大きなガラス窓の前だった。
 夜の闇とイルミネーションに支配された美しい光景。
 それをバックに佇む長身の男の姿は、艶やかなまでに美しく、そして禍々しかった。
 ゆっくりと片手をあげ、黒髪を煩わしげにかきあげる。切れの長い目で、傍らの上級悪魔を見た。
「……成程な」
 報告の後だった。
 長い沈黙の後の言葉に、斉藤は眉を顰めた。思わず問いかける。
「何か不満な点でもありましたか。全体的にはこちらが優勢だと思いますが」
「確かに優勢だ。だが……」
 形のよい唇が微かに嗤った。
「おまえにしては詰めが甘くねぇか」
「……」
 斉藤は一瞬、虚を突かれた表情になった。


 今、ある国をかけて悪魔と天使が争っている最中だった。いつもの縄張り争いのようなものだ。また、その国が小さなものであることもあり、本気で力が入らなかった事も確かだった。
 それを見透かされてしまったのだろう。
 この人の前では何も偽ることなど出来ないと思った斉藤は、だが、それは総司でも同じことなのだろうかと、あの素直で優しい大天使を思い浮かべた。
 だが、そんなもの思いさえ許されない。


「斉藤」
 静かな低い声で呼びかけてから、土方はゆっくりと腕を組んだ。窓際に肩を凭せかけながら、命じる。
「あまり相手を見くびるな。国の大小よりも、相手の大天使たちの力で加減を判断しろ」
「……わかりました」
 確かに、土方の言葉どおりだった。優勢ではあるが、いつ大天使たちに逆転されてもおかしくない形勢なのだ。油断をするなどもっての他だった。
 気を引き締めていくべきだと己に言い聞かせながら、斉藤は僅かに小首をかしげた。
「そう言えば、あの戦いに総司が加わっているようですね。あなたに何か連絡はあったのですか」
「いや」
 土方はゆるく首をふった。
「ここのところ連絡とってねぇしな」
「珍しいですね、あなたが連絡をとらないなんて」
「……」
 斉藤の言葉に、目を細めた時だった。
 不意に、インターホンの音が鳴ったのだ。一瞬、土方は口元を引き締め、部屋を大股に横切った。
 インターホンはむろん、このマンションのエントランスと繋がっているものだ。画面にはエントランスが映り、そこに一人の少年がこちらをじっと見つめていた。
「……総司?」
 低く呟いた土方は、素早く斉藤の方へ視線をやった。その目配せに頷いた斉藤は窓をあけて出てゆく。ベランダから消えるつもりなのだろう。
 斉藤の気配が遠ざかるのを感じながら、土方は通話をつないだ。
「こんな時間にごめんなさい」
 いきなり総司は謝ってきた。大きな瞳が潤んでいるように見える。
 それに、土方は眉を顰めつつ、答えた。
「どうした、今開けるから上がっておいで」
「いいの……ですか?」
「当たり前だろう。そこは冷えるから、早く」
 男の言葉に素直に頷き、総司はエントランスの扉をくぐったようだった。画面から消える。
 土方は玄関まで行くと鍵をあけ、ドアを開いた。実際、事前に電話も入れない状態で総司が訪れてくることなど、珍しいことだった。何かあったのかと訝しく思う。
 エレベーターが停止する音がして、総司が廊下を歩いてきた。土方が玄関前に佇んでいるのを見ると、大きな瞳を見開き、慌てて駆け寄ってくる。
「ごめんなさい、わざわざ迎えてもらうなんて……」
「おまえが来てくれたのだから、当然のことだ」
 土方は総司の細い肩に手をまわすと、優しく部屋の中へ促した。部屋にあがり、コートを脱いだ総司はほっとした表情になる。それを眺めながら、土方はキッチンへ入った。
「食事は?」
「え」
 ぼんやりと部屋の中を見回していた総司が、驚いたようにふり返った。目を見開いているさまが、小動物のように愛らしい。
 それに、土方は苦笑した。
「どうした、ぼんやりとして」
「あ……ごめんなさい」
「謝ることはない。ただ、食事は済ませてきたのか?と聞いただけだ」
「それはまだ……」
 小さな声で答えた総司に、土方はかるく肩をすくめた。
「なら、何かつくろう。パスタぐらいならすぐ出来る」
「え、でも」
「実は俺もまだだ。つきあってくれると嬉しいね」
「じゃあ、ぼくも手伝います」
 慌てて荷物を置いた総司は洗面所に行って手を洗ってくると、キッチンに入ってきた。サラダにするレタスを渡され、それを千切り始める。
 土方は手早くパスタをつくり始めた。時間がない事もあるので、シンプルなバジルペーストのパスタにするつもりだ。手際よく料理をしていく土方に、総司が云った。
「あの……土方さん」
「ん? 何だ」
「お客様が来ていたの……?」
「……」
 一瞬、土方は口元を引き締めた。だが、すぐ柔らかな口調で聞き返す。
「どうして、そう思った」
「何となく……それに、あの……」
「それに?」
 問いかける土方に、総司は黙りこんでしまった。じっと黙ったまま、ベランダの方を見つめている。
 それに、思わず笑い出したくなった。


