、傍らのテーブルに放り出されてあった雑誌の表紙を一瞥し、唇の端をつりあげた。
「俺を利用しようとするなんざ、いい度胸だ」 
 たかが人間のふぜいで。
 この魔王たる自分を、利用しようとするなどとは。
 窓ガラスに映る己の姿を眺め、土方は薄く嗤った……。












 事が起ったのは、今朝の事だった。
 朝発売されたある雑誌の表紙を、土方の写真と名が飾ったのだ。
 それも、今売り出し中の若い女優とともに。
 所謂、スキャンダルだった。
 女優と二人、ホテルのレストランで夕食をとる写真が載せられ、記事では二人が愛人関係であることがまことしやかに報じられた。清廉潔白など真っ赤な偽り。金と肉体関係で若い女優を弄ぶ、堕落した政治家という記事内容だった。
 しかも、その女優がまだ未成年であった事から、騒動はより大きくなった。
 土方の父親は激怒し、彼を問い詰めてきたが、土方自身は平然としていた。いつもどおり、外面の良さで乗り切ったのだ。
 むろん、これは全て事実無根のでっちあげ記事だった。
 そもそも、この写真の食事風景も、本当は他に大勢同席者がいたのだ。それを上手い具合に二人きりでの食事のように撮影されてある。その後、ホテルを出る時、妙に女優が傍へ寄ってきた挙げ句、つまずいた処を支えてやったのだが、その写真も当然載せられてあった。彼の腕にかけられた白い手、伏せられた顔、それはどう見ても抱きあう男女の姿だった。
 山崎が調べたところ、土方の名を使って売り出しをしたいと目論んだ若い女優と、土方の失脚を狙う政敵によるでっちあげスキャンダルだった。仕組んだのは政敵であり、それに協力し便乗したのが女優の方だ。
 人として過ごしている事が面倒になるのは、こういう瞬間だった。





「──面倒と云って過ごされる問題ではありません」
 沈痛な表情で、山崎が云った。
 それを、一人がけソファに身を沈めた土方は冷ややかに眺めた。
 シャワーを浴びた処なので、白いバスローブ姿だ。黒い髪、黒い瞳によく映え、男の色気を感じさせる。彼には、人を酩酊させてしまう、独特の艶やかな雰囲気があるのだ。
「……むろん」
 形のよい唇が告げた。 
「そんな問題じゃねぇな。これぐらいもみ消す事ができなかったおまえも、たいがいだが」
「申し訳ありません」
 秘書としての力量を否定され、山崎は項垂れた。
 だが、それに、土方は軽く嘆息しただけだった。手にしたグラスを弄びながら、言葉をつづける。
「まぁ……罠に嵌められた俺自身も、褒められた話じゃねぇか」
「……」
「とりあえずは、この後始末で挽回しろ。手段は選ばなくてもいい」
「承知致しました」
「あぁ、それから……」
 土方は手元の封筒を引き寄せると、それを無造作に山崎へむかって放り投げた。慌てて受け止めた山崎が、その中身を確かめる。
「使っていいからな」
「──」
 山崎は唖然とした顔で、土方を見た。
 それに、土方は、琥珀色の酒が入ったグラスを唇に押しあて、薄く嗤った。ブランデーの芳香が部屋の中に甘くたちのぼる。
「……使わせて頂きます」
 ようやく事の絡繰りに気づいたのだろう。山崎は僅かに嘆息し、目を伏せた。
 丁寧に一礼してから、部屋を出てゆく。
 遠くで扉が閉まる音を聞きながら、土方はくすっと嗤った。
「ったく……実直すぎるってのも、少し考えものだな。下級であっても悪魔は悪魔だろうに」
 何一つ疑っていなかったらしい、生真面目な山崎の姿が可笑しかった。
 だが、悪魔としての邪悪さはともかく、山崎は能力のある男だ。でなければ魔王の秘書など勤まるはずもない。
 恐らく明日の今頃にはほぼ片付いているだろう。アレを使えば、尚の事だった。
「さて、と」
 土方はグラスをテーブルの上に置くと、立ち上がった。バスローブを脱ぎ捨て、黒のヘンリーシャツとブラックジーンズに着替え始める。
 ホテルから出る事は駄目だとわかっていたが、今、どうしても総司に逢いたかった。己が呼び込んだ事とはいえ、汚泥に纏わりつかれていると、たまらなく総司の冷涼さが欲しくなるのだ。
 だが、むろん、このままで行けるはずもなかった。
 部屋から出ること自体、危険なのだ。
 だから。
 土方は小さく嗤うと、そっと静かに床へ跪いた───













