「花を見に行こうか」
 そう土方に誘われたのは、2月の終わり頃だった。
 まだ桜の花どころか、蕾さえ綻んでいない時期だ。
 総司は驚いて、目を瞬いた。
「花、ですか」


 久しぶりのデートだった。
 美しい庭園に面したレストラン。
 他のテーブルからは離れ、奥まった柱の陰にあたる場所なので、二人の姿は人目につきにくい。
 ガラスごしの冬の日差しはとてもあたたかいが、花見の季節ではない事は確かだった。


「もちろん、今すぐではないよ」
 土方は珈琲を口にはこびながら、云った。もう食事も終わり、デザートに入っていたのだ。
 むろん、総司の前にだけ紅茶とデザートが置かれてある。
「じゃあ……いつですか?」
 総司は小首をかしげた。それに、土方は「そうだな」と目を細めた。
 外の冬らしい澄んだ空を眺め、しばらく考えてから、視線を戻した。総司の手元にあるデザートを見ながら、答える。
「その菓子のような桜の花が咲く頃に」
「え……?」
 総司は、手元のデザートを見下ろした。桜色のブラン・マンジェが白い皿の中に咲いている。
「桜の花が咲く頃……」
 小さく呟いてから、総司は顔をあげた。花のように笑う。
「素敵ですね」
「あぁ。約束するよ」
「はい、楽しみにしています」
 頷いた総司を、綺麗に澄んだ黒い瞳で見た土方は、やがて、くすっと笑った。それに、え? と目を瞬くと、頬に手がのばされる。
 しなやかな指さきで頬にふれ、土方が笑った。
「信じてないだろう?」
「え……」
「約束、守れないと思っている。そうではないか?」
「いえ……でも、その」
 総司は口ごもり、スプーンを握りしめた。
「土方さん、忙しいし、ぼくとの約束のために大変な思いをさせるの申し訳ないし」
「恋人との約束を叶えるのは、当然の事だ」
「でも、今日だって、無理して時間をとってくれたでしょう? それに」
「総司」
 そっと唇を指さきで抑えられた。びっくりして目を見開くと、優しく微笑みかけられる。
「今は、この時間を楽しもう。約束も守るし、楽しみにしていて大丈夫だから」
「土方さん……」
「ほら、早く食べて。紅茶も冷めてしまうよ」
「はい」
 総司はこくりと頷くと、スプーンを口にはこんだ。甘い柔らかな味が口の中にひろがる。
 おいしいと思わず呟いた総司に、土方は微笑みかけてくれた。
 だが、それでも。
 愛する男に無理をさせているという罪悪感が、総司の胸奥から消えることはなかった。












 甘えていいと云われた。
 甘えて欲しいとも。
 だが、先日、土方は過労で倒れてしまったのだ。入院まではならなかったが、実家の方でしばらく療養したと聞いた。
 もっとも、マスコミには伏せられていたため、総司がそれを知ったのは、土方が回復してからだった。それが尚の事、総司にショックをあたえた。


 看病するどころか、臥せっていた事さえ知らない自分。


 こんなので恋人と云えるのだろうか。
 苦しい時や辛い時こそ、支えたいと願っているのに。
 いつも忙しいのに、やりくりして総司との時間をつくってくれる彼。過労で倒れるほど忙しいのに、それを全く総司に見せず、ただ笑顔と優しさで包みこんでくれる。
 大天使であるのは自分であるはずなのに、彼は悪魔であるはずなのに。





「癒されているのは、ぼくの方なんて……」
 総司はため息をついた。
 古書店の中だった。古書店特有の空気に満ちたそこは、総司にとって、最も居心地のいい場所だ。
 だが、先ほどから、総司はため息ばかりついていた。本の整理をしてはいるのだが、どうしても手がとまりがちだ。
「天使……なのに」
 手元にある愛らしい絵本を眺めた。絵本と云っても、外国のものであり、版数も少ないので高価な書籍だ。
 その頁をめくれば、可愛らしい笑顔の天使が翼を広げていた。
 人々に、安らぎをあたえている。


