美しい夜景が広がっていた。
クリスマスを前にして、その輝きはより華やかだ。
星を散りばめたようなイルミネーションは、心も浮き立たせる。
だが、それを今、東京タワーの上から眺めている大天使は沈んだ表情だった。
「……どうしました?」
傍らから、穏やかな声がかけられた。
それに、総司は伊東がそこに降り立ったことに初めて気がついた。慌ててふり向き、一礼する。
総司にとって、伊東は師であり兄同然でもある、最も敬愛を捧げるべき存在なのだ。むろん、恋人の土方とは全く違う意味での愛情を、抱いている。
「少し……考えごとをしていました」
そう答えた総司に、伊東は鳶色の瞳をむけた。
「考えごとですか。聞いてよければ……どんな」
「ぼく自身に関することです。ぼくの……」
そう云いかけ、総司はふと唇を噛みしめた。そのまま俯いてしまう。
長い睫毛がなめらかな頬に翳りを落し、その横顔はとても綺麗だが、儚げだ。
じっと見つめる伊東の前で、総司はぽつりと問いかけた。
「伊東さん」
「何ですか」
「力が……力を測るには、どうすればいいのでしょう」
「力?」
「悪魔のです」
「──」
押し黙った伊東に、総司はすっと顔をあげた。が、伊東の方へ視線を向けぬまま、不夜城都市のイルミネーションを澄んだ瞳で見つめながら、言葉をつづける。
「一人の悪魔の……力を見極めるには。その中にある悪が、力が、強まっていないのか……それを測るには、どうすればいいのですか」
「きみ自身の目で見抜くことはできないのですか」
静かな声で、伊東は問いかけた。
「感じとることが、出来ないと」
「もちろん……できます。でも、その人の悪はとても弱くて、だから……安心していたのです。でも、最近、何だか……」
「つまり、知り合いに悪魔がいる。だが、その悪魔は弱い力しかもたない存在だから、見逃していた。なのに、最近、力が強まってきているような気がする……と、こういう事なのですね」
「はい……」
総司はこくりと頷いた。ぎゅっと両手を握りしめている。
その青ざめた、思いつめたような表情を眺め、伊東はふっと笑みをうかべた。手をのばし、そっと総司の頬を撫でてやる。
「きみにとって、その悪魔はとても大切な存在なのですね。処刑などしたくない、出来ればそのままにしておきたいと願う程の……」
「……えぇ」
「だから、尚更、判断を誤ってしまう。わからなくなってしまう。その気持ちが強すぎて、正常な感覚がもてない。きみは、自らの力でその悪魔を見極めることが出来なくなっているのでしょう」
押し黙ったまま俯いてしまった総司に、伊東は苦笑した。
「何も責めている訳ではありませんよ。私だって、妻の時は悩み苦労しました。妻に対する気持ちが強すぎて、自分でも困惑するほどでした」
「伊東さん……」
「話を戻しましょう。そう、たとえば……聖石ならどうです」
伊東は夜景へと視線をむけ、僅かに目を細めた。
それに、総司が小さく呟いた。
「聖石……」
「そう。水晶に聖紋を記したあの聖石です。天使にしかつくれないあれは、上級悪魔はむろん、下級悪魔でも恐れるものでしょう」
「でも、それでは……」
「あの聖石を平然と掴めることが出来るのは、人か天使ぐらいのものです。もちろん、人並の悪しか持たぬ悪魔であっても平気なはず。それで一度試してみたらどうですか」
「……」
伊東の言葉に、総司はきつく唇を噛みしめた。
その行動が正しいのかどうかは、よくわからない。
だが、やってみる価値は、おそらくあるだろう。
このまま疑い、悩みつづけていても仕方がないのだ
総司は一瞬だけ目を閉じてから、ばさりと翼をはためかせた。とんっと梁部分を蹴った時には、もう躯は夜の闇に飛びたっている。
華やかなイルミネーションの中へ翼をひろげてゆく総司の瞳は、今まで泣いていたかのように涙をふくんでいた……。
不安になったのは、あの旅行の後だった。
空港での土方の表情、雰囲気。
いったい、どうしてだろう。
あれを思い出した瞬間、何故か、ぞくりとするような悪寒に襲われたのだ。
あの時は彼と旅行へ行ける嬉しさに酔いしれ、ほとんど気にもとめていなかった。だが、帰国してから落ち着いて、あれこれ旅のことを思い浮かべるうちに、空港で彼が一瞬だけ見せた表情を、思い出したのだ。
まさか……とは思った。
だが、しかし。
もしかしてと考え始めると、最近の彼のすべてが疑わしく思えて───
(でも……もしそうだったら、どうすればいいの?)
