総司は戸惑ったような表情で、目の前にある建物を見上げた。
大勢の人々が行きかう街中だった。
美しく輝くビルが目の前にそびえたっているが、総司にとってはあまり心地よい空間ではない。
自分の着ている衣服を見下ろすと、小さな声で呟いた。
「……やっぱり、似合ってないと思うのです」
そんな総司に、傍らから斉藤が優しく微笑みかけた。
「よく似合っているよ」
「それは……気のせいじゃありませんか」
「心配性だな、総司は」
傍らでネクタイを締め直していた斉藤は、ちょっと肩をすくめた。彼自身はチャコールグレイのスーツに身をかため、それがこの若者のすっきりした佇まいによく似合っている。
総司はそれを羨ましそうに眺めてから、また自分の格好を見下ろした。
清楚な着物だった。
大正ロマン風の柄を描いた潤み朱色の着物は、総司の可憐な顔だちによく似合っている。振り袖ではなく、訪問着のようだが、この際、総司にとってはどちらでも構わなかった。
高く締めた華やかな帯からいっても、これは女性の着物だ。それは先日届けられた、土方からの贈り物だった。
ここ最近忙しくて逢えない土方は、埋め合わせのためか美しい着物を贈ってくれたのだろう。それは観賞用としてなら喜んだだろうが、一応、総司は少年だ。その着物の袖を通すには、かなり抵抗感があった。
だが、もともと、大天使とは無性なものだ。
人としての形をとっている以上、男女の区別をつけてはいるが、それでも本質的には無性だった。
ならば、どんな格好をしても不思議はないだろう。
それをわかっていて土方がこの着物を贈ってくれたのかどうか、わからなかったのだが。
「せっかく贈ってもらったのだから、着ないともったいないよ」
土方からの贈り物をあらかじめ聞いていたらしい斉藤は、小さく笑いながら云った。
そして、どこへ着ていくのと訊ねる総司に、一枚の招待状を示してみせたのだ。
思わず土方が主催するパーティかと期待したが、それはまるで違うものだった。
ファッションショーをかねた小さなパーティらしい。あるブランドショップが得意先を招待して開くものだった。
場所も、そのブランドショップ自体だ。
「でも、ぼくはそんな高い物買うお金ないし」
「別に見るだけで十分なんだよ。気にいらなければ、そのまま帰ればいいし」
たまには変わった世界を見るのもいいんじゃないかと云う斉藤に誘われ、結局、躊躇いつつもそのパーティ会場までやってきてしまった総司は今、少し後悔していた。
想像していたよりも派手なパーティだったのだ。
なかなか盛況であり、多くの男女で賑わっている。
夕方から開かれたため、大きなガラス窓から茜色の光が射し込み、店内の明かりとあいまって云うに云われぬ美しい世界をつくり出していた。
あちこちに並べられた宝石が輝き、人々の感嘆のため息を誘う。
だが、総司は別の意味でため息をついた。
(こういう場所って、土方さんの方がずっと似合いそう……)
壁際に佇みながら、唇を噛んだ。
どう考えても、土方が住む世界に近い気がした。自分のいる世界ではないのだ。
自分が住む町やアパートの部屋、古い書店の方がずっと心地よかった。大天使である総司にとって、それらの場所の方が清涼な気に満たされているのだ。ここは人の欲望や妬み、傲慢さが満ちていて、息がつまりそうになる。
土方が自分のもとを訪ねてくる理由が、少しわかった気がした。あんな小さなアパートの部屋が、どこよりも居心地がいいと微笑んでくれる彼の気持ちも。
(でも……土方さんは、こういう世界にいるんだ)
それは決して心安らぐ世界ではないに違いない。
時折、土方は総司のアパートに来て、ソファに腰かけ、ため息をつく時があった。総司の躰を抱きすくめ、目を閉じている端正な顔は少し疲れたようで、心配になったこともあるのだ。
(……土方さん)
愛しい男の名を心の中で呟いた総司は、不意に、びくりとした。
突然、一つの名が耳に飛び込んできたのだ。慌ててふり返ったが、傍らで、知り合いらしい男と話している斉藤は何も気づかない。
「……え?」
広い店内だった。人が多いためか、より広く遠く感じてしまう。
吹き抜けになった店内の天井から豪華なシャンデリアがつり下げられ、きらきらと輝いていた。総司たちは二階にいるのだが、そこから一階も手すりごしに見下ろせる。
その中央だった。
大勢の人々に囲まれた、一人の男。
今、入ってきたばかりなのか、コートを脱ぎながら微かに笑っていた。夜の匂いをまとった黒髪を、しなやかな指さきでかきあげる。
(……土方…さん……!)
