──そして
ぼくは、あなたに恋をした
まるで……そう
甘くとろける蜂蜜のように──……
うららかな春の昼下がり。
総司は分厚い本の表紙をせっせと布で拭いていたが、不意にそれを投げ出した。
「……退屈ぅ……」
はぁっとため息をつき、椅子に坐りこんだ。退屈と云っても、店内はそれなりに混みあっている。が、それでも総司はとんでもなく退屈だった。
カウンターの上に頬杖をつくと、大きな瞳で店内を眺めた。
それほど広い店ではない。が、知る人ぞ知る古本屋だった。ここにくれば、稀少な本が入手できたりするのだ。どこか懐かしい感じで纏められた店内は品良く、そこの若い店主の魅力とあいまって、密かに人気の店だった。
もちろん、その若い店主とはこの総司なのだが、18才という年齢で店を開いているだけあって、知識の方も半端ではなかった。彼に古書のことを訊ねて答えが返ってこない事はないと言われるほどだ。
また、この若さで何故こんな店をもてたのか、いったいどうやって稀少な本を入手するのか、その辺りも秘密めいており、可愛らしい少年である総司にいっそうの魅力をあたえていた。
総司自身は、本当に可愛らしい少年なのだ。
18才という年齢より、更に若く見える。だが、聡明そうなまなざしが落ちついた印象をあたえた。
柔らかそうな髪に、大きな瞳。すべすべしたなめらかな頬。ちょっとキスを求めるような、甘い桜色の唇。
どこか雪うさぎのような印象をあたえる可愛い少年だった。この総司自身に惹かれ、店に通う客も少なくない。
「……」
総司は店内を眺めるのに飽きると、今度はカウンター上に置いてあった洋書の表紙を眺めた。それに、ちょっとかるく桜色の唇を尖らせた。
表紙には、可愛らしい子供の天使が白い翼をひろげ飛んでる姿が描かれてある。
それがお気に召さなかったのだ。
(……絶対、おかしいよ)
総司はその本を手にとり、綺麗に澄んだ目でじーっと見つめた。
天使というものを、人間は誤解してるのだ。
天使と云えば、小さな可愛い女の子や男の子で、背中におっきな白い翼をつけ、四六時中ぱたぱた飛んでると思い込んでいる。
いや、実際本当に飛ぶのだが、白い翼もあったりするのだが、それでも、皆が皆、幼い子供って訳じゃないし、こんなひらひらの白い服を着てたりもしない。
現に、この自分も翼はしっかり仕舞いこんで、セーターとジーンズ姿でこんな古本屋のカウンター前に坐っているのだから。
(それでも、れっきとした天使だもーん。しかも、ぼくは大天使なんだからね。そうだ、これを伊東さんなんかが見たら、どう云うんだろ?)
自分の保護者同然であり、先輩でもある大天使の伊東を思い出し、総司は小さく笑った。
それから、本を放り出すと、また店内をぐるりと見回した。が、今度はその視線はすぐさま止まってしまった。
(……あれ? あの人……)
小さな店なので、ほとんど見渡せる。何列かに別れた本棚の真ん中あたりに、その男は佇んでいた。
一冊の洋書を手にとり、熱心に読んでいる。片腕にかけられた黒いコートが上等そうで、絶対ピュアカシミアだと思った。スーツもどこのブランドのものなのか品良く、それをまた男は嫌味なく見事に着こなしていた。
すらりとした長身で、均整のとれた躯つきだ。スーツの上からでもわかるのだから、相当だろう。
きっちり整えられた艶やかな黒髪が男らしく、清廉な印象を与えた。どこから見てもエリートビジネスマン風だが、そうでないことを総司は知っていた。その端正な顔だちは、何度かテレビでも見たことがあったのだ。
見事なほど人目を惹く男だ。端然としたその姿はストイックで硬質な印象なのに、匂いたつような華をその身に纏っていた。周囲の人々も彼が誰か気づいてるらしく、皆、袖を引いて噂しあっている。が、そんな事など男は全く意に介してないようだった。
