短い沈黙の後、総司はガラスごしに土方を見つめた。
 それから、小さく微笑んでみせた。
「ごめんなさい、起こしてしまいました……?」
「いや、俺が勝手に目が覚めただけだ」
 土方は総司の様子がおかしい事に気づいていたのかもしれない。
 だが、何も言及しようとはしなかった。
 優しく髪にキスを落としながら、言葉をつづける。
「起きたら傍に総司がいなくて、驚いたよ。帰ってしまったのかと思った」
「そんなこと……」
「しない? 本当に?」
 悪戯っぽい口調で問いかけてから、土方は身を起こした。総司の肩を抱きながら、柔らかく促す。
「そろそろ夜が明ける。少し早いが、朝食にしよう」
「あ……はい」
 こくりと頷いた総司は洗面所へ向かった。着替えをしながら、土方の様子をそっと伺う。
 彼は何も気づいていないようだった。否、気づいていても、総司が言うまで何も聞く気はないのだろう。


 土方はいつも、総司が本当に困った時に手をさしのべてくれるが、総司が言い出すまでは強引に聞き出すことなど一切しない。
 黙って見守ってくれるのだ。
 総司はもともと大天使であり、また、手のものを使って戦うだけあってプライドも高く、見かけよりもずっとしっかりしている処があった。
 自立心も高く、どんな事でも自分で行うことが当然だと思っている。
 逆に、出来ることに対して口出しや手出しされても、拒絶してしまう可能性が高かった。
 それを土方はよく知っているのだ。
 だからこそ、どんな時も静かに見守ってくれる。
 そんな彼の態度を見るたび、思うのだ。
 大天使である総司の方がずっと年月も重ねているはずなのに、彼の方がずっと大人だと。


「土方さん……」
 朝食の用意が出来て、二人で席についた時、総司は思い切って呼びかけた。それに、コーヒーを飲みかけていた土方が手をとめ、促すように小首をかしげる。 
 総司は一瞬、ためらってから言葉をつづけた。
「何も……聞かないんですね」
「え?」
「ぼくがあなたからの連絡に答えなかったこと」
「……」
 土方は黙ったまま、微かに眉を顰めた。
 やはり、連絡を無視されたこと自体は、矜持の高い彼にとって不快な事だったのだろう。
 それに気付き、総司は目を伏せた。
「ごめんなさい。色々あって……」
「……」
「逢っても上手く話せない気がしたから、あなたに逢うのが怖くて」
「だが、逢いに来てくれた」
 静かな低い声で答え、土方は手をのばした。テーブル越しに、軽く総司の手にふれてくれる。
 おずおずと見上げると、土方は深く澄んだ黒い瞳で、総司を見つめていた。その真摯なまなざしに息を呑む。
「土方さん……」
「どんな事があっても、おまえは俺に逢いたいと願い、そして、今、ここにいてくれる。俺の傍にいてくれる。それだけで……俺はいいんだ」
「……」
 総司の目が見開かれた。


 彼の言葉が胸奥に染みわたるようだった。
 自分は今、彼の傍にいる。
 ただ、それだけのことなのだ。
 なのに、それだけでいいと言ってくれた彼が、誰よりも愛しかった。
 哀しいぐらい愛おしかった。


 涙がこみあげた。
 だが、それを必死にこらえ、微笑んでみせた。
「……ありがとう、土方さん」
「総司」
「ぼくも……だから、ぼくも、あなたがいてくれるだけでいい、それしかもう……望まないから」
 小さな声で言った総司の手を、土方は優しく握りしめてくれた。しなやかな彼の指を絡められ、その力づけるような仕草に、癒やされているのは自分の方だと思う。
 総司は目を閉じ、もう一度、「ありがとう」と心から囁いた。












