「……いらっしゃい」
 あの店は、数日前と同じくそこにあった。
 当然のことなのだが、幻のように消えてなくなっていそうな気がしていた総司は少しほっとした。
 入ってきた総司を見ると、女はふり返り小さく笑いかけた。手にしていた赤い硝子瓶を棚に戻し、デスク前のソファへ坐るように促してくる。
「……」
 それに躊躇っていると、女は黒い瞳でじっと見つめた。
「あなたは、知りたい事があってここへ来たのでしょう」
「あ、はい」
「なら、お坐りなさい。でなければ、占えないわ」
「……はい」
 総司は女の言葉に従い、おずおずと腰をおろした。アンティークものらしいソファは、しっかりと総司の躯を受け止め、ここが現実である事を教えてくれる。
 女はキャンドルに明かりを灯してから、それを静かにデスクの上に置いた。自分用の一人掛けソファに腰をおろすと、カードを取り上げる。


 何一つ問われなかった。
 何を知りたいのか、総司の事も何も聞かず、女は無言のままカードを重ねてゆく。
 まるで、何もかも知っているかのようだった。否、実際にそうなのだ。
 彼女は力ある魔女のごとく、誰の心の奥底までも読んでしまうに違いない。


 そんな事をぼんやり考えながら、総司はカードをめくってゆく女の手を眺めた。大きなカードに似合わぬ、細い手だ。
 やがて、すべてのカードを並べ終えると、女はゆっくりと顔をあげた。濡れたような黒い瞳が、総司を見つめた。


「……闇に堕ちた星」


 総司は目を見開いた。
 そんな総司の前で、女は唄うように言葉をつづけた。
「あなたが愛しているのは、闇に堕ちた星。かつて暁の星だったそれは、今や暗黒の闇に堕ちてしまった」
「闇に堕ちた……星?」
「それを救えるのは、あなただけ。あなたが見捨てれば、世界は終ってしまうわ」
「……」
 総司は戸惑った表情で、彼女を見た。


 あまりにも抽象的すぎて、意味がわからなかったのだ。
 闇に堕ちた星。世界が終る。
 それは、彼が今とても苦境にあり、それを助けてあげられるのは自分だという事なのだろうか。
 そして、彼と別れてしまえば、自分の世界は終ってしまうという事……?


「ぼくは……あの人を見捨てたりしません。例え、あの人に捨てられても……」
「……」
「だけど、あの人は、ぼくを本当に愛してるのでしょうか。ううん、愛してくれているとわかっています。でも、あの人は……何かを隠している。秘密をもっている。それを、ぼくは教えて欲しいのです。あの人のすべてが欲しいのです」
「何かを欲すれば、その代償を求められる」
 女は静かな声で答えた。
「彼のすべてを求めるなら、あなたもすべてを代償にしなければならない」
「わかって…ます」
「でも、星は今それを望んでない」
 女は一枚のカードを指さきで撫でながら、呟いた。
 それから、総司の小さな顔を見つめた。
「あなたは彼の秘密を知ってどうするつもり?」
「え……」
「秘密を知ってどうするの。何になると思っているのかしら」
「ぼくは」
「彼の中にある闇を知った時……そして、もしもそこに地獄を見つけてしまった時、あなたは何が出来るの。彼に何をしてあげるつもりなの。己のすべてを投げ出し彼を救い、受けとめてあげる、そんな自信があるの……?」
「……」
 総司は答えようと、口を開きかかけた。
 自信がありますと。
 だが、どうしても言葉が出てこなかった。
 女を見つめる総司の唇