 総司はパジャマ姿のまま、枕をぎゅっと抱きしめた。
 アパートの一室だ。ベビーブルーで纏められた部屋は、あたたかい空気で満たされていた。以前、土方が買ってくれたオイルヒーターが、柔らかなあたたかさを与えてくれている。まだ秋口だったが、急に冷えてきたため、押し入れから出してきたのだ。
 だが、総司の心は、今、寒くてたまらなかった。
「……土方さん」
 見あげれば、紺色の夜空は晴れ渡り、銀の月が細く光っている。
 こんな月が美しい夜はたまらなく飛びたくなってしまうが、もうパジャマに着替えてしまっていたし、何よりも今夜はそんな気に到底なれなかった。
 朝方、テレビで知った土方のスキャンダル。
 まさか、と思った。
 あのいつも誠実で生真面目で、政治家としても隙のない彼が、こんなスキャンダルにまきこまれるなんて。
 しばらくの間、呆然とテレビ画面を見つめていたのだ。
 だが、一方で、これが本当だとは到底思えなかった。
 誰にも知られていない恋だけれど。
 彼は、自分の恋人なのだ。
 滅多に逢えないけれど。
 いつも深く激しい愛情で、抱きしめてくれる。
 そんな彼が、他の誰かに心を惑わされる事など、ありえるはずもなかった。


(……でも)


 総司は枕を抱えたまま、長い睫毛を伏せた。きゅっと桜色の唇を噛みしめる。
 ある不安が、怖さが、総司の心を小さく小さく揺さぶってくるのだ。水面に落とされた一滴の雫のように、どこまでも波紋を広げてゆく。
 それは、日頃の思いに深く根ざしているが故のものだった。
 今回は偽りのスキャンダルのようだったが、それでも、土方ほどの男なら、女性関係どころか結婚問題は避けて通れないことだろう。これから先、いつか必ず実際起こりうるだろう出来事。
 そして、その時、総司は彼から離れなければならなかった。
 政治家である彼の傍にいるべきなのは、こんな少年の天使ではなく、美しく聡明な女性であるべきなのだから。
 だが、それが本当に出来るのかどうか。
 今更、彼と離れて生きてゆけるのか。
 総司にはそんな自信など、まったくなかった。
「……」
 はぁっとため息をつき、総司は瞼を固く閉ざした。抱きしめた枕に顔をうずめる。
 その時、だった。
「? ……何?」
 部屋のどこからか、カリカリという音が聞こえたのだ。
 何か、引っ掻くような音だ。
 それに総司は細い眉を顰め、部屋の中をぐるりと見回した。だが、どこにも異変はない。
「おかしいなぁ……」
 そう呟いた時、またカリカリと引っ掻く音がした。それにすぐわかる。
 総司がいるベッド脇の窓だ。そこで音がしているのだ。
「?」
 そおっとカーテンを押し開いてみた。
 とたん、総司の目が瞠られる。
「あ」
 そこにいたのは、黒猫だったのだ。
 片脚をあげ、時々、窓ガラスを爪で引っ掻いている。
 総司が顔を覗かせたのを見ると、にゃあと小さく鳴いた。
「わぁ、可愛い」
 たちまち、総司の顔がぱっと輝いた。
 大天使であり心優しい総司は、とくに動物や小さな子どもがだい好きだ。もしも神のような力があるのなら、祝福をあたえてやりたいと願うほどに。
 急いで窓を開け、総司は手をさし出した。黒猫を抱きあげようとする。
 だが、黒猫はするりと敏捷に体をくねらせ、窓の間から部屋の中へ勝手に入ってきた。ベッドの上へすとんっと降り立ち、紫がかった黒い瞳で総司を見あげる。
「何だか、強引な猫さん」
 くすくす笑いながら、総司は窓とカーテンをしめた。
 身をかがめ、目の前にいる黒猫をじっと見つめる。
 とても綺麗な黒猫だった。
 漆黒の毛が天鵞絨のごとく艶やかで、濡れたような黒い瞳が印象的だ。
 どこも汚れた処はなく、きちんと手入れされた猫のようだった。つまりは、飼い猫なのだろうか。
「……でも、首輪ないしなぁ」
 総司は小首をかしげ、そっと手をのばした。黒猫の喉もとあたりを指さきでくすぐる。
 それに、黒猫は気持ちよさそうに目を細めた。警戒心を解いたのか、総司の手のひらにしなやかな身を擦りつけてくる。
「うふふっ、可愛い」
 総司の声が弾んだ。
 さっきまでの物思いが、ほんの少しだけだが薄れてくる。
 沈んでいた心が癒されるようだった。
「ここにいる? 今夜だけでも……一緒にいてくれる?」
 総司は手のひらで艶やかな毛なみを撫でてやりながら、問いかけた。答えなど返るはずもない。
 黒猫は黙ったまま、その紫がかった黒い瞳でじっと見あげてきた。尻尾がゆらりと揺れる。
 それがまるで「いいよ」と云ってくれているようで、総司は思わず微笑んだ。黒猫を両手ですくいあげ、胸もとにそっと抱き寄せる。
 逃げるかな?と思ったが、案外、黒猫はおとなしく総司に抱かれていた。
 そのまま、そろそろとベッドに横たわり、毛布を肩まで引き上げたが、それでも逃げない。
 総司の腕の中で身を丸め、黒猫も眠りにつく事にしたようだった。
 それがたまらなく嬉しい。
 ぬくもりが心地よく、総司の心も優しくあたためてくれるようだった。