「……処刑された?」
 低い声音だった。
 手元にある雑誌に視線を落としながら、話を聞いていた土方は僅かに眉を顰めた。雑誌を無造作に投げ出すと、ソファの背に凭れかかり目を細める。
「事実なのか、それは」
「はい」
 憮然とした表情で、斉藤は答えた。
 斉藤の店だった。
 夜、この店を訪れてきた土方に、斉藤がある報告をしたのだ。一人の悪魔が消されたようだと。
 悪魔が処刑されることなど、日常茶飯事だった。下級悪魔であるのなら、尚の事だ。
 だが、今回、処刑された悪魔は上級悪魔だった。もともとは黛が目をかけて可愛がり、育てあげた悪魔だったのだ。
 斉藤は顔も知らない相手であったし、実際の話、斉藤がよく顔を知っているのは実戦部隊だ。国を滅ぼすなどの仕事のために集められる部隊の指揮をとっているのが、斉藤だった。むろん、土方自身が出てゆく時は別だったが。
 それでも、黛は実戦部隊の一人ではなく、彼女が育てていた娘もまた同じくだった。そのため、情報が入ってくるのが遅れたのだ。
「黛も知らなかったのか」
「いえ、知ってはいましたが、オレに言ってきたのは昨日の事です。こちらの手のものではないので、報告する義務はないと思っていたようです」
「別にそんな義務なんざねぇが、けっこう力のある娘だったのだろう。黛から自慢気に話を聞かされた覚えがある」
「えぇ……ただ」
 斉藤は一瞬、言葉を途切れさせた。それに、土方は視線を向けた。
「ただ、何だ」
「その娘の処刑が……」
「残酷だったとか、そういうことか」
「……えぇ、確かに、残酷だったのかもしれませんね、ある意味では」
 そう答えてから、斉藤は諦めたように息を吐いた。そして、一気に言い切る。
「娘の恋人は大天使だったのです。そして、その恋人である大天使自ら、彼女を処刑したそうです」
「……」
 斉藤の言葉に、しばらくの間、土方は無言だった。黙ったまま、じっと斉藤を見据えている。
 やがて、低い声で問いかけた。
「それはいつのことだ」
「え?」
「その娘が処刑されたのは、いつ頃のことなんだ」
「確か、三週間程前になります」
「……成程」
 土方は頷き、薄い笑みを口元にうかべた。どこか酷薄な笑みが端正な顔にうかぶ。
 それを斉藤は不思議そうに眺めた。
「どうしたのです、いったい」
「いや、得心がいったと思ってさ」
「得心?」
「総司が俺を避けていた理由だ」
「……」
 斉藤の目が僅かに見開かれた。
 それに、土方は喉奥で低く嗤った。
「自分と重ねてしまったのだろう。もしも、俺の悪が増した時、どうすればいいのかと思い悩んでいたに違いない」
「それは悩むでしょう。総司は心優しいですし、あなたを愛している。でも、大天使としての立場もある以上……」
「俺を処刑せざるを得ないと思うか」
 そう言ってから、土方はソファの肘掛けに頬杖をついた。ゆっくりと足を組みながら、目を細める。
「ありえねぇ話だな」
「……」
「あれが俺を処刑しようと思うなんざ、何があってもありえねぇよ」
「えらく自信があるんですね」
 斉藤はそう言ってから、小首をかしげた。ショーケースの上に肘をついて、身を乗り出しながら問いかける。
「なら、もしもあなたが他の大天使に処刑されそうになったら? 総司は自分が手を下さないのなら、黙殺するんじゃないですか」
「それもないな」
 淡々とした口調で、土方は答えた。しばらく黙ってから、目を伏せる。
「総司は、俺が処刑されそうになったら、己の身を投げ出しても庇うさ。命がけで俺を守るに決まっている」
「まるで、そんな事があったような口調ですね」
 そう言った斉藤に、一瞬、土方は視線をむけた。だが、黙ったまま窓の外を眺めやる。
 端正な横顔は斉藤の追求を拒否しているようで、そこに、この男の奥深くにある秘密を感じさせた。これ以上の追求は無駄なのだ。
 それを感じた斉藤は軽く肩をすくめると、言った。
「それで、総司に対してはこれからどうするのですか?」
「どう、とは?」
「あなたに逢いにきたと言っても、総司の中ではまだ未解決のままでしょう。自分自身、気持ちの整理がついていないに違いない。それをどうするつもりなのかと思ったのです」
「さぁ……どうするかな」
 土方は斉藤に視線を戻すと、小さく笑った。
 見惚れてしまうぐらい、きれいな笑顔だ。
 この男が邪悪な魔王であるなどと、その笑顔からは想像もつかない。
「少し甘やかしてみるか」
「甘やかす?」
「俺自身、楽しみたいからな。あれは俺をどこまでも楽しませてくれる」
「まぁ、ほどほどに」
 斉藤は密かにため息をついてしまった。
 甘やかすと言っても、結局は、土方自身が愉悦を覚えるだけのことなのだ。快楽と言った方がよいのか。
 魔王にとって大天使は最上の獲物なのだ。
 それを傍らにおいて恋人として愛している彼に、嫉妬を覚えないと言えば嘘だった。
 だが、それでも斉藤にとっては永遠に味あうことが出来ない獲物だ。
 もっとも、斉藤が総司に対して抱く気持ちは、少し異なっているのかもしれないが。
「……」
 斉藤は手元のジュエリーに視線を落とし、そっと守るようにふれた……。