こんな処で逢うなんてと思った。
それとも、斉藤はあらかじめこの事を知っていたのだろうか。だが、ふり返ってみた斉藤は全く何も気づいていない。
偶然なのだと知り、総司はそのこと自体に幸せな気持ちになった。
むろん、わかっていた。
彼の傍にいく事は出来ない。今、話しかけることさえ許されていないのだ。
彼にとって、自分は致命的なスキャンダルだった。
隠しとおさなければならない恋。
それでも、総司は純粋に嬉しかった。
その目に彼を映せることが、たまらなく嬉しいのだ。
思わず手すりを握りしめ、彼だけをじっと見つめた。
大好きな愛しい彼だった。久しぶりだ。
逢いたくて逢いたくて、たまらなかった。
そんな時は我慢せず云って欲しいと、以前から何度も云われているが、なかなか勇気がでない。どうしても、彼の邪魔になるのではないか、スキャンダルになるのではないかと、怯えてしまうのだ。
(今だって、本当は駆け寄りたいけれど……)
許されるはずがないのだ。
決して、超えることが出来ない線が二人の間にある気がした。
「……」
微かにため息をついた。その時、すぐ後ろで男性たちが話すのが耳に届いた。
「――あれは、土方君じゃないか」
「そうだな、相変わらずの人気ぶりだ」
「とは云っても、本人は生真面目だからな。遊び一つしていないらしい」
男たちは少し意味ありげに笑いあった。
それに、総司は嫌な予感を覚えた。ぎゅっと手すりを握りしめる。
後ろで会話はつづいた。
「そろそろ、彼も適齢期だろう。政治家の妻となれば、確かに慎重にならざるを得ないだろうが」
「彼の父上が選り好みをしているらしい。まぁ、近々見合いをさせると云っていたが」
「政治家にとって妻は大事な存在だからな。必要不可欠と云うべきか」
「今も彼の周囲に、候補の女性たちが群がっているだろう。ほら、あそこにいるのはW大学の教授の娘で……」
彼らの話はまだ続くようだった。
だが、それを総司はもう聞いていなかった。手すりを掴む指先が白くなってゆくのを、ただほんやりと見つめている。
「……」
階下では、土方が美しい女性に何か話しかけられていた。もともと知己の間柄だったらしく、親しげに言葉をかわしている。
誰が見ても似合いの一対だった。
彼の傍にいるべきなのは、やはり美しく艶やかな女性なのだ。
そんな事をぼんやり考えながら、総司は一歩後ずさった。斉藤が総司の様子に気づき、声をかけてくる。
「総司? どうかしたのか」
「……斉藤さん」
青ざめた顔を俯かせる総司に、斉藤は誰かに何か云われたのかと周囲を見回した。とたん、階下にいる土方の姿が目に入る。
「土方さんじゃないか。ここにおまえがいるって教えてくるよ」
そう云って歩き出そうとした斉藤に、総司は慌てて縋りついた。
「やめて下さい。絶対にだめ」
「どうして」
「ぼくは、ぼくは……だめだから」
云っている意味はわからなかったが、総司の必死の面持ちに押され、斉藤は立ち止まった。訝しげに眉を顰めつつ、見下ろす。
「……総司?」
「何でもないのです」
「そうは見えないぞ」
「大丈夫だから。ぼくは……大丈夫です」
握りしめた細い指が微かに震えている。
俯いた大天使は玲瓏として美しく、だが、雨に打たれる花のように悲しげだった。それに、斉藤はたまらず細い肩を抱きよせた。
腕の中、総司が小さな声で懇願する。
「もう……帰ってもいいですか?」
「あぁ、いいよ。帰ろう」
斉藤は総司を守るようにして、フロアを横切った。このショップは2階からも出られるようになっているのだ。
冷たい外の空気にふれると、総司は吐息をもらした。ほっとしたような表情になっているが、今も、不安げに後ろを気にしている。
(何を怖がっているんだ……?)
疑問に思いつつ、斉藤は手をあげた。彼らの前にタクシーが滑り込んでくる。
それに乗せてやりながら、ちらりと店の方をふり返った。土方の姿は見えない。
だが、彼に知られている事は確かだった。あの魔王が何事も見逃すはずがないのだ。ことに、総司のこととなれば、当然だった。
(後で弁明が大変だな)
斉藤は苦笑しつつ、タクシーに乗り込んだのだった。
わかっているつもりだった。
全部わかった上で、彼とつきあい出したのだ。
斉藤にタクシーで送ってもらい、ようやく家にたどり着いた。
すぐさま着物を脱ぎ捨て、楽な普段着に着替える。
そうしながらも、総司はその言葉だけをくり返していた。
ソファの上に膝を抱えて坐り込み、自分に何度も何度もそう云い聞かせる。細い肩が震えた。
露をふくんだ長い睫毛が、ふと瞬いた。
(ぼくは……本当にわかっていたの?)