総司は俯き、きゅっと唇を噛みしめた。
その柔らかな髪に、朝の陽がきらきらと眩く輝いている。まるで、天使の輪のように。
小さなアパートのキッチンは、白い朝の光でみたされていた。その中で、総司は先程からブランチの用意をしている。
もうすぐここを訪れるだろう、愛する恋人のために。
「……」
総司はその事に思い至ったとたん、手をとめてしまった。そのまま、シンクの端を握りしめ、俯く。
……もしも。
彼の中にある悪が強まっていたとして。
それを知ったら、いったいどうすればいいのだろう──?
むろん、総司だってわかっている。
大天使である以上、邪悪な悪魔は処刑しなければならないのだ。だが、だからこそ、総司はいつも望んでいた。
愛する彼の中にある悪が、これ以上強まりませんようにと。
弱い悪魔のままでいてくれるならば、ずっと愛してゆける。
だが、そうではなかったら。
既にもう、あの人が邪悪な悪魔へと化してしまっていたならば……。
「……」
ため息をついた時、インターフォンが軽やかな音をたてた。それに、はっとして顔をあげる。
(土方さん……!)
総司は決心さえつかぬまま、足早に部屋を横切った。玄関の扉を開けると、思ったとおり土方がそこに佇んでいた。
「──おはよう」
土方は優しく笑いかけた。
ハイネックの黒いセーターに、ブラックジーンズ、それに柔らかなコートというラフな格好だ。だが、それが彼の端正な容姿によく似合い、かるく後ろへ流しただけの髪に、男の艶さえ感じさせた。
「おはようございます」
総司はおずおずと答え、彼を中へとおした。
今日はここで少し過ごしてから、外へ出かける予定となっていたのだ。
土方は、いつもと違う総司の様子に全く気づいてないようだった。すっと中へあがり、リビングへ歩いていきながら、軽い調子で訊ねてくる。
「結構早くから起きていたのか?」
「あ……いえ」
「それにしては、顔色が悪いな」
「え」
言葉につまった総司を、土方の黒い瞳が一瞥した。だが、すぐに視線をそらすと、コートを脱ぎ捨てながら言葉をつづける。
「もう12月も半ばだ。さすがに外はよく冷えていたよ」
「そう…ですね」
「食事の用意、手伝おう。もうほとんど出来上がってるんだろ?」
「あ、はい」
総司は慌てて立ち上がると、キッチンへ入った。
カウンターの上には、サラダやスクランブルエッグが並んでいる。
彼が好むベーカリーのクロワッサンをさし出した総司に、土方は「ありがとう」と微笑んだ。そのまま、甘いキスを落としてくる。
「……ぁ…ん……っ」
頬に、首筋に、唇に、甘いキスを落とされ、総司はうっとりと瞼を閉じた。物思いの事など、つい忘れてしまう。
柔らかく引き寄せられ、男の逞しい胸もとに抱きしめられれば、尚更の事だった。華奢な躯に力強い腕がまわされ、頬を胸もとに押しつけられる。
感じる彼の鼓動、ぬくもり。
時折おとされるキス。
熱い抱擁。
その腕に抱きしめられれば、どんな不安だって消えてしまうのだ。
あたたかな安堵感が総司をふわりとみたし、思わず彼の胸もとに縋りついた。仔猫のように頬を擦りよせ、そっと甘える。
「……土方さん、だい好き……」
「あぁ、俺も好きだよ。愛してる」
「ぼくも……ぼくも愛してます……」
土方の掌が総司の頬を包み込み、かるく仰向けさせた。うっとりと見上げれば、そのまま深く唇を重ねられる。
舌が入り込み、絡められ、甘くきつく吸われた。