興味をもったらしい洋書のページを繰り、目を走らせている。が、不意に、その彼が顔をあげた。洋書を手にしたまま、突然、こちらをふり返ってきたのだ。
その瞬間。
綺麗な黒い瞳が、総司を見つめた。
「!」
思わず総司は息を呑んだ。
人間相手なのに、何故か心臓が大きく高鳴ったのだ。どきどきして頬が上気するのを自分でも感じた。
そんな総司に、男はかるく小首をかしげた。
そして──優しく微笑んだ。
それがまた、何とも魅力的で、とても綺麗な微笑みで──
(……この人、テレビで見るより、ずっと格好いいー……)
総司は思わず、ぼーっと見惚れてしまった。
男はもう一度、洋書に視線を落とした。が、すぐにそれを閉じると手にしたまま、ゆっくりとカウンターへ歩み寄ってくる。その身ごなしがまた洗練され、モデルばりだった。指さき一つまで、本当に綺麗なのだ。
カウンターの前に立つと、男は総司を静かに見下ろした。思わず二人してじっと見つめあってしまう。しばらくその状態がつづいたが、男は僅かに苦笑すると、すっと洋書をさし出した。
「……これを買いたいのだが」
そう云われ、総司は慌てて手をさし出した。本を受け取り、裏を見て値段を確かめる。かなりの稀少本なので値段も張る。だが、そんな本を無造作に置いてあるところも、この古本屋の特徴だった。
「3万ちょうどになります」
男は頷くと、スーツの内ポケットから財布を取り出し、お札を抜き出した。総司はそれを受け取ってから、本を丁寧な手つきで袋に入れた。きちんとテープでとめてから、顔をあげた総司は、どきりとした。
男がじっと総司を見つめていたのだ。濡れたような漆黒の瞳に見つめられ、総司は体中がかあっと熱くなるのを感じた。どきまぎしつつ、本の入った袋をさし出した。
「ありがとうございました」
そう云って手渡すと、男は僅かに微笑んだ。
「……ありがとう」
はりのある、澄んだ低い声で答え、男は踵を返した。本を小脇に挟み、大股に本棚の間を抜けてゆく。
店の外で待っていたらしい若い男が一礼し、傘をさし出した。いつのまにか、雨が降り出していたらしい。だが、雨に濡れた街のどこか秘密めいた光景がまた、男によく似合っていた。
男は一度だけふり返り、カウンターの方を見た。総司が自分の方を見ていることに気づくと、静かに微笑みながらかるく目礼した。そして、黒い傘をさすと、後はもうふり向かず歩み去っていった。
「……」
総司はそれを見送った後、しばらくの間、ぼーっと坐りこんでいた。
あんな魅力的でどきどきする人間に逢ったことがなかった。天使の中でもいなかった。不思議なくらい、まるで磁力があるみたいに惹きつけられる自分を感じてしまったのだ。
「……うわー! どうしよう……」
総司は思わず頬っぺたを両手でおさえた。熱い。めちゃくちゃどきどきした証拠に、頬が熱く火照っていた。
人間に魅力を感じてしまうなんて。
男なのにとか、そういうことはあまり意識しなかった。天使はもともとかなりアバウトなのだ。それよりも、むしろ、天使が人間に魅力を感じてしまったという事の方が問題だった。
「やだ……どうしちゃったんだろ……」
それから、はっと思い出した総司は、傍にあった新聞をがさがさと引っ張り出した。
確か、今日の朝刊にインタビュー記事がのっていた。だから、尚更すぐにわかったのだ。
「あ……これだ」
総司はある面で手をとめ、じっと見つめた。
新聞の紙面に、先ほどの男の写真があった。スーツ姿で僅かな笑みをうかべ、インタビューに応じている。モノクロ写真で見ても、魅力的な男だった。もっとも実物はそれ以上だったが。
「やっぱり、格好いい……」
思わず呟いてしまった自分に、総司はますます赤面した。が、つい食い入るようにインタビュー記事を読んでしまった。