 可愛らしい小動物のように見えていても、やはり、この恋人は大天使なのだ。
 どんな微かな魔さえも見逃さないし、敏捷に感じとってしまう。
 斉藤は魔王である土方を除けば、最強の上級悪魔だった。
 戸外であるのなら魔を使ってもすぐに消えてしまうが、この部屋の中ではどうしても残ってしまうのだろう。


「悪魔が来ていたんだ」
 そう云った土方に、総司の肩がびくりと震えた。彼の方を見上げた目は、大きく見開かれている。
 その瞳が揺れているのを感じながら、ゆっくりと言葉を続けた。
「おまえが察したとおり、悪魔だ。俺の仲間だな」
「そん、な……」
「もちろん、これきりにするよ。俺も望んではいないし、会いたいとは思わない」


 ここではの話だった。
 火急の話だったからこそ、ここに斉藤を呼んだのだ。
 本来なら、自分のプライベートな場所に総司以外は入れたくない。


 だが、総司はむろん、二度と会わないという意味だと受け取ったようだった。こくりと頷くと、手をのばし、土方の腕にふれてくる。
「お願い、もう会わないで」
「総司」
「あなたの中の悪が強まっても、ぼくはあなたを愛してる。それは変わりはないけれど、でも、自ら悪を強めることだけはやめて下さい」
「他の悪魔と会うと、悪が強まるのかな」
 小首をかしげてみせた土方に、総司は真剣な表情で答えた。
「強まります。だから、お願い……土方さん」
「わかった、約束するよ」
 土方は真摯な表情で頷き、そっと身をかがめた。総司の細い身体を抱き寄せ、耳もとに口づけてやりながら目を伏せる。


 偽りの約束だった。
 だが、それが何だと言うのだろう。
 この大天使を腕に抱くためなら、どんな欺きも許されるはずだ。


 食事の用意が出来ると、総司は少しくつろいだ様子になった。
 ソファに並んで座り、食事をとる。土方に色々と話しかけてくる総司に、変わった様子はなかった。だが、それでも、何故急にここへ来たのかはわからない。
 土方はその事に疑問を覚えつつ、自ら問いかけることはしなかった。この大天使はとても素直で優しいが、一方で頑ななところもあるのだ。無理に聞き出そうとすれば、尚更、殻の中に閉じこもってしまうだろう。
 食事が終わり、紅茶を出してやると、総司が躊躇いがちに呼びかけてきた。
「あの……土方さん」
「何だ」
 ようやく話を始めるのかと思って見れば、総司はそっと身を寄せてくる。珍しい総司からの甘えに驚きつつ、見下ろした。
「総司?」
「あの……今夜、ここに泊まってもいいですか?」
「……むろん、構わないが」
 土方は僅かに目を細めた。じっと見つめる黒い瞳に、総司は気恥ずかしさを覚えたのか、頬を染めてうつむく。
「その、そういう事がしたいんじゃなくて……ただ、あなたの傍で眠りたいのです。あなたの傍に少しでもいたくて……」
「総司……」


 何かあったのかと思った。
 斉藤が言っていたように、総司はあの国での戦いに加わっている。おそらく昨夜にでも帰ってきたところなのだろう。それですぐここへ来るとは、怪我でも負ったのか、それとも疲れているのか。
 どちらにせよ、総司が傍にいることは土方にとって、むしろ歓迎すべきことだった。この清らかで優しい大天使を、いつも手元に置いておきたいのだ。
 あの美しい翼を折り、籠の中へ閉じ込めてしまいたい程に……。