何度も角度をかえて口づけられるうちに、総司はもう彼の腕の中で夢心地になってしまう。
「ん…ぅ、っ…ぁ、ん……っ」
二人はもう朝食そっちのけで、甘く濃厚なキスをかわしあった。
土方のしなやかな指さきが総司の髪を柔らかくかき乱し、そのまま引き寄せられる。押しつけられた腰に、どれ程求められているのか実感させられた。
それに、総司は頬を紅潮させた。
「や……だめ」
「2週間ぶりだ」
「でも、ここ……キッチンだし、それに、朝食まだ……」
「おあずけか? それとも焦らしてる?」
悪戯っぽい光をうかべた瞳が、総司を覗き込んだ。くすっと笑ってみせるその表情が、たまらなく魅力的だ。
総司は恥ずかしそうに目を伏せた。
「焦らしてなんて……ぼくだって欲しいけど、でも」
「じゃあ、朝食をとってからな」
「うん……」
こくりと頷いた総司に、土方は優しく微笑んだ。くしゃりと髪を撫でてから、腕の力を緩める。
どこか素っ気なく離れてゆく彼のぬくもりに、総司は思わず顔をあげた。不安げな、淋しそうな目で彼の姿を追ってしまう。
だが、それに土方が気づく事はなかった。珈琲を馴れた手つきで入れている。
その端正な横顔を見つめ、総司はきゅっと唇を噛みしめた。
彼と躯を離したとたん、またあの物思いが蘇ってきてしまったのだ。
(……どうしよう……)
無意識のうちにジーンズの隠しを探った。指さきにふれる石の感触に、ひんやりしたものを覚える。
そっと掌の中に包み込み、取り出した。
だが、それをどうするべきなのか、まだ迷っている。
確かに、これで試すことができるが、それは彼に対して禁忌であるように思えた。決してしてはならない事なのだと、どこかで警鐘が鳴っている。
「……総司?」
キッチンに突っ立ったままの総司に、土方が訝しげに声をかけた。
それに、慌てて顔をあげた。
「は、はい」
「どうした。本当に顔色が悪いぞ」
「ちょっと……疲れていて」
「なら、尚更、朝食をしっかり食べた方がいいな。ほら、これを運んでくれ」
「あ、はい」
反射的に手をさし出した。むろん、例の石は隠しに戻そうとする。
だが───
「あっ!」
手がすべった。指さきから、石がこぼれ落ちてしまう。
カンッと鋭い音をたてて、石が床に跳ねた。
「──」
当然の事ながら、土方の視線がそれを追った。とたん、鋭く息を呑み、端正な顔が引き締まる。
すうっと、その目が細められた。
「……何の、つもりだ」
低い声が響いた。
「!」
総司はびくりと目を見開いた。
そんな冷たい声を、今まで聞かされた事がなかったのだ。
いつも優しく微笑んでくれていた彼が、恐ろしいほど一切の表情をなくし、聖石だけを見据えている。
端正な横顔は、ぞっと身震いするほど冷たかった。
「何のつもりだ」
ゆっくりと再度くり返した土方に、総司はこくりと喉を鳴らした。恐怖のためなのか、声がまともに出ない。
「っ……ぁ……」
「こんな物をもちだして、悪魔払いでもするつもりだったか」
「ぼ、ぼくは……」
「おまえたち天使が、これで悪魔の力を測っているのは知っている」
土方はその聖石を眺めながら、冷ややかな声音で云った。
「だが、まさかそれを俺に使うとはな」
「土方…さん……」
「……」
しばらくの間、土方は無言で石を見下ろしていた。だが、やがて、ゆっくりと身をかがめると、手をのばす。
しなやかな指さきが石にふれ、次の瞬間、きつく掌に握りこんだ。
───バチッ!
