紫がかった黒い瞳が、斉藤を見つめる。
宝石のように美しく。
妖しい光をうかべた艶やかな瞳が───
思わず見返した斉藤に、総司がにこにこしながら云った。
「昨日の夜、うちの部屋に迷い込んで来たんです。とってもおとなしくて、かしこい猫さんなんですよ」
「……へぇ」
「土方さんの事があってちょっと落ち込んでたんだけど、この猫さんのおかげで随分慰められました」
そう云うと、総司は黒猫をかるく抱きあげた。
「ね?」
と云いながら、ちゅっとキスをしている。
それを呆れたように眺めながら、斉藤は云った。
「やっぱり、土方さんのこと……気になっているんだな」
「……えぇ」
総司はふと瞳を翳らせた。椅子に腰かけ、膝上でくつろぐ黒猫の背を優しく撫でながら答える。
「昨日の夜、電話したんですけど……」
「話したのか」
「少しだけ」
長い睫毛を伏せ、ちょっと淋しそうに微笑んだ。
「逢いたいって云ったら、今は駄目と云われちゃって」
「ま……あの状況じゃ仕方ないな」
「わかってはいるんですけど、待ってると返事はしたんですけど……でも、不安で」
「土方さんの事を信じてないのか?」
笑みを含んだ鳶色の瞳で黒猫を眺めながら、斉藤は訊ねた。すると、黒猫が頭をもたげ、じっと見つめ返す。
「スキャンダルが事実だと、思っている? あの女優が本当に彼の愛人だと?」
「そんな事……!」
総司は激しく首をふった。
「そんなこと思ってませんけど。でも……」
「でも?」
「時々、不安になるのです」
総司は黒猫を両手で抱きあげ、ぎゅっと胸もとに抱きしめた。
「あの人の隣にいるのが、本当に自分でいいのかなぁと」
「……」
「土方さんは政治家だし、いつかは結婚しなければならない身でしょう? あの人に相応しいのは、きれいで聡明な女性のはずだから」
「けど、総司」
斉藤はショーケースに寄りかかり、かるく腕を組んだ。
先程とはまったく違う、穏やかで優しい光をうかべた瞳で、総司を見つめた。
「確かに、おまえが云うことは本当かもしれないけれど、でも」
「……」
「今、土方さんの隣にいるのは、おまえだろう?」
「──」
総司は驚いたように顔をあげ、斉藤を見た。
それに微笑みかけてやる。
「恋人として愛され、彼を愛しているのは、総司……おまえ自身だ。その事にもっと自信をもつべきじゃないかな」
「斉藤さん……」
「この先どうなるかなんて、そんなの考えていたらキリがないだろ。どんな仲の良い恋人達にだって別れが来るかもしれないし、来ないかもしれない。その不安は誰にだってあるのだから、ならいっそ、そんなの全然考えない方が人生お得だとオレは思うけどね」
総司の目が大きく見開かれた。
しばらく斉藤のことをじっと見つめていたが、やがて、小さく笑う。
「意外です」
「え?」
「斉藤さんって、見かけによらず前向きなんですね」
「何だ、それじゃオレ、見かけは後ろ向きな訳?」
「違いますよー」
総司はくすくす笑い、また黒猫をぎゅっと抱きしめた。それから、素直な気持ちのまま告げる。
「ありがとう、斉藤さん」
「ん?」
「気持ち、楽になりました」
「それは良かった。じゃあ、気分が変わったところで、お茶にでもしようか」
「あ、クッキー焼いてきたのです。一緒に食べましょう?」
いそいそとバックを開ける総司に微笑み、斉藤は踵を返しかけた。が、その一瞬、黒猫と視線があう。
(……一点貸しですよ)
心の中でそう笑った斉藤に、黒猫の目が悪戯っぽく瞬いた気がした。
むろん、それは気のせいではないだろう。
「さて、今日はカフェオレにしますか」
斉藤は何となく上機嫌になりながら、軽い足取りで奥の部屋へと入っていった。
「今日の夕飯は、トマトリゾットだよ」
総司は部屋へ戻ると、黒猫にむけて優しく笑いかけた。
それに、黒猫はにゃあと鳴いてみせる。
まるで「わかった」と云っているようで、総司はくすくす笑った。
本当に、この黒猫のおかげでどれだけ心が慰められたことか。
「すぐ作るから、待っててね」
総司はキッチンへ入ると、冷蔵庫を開けた。手早くセロリや人参、ベーコンなどを出し始める。
ふと気づいてテレビをつけると、夕方のワイドショーがやっていた。それを見るともなしに眺めながら、夕食の用意をする。
例の黒猫はソファの上で躯をまるめ、眠っているようだった。