 むろん、総司もわかっている。
 この絵が真実を描いていないことを。
 だが、それでも、今、天使である総司に安らぎをあたえるのは、悪魔である土方なのだ。
 醜い政争の中で傷つき、疲れ果てている彼を癒してあげたいのは、総司の方であるはずなのに。


「……」
 ため息をつき、ぱたんと絵本を閉じた。
 とたん、上から声が降ってきた。
「随分と憂鬱そうだな」
「斉藤さん」
 びっくりして顔をあげると、斉藤が目の前に佇んでいた。鳶色の瞳を細めている。
 総司は慌てて立ち上がった。
「ど、どうしたんですか、急に」
「どうしたって、酷くないか。電話したのは、そっちだろ」
「え、あ……あっ、そうでした」
 総司はこくこくと頷いた。確かに、今朝、斉藤が頼んでいた本が見つかった事を、電話したのだ。
「ごめんなさい。えっと……これです」
 総司はごそごそと本を探し出し、それをさし出した。アンティークレースの図案集だ。
「こういうのも、ジュエリーの参考になるのですか?」
「もちろん。色々と為になるよ」
 安堵したように本を受け取り、支払ってから、斉藤は視線をむけた。
「それで?」
「え」
「それで、何をあんなにため息ついていたんだ? また、土方さんのことか?」
「え、あ……」
 総司はなめらかな頬を紅潮させ、俯いてしまった。だが、すぐに顔をあげると、大きな瞳で斉藤を見上げてくる。
「斉藤さんは、お見舞いに行ったんですか?
「え?」
「この間の時……土方さんが倒れた時です」
「あぁ」
 斉藤はちょっと複雑な表情をしたが、すぐに小さく笑ってみせた。
「電話で少し話をしただけだよ。意外と元気そうだったんで、安心したけど」
「そう…ですか」
「? 総司もこの間、逢ったんだろ? 土方さん、まだ調子が悪そうだったのか?」
「いえ、違います。ただ、ぼくは……何も知らなかった、何もしてあげられなかったと思って……」
「オレだって、たまたま用事があったから電話して知っただけだよ。土方さん、自分の不調を云ってまわるような人じゃないって事、知ってるだろ?」
「知っています。わかっているんですけど、でも……土方さんが辛い時、支えてあげられない自分が情けなくて……」
 俯いてしまった総司に、斉藤はため息をつきたくなった。


 そこまで心配する必要など、全くないのだと、つい云ってやりたくなる。
 だが、云えば、尚更、総司が哀しげな瞳になる事がわかっていた。
 この心優しく素直な大天使は、土方のことを悪魔であっても優しい心の綺麗な人だと疑わず、身も心も捧げるようにして愛しているのだから。


「そんなふうに総司が思っていると、土方さんが知ったら」
 斉藤はゆっくりと云った。それに、総司がはっと顔をあげる。
「どうするだろうな。怒るかな、それとも、悲しむかな。どちらにせよ、喜びはしないと思うよ」
「あ……」
「支えてあげたいと思うなら、今度逢った時、土方さんに可愛い笑顔でもむけてあげればいいのさ。それが、あの人にとって一番の贈り物なのだから」
「斉藤さん」
 総司はちょっと潤んだ瞳で、小さく笑ってみせた。
 本当に、清らかで愛らしい花のような笑顔だ。
 やすらぎを与える天使そのものの。
 斉藤はそれに笑い返しながら、ちょっと複雑な気分で手を握りしめた。












「お遊びも程ほどにしたら、どうですか」
 批判的な口調に、土方は切れの長い目をあげた。
 独りがけソファに腰かけ、ゆったりと頬杖をついていた。目の前の大きな窓ガラスごしに、不夜城都市の夜景が一望できる。
 足音さえ吸い込む絨毯を歩き、斉藤は先ほどつくったブランデーを土方に渡した。傍のスツールに腰かけて、足をぶらぶらさせている黛にも。
 場所は、ホテルの一室だった。土方がリザーブしている部屋だ。
「何のことだ」
 グラスに口をつけながら、土方が聞き返した。
 それに、斉藤は肩をすくめた。
「わかっているでしょう。総司のことですよ」
「……」
「倒れたなんて、一日だけのこと。あとは療養と称して、散々遊びまわっていたじゃないですか」
 土方の形のよい唇が、微かな笑みをうかべた。