 その日、総司は古本屋のカウンターで本の修繕をしていた。
 外は朝から雨だった。時折、車が過ぎていくサーッという音が店内に響いた。
 店内には人影がない。雨のためか、客足も少ないようだった。
「今日はもう閉めようかな」
 顔をあげ、呟いた。その時だった。
 不意に、誰かが店の中に入ってきたのだ。傘を畳んで入り口付近に置き、しなやかな足取りで店内に入ってくる。
 その姿を見た瞬間、総司は目を見開いた。
「土方さん……」
 思わず呟いた総司に、土方は小さく微笑んでみせた。僅かな水滴が黒髪を濡らし、それを物憂げに片手でかきあげる仕草に男の色香が漂う。
 深く澄んだ黒い瞳に見つめられ、かぁっと頬が火照った。
 仕事の帰りなのか、それとも途中なのか、土方はスーツ姿だった。上質のスーツは引き締まった長身によく似合っている。
 土方はカウンター前までやってくると、僅かに小首をかしげてみせた。
「今日はいつ頃、店を閉められるんだ……?」
「え」
「いや、店を閉める時刻に迎えに来ようと思っていたのだが」
「あ、いいえ」
 総司は慌てて頷いた。
「今日はお客さんも少ないので、もう閉めるところでした。でも、あの……」
「俺と一緒に来てくれないか」
 言いかけた総司の言葉にかぶせるように、土方は言葉をつづけた。ちょっと驚いた顔になる総司に、苦笑する。
「すまない、強引すぎたな。一緒に来て欲しいところがあるんだ」
「いえ、行きます。土方さんが望んでくれるなら」
 そう答えた総司は手早く物を片付けた。敏捷に動いて店を閉めてゆく。
 それを土方はカウンターに凭れながら、黙ったまま眺めていた。時折、振り返ってみると、彼の黒い瞳は総司にだけ向けられている。
 それにどきどきしながら、総司は急いで店を閉めた。終わってから駆け寄ると、土方が僅かに眉を顰めた。
「急がせてしまったか」
「大丈夫です。閉めようかなと思っていましたし」
「なら、良かった」
 微笑み、土方は総司の肩を柔らかく抱いた。そのまま店を出て、傘をさしかけてくれる。
 二人で身を寄せあって歩くなど、大丈夫かなと思ったが、傘で隠れて誰も気にしていないようだった。その事にほっとしつつ、総司は土方に身を寄せた。
 しばらく歩くと、パーキングに車が停められてあった。土方の車だ。歩み寄っていくと、ロックが外される音がする。
 土方は助手席側のドアを開けると、総司を乗せた。それから運転席側にまわり、シートに身をすべりこませてくる。
 傘を閉じたことで濡れてしまった髪をかきあげ、土方は微かに吐息をもらした。それを総司は気遣わしげに見つめた。
「あの……土方さん」
「何だ」
「もしかして無理をした……? 仕事の後で疲れているのに、ぼくの所に来てくれたんじゃ……」
「総司が気にすることではないよ」
 土方は切れの長い目を総司にむけた。
「これは俺の仕事だし、俺の意思だ。総司が思い煩うことじゃない」
「でも」
「それより、車を出してもいいか? 連れて行きたい処があるんだ」
「あ、はい」
 慌てて頷いた総司に、土方は車のエンジンをかけた。低い唸るような音が響き、ゆっくりと車が走り出す。
 次第にスピードをあげていく車の中で、総司は少し落ち着かない思いで、土方の方を見やった。


 どうしてもわからないのだ。
 彼が自分をどこへ連れていこうとしているのか。
 先日、結局は何も言うことが出来なかった自分を、彼は何も責めようとしなかった。
 それどころか、優しく抱きしめてくれたのだ。
 ここに居てくれるだけでいいと、囁いて。
 だが、総司の中ですべてが解決した訳ではなかった。彼の深い愛を感じることは出来たが、それでも、気持ちの整理はつかなかった。
 どうしても考えてしまうのだ。
 彼の中の悪が今以上に育ってしまったら、どうすればいいのだろう、と。
 総司は大天使の存在をすべて肯定はしていなかった。悪魔にもまた、悪魔の論理があるのだろうと思うのだ。
 明確な善と悪で分けられるほど、世界は単純ではない。
 それがわかっているからこそ、総司は戦いつつも苦しむのだ。これでよいのか、これが正しいことなのか、と。
 むろん、人々を苦しめ、傷つける邪悪な悪魔たちは許すべき存在ではない。
 だが、誰の中にも悪はありえるだろう。
 そう、大天使たる己の中にさえ──