小難しい話がえんえんと続き、それは経済から政治にまで多岐に渡っていた。かなり高度な知識がないと読めない記事だったが、総司には容易なことだった。が、その事からも、この男の人間としてのレベルの高さが伺える。
総司は吐息をもらし、もう一度、視線を写真に戻した。
黒髪に、黒い瞳。その端正な顔だちに、均整のとれた躯つき。
土方歳三、27才。
二世とはいえ、その若さで衆議院議員をつとめる新鋭政治家だった……。
それから、何があった訳ではない。
だが、その男──土方は、たびたび店を訪れるようになった。時折、ふらりと現れては高価な洋書を無造作に買っていくのだ。
いつも店内には一人で入ってきた。店の外に待たせてある黒塗りの車をちらりと見たこともある。秘書らしい男はいつも店外で待っていた。それ以外を除けば、ごくふつうのエリートビジネスマンにしか見えないのだ。
だが、彼は確かに、若手の中でも新鋭の政治家だった。若いながら手腕もあり、二世だからと馬鹿にされやすい立場をむしろ逆に利用し、次々と鮮やかな手を打ってゆく。
スキャンダルも全くないところも人気の理由だった。あれほど端正な容姿をもちながら、浮いた噂一つない硬派なのだ。ストイックすぎる程の清廉さだった。敵陣営がかなり彼の身辺を探ったようだが、全くと云っていいほど何も出てこなかったらしい。
(……でも、恋人ぐらいいそうなのなぁ)
そう思いながら、総司は今、目の前に立っている男を見上げた。
見とれるほど綺麗な顔だちだ。
清潔感のあるきっちり整えられた黒髪に、濡れたような黒い瞳。すうっと通った鼻筋から、形のよい唇。頬から顎にかけての男らしく引き締まったライン。
一見すれば冷たいほど整った顔だちなのに、彼の場合は、何とも魅力的だった。大人の男の艶があるとでも云えばいいのだろうか。
こんなにも魅力的な男に、恋人がいないはずがないのだ。
そう思ったとたん、総司は胸にちくりとした棘を感じて、思わず顔をしかめた。自分でもわからない感情の動きだった。
そんな総司に土方はすぐ気づいたらしく、僅かに眉を顰めた。
「? 何か……?」
「い、いえ」
総司は慌てて本を包み始めた。今日も高価な洋書だ。それもいつも、世界遺跡などの写真集や、難解な美術書などだった。
気がつけば、ふと訊ねていた。
「……遺跡とかが……」
「え」
かるく、土方が目を見開いた。その表情が意外に無防備で、総司の心を強く惹きつけた。
「あの、遺跡とか、こういうものがお好きなんですか?」
「……」
「す、すみませんっ。いつも、こういう本ばかり購入していかれるので……その、もしそうならまたお探ししておこうかと思いまして」
慌ててつけ加えた総司に、土方は小さく微笑んだ。
「ありがとう。そうしてもらえると、助かる」
「いえ……」
「仕事柄、本当ならもっと経済等の本を読むべきなんだろうが、つい手がのびてしまうんだ」
土方は包まれた本を大事そうに受け取った。
「親の言いつけで仕方なく今の仕事を……あ、政治をやってるんだが……」
「知ってます。有名ですから」
「好きでやってる訳じゃないけどね」
かるく土方は肩をすくめ、 ちょっと皮肉っぽい笑みをうかべた。
「親も政治家だともう自動的にそうなってしまうんだ。で、仕方なく継いだ訳だが、本当は……こういう遺跡を修復する仕事につきたかった」
「遺跡の修復を?」
「あぁ」
土方は頷くと、本を袋から取り出した。ある1ページを広げると、総司にさし示した。それは総司も知ってる、外国のある美しい大聖堂だった。
「美しいだろう……?」
うっとりしたような声で、土方は呟いた。
「こんなにも綺麗なものを、人はどうして大切に守ろうとしないのだろう。まだ間にあうのに、挙句、内乱のせいで今は到底近づくこともできない状態だ」
そのことは、総司もよく知っていた。