 実際、斉藤の言葉どおりだったのだ。
 日々の煩わしさに嫌気をさした土方が、療養と称しながら、闇の中で邪悪な魔王としての遊びに耽っていたことは、まぎれもない事実だ。


 黙ったままの土方に、斉藤がゆっくりと訊ねた。
「なのに、総司にあんな思いをさせるなど……可哀想ですよ。事実を知ったら、どう思うことか」
「おまえの言葉とは思えねぇな」
 くすっと笑った。
「だいたい、総司が事実を知ることなど、ありえねぇだろう」
「ありえませんよね。確かに、オレらしくもない。でも、この間、総司があまりに沈んでいたので……」
「沈んでいた? 俺のことでか」
「他に何があるのです。あなたの為に何も出来ない、支えられないと、ひどく気にしていましたよ。あなたが倒れた事さえ知らなかったと」
「……」
 土方は目を伏せ、グラスをかるく揺らした。ブランデーの甘い芳香がたちのぼる。
 ふっと笑い、呟いた。
「可愛いものだな」
「土方さん」
 思わず非難するように呼んだ斉藤に、土方は切れの長い目をむけた。射抜くような鋭いまなざしに、息を呑む。
 黙り込んでしまった斉藤の前で、土方はゆっくりと立ち上がった。グラスをサイドテーブルに置きながら、低い声で云う。
「次の打ち合わせは未定だ。俺の指示を待て」
「……わかりました」
 短い沈黙の後、答えた斉藤に、土方は一瞥さえ与えぬまま部屋を横ぎった。ソファに投げ出していたコートを取り上げ、腕を通しながら、出ていく。
 扉が閉まる音が響くと、黛が「はぁー」と息を吐き出した。上目づかいに斉藤を見上げる。
「どうしちゃったの、斉藤」
「何がです」
「だから、あんたにしては珍しいでしょ。あの人を怒らせるなんて」
「怒っていましたか」
「わかってるくせに」
 それに肩をすくめ、斉藤は窓際に歩みよった。腕を組み、不夜城都市の夜景を見下ろす。
 黙り込んでいる男の姿を眺め、黛はグラスをかたむけた。からんと心地よい氷の音が鳴る。
「あんたも飲む?」
「遠慮しておきます」
「そうよね。十分、酔っているわよね、あの大天使に」
 黛の言葉に、斉藤が視線を流した。思わず、声音が剣呑な色を帯びる。
「どういう意味です」
「怖い顔しないでよ、冗談なんだから」
「冗談でも云っていいことと……」
「悪いことがある? でも、図星だから、そんな怖い顔するんじゃない?」
「……」
 黙り込んでしまった斉藤に、黛は肩をすくめた。艶やかな黒髪を指さきで払いながら、唄うように言葉をつづける。
「あたしはいいのよ、別に。あんたが大天使に手を出した挙句、あの人の逆鱗にふれようが、裏切ろうが、破滅しようが」
「……」
「でも、それって、本当に、あんたが望んでること?」
 しばらくの間、斉藤は何も答えなかった。ただ、鳶色の瞳を輝くような夜景に向けている。
 やがて、低い声で答えた。
「さぁ、どうでしょう」
「斉藤」
「オレ自身の望みなど、考えた事もありませんね。それに、オレは」
 斉藤は静かな表情で、黛をふり返った。
「あの人の右腕です。それだけは永遠に変わる事はない」
 きっぱりとした口調で云いきった斉藤に、黛はもう何も云わなかった。ただ立ち上がると、「やっぱり、あんたも飲みなさいよ」と云って、バーの方へ歩み去ってゆく。
 それを見送ってから、斉藤はまた視線を夜景に戻した。


 星空がそのまま落ちたような輝く夜。
 この夜景の中のどこかで、総司は土方の訪れを待っているのだろう。
 あの後、彼は逢いに行ったに違いないのだから。
 愛しい大天使を、その腕に抱きしめるために。


 魔王である土方の、唯一の弱点。
 邪悪な魔王が愛した、ただ一人の存在。
 最愛の恋人――――


(……オレは何を望んでいる?)


 斉藤はきつく唇を噛みしめた。