「嬉しいね」
 土方は優しく微笑みかけた。そっと髪を撫で、頬や耳もとに口づけを落としてやる。
「おまえが俺に会いたい、傍にいたいと思ってくれた事がとても嬉しいよ」
「そんなの……」
 総司は小さく首をふった。細い指さきが彼のシャツを掴む。
「本当はいつだって思っています。あなたに会いたい、あなたの傍にいたいと、でも……」
「でも、遠慮してばかりだ」
 そう呟いた土方は、総司のなめらかな頬を手のひらで包み込んだ。キスを落としながら、言葉をつづける。
「遠慮して、俺に会いたくても会いたいとなかなか言ってくれない。つれない大天使だからね」
「だって……」
「だが、今夜は違う。おまえは俺に会いたくて来てくれた。素直に気持ちをあらわしてくれたことが、本当に嬉しいんだ」
 抱きすくめてくる男の腕の中、総司はこくりと頷いた。男の広い胸もとに顔をうずめ、小さな声で答える。
「本当に逢いたかったのです。あなたに会いたくて、あなたの傍にいたくて……」
「総司……愛している」
「ぼくも、ぼくも……好き、愛しています……」
 花びらを降らすようなキスが、幾度もあたえられた。それをうっとりと受けながら、総司は目を閉じる。
 久しぶりに逢瀬を重ねた恋人たちの、静かで甘やかな夜はまだ始まったばかりだった。












 翌朝、総司は土方がまだ眠っているうちに、ベッドから抜け出した。
 その腕の中から抜け出す時、彼を起こしてしまったかと思ったが、杞憂のようだった。土方はよく眠っているようで、男にしては長い睫毛が頬に翳りを落としている。それを一瞬だけ見つめてから、するりとベッドを抜け出た。
 寝室から出てみると、リビングは薄暗かった。まだ夜明け前なのだから、当然だ。
「……」
 総司は窓際に歩み寄り、明けてゆこうとしている街を見つめた。
 ガラスにふれると、ひどく冷たい。まるで氷のようだと思った。


(……土方さん……)


 そっと、心の中で愛しい恋人の名を呟いた。


 突然、訪ねてきた総司を優しく迎え入れてくれた彼。
 優しく、いつでも総司を受け入れてくれる。
 そんな彼がこの世の誰よりも大切だった。
 愛しくて愛しくてたまらない存在なのだ。
 もしも、その存在が失われたなら、息が絶えてしまうほどに。


(ぼくは桜井のようなことは到底できない……)


 先日、伊東から聞いた話が耳奥に蘇った。
 今、ある国で悪魔との争いが激化している。その国へ飛ぶ前に、伊東からある事を告げられたのだ。






「桜井は今回、控えさせるつもりです」
「え……?」
 突然の言葉に、総司は目を瞬いた。桜井は、総司にとって心強い部下だった。右腕のような存在だったのだ。
 いったい何故なのかわからず見上げた総司に、伊東は僅かに嘆息した。
「……理由は聞かないほうがいいです」
「でも」
 総司は首をふった。
「ぼくは知る資格があるはずです。桜井はぼくの右腕同然です、なのに」
「聞いてしまったら、後悔しますよ」
「構いません」
 きっぱり答えた総司に、伊東は一瞬、苦しげに顔を歪めた。それから、目を伏せると静かな声で言葉をつづけた。
「桜井くんは……悪魔を処刑したのです」
「? それがいったい……」
「その悪魔は可愛らしい女の子で……桜井くんの恋人でした」
「!」
 総司の目が大きく見開かれた。
 まったく知らなかったのだ。桜井が自分と同じような立場にあったことを知らなかったという事実にも驚いたが、もっとショックだったのは……
「……それ、本当…ですか」
 長い沈黙の後、かすれた声で言った総司に、伊東は沈痛な表情で頷いた。
「初めは悪も小さかったそうです。なので、桜井くんも見逃していた。けれど、彼女の中の悪は増していき、やがて、上級悪魔にまでなってしまったのです。これ以上、見過ごせば手遅れになると判断した桜井くんは、自らの手で処刑したそうです」
「そんな……」
 唇が震えた。
 いったい、どんな気持ちだったのだろう。
 どれほどの苦しみだったのか。
 自ら愛した人を、我が手で殺めなければならなかった苦しみを思うと、身体の中が凍りついていきそうな気がした。
 寒くて冷たくてたまらなくなる。
「総司」
 気が付くと、伊東が静かな表情で見下ろしていた。だが、そのまなざしの鋭さに、はっとする。
 手がのばされ、肩を掴まれた。
「きみも桜井と同じような立場です。恋することは構わない、だが、その先にある修羅を恐れるのなら、今のうちに手を引くべきです」
「それは……ぼくが桜井と同じように、あの人を殺すということですか」
「わかりません」
 伊東は微かに眉を顰めた。
「きみの恋人がどのような悪魔なのか知らない以上、私にはまったく判断出来ません。しかし、最後に苦しむのはきみなのです。できるだけ、その恋人の中の悪が育たないように、気を配るべきです」
「……」
 伊東の言うとおりだった。
 何もかも、総司が始めたことなのだ。彼を愛したことも、彼に愛されるようになったことも。
 悪魔を愛してしまったことも……。
 だが、それでも、桜井の話を聞いてから、総司は土方に会うことに躊躇いを覚えるようになってしまった。会った時、彼の中にある悪が育っていると感じたら、いったいどうすればいいのか。決断を迫られるようなことがあれば……。