以前、そこまで飛んでいった事があったのだ。戦場となったその街は酷い有様だった。焼け野原となった街の中の真ん中に、ぽつりとこの大聖堂が建っていた。それも砲弾を受けて半分崩れかけた姿で──
その時、一緒にいた伊東が似たような事を口にしていたのを思い出した。
どうして人はこんなにも愚かなのか──と、沈んだ表情で低く呟いていたのだ。
「……そうですね」
総司はこくりと頷いた。
「とても綺麗なのに……悲しいですね」
そう答えると、土方はちょっと驚いたように目を見開いた。が、すぐに嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔は、まるで少年のようだった。
だい好きな宝物を見せて素敵だと、そう云われた子供のようだと思った。
「……」
総司はまた頬がぽっと火照るのを感じてしまった。
あまりにも、彼は鮮やかすぎるのだ。魅力的すぎるのだ。
一瞬一瞬、思ってもみなかった表情を見せられ、どきどきしてしまう。
まるで──そう。
甘く濃厚な蜂蜜のように。
どこまでも、とろけてゆくようだった。彼と話していると、彼の瞳に見つめられると、身も心もとろけてしまいそうになるのだ。
そして、それこそが恋なのだと総司が自覚するのは、もう少し後のことだった……。
総司はビルの屋上にあがると、息を吸い込んだ。自分が住んでいるマンションの屋上だ。
ゆっくりと両手をのばし、目を閉じた。ばさっと音が鳴り、白い大きな翼が総司の背中に現れる。それを確かめてから、総司はふわっと飛び上がった。
翼に少し力を込めると、ぐんぐん地上が遠ざかってゆく。
もっとも、その姿は人間には見えなかった。彼らは翼が現れた時点で、姿が見えなくなってしまうのだ。その姿を見る事ができるのは、天使か悪魔だけだった。
しばらく飛びつづけると、東京タワーが見えてきた。
夜の闇の中、綺麗なレッドに輝いている。幾人かの天使たちが周囲をふわふわ飛びまわっているのが見えた。その中を縫ってゆくと、皆、大天使である総司に慌てて挨拶をしてきた。それにいちいち返しながら、総司は翼を動かし、やがて、ふわりと一本の梁の上に降り立った。
見下ろせば、きらきらと眩く輝く都会の夜が広がり、見事な光景だ。
「……総司」
ふと気づくと、伊東が傍に降り立ったところだった。ばさっと白い翼が音をたてた。
総司はぺこりと頭を下げた。
「お久しぶりです。どうでした? あちらの方は」
「酷いものでした……戦争は悪魔を生み出す。いや、悪魔が戦争を生み出すのか……」
ちょっと顔をしかめたが、伊東はすぐに気持ちを切り替えたようだった。
「東京の方はどうです。最近、悪魔は見つけましたか」
「この間、二つほど見つけて処刑しました。かなり力の強い悪魔だったので……」
事も無げに云った総司に、伊東は頷いた。
「二つか……きりがないですね」
「悪はそれほど魅力になるのでしょうか。人間であることをやめてしまう程に?」
思わず総司は訊ねていた。
悪魔とて初めから悪魔だった訳ではない。人として生まれた者が悪の誘惑に引き込まれ、悪魔と化してしまうのだ。
そして、一度悪魔になってしまった者が、再び人間に戻れることはなかった。その人間としての寿命が尽きるか、もしくは、天使に処刑されない限り、悪魔としての生は終わらないのだ。
もっとも、天使たちも悪魔のすべてを処刑する訳ではなかった。もともと魂の内にある悪の芽が小さい者は悪魔と化しても、魔力が弱く、人に害を及ばすこともない。そのため、見つけても放置しておく事も多々あった。もちろん、強い魔力をもった悪魔は必ず処刑するのだが。
「さぁ……それは私もわからない」
伊東は遠い目になった。
「むしろ人間であることが不幸なのか……天使である我らには永遠に理解できぬことです。それに、人の中には大なり小なり悪の芽がある。結局は、それが表面化するかしないかという事なのでしょう」