「──あ」
不意に、聞き慣れた名が耳をかすめた気がして、総司はぴくんっと躯を震わせた。
慌ててふり返ってみると、ワイドショーで彼のことが報じられている。
また例のスキャンダルの続きかと止めようとした総司は、下に走ったテロップに、目を見開いた。
「……な…に? え……」
すべてが明るみに出されたのだ。
今回のスキャンダルはすべて土方の政敵である者たちが仕組んだものであり、事実無根であったこと。
レストランでの写真もすべて真実のものが晒され、二人きりでなく大勢での会食だった事、二人はそのレストランで初めて顔をあわせたが、言葉をほとんど交わしもしなかった事、挙げ句、この若い女優と組んでのでっちあげスキャンダルだった事などが全て、暴露されていた。
逃げる女優が映し出され、テレビの中はものすごい騒ぎだ。
「……じゃあ」
総司はぺたんと床に座り込むと、小さく呟いた。
「土方さんの誤解……とけたんだ」
よかった、としか云いようがなかった。
こんなスキャンダルもよくある事なのだろうが、土方が巻き込まれたのは初めてだったため、不安で不安でたまらなかったのだ。
いくら彼を信じていても、それでも逢えなければ不安にもなる。怖くもなる。
この不安を埋めるためにも、早く彼に逢いたかった。
早く、あの力強い腕で抱きしめてほしかった。
だが──おそらく、この騒動が完全におさまる迄は駄目だろう。彼の処にも、マスコミが押し寄せているに違いないから。
彼は被害者なのに。
「……土方さん……」
総司は小さく彼の名を呼び、一瞬だけ目を閉じた。
それから、手をのばすとパチンとテレビを消した。ため息をつきながら後ろをふり返る。
とたん、あれ?と小首をかしげた。
黒猫の姿がないのだ。先程までソファで寝ていたはずなのに、その姿はどこにもなかった。
「え、え……猫さん、どこ?」
総司は慌てて部屋中をあちこち探しまわった。
だが、狭い室内だ。隠れるところなどほとんどない。なのに、黒猫の姿は忽然と消え失せていた。
まるで、初めからそこにいなかったように───
「……出て、いっちゃったの……?」
総司は部屋の真ん中で、呆然と立ちつくした。
くつくつ煮えるリゾットの音がだけが部屋に響いた。
総司の他には誰もいない。
一人ぼっちの部屋。
「……猫さん、黙って出ていくなんて酷いよ」
総司は俯き、きゅっと唇を噛みしめた。それから、ぶるっと身震いする。
黒猫のぬくもりが消えたとたん、部屋の温度まで下がってしまったような気がしたのだ。
「……」
のろのろと部屋を横切り、総司はキッチンへ入った。おたまで一掻き回ししてから、コンロの火を消す。
一人淋しい夕食だが、いつものことだ。仕方がなかった。
総司はローテーブルの前に坐ると、リゾットを食べようとスプーンを取り上げた。すくったスプーンを口許へ運ぼうとする。
その時、だった。
「──?」
不意に、呼び鈴の音が鳴ったのだ。
こんな時間にいったい誰だろう?と、総司は小首をかしげた。だが、放っておく訳にもいかない。
総司は立ち上がると、「はぁい、どなた様ですか?」と扉ごしに問いかけた。
すると。
「……総司」
低い、どこか甘やかさを含んだ声が呼んだ。
「!」
総司の目が大きく瞠られた。
もう一度呼びかけられてから我に返り、慌てて靴下のまま土間へ降りた。
扉を押し開いたとたん、冷たい外の風が入り込んでくる。
だが、先程と違い、ちっとも寒くなかった。
あっと思った時には、ずっと求めていた力強い腕で抱きしめられていたのだ。
「……ぁ」
背が撓るほど抱きしめられ、狂おしいほど髪に額に頬に、キスが落とされる。
冷えた彼の手が細い躯のラインをたどり、きつく狂おしく抱きしめた。
「……土方…さ、ん……っ」
バタンと扉が閉まったが、それも意識はしていない。
二人は玄関口で立ったまま抱きあい、唇を重ねた。躯の芯までとろけてしまいそうな、激しく濃厚なキス。
きれいな指さきが総司の髪を柔らかくかき乱し、それにさえ感じて縋りつくと、より口づけは深くなった。何度も角度をかえ、貪るようにキスをかわす。
まるで、キスを禁じられていた恋人たちのように。
「……ぁ…は、ぁ…んっ……っ」
桜色の唇が艶やかに濡れた頃、のけぞった白い喉もとに口づけられた。彼の熱い唇が雪のような肌に押しあてられ、紅い花びらを残してゆく。