 まるで、あの。
 今は逢えない、愛しい彼のように。


「……おやすみなさい」
 そっと囁くと、総司は静かに瞼を閉じた。
 その胸もとで、まるで答えるように黒猫がにゃあと鳴いた。












「あの人を陥れようとするなんて、ね」
 黛は小さく笑いながら、すらりとした脚を組み替えた。
 かるくウェーブした髪を指さきで弄りながら、言葉をつづける。
「よりによって、あの人だもの。相手が悪すぎるわよね」
「まぁ、そうですね」
「皆が騒がしいわよぉ。いっそ、あの女優、たべちゃおうかって話も出てる。うふふっ、あたしもぜひ参加したいわ」
「勝手に動けば、彼の不興を買いますよ」
 そう答えたのは、斉藤だった。
 斉藤の店だ。
 いつもどおり美しい宝石に細工を施している彼は、どこから見ても穏やかな好青年にしか見えない。だが、それは偽りの姿だった。これでも、あの魔王たる土方の右腕であり、最強の悪魔として敵である天使たちはおろか、味方であるはずの悪魔たちにまで恐れられている存在なのだ。
 その斉藤が唯一膝を折ったのが、魔王たる土方なのだが───
「何もかも……あの人らしくない」
 そう呟いた斉藤に、黛は「え?」と小首をかしげた。それに、言葉をつづける。
「だから、あの人らしくないと云ったのです。たかが人間の仕掛けた罠にひっかかるなんて、今までのあの人ならあり得なかった事だ」
「そうねぇ」
 黛は小首をかしげた。紅いルージュをひいた唇に、ひとさし指をあてる。
「確かに、彼らしくないわね。いったい、どうしちゃったのかしら」
「……」
「あの大天使に溺れこみすぎて、力が衰えた? 油断してた?」
「まさか」
 斉藤は思わず苦笑した。


 だいたい、あの男が恋に目が眩み油断するような人物なら、こちらも苦労はしないのだ。
 その程度の男なら傀儡としてしまい、斉藤自身が支配者として君臨する事もできる。
 だが、土方は、大天使との恋さえも己の力となし、より最強になってゆく邪悪な魔王だった。
 何しろ、最近の魔王としての手腕は、目を瞠るものがあるのだ。力が衰えるどころか、より強大な力を備えつつある。
 だが、なら──どうして?