「それを引き出すのが悪魔。そして、その悪魔を処刑し、人間の魂に戻すのがぼくたちの務めですか」
「きみは不満ですか?」
不意にそう訊ねられ、総司は驚いたように伊東を見上げた。静かな優しい瞳で伊東は総司を見ていた。
伊東は、総司の保護者のようなものだ。
手とり足とりこの仕事について教えてくれ、庇護してきてくれた。大天使の中でも最も神に近い存在と云われ、唯一、焔の剣を振るえる資格を持っている。
が、それでも、伊東はいつも総司の考えや気持ちを尊重してくれた。この仕事についても、天使の中でも様々な思惑の違いがある。それを、よく知っているのは伊東も総司も同じことだった。
「いえ、ただ……悪魔という存在とは何だろうと思って。もともと人間だった彼らが悪魔になるなら、それ相応の理由があるはずなのに……」
「悪の誘惑は魅力的だと云うから。現に、天使さえそれに惹かれたものがいる」
「堕天使ですね」
「そう……あまり気分のいい話ではない。そうなった時、懲罰の剣をふるわなければならないのは私だから……」
過去、何度か起こった事を思い出したのか、伊東は僅かに眉を顰めた。
それに、総司は手をのばした。そっと伊東の手を握ってから、それから、小さな声で云った。
「伊東さんは……人にどきどきした事ありますか?」
「?」
訝しげな伊東に、総司は言葉をつづけた。
「だから、その人間と話すとどきどきしたり、見つめられるだけで頬が火照ったり……」
「総司……」
伊東は小さく微笑んだ。
くすくす笑いながら、そっと総司の頬にキスした。
「それはね、恋というんですよ」
「え、え……ええっ? こ、恋っ?」
大きく目を見開いた総司に、伊東は頷いた。
「そう、恋だ。相手が人間というのには驚いたが、これも総司の選んだ道ですからね。まぁ……私も人のことを云えた義理ではないし……」
そう云われ、思い出した。
伊東の妻は──もう亡くなっていたが、人間だったのだ。しとやかで美しい女性だったと聞いている。
「これが恋……」
総司はぼんやりと呟いた。そのとたん、土方の端正な顔を思い出し、かあっと頬が熱くなるのを感じた。
あれから、二人はかなり親しく言葉を交わせるようになっていた。もっとも、内容は本のことばかりだったが、それでも総司は幸せだったのだ。彼に逢えることが、嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
でも、これが恋?
あの蜂蜜みたいにとろけそうな甘い感覚が、恋というものなのだろうか。
ぼくは、あの人に恋している……?
「!」
伊東に顔を見られるのが恥ずかしく、総司は思わず飛び上がってしまった。翼をひろげ、夜空へと飛びたつ。
「総司」
東京タワーの梁に立ったまま、伊東が静かな声で呼びかけた。風に彼の髪と、白い翼が僅かに揺れた。
「総司……誰かを愛することは、素晴らしいことですよ」
「伊東さん……」
「そう……愛は何よりも強いんだ」
「……」
総司はそっと目を閉じた。胸に手をあてて、想いをめぐらせた。
愛は何よりも強い。
そのことを、総司はまだ実感していない。
天使の恋は、まだ始まったばかりだった……。
そんなやり取りから三日後。
土方はまた店にやってきた。それも、総司が一生懸命、彼についての記事を読んでいるところに突然──
「……あぁ。この記事、俺のこともちあげすぎだから」
いきなり、そう声をかけられたのだ。
驚いて顔をあげると、土方がカウンターに片手をつき、小さく笑いながら見下ろしていた。黒い瞳がちょっと悪戯っぽく笑っている。
仕立てのいいダークブラウンのスーツがすらりとした長身によく似合い、一見すれば、政治家どころかどこかの一流モデルのようだった。
(……やっぱり、写真よりもっと格好いい……)