セーターをまくりあげ、あちこちに口づけ始めた彼の頭を、総司は両腕で抱きしめた。玄関脇の壁に凭れていないと、今にも膝から崩れ落ちてしまいそうだ。
いつ、床へ柔らかく引き倒されたかなんて、もう覚えていなかった。
気がつけば、ぐしゃぐしゃに乱れた衣服の中で、男の欲望に貫かれ、甘い悲鳴をあげていた。
「ぁっ…ん、ぁあっ、ぁあんっ」
抱かれ、揺さぶられ、突き上げられて。
玄関口で抱かれるという初めての経験に、総司はいつもより快楽に溺れ乱れた。
「っ、は…ぁ、ぁあっ…土方…さ……っ」
「……っ、総司……」
「んっんんっ、ぁ…ゃぁあっ、ぁあッ」
必死になって彼の広い背にしがみついた。
土方はまだ衣服を着けたままだったので、黒いシャツに胸の尖りが荒く擦れる。少し痛みに似た快感。
それもまた刺激になって、総司は甘い嬌声をあげた。
「ぁあ、ぁ…んっ」
そんな総司を、土方は欲望に濡れた黒い瞳で見つめた。項を掴むようにして引き起こし、深く唇を重ねる。
そのまま何度も乱暴に突き上げれば、くぐもった悲鳴がもれた。
「っ、ぁ…ぅっ…くぅ…ッ!」
「……っ、は……」
「ぅっ、ぁ…っ、ぁあっ…ッ」
貪るように激しく揺さぶる土方の腕の中、総司は歓喜の声をあげ身をのけぞらせた。
艶やかに咲き零れる、美しい花のように。
「……総司……愛してる……っ」
掠れた声で、そう囁きながら。
からめあう指さきをきつく握りしめた土方を。
己自身の躯の奥で、深く深く感じて。
まるで、夢のように。
(ぼくも……愛してます……)
総司はうっとりと目を閉じたのだった……。
「さっきまでね、黒猫がいたんです」
総司はベッドの上で寝そべりながら、そう云った。
先程までの嵐のような時間は過ぎ去り、今、部屋には優しく穏やかな空気が流れている。
玄関でそのまま抱きあってしまった後、シャワーを浴び、だが、結局ベッドへ戻ってもう一度。
逢えなかった不安を埋めるように求めあった恋人たちは、今、白いシーツにくるまり甘いキスをかわしながら、久しぶりの一時を楽しんでいた。
「……黒猫?」
かるく小首をかしげた土方に、総司はこくりと頷いた。
「真っ黒で、とても綺麗な瞳をした猫さんで……昨日、うちに迷い込んできたんです」
「迷い猫ってことか」
「でしょうね。さっき気が付いたらいなくなっちゃって、とても淋しかったんですけど……でも」
総司は猫のように土方の胸もとへ身をすりよせた。
「あなたが来てくれたから、あなたに逢えたから、淋しさが消えました。きっと、あの猫さんも飼い主の処に戻ったんでしょうね。おかげで、ぼくはとっても元気づけられたから、お礼ぐらい云いたかったけれど」
「元気づけられたって、猫に?」
不思議そうに問いかけた土方に、総司はこくりと頷いた。
「えぇ、今回のことで……ぼくもやっぱり不安だったから。あの猫さんがいてくれた事で、気持ちがとても楽になったんです」
「総司……」
土方は僅かに眉を顰め、片手をのばした。そっと柔らかく少年の頬に指さきでふれる。
「すまない……おまえにまで、不安な思いをさせて。本当に申し訳なく思っているんだ」
「そんな……! 謝らないで」
総司は慌てて首をふった。
「あなたが悪いんじゃないのだから。さっき、テレビで見ました。全部、嘘だったって。他の人が土方さんを陥れるために仕組んだ罠だったって」
「……あぁ」
「きっとまだしばらくは大変だと思うけど、でも、被害者はあなたなのだから、ぼくに謝ったりしないで下さい」
「わかったよ」
土方は苦笑し、総司の頬にかるくキスを落とした。
それに嬉しそうに笑った総司が身を起こし、訊ねてくる。
「そう云えば、土方さん、晩ご飯はまだでしょう?」
「あぁ」
「じゃ、簡単なものですけど、用意しますね。もともとリゾットだったんですけど、冷めちゃってるしあたため直して……後は、んー、オムレツとサラダかな」
「十分だ。俺も手伝おうか?」
「ここはぼくの家だから、ゆっくり寛いでいて下さい」
総司はベッドからするりと降りると、手早く衣服をつけてキッチンへ歩いていった。ちょっと足取りがゆっくりなのは、先程の行為のためだろう。
それを苦笑しながら眺め、土方も身を起こした。ベッド脇に置いていた黒いシャツとジーンズを身につけ、立ち上がる。