(ぼくに出来るはずがない……)


 己自身で決めたのだ。
 何があっても、彼を愛してゆくのだと。
 むろん、わかっている。上級悪魔ほどの力を持つようになってしまった彼を見過ごしていれば、いつか、総司も糾弾されてしまう。彼も大天使たちに処刑されることだろう。
 だが、それでも、総司がその手で彼を殺めることなど、出来るはずもなかった。考えただけで、身体中が凍りつきそうな気がするのだ。
 

 そんな思いを抱えながら、総司は戦いのまっただ中にある国へ赴いた。
 土方には何の連絡もしないままに。むろん、彼からは何度かメールや電話があったようだった。だが、一度として、それを開くことも出来なかった。
 どうすればいいのか、自分でもわからなかったのだ。以前、クリスマスの時に、彼の中にある悪を試そうとして諍いになったことがあった。あの時、どれ程、彼を傷つけてしまったことか。
 もう二度と、あんな事はしたくなかった。愛する彼を傷つけるなんて、そんな事は絶対にしたくないのだ。只でさえ、厳しく辛い世界の中で必死に戦っている彼なのだ。総司のアパートに来てくれる彼が、時折、憂いの表情で目を伏せる事があった。それを見る度、自分の何もかも差し出してでも、癒してあげたくなるのだ。優しくしたいと思うのだ。
 なのに、その彼を傷つけるなんて。


(出来るはずない……)

 
 赴いた国で、総司は懸命に戦った。
 ある程度の成果はあげたが、心の中には、ぽっかりと穴が開いたようなだった。その感覚の理由に思い至ったとたん、身体が震えた。


 彼に……逢いたいのだ。


 あんなにも逢うのが怖いと思ったのに、それなのに、逢いたくてたまらなくなってしまう。身体が、心が、すべてが、彼だけを求めてしまう切なさ怖いほどだった。
 そのため、戦力を入れ替えるために日本へ戻ってきた総司が、真っ先に向かったのは土方の部屋だった。下から見上げると明かりがついていることに、ほっと安堵の吐息をもらした。逢えるのだと思うと、心が弾んだ。
 だが、それも部屋の中へ招き入れられるまでだった。魔の気配を微かに感じたのだ。訊ねた総司に、土方は躊躇いもなく認めた。
 ここに悪魔がいたのだ、と。
 そのことに動揺した総司に、土方は真摯な表情で二度と会わないと約束してくれた。それに安堵しつつ、総司は拭い切れない不安に怯えていた。
 この人はやはり悪魔なのだ。人と変わらぬほどの悪しか持っていないと言っても、こうして他の悪魔との繋がりもある。
 ならば、いつか、桜井の恋人のように悪を育て、その力が強まっていくことも否定しきれなかった。
 むろん、彼の中にある悪がどれ程強まっても、自分は彼を愛し続けるだろう。己のすべてで守り、庇い、共に堕ちていく覚悟はとうの昔に出来ていた。
 彼は今や、総司の命にも等しい存在なのだ。
 否、それ以上だった。彼を失うことは、総司にとって世界の終わりを意味していた。


(……土方さん……)


 小さく心の中で愛しい恋人の名を呼んだ。
 その時だった。
 不意に、ぬくもりを感じた。背中から、そっと抱きしめられたのだ。
「!」
 驚いて顔をあげた総司に、男の声が囁いた。
「……総司」
「ぁ……」
 思わず声がもれた。
 ガラスにうっすらと二人の姿が映っていた。
 ほっそりとした小柄な少年の体を、後ろから抱きすくめる男の姿。
 それは、決して誰からも手放しで祝福される恋人たちの姿ではなかった。昏い闇の羽ばたきを潜ませている。
 だが、それでも、この世の誰よりも互いを愛しあう恋人たちだった。
 小さく喘いだ総司に、土方はしばらくの間、黙っていた。優しく少年の身体を抱きしめている。
 そのぬくもりが伝わってくるのを感じながら、総司は一瞬だけ目を閉じた。