そんなことをまた思ってしまい、総司はますます慌ててしまった。立ち上がり、ぺこりと頭を下げた。
「あ、あの。こんにちは」
「こんにちは」
丁寧に返礼してから、土方は優しい声で云った。
「今日はわざわざ連絡もらってすまなかった。例の本が手に入ったって本当か?」
「え、あ……はい」
総司はがさごそと一冊の本を取り出した。その道のコレクターが見れば、それこそ垂涎ものの稀少本だった。もちろん、値段も桁外れだ。が、土方はそれを無造作に支払うと、また大事そうにその本を受け取った。
そして、そのまま立ち去るかと思ったが、ふと何を思ったのか、かるく小首をかしげるようにして総司の瞳を覗きこんできた。
「……この店、何時まで開けてるんだ?」
「あ、え……あの、6時で閉店です。ちょっと早いかなと思うんですけど……」
「じゃあ、6時ジャストだ」
「え?」
訳が分からず聞き返した総司に、土方はくすっと笑った。
「6時ジャストに迎えに来るから、すぐ出られるように用意をしておいてくれ」
「用意って……あの……っ」
「この本のお礼に、食事を御馳走したい。駄目か?」
「え……」
総司は言葉につまってしまった。
本当なら、お客さんにそんな事をしてもらう言われはないのだ。だが、片想いしている相手からの誘いなのだ、そう簡単に断れるはずがなかった。
「そんな……いいんですか……?」
おずおずと訊ねた総司に、土方は頷いた。
「もちろん。でなきゃ誘わない。俺はあまり社交辞令ができる人間じゃないからな」
その事は知っていた。政治家なのに、その手の事が苦手で一本気なのだ。そこがまた裏表がなくて魅力的だと言われていたが。
「じゃあ……その、お言葉に甘えて……」
躊躇いつつも答えた総司に、土方は微笑んだ。思わず総司が見惚れてしまった程の、綺麗な優しい笑顔だった。
じゃあ、6時にと土方が出ていった後、総司は思わずカウンターに突っ伏してしまった。
頬が熱い。胸がどきどきして、どうにかなってしまいそうだった。
「……うわー、どうしよう。誘われちゃった、ぼく、誘われちゃったー」
たかが食事、されど食事なのだ。
相手が気まぐれで誘ってくれたとしても、それでも嬉しかった。舞い上がりそうだった。いや、気をつけないと、総司の場合、事実そうなってしまうのだが。
総司は頬を両手でおさえると、小さく幸せそうに微笑んだ。
土方がつれていってくれたのは、ある一流ホテルのイタリアレストランだった。
思わず怯んでしまったが、そんな総司のことを考えてくれたのか、意外と肩の力を抜いて食事できるカジュアルな雰囲気の店だった。予約してあったらしい席に落ち着き、注文を済ませてから、総司は前に坐る男をじっと見つめた。
本当に、人の目も心も惹きつける男だ。動作一つも洗練されており、総司をまるでお姫さまのように扱ってくれた。それがまた、恋に馴れてない総司をふわふわした心地にさせてしまう。
「……恋人、いないんですか」
気がつくと、総司はそう問いかけていた。
それに、土方は苦笑した。
「いきなりな質問だな」
「……すみません」
「いないよ」
あっさり答え、土方はワイングラスに口をつけた。総司の方にはむろん、ソフトドリンクが置かれてある。
「どうして……こんなに格好いいのに」
思わず云ってしまった総司に、土方は微笑んだ。
「ありがとう。だが、どうしてか、恋人には縁がない」
「土方さんの理想が高すぎるから……?」
「かもな」
くすくすと土方は笑った。
それに、総司は興味を抱いてしまった。思わず身を乗り出した。
「聞いていいですか? 土方さんの理想って、どんな人?」
「……聞いてどうする?」
「え……」
思ってもみない言葉を返され、総司は言葉につまってしまった。
そんな総司に、土方はグラスを置くとテーブルに肘をつき、かるく身を乗り出した。その深く澄んだ黒い瞳で、じっと総司を見つめた。