鋭い音が鳴った。
それに、総司は大きく目を見開いた。
青白い火花が彼の手もとで散ったのだ。だが、土方は平然と石を握りこんだまま、身を起こした。
ちらりと総司の方を一瞥してから、ゆるやかに掌を開く。
「……っ!?」
総司は鋭く息を呑んだ。
彼の掌は、火傷をおっていた。それ程酷いものではないが、赤く腫れてしまっている。石にふれたことで、傷を負ったのだ。
それは、とりもなおさず、土方の悪が強いことを指していた。
上級悪魔とまではいかないが、それでも、以前よりは強まっている事はもう疑いようがない。
「……土方…さん……っ」
唇をわななかせ、その名を呼んだ総司に、土方は微かに笑ってみせた。
石をカウンターの上に置きながら、ひらりと手をかざしてみせる。
「見てのとおり、傷を負ってしまったよ。これは、俺の悪が強まっている事を示しているのかな」
そう呟くと、土方はゆっくりとキッチンからリビングへ出ていった。総司が後を追ってゆくと、掃きだし窓の際で佇み、外を眺めている。
いつのまにか雪が降り出した外は、真冬の景色そのものだった。
美しいが、冷たい。
それを眺め、土方は静かな声で云った。
「……俺は、おまえが望みつづけたのに反して、悪を抑える事ができなかった」
「……」
「それを俺はおまえに謝るつもりはない。何も意識して悪を育てた訳ではないし、どうしようもない事だった……」
「でも……!」
総司はふるりと首をふった。
「ぼくは前にも云ったでしょう? あなたを処刑したくないから、だから、どうか悪を育てないでと。なのに……っ」
「なら……」
土方は目を伏せ、呟いた。
「おまえは俺を殺すのか」
「──」
総司は愕然とし、目を見開いた。声さえ出ない。
何をどう答えていいのかさえ、わからなかった。
そんな総司に、土方は追い討ちをかけた。
「俺の悪は強まってしまった。それを確かめた以上、おまえは俺を殺すより他ないのだろう」
「……そん…な……っ」
「それとも、大天使のお慈悲で見逃すと云うのか……?」
微かな自嘲するような笑みが、土方の口許にうかべられた。ゆるやかに両手をひろげ、僅かに小首をかしげてみせる。
しばらく総司を眺めていた後、ゆっくりと歩み出した。少しずつ距離を狭めていきながら、問いかける。
「なぁ、総司?」
「……ぁ……」
「おまえは、俺をどうするつもりなんだ……?」
「……い、いやっ、来ないで」
総司は首をふり、慌てて後ずさった。
彼を恐れたゆえではなかった。自分が怖かったのだ。
今こんなにも混乱した状態で彼にふれられたら、何をするかわからなかった。
さき程まであんなにもあたたかく感じた彼の存在が、今や不安と恐れの原因となってしまっている。
だが、そんな総司に、土方はかまう事なかった。
ゆるやかに手をのばしたかと思うと、そのまま総司の躯を抱きよせようとしてくる。
その瞬間、だった。
「!」
ぎゅっと目を閉じた総司は、思い切り力を放った。目の裏が一瞬にして白く輝き、かぁっと躯中が熱くなる。
白き炎、だった。
大天使のみが使える力。
自らが拒むものを退ける、聖なる力だった。
──なのに。
「……!?」
総司は驚愕に目を見開いた。
次の瞬間、その華奢な躯が、男の両腕にきつく抱きしめられたのだ。背が撓るほど抱きしめられ、髪に頬にしなやかな指さきがふれてくる。
「……どう…して……」
目を見開いたまま、呆然と呟いた。
「どうして……あなたに通じないの?」
「……」
「白き炎で拒んだのに、どうして……!?」
「……白き炎、か」
土方が、総司の耳もとで低く呟いた。その声音の中にある冷徹な響きに、どきりとする。
慌てて顔をあげると、静かな怒りに燃える黒い瞳が、総司をじっと見つめていた。ゆっくりと言葉をつづける。
「そこまで、おまえは俺を拒んだのか」
「土方さん……」
「その程度のものだったのか、おまえの気持ちは。愛してると云いながら、俺の中にある悪が強まった事を知ったとたん、大天使の力を使ってまで拒絶する。おまえの愛は、そんなにも脆いものだったのか」
「! ちが……っ」
慌てて、総司は否定しようとした。
だが、その前に土方は腕の力を緩めると、すっと顔をそむけた。
しばらく唇を引き結んだまま、視線を落としていたが、やがて静かに踵を返した。ソファへ歩みよると、無造作にコートを取り上げる。後はもう総司に一瞥もあたえぬまま、大股に部屋を横切った。
「──」
そのまま玄関から出てゆく彼を、総司は呆然と見送っていた。バタンッと鳴った重い鉄の扉の音に、びくりと躯を震わせる。
だが、それでも、身動き一つできなかった。
今すぐ追いかけて。
泣いて縋って、許しを乞うて。
そうすれば、あの優しい恋人は必ず許してくれるだろう。そうわかっていたが、そんなこと到底できなかったのだ。
(……土方…さん……!)