「……やっぱり、策略ですね」
「策略?」
「つまりは、この騒動の黒幕は、土方さん自身だという訳ですよ」
「何、それ」
 黛は驚いたように目を瞠った。
 それに肩をすくめながら、答える。
「ま、今日中にでもその答が出るでしょう。たぶん、前々から煩かった政敵をつぶすためか、それとも退屈しのぎか」
「……あの人なら、理由はどちらも?」
「たぶんね」
 あっさり答えた斉藤に、黛は「あっきれた」と呟いた。が、すぐにくすくすと笑い始める。
「でも、それなら……この後が楽しみー!」
「何故です」
「だってぇ、色々とおいしいチャンスがあるかもしれないじゃない」
「あの人の政敵は、醜い中年男ばかりですよ」
「違う違う、あの女の子よ。ほら、スキャンダルの女優。まだ18才だっけ? ぴちぴちして、おいしそう♪」
 ぺろりと舌なめずりした黛を、斉藤は呆れたように見やった。
「殺したらまずいですよ」
「あら、そんな事するもんですか。たーっぷり可愛がって、あたしの従順な下僕にしてあげるわ」
 基本的に、天使と同じ事なのだが、悪魔も性別がない。
 人から悪魔になったものならともかく、もう何百年も悪魔をやっているような彼らの場合は、特にそうだった。
 それ故、黛にとって、生気が吸える相手なら男でも女でも構わないのだ。
「騒動がおさまったら、土方さんにねだってみたらどうです」
「あーの子が、欲しい〜って?」
 童謡の節をつけて云った黛は、「あ」と小さく声をあげた。バックの中で携帯電話が鳴ったのだ。
 メールの画面に視線を落として、ちょっと唇を尖らせた。
「やだ、お仕事入ったみたい。そろそろ行かなくちゃ」
「売れっ子モデルさんは忙しいんですから、こんな処で油売ってる場合じゃないでしょう」
「まぁね。じゃ、行くわ」
 黛はいつものように斉藤の頬に唇を寄せると、ひらりと身をひるがえした。ピンヒールの音をたて、鮮やかな身ごなしで店を出てゆく。
 それを見送り、斉藤は僅かに目を細めた。
 先程の会話を思い出したのだ。


 土方の考えている事は、全くわからない。魔王の右腕たる彼にさえ、その一片も見せぬところが土方だった。
 いつも冷笑をうかべ、単独行動を好み、時折、気まぐれのように命令を下してくる魔王。
 だが、それがまた嫌味なほど的確で成功率の高い駒運びで。


(……もしかすると)


 斉藤はふと思った。
 土方にとって、大天使たちとの戦いなど、チェスのようなお遊びなのかもしれない。
 背の高い一人掛けソファにゆったりと腰掛け、長い足を組んで頬杖をつき、薄く嗤いながら、的確にチェスの駒をしなやかな指さきで操る。
 そんな魔王の姿が、脳裏にうかんだ。
 だが、だとすれば、人としての争いごとなど、土方にとっては遊びどころか退屈しのぎにしか過ぎないだろう。
 何も知らず彼を相手にした連中の末路を思いやり、斉藤は小さく苦笑した。


 その時だった。


 ゆっくりと。
 道路に面したガラス扉が開かれた───


(……え?)


 斉藤は驚き、鋭く息を呑んだ。
 そこに佇んでいたのは総司だったのだが、いつもなら遠くからでも気配を感じさせるのに、今日は全くそれがなかったのだ。
 まさに不意打ちだった。
 いったい、どうしてなのか。
 その原因に、気をとり直し歩みよりかけた斉藤は、すぐさま気がついた。
「……な……っ」
 思わず声をあげてしまう。
 それに、華奢な体によく似合うホフホワイトのシャツと、ジーンズ姿の総司はきょとんと小首をかしげた。
「? どうかしたのですか?」
「い…いや……」
「あ、この猫? もしかして……斉藤さん、猫嫌い?」
 総司は腕に抱いた黒猫を、優しく抱きなおした。黒猫はおとなしく少年の腕に抱かれている。
 その光景に、斉藤は唖然とする思いだったが、それを総司に告げる訳にはいかなかった。
 だが、しかし。


(……この人、何やってるんだ)


 呆れたように見つめる斉藤の前で、黒猫はゆっくりと目を開いた。