「……聞いたら後悔するかもしれないぞ」
「しません」
「そうかな」
「だって、後悔する理由がないもの」
そう答えた総司を、土方はじっと見つめた。それから背もたれに身を戻すと、静かな口調で云った。
「じゃあ……教えてやる」
「はい」
「俺の理想は、かしこくて優しくて」
「はぁ」
「髪は柔らかそうで、大きな瞳で、肌が白くて、華奢な躯つきで、雪うさぎみたいに可愛くて」
「何か、すごく具体的ですね」
そう呟いた総司に、土方はちょっと目を見開いた。楽しそうに、くっくっと喉を鳴らして笑ったが、すぐにまた言葉をつづけた。
「それで……何でも一生懸命で、いろいろ俺のためにしてくれて、俺のことを知りたいと小さな記事まで読んでくれて、熱心に俺の話を聞いてくれて」
「……え……」
「美しい大聖堂が壊れてゆく様を俺が嘆いたら、綺麗だから悲しいと云ってくれる──そんな人だ……」
「──」
総司は大きく目を見開いていた。
フォークを握ったまま、呆然と土方を見つめている。
何となくしか理解できなかったのだが、今のは──今のは、もしかして……。
「あ、あの、それって……」
思わず云いかけたとたん、次の料理が運ばれてきた。それを土方が綺麗に取り分け、皿を手渡してくれた。
「冷めるぞ、食べよう」
「あ……はい」
その後は、二人とも黙ったまま食事をつづけた。
だが、決して気まずい訳ではない。時折、瞳だけを交わした。視線をからませた。
それだけで、互いの熱が高まってゆくのを、痛いほど感じた。
食事後、エレベーターホールで、総司は思いきって訊ねた。他に人気はなかった。
「……あの、さっきのはどういう意味ですか?」
それに、土方は僅かに小首をかしげた。
「さっきのって?」
「その……理想の話、どういう意味か教えてほしくて……」
「あぁ」
土方は静かに微笑んだ。そして、総司の頬を手のひらで包みこむと、かるく身をかがめた。
「!」
総司の目が見開かれた。唇にふれた、柔らかな感触。
一瞬だけの──キス。
男の熱っぽい声が耳もとで囁いた。
「……これが答えだ」
それだけで、もう十分だった。
「……ふっ、ぁあ……っんっ……」
総司は甘く喘いだ。
恥ずかしくて声を殺そうと手の甲を唇に押しあてるが、すぐさまそれを外されてしまった。桜色の染まった耳柔を噛むようにして、土方の熱っぽい声が囁いた。
「声を聞かせてくれ……」
「だ……って、ぁあっ、んんっ……」
「可愛い、総司……夢みたいだ」
しなやかな指さきが白い肌の上をすべってゆく。総司はまっ白なシーツの上で、甘く艶かしく悶えた。
あの後、土方はすぐさまホテルに部屋をとり、総司を連れこんだのだ。もちろん、総司も抗わなかった。部屋に入るなり熱く抱きしめてきた男の腕の中、潤んだ瞳で見上げ、彼を誘ったのだ。
総司にとって、むろん、人間との交わりは初めてだった。人間どころか天使とでも全くの初体験だ。
怖がり身を固くする総司に、土方は焦らなかった。丁寧な愛撫をくり返し、少年の体がとろとろに蕩けてから、ようやく交わった。
「……ぁああ…んぅぅッ…ッ!」
それでも、挿入時はさすがに痛みがあったのだろう。濡れた固い蕾を男の猛りに貫かれた瞬間、総司は悲鳴をあげた。ずぶりと根元まで埋め込まれ、はぁっはぁっと肩で苦しげに喘いでいる。
土方はそんな総司の頬や首筋に優しいキスの雨を降らせた。総司のものも手のひらで包みこみ、柔らかく揉みあげてやる。総司は小さく喘ぎ、土方の肩に腕をまわした。
「……総司」
「土方さん……動いて……」
「だが……」
僅かに眉を顰めた土方に、総司は小さく首をふった。
「きっと……大丈夫。ぼくも土方さんも……気持ちよくなれるでしょう……?」
「あぁ……わかった」
土方はゆっくりと腰を動かし始めた。