心の奥底で悲鳴のような叫びをあげながら、総司はきつく瞼を閉ざした。
クリスマスのイルミネーションが、街のあちこちを賑やかに彩っていた。
盛大な冬のお祭りの光景だ。
そのため、街角にあるこの斉藤の店にも、ささやかなツリーが飾られてあった。彼らしいセンスで飾られたそれは濃い緑のもみの木に、銀色の飾りで統一され、とてもシンプルだが美しい。
その夜、ひらひらと粉雪が舞い始めた空を、斉藤はガラス越しに見上げた。
最後の客が帰った後、ショーウインドウへと歩み寄る。飾られてあるキャンドルの炎を消すためだった。だが、その手がふととまり、顔をあげた。
「……土方さん」
ドアを開き、音もなく静かに入ってきたのは土方だった。
仕事帰りなのか、店の外を見れば黒塗りの車が路上にあり、土方自身も一分の隙もないスーツ姿だ。
白いワイシャツにタイトに締められたネクタイ、ダークスーツ、その上に纏った黒いコート姿が長身によく似合い、禁欲的なくせに、どこか男の艶を漂わせているのだから、始末におけない。
土方は艶やかな黒髪を指さきでかきあげながら、微かに笑ってみせた。
「店じまいの時に、悪い事をしたか」
「いえ、構いませんよ」
斉藤はキャンドルの炎を消すのをやめ、身を起こした。だが、とたん、その目が大きく見開かれる。
「……土方さん、それ」
「ん?」
「それ、ただの怪我…じゃありませんよね」
斉藤が指さしたのは、土方の右手だった。白い包帯が巻かれてあり、どこか痛々しい。
土方は薄く嗤いながら、その手にゆっくりと口づけてみせた。悪戯っぽい光をうかべた黒い瞳が、己の右腕である上級悪魔を眺めやる。
「おまえに隠し事はできねぇな」
「隠し事も何も……そんな痛いもの、早く消してしまえばいいでしょう」
「人と同じ経過をたどらせて、ゆっくり治すつもりさ」
「ですが、あなたなら簡単に消せるはず……」
そう云いかけた斉藤は、不意に息を呑んだ。しばらく沈黙してから、低い掠れた声で問いかけた。
「……まさか」
「……」
「まさか……その傷は、総司が……?」
「……」
土方は黙ったまま、形のよい唇の端をつりあげてみせた。その余裕ありげな魔王に対し、斉藤はかっと頭に血がのぼるのを感じた。
「いったい、どういう事なのですか!」
「……」
「そんな傷を負わされるなんて、聖石でも掴まされたのでしょう。挙げ句、わざと傷を負った。あなたなら幾らでも抑えられたはずなのに、どうして、そんな危険な真似を……」
「総司は、俺の力を悪を疑っている」
ゆっくりと店内を横切り、土方は窓際に飾られたツリーを眺めた。その飾りにしなやかな指さきでふれながら、言葉をつづける。
「俺の悪が強まったのではないかと、疑惑を抱いていた。いや、ほとんど確信しているだろう。そんな総司の前で、まったく人と変わらないふりが出来ると思うか? 少しは力が増したことを見せた方が、逆に安心するだろう」
「ですが……」
「むろん、下級悪魔にも及ばない力しか、見せてねぇよ。相変わらず、総司にとって俺は弱い悪魔な訳だ」
「あなたが弱い悪魔ですか」
斉藤は呆れたように嘆息し、傍らのショーケースに寄りかかった。
「で、その弱い悪魔であるあなたは、これからどうするつもりですか? どうせ、総司を混乱させるだけさせて、さっさと放り出して来たのでしょう」
「よくわかったな」
くっくっと喉を鳴らして笑った土方に、斉藤は肩をすくめた。
魔王がする事や考えすべてがわかる訳ではないが、ある意味、もっとも近い処に身を置いている斉藤は、他の悪魔より彼のことを察しやすかった。それが良いことなのか悪いことなのか、未だにわからないが……。
そんな事を考えている斉藤の前で、不意に土方が呼びかけた。
「……なぁ、斉藤」
「はい」
答えながら見やると、土方は僅かに視線を落とした。その端正な顔にはどこか戸惑いの色さえある。何か不可解なものにぶつかり、困惑している表情だ。
(この人にしては珍しい)
そう思いながら見つめた斉藤に、土方はゆっくりと言葉をつづけた。
「一つだけ……わからねぇ事があるんだ」
「何ですか」
「あの夜、俺は聖石を突きつけられただけじゃない、俺は……白き炎で総司に拒絶された」
「! それは……っ」
斉藤は鋭く息を呑んだ。
白き炎は、大天使のみが行使しうる聖なる力なのだ。たとえ、魔王たりとも、その光を容易に退けられるものではない。幾ばくかの傷を負って当然のことだった。