本当は、わかっていなかったのかもしれなかった。
あぁして目の前に現実を突きつけられるまで、想像するだけで息苦しくなる事実から目をそらしていた。
総司の愛する彼は、この世界に生きる一人の男なのだ。
そして、土方が政治家である以上、男たちが云っていたように、妻は必要不可欠な存在だった。公私ともに支えるパートナーは彼にも必要だろう。
いや、そうでなくとも、土方が一人の男として、結婚や家庭をもつ事はごく当然のことだった。今まで、その話がなかった方がおかしいぐらいなのだ。
(もしかして、あっても、ぼくには黙っていた……?)
総司は小さく息を呑んだ。
あの誠実で優しい土方のことだ、考えられることだった。総司の気持ちを思いやり、話があってもつとめて総司の耳には入れないよう気をつけてくれていたのだろう。
だが、水面下で話は進んでいるはずだった。適齢期でもある土方の結婚話は、もう秒読み段階なのだ。
総司は目を閉じ、ぎゅっと両手を握りしめた。
いやだ、と思った。
彼にむかって、叫びたいと思った。
あなたを他の誰かに奪われるなんて、絶対にいや──と。
だが、そんなこと彼に云う資格が自分にあるのだろうか。
政治家である彼に、公的な支えも財力も子どもも家庭も、何一つ与えてあげられない自分にそんな資格が……。
「あるはず…ないよ」
掠れた声で総司は呟いた。ふるりと首をふり、また膝の中に顔をうずめる。
彼とは別れたくない。
だが、このままでは彼の邪魔になってしまう。
そのジレンマに、総司の胸は痛み、激しく締めつけられた。耳奥がきーんとなり、呼吸がどんどん出来なくなってゆく。
「……ぁ…っ」
たまらず、喘ぐようにして息を吸い込んだ瞬間だった。
不意に、軽やかな電子音が鳴り響いた。
「!」
びくんっとして見やると、ソファに投げ出してあったスマホが震えている。前に逢った時に、土方に買ってもらったものだった。
総司は手をのばし、のろのろと取り上げた。メールのようだったが、そこには土方の名前が表示されてある。
「……」
しばらくの間、総司は画面に表示された彼の名をじっと見つめていた。
だが、やがて、ゆっくりと操作し、メールごと削除してしまう。
今、土方からのメールを見る勇気はなかった。
何を云われるのか、もしかして別れ話じゃないかなどと考えてしまい、怖くてたまらなくなったのだ。
だが、そのくせ、消してしまったメールの内容が何だったのか、つい考えてしまう自分が情けなかった。
「莫迦みたい……」
そう呟くと、総司はまた抱え込んだ両膝の中に顔をうずめた。
「着信拒否?」
そう聞き返した斉藤に、土方はかるく頷いた。
大きなガラス窓の際に腰かけ、足を組んでいる。窓越しに外を眺めながら、手の中の携帯電話を弄んでいた。
斉藤の店だった。
柔らかな音楽が流れるそこには、今、斉藤と土方しかいない。
そろそろ店じまいの時間に、突然、土方がふらりと訪れてきたのだ。
一人でだった。
自分で運転してきたらしい車が店の前に停められてある。流線型のラインが美しい琥珀色のクーペカブリオレだった。
土方自身は、ダークブラウンのハイネックセーターに、クリーム色のチノパン、その上に薄手のコートを羽織った格好だった。いつも整えられた黒髪もさらりと流し、完全にプライベートな時間を過ごしている。
本来なら、こんな時は恋人である総司との逢瀬に向うところだろう。
だが、その相手からは今、電話もメールも拒否されている始末だ。
「着信拒否されるような覚え、あるのですか」
そう問いかけた斉藤に、土方は僅かに小首をかしげた。
「さぁ……覚えはねぇな」
「じゃあ、喧嘩したとか?」
「喧嘩も何も、ここ最近逢ってないんだ。しようがねぇだろうが」
無表情のまま答えた土方は、視線をスマホに落とした。だが、コートの隠しの中へ突っ込む。
「覚えがないから、困るのさ。いったい何を考えているのか、わからねぇ」
「あなたでも困る事があるのですか」
揶揄するような口調で云った斉藤に、土方は無言の視線をむけた。それに肩をすくめ、手元のジュエリーを並べ直す。