ふと気づいて窓の外を見やれば、いつのまにか雨が降り出していた。しとしとと冷たい雫が窓ガラスを打ってゆく。
(昨夜でなくて良かったな)
土方はそんな事を思い、薄く嗤った。
例のスキャンダルは山崎が思惑どおりにほぼ納めてくれた。
後は、明後日あたりに、実は、あの女優と彼の政敵自身が肉体関係と金、つまりは愛人関係であったことを暴露すれば、それでジ・エンドだ。今のところそんな事実はないのだが、悪魔たちがそう操り行動させる予定だった。
悪魔に唆され操られた二人は、さぞかし面白い悲喜劇を見せてくれる事だろう。
名誉毀損のため提訴の話も出てくるだろうが、土方は一切行わないつもりだった。彼が何もせずとも、社会が制裁を下すはずだ。
(さて、その後は)
その後こそが、お楽しみだ。
いったい、どうしてやろうか。悪魔たちの中に放り込んでやるのもいいし、煉獄へ突き落としてやるのもいい。
そう云えば、先程の電話で黛があの女優が欲しいと云っていたから、与えてやるのも一興だろう。あんな小娘のどこがいいのか、さっぱりわからないが。
土方は形のよい唇の端をつりあげ、低い笑い声をもらした。
だが、それは総司には届かなかったらしい。キッチンの方からは明るく優しい歌声が聞こえてくる。
それに誘われるように、土方はキッチンへと歩み入った。
総司はサラダの盛りつけをしている最中だった。入ってきた彼に気づき、ふり返る。
「あ、ごめんなさい。もう少し待ってて下さいね」
「別にせかすつもりはないよ」
優しく微笑んだ土方に、総司はほっとしたように笑った。その笑顔を見つめながら、問いかけた。
「さっきの話だが……やっぱり、昨日とか淋しかったか?」
「……」
総司の目がかるく瞠られた。長い睫毛がゆっくりと瞬き、それから伏せられる。
きれいな顔に、一瞬、翳りが落ちた。
「……はい」
「あまり逢えないから、尚更だな。すまない、俺がしっかりしていればあんな事にはならなかったのに」
「土方さんが悪いんじゃないし……それに、いつも逢えないのはわかってるから。仕方ないことだって……でも」
総司はきゅっと桜色の唇を噛んだ。
「時々、ぼくも不安になるのです。怖くなる時があって、淋しくなるの。そんな時、土方さんにぎゅっと抱きしめて貰えたら、傍にいてもらえたら……きっともう全部忘れちゃうってわかってるんですけど、でも。簡単には逢えないし、逢えないからこそ、淋しくて、不安で……」
黙ったまま聞いている土方の前で、小さくため息をついた。
「あの黒猫さんみたいに、いつも一緒だったらいいのにな……って。いっそ、土方さんが猫だったら、良かったのに」
「俺が? 猫?」
土方は驚いたように目を見開き、それから、さも可笑しそうに笑いだした。
くっくっと喉を鳴らして笑っている。
「総司は、俺が猫だった方が良かったのか?」
「だって……そうなら、ずっと一緒にいられるでしょう? どこへ行っても家の中でも一緒だし」
「ふうん」
土方は歩み寄ると、総司の躯にゆるく両腕をまわした。悪戯っぽい瞳で覗き込む。
「じゃあ、これは?」
「え?」
「猫だったら、こんな事はできないよ」
そっと額に頬に、キスを落としてやる。
それに心地よさげに目を閉じた総司は、しばらく考えてから、こくりと頷いた。
「猫では……こうやって抱きしめる事もできない」
土方は耳もとに首筋に、甘いキスを落しながら、総司を抱く腕に力をこめた。細い腰に腕をまわし、躯を密着させるように抱き寄せる。
互いの鼓動、ぬくもりがふれあった。
「それでも、猫の方がいい……?」
悪戯っぽい声で、甘やかに囁きかけた土方を、総司は大きな瞳で見つめた。
そして。
両手をのばし、彼に抱きつくと。
「土方さんの方が、ずっといい……」
きれいに澄んだ声で、そう答えたのだった。
望んだ答えにたいするご褒美は
優しい抱擁と
身も心もとろけるような
甘い甘い、はちみつのキス───
[あとがき]
今回は軽めのタッチでいきました。
黒猫、土方さん、いかがだったでしょうか。総司は最後まで、あの黒猫が土方さんだとは気づきませんでした。
もしこれを読んで下さってるならですが、ハルさま、ちょこリクありがとうございました。とんでもなく遅くなってしまい、本当にすみませんでした。
ラストまで読んで下さった方々、ありがとうございました♪