ゆるやかに──次第に激しくなってゆく律動に、総司は男の裸の背中に両手をまわし、きつく縋りついた。驚くほどの速さで苦痛が消え去り、かわりに熱く痺れるような快感がどんどん強くなってくる。
「ぁあ……あ、んんっ、あんっ……!」
「総司、総司……気持ちいいか……?」
「う、うん……いいっ、いいよぉ……っ」
総司は甘い声で泣きじゃくった。腰奥から背筋を何度も甘い痺れがつき上げ、総司を恍惚とさせた。
土方は総司の両膝を大きく開かせて固定すると、蕾の奥を己の猛りでぐちゅぐちゅと掻きまわし始めた。
総司の声が悲鳴に近くなった。
「あぁーっ! い、いっちゃうっ……怖いっ、とろけちゃうっ……ッ!」
「総司、いい子だ……ほら、いっていいから……」
「あっ、ああっ、だ、だめぇッ! あ…んっ、い…く、んんッ!」
グンッと腰が浮き上がった瞬間、総司のものから蜜が迸った。それを土方は満足そうに眺めた。しなやかな指さきで蜜をすくい、まだ震えている総司のものの先っぽをくりくりっと撫で回してやる。
「やあ……っ!」
甘い嬌声をあげて仰け反った総司に、土方は微笑んだ。
「可愛い総司……」
「ふ、ぁあ、あんっ……ひあっ、んんっ」
「もう…離さない……っ」
男の声が熱く甘く囁きかけた。欲望に濡れた黒い瞳が総司を見つめ、酔わせる。何度も唇を重ねあいながら、互いの躯をきつく抱きしめあった。
濃厚な蜂蜜のように甘くとろける快楽の彼方へと、互いを追いあげてゆく。
その夜、総司は目も眩むような快感に気を失った……。
翌朝早く、総司は目を覚ました。
厚いカーテンが引かれ、ホテルの部屋はまだ薄暗い。だが、もう朝は間近なようだった。
総司は身を起こすと、隣でぐっすり眠る男を見つめた。
半ばうつ伏せになり、枕に顔をうずめるようにして眠っている。さらさらした黒髪が額に乱れ、まるで少年のような寝顔だった。
(……どうしよう)
総司はあらためて現実に返り、息を呑んだ。
とんでもない事をしてしまったのだ。人間の男と交わるなんて。いや、そのことはまだいい。天使が人間と結ばれることは別にタブーとされていず、幾度もあった事なのだ。
だが、それよりも、土方は今、現代に生きている男だった。
政治家という、もっともスキャンダルに用心すべき立場にある彼。だからこそ、彼には恋人もいなかったし、清廉潔白な印象を周囲に与えつづけてきたのだろう。そんな彼が少年である自分と寝てしまったのだ。
このことが世間にばれたら、いったいどうなるのか。どう考えても、彼の政治生命はもう終わりだ。未成年の、しかも少年の恋人なんて絶対に許されるはずがなかった。
「……ごめんなさい……ごめん…なさい……」
総司は泣きながら謝ると、のろのろとベッドから抜け出た。音をたてないよう床に散らばっていた服を拾い上げ、素早く身につけた。
そして、疼く躯のまま部屋を飛び出した。扉を閉じる瞬間、奥の方で物音がしたので、彼が起きたのかもしれない。だが、それでも総司は足をとめなかった。
エレベーターに乗ってホテルを出て、早朝の街を歩いた。だが、途中でひどくやるせなくなって、路地裏に入り、そこから飛びたった。
白い大きな翼がばさっと鳴り、総司を夜明けの空へとはこんでくれる。
琥珀色の空が輝いていた。
淡いオレンジ色とまざりあい、暁の空は息を呑むほど美しかった。
それを総司は泣きながら見つめた。
ぽろぽろと大粒の涙があふれ、頬を零れ落ちてゆく。
初めての恋は、終わってしまったのだ。
あの愛しい愛しい男には、もう逢ってはいけないのだ。
そう思った。そう信じた。
だが、それでも──
「……土方…さん……っ」
愛おしいと。
彼を誰よりも愛おしいと思う気持ちだけは、とめられなかった……。
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