 総司はきゅっと唇を噛みしめた。


 この人を愛しいと思うこと。
 大切だと思うこと。
 それは、ただきれいなだけの想いだけではなかった。
 独占欲や執着、様々な感情が絡みついてくる。
 他の誰にも渡したくないと思ったこともあるし、彼に寄り添う女性に嫉妬したこともある。
 この手で排除してしまいたいと、願ったことさえも。
 それのどこが、悪ではないと言うのだろう。
 ……そう。
 悪は、誰の中にもあるのだ。


「総司」
 気が付くと、名を呼ばれていた。
 はっとして顔をあげ、土方の方を見やる。
 土方はちらりと一瞬だけ視線をむけてから、静かな声で言った。
「おまえを……不安にさせてしまったか」
「え」
「いきなり連れ出した事だ」
「あ……いいえ」
 総司はゆるく首をふった。
「ぼくは土方さんが連れていってくれることに、不安を覚えたりしません」
「それは……信頼されていると思っていいのかな」
 くすっと笑った土方に、ちょっとほっとした気持ちになりながら、頷いた。
「はい、ぼくは土方さんを信じています」
「俺もおまえを信じているよ……おまえのすべてを。だからこそ、ついてきて欲しいんだ。おまえにある場所を見せたい」
「……わかりました」
 ある場所という言葉がどこを意味しているのは、まったくわからなかった。
 だが、それでも、総司に迷いはなかった。
 この人に、ただついてゆきたいのだ。
 愛しているから。
 何があっても、彼だけを愛しているから。
 黙ったまま目を伏せた総司に、土方は何も言わなかった。












 そこは草原だった。
 雨もあがり、着いた頃には夕暮れ近くになっていた。
 まだこんな所が日本に残っていたのかと驚くほど、広々とした草原だった。山の稜線が遠くに見える様が美しい。
 緑は僅かしか残っていないが、少しずつ辺りを照らしてゆく黄金色に草が波打つさまが、息を呑むほど鮮やかだ。
「きれい……」
 総司は思わず、その様に見とれた。
 広々とした光景は美しく、圧倒される程だ。乳白色とオレンジ色が空で混ざり合い、たなびく雲を淡く輝かせる。
 さぁっと風がすぎ、二人の髪や着ているコートの裾を波打たせた。
 それを心地よげに受けながら、土方は目を細めた。傍らの恋人の細い肩を抱くと、片手でぐるりとさし示す。
「この辺り一帯は……俺のものだ」
「え?」
 総司は驚き、彼を見上げた。それに、土方が淡々と言葉をつづける。
「俺がある事情から買い取った。草原をこのままにしておきたいと、思っていたからね」
「ある事情って……?」
 問いかけた総司に、しばらくの間、土方は何も言わなかった。黙ったまま総司を連れて、ゆっくりと草原の中に入ってゆく。
 草原はまるで海のようだった。
 黄金色に波打つ草の海だ。
 その中を歩みながら、土方は静かな声で言った。
「ここは俺にとって、とても大切な場所なんだ。色々な思い出がたくさんある場所で……だから、誰にもこの光景を変えさせたくなかった」
「……」
 黙ったまま見つめる総司の前で、彼はふと目を伏せた。僅かな苦笑が、形のよい唇にうかぶ。
「傲慢だと思うか。財力でこんな事をする俺のことを、傲慢だとおまえは思うか?」
「そんなこと……」
「だが、俺は己自身でもそう思っている。いつまで過去に拘っているのかと、いつまで忘れられないでいるのかと」
「過去…ですか」
「そう、過去だ。遠い昔のことだ……すべては終わってしまったことなんだ」
 土方は総司の肩を抱く手に力をこめた。
 その細い肩を痛いほど抱きよせながら、低く呟いた。
「俺は…いつまであがき続けるのか……」
「……土方…さん」
 総司の目が大きく見開かれた。


















この草原は「永遠の約束」の初めの方で出てきた草原です。