「おまえの方があるんじゃねぇのか」
不意にそう訊ねられ、斉藤は「え」と顔をあげた。窓外を眺めながら、土方がゆっくりとした口調で言葉をつづける。
「この間のパーティ。おまえ、総司を連れて来ていただろう」
「あぁ、やっぱり気づいていたんですか」
「当然だ」
「なら、どうして」
声をかけなかったのかと問いかけた斉藤に、土方は肩をすくめた。
「そうしようとしても、逃げるのは総司だ。あれはいつも、俺の周囲の目にふれる事を恐れている」
「でも、それは全て、あなたのためだとわかっている事でしょう」
「……」
土方は目を伏せ、微かに笑った。
冷ややかだが、ぞっとするほど美しい笑みを眺めながら、斉藤は身を乗り出した。黙っていた事を告げてしまう。
「実は、あのパーティで、総司の様子がおかしかったのです」
「様子?」
「何があったのかわかりませんが、あなたを見て後ずさってました。あなたが現われたのに気づいてすぐ帰りたいと云いだして」
「おまえがタクシーに乗せて、帰らせたんだろうが」
「やっぱり、全部見ていた訳ですか」
苦笑する斉藤に、土方は何も云わなかった。それに、言葉をつづける。
「あのまま放っておけば、倒れてしまいそうでしたからね」
「そんなに体調が悪かったのか」
「わかりません。でも、青ざめて震えて……可哀想で見ていられませんでしたよ。それで、帰した訳です」
「あの店は、二階からもビル内のフロアへ出られるからな」
土方は眉を顰めた。
「一階なら逃がさなかったが」
「あの場で総司を引きとめていましたか。周囲の好奇の目に晒していましたか。あなただけの大切な美しい宝石を」
「……」
斉藤の言葉に、土方はしばらく間無言だった。
窓枠に凭れかかり、ぼんやりと窓外の光景を眺めている。話を聞いていないのかと思った時だった。
低い声が呟いた。
「……あれは俺だけのものだ」
「──」
「俺の美しい宝石だ。未来永劫、この俺だけに繋がれている」
目を伏せ、微かに笑った。
優しげと云ってもよい表情だ。だが、そんな時の彼の方が恐ろしいということを、斉藤はよく知っている。
それでも、あえて云った。
「未来永劫にですか。なら、総司の意志はどうなります。もし……あなたを疎み逃げるような事があったら」
「そんなもの許すはずがねぇだろう」
土方は口角をあげてみせた。
「あれが今更、逃れる事を望んだとしても……俺自身がそれを許さねぇ。地の果てまで追いかけ、この腕の中に閉じこめてやる」
そう云いきると、土方は静かに立ち上がった。
コートに腕をとおすと、ふわりと裾が風をはらんでひるがえった。そうして、薄暗い店内に佇む姿は、まるで映画のワンシーンのようだ。
店内をしなやかな足取りで横切り、ドアに手をかけた。ふと気づいたようにふり返ると、低い声で云った。
「……あまり総司を連れ回すな」
それに、斉藤は一瞬目を見開いてから、小さく笑ってみせた。
「たまには、楽しい気分を味あわせてやりたかったのです。いけませんでしたか」
「当然だ。あれに何をあたえる事も、許さない」
「つまり、あの美しい宝石を愛でる資格があるのは、あなただけだと」
揶揄するような口調に、土方は視線を寄越した。
「そうだ。あの宝石は……俺だけのものだ」
愉悦にみちた笑いを含んだそれが、答えだった。それきり踵を返すと、店から出ていってしまう。
ドアを押し開き、外に停めてある車へと歩いてゆく姿を、斉藤はカウンターに凭れたまま見送った。
「美しい宝石、か」
この店に飾られたどのジュエルよりも美しい、世にも稀な宝石。
神の祝福をうけた純白の翼を広げる大天使。
それを誰よりも愛しむ魔王は、今夜、その恋人をつかまえる事ができるのだろうか。
否、結末などわかりきっているのだ。
あの魔王が、狙った獲物を逃がすはずがない。必ずとらえ、柔らかく抱きしめるのだ。
そして。
狩りの後は、手間をかけさせた仕置きとして、甘く激しく愛するのだろう。
「……あの人が逃がすはずもないからな」
そう呟き、斉藤は苦笑したのだった。
つづき、お褥シーンがありますので、苦手な方は避けてやって下さいね。