「間近であびたのですか? あなたに向かって攻撃してきたのですか?」
「いや、攻撃というより、パニックになって拒絶したといった方がいいな。眩しいほどだった」
そう答えてから、土方は一瞬、押し黙った。が、すぐ、低い声で告げた。
「俺は……総司を抱きしめたんだ」
「え」
「白き炎を放ってくる総司を、この腕に抱きしめた。抱きしめることができたんだ……何の障害もなく」
土方は眉を顰め、己の掌を見下ろした。確かに、右手は包帯につつまれている。だが、それはあの白き炎ゆえのものではないのだ。
「何の障害もなくって……それは本当なのですか」
斉藤は訝しげに問いかけた。
「オレも一度白き炎で攻撃された事がありますが、痛みに刺し貫かれましたよ。この胸下に傷を負いました。なのに、どうして……」
「……」
土方は黙ったまま、己の左手を口許にもっていった。そのまま何かを考えこむように目を細めたまま、指の背にきりっと白い歯をたてる。
端正な顔には、僅かな苛立ちが見てとれた。
この魔王は滅多なことで怒りを露にしないが、不可解な事がおこると僅かにだが苛立つのだ。むろん、ほとんど表に出されることはないのだが。
だからこそ、珍しかった。
その黒い瞳には、明かな苛立ちの色がある。
斉藤は微かに苦笑した。
(……これも、あの大天使ゆえだからかな。この人は総司の事になると、どこか違ってしまう)
そんな事を考えながら眺めていると、土方が不意に顔をあげた。
ふり返り、思い出したように問いかけてくる。
「……例のものだが」
「え?」
「前に頼んでいたものだ。出来上がったか」
「あ……あぁ、あれですね」
斉藤はすぐ気づき、店奥へと踵を返した。保管していた場所からその小さな箱を取り出し、土方のもとへ戻る。
「我ながら、なかなかの出来だと思いますよ」
「ふうん」
土方は箱をかるく手の中で転がしてから、その蓋をゆっくりと開いた。切れの長い目が僅かに細められる。
しばらくの間検分するように見つめていたが、やがて、満足げに呟いた。
「……確かにいい出来だ。ここ最近じゃ、遜色の出来と云ってもいいんじゃねぇのか」
「お褒めにあずかり、光栄ですね」
「今夜このまま貰って帰っていいか?」
「もちろん、どうぞ」
土方は頷いてその箱をコートの隠しへ無造作に突っ込むと、スーツの内ポケットからある物を取り出した。
さらさらとそれにサインをしてから、一枚の小切手を斉藤にむけてさし出す。
斉藤はそれを受け取り、視線を落としてから、小さく笑った。
「……これはまた過分に」
「遜色の出来だと云っただろ?」
そう云って笑ってみせた土方に、斉藤はひらりと小切手をかかげた。
「遠慮なく受け取らせていただきますよ」
「あぁ」
「……それにしても、そんな傷を負わせた相手に、この高価なプレゼントですか」
揶揄するような口調の斉藤に、土方は何も答えなかった。ただ黙ったまま、唇の端をつりあげてみせる。
ツリーの銀色の飾りと、外のイルミネーション。
彼の黒曜石のような瞳。
ひらめく、しなやかな指さき。
「……」
それらに目を奪われているうちに、気が付けば、斉藤は店内に一人残されていた。
外を見ても、黒塗りの車の姿さえどこにもない。
まるで、今さっきの出来事が夢だったかのような……。
「……」
斉藤は静かに手元へ視線を落とした。むろん、そこには一枚の小切手がある。
これがある限り夢と現は混ざり合うことはないのだが、おそらく彼なりの悪戯心なのだろう。
総司の方は知らないが、諍いの一方である土方は普段どおりの余裕ぶりだった。クリスマス前の恋人たちの諍いは、どう見ても男の勝ちだ。
「まぁ……ラストのラストでひっくり返されるかもしれないけれど」
斉藤はくすっと笑うと、店仕舞いの支度をはじめた。店内を横切って窓際へ歩み寄り、今度こそ、キャンドルの炎をかき消す。
ゆらりと揺れた美しい炎は、やがて、薄闇の中へ溶けこんでいった……。
[あとがき]
このお話は、去年と同じく休止中にもかかわらず来て下さる方々へ、感謝の気持ちをこめたクリスマスプレゼントとして、書かせて頂きました。いつもありがとうございます。
後編、なるべく早くupしたいなと思ってはいます。でも、リアル多忙のため、更新日を予告する事はちょっと難しくて。メドがたたないのです。クリスマス過ぎてのupだけは回避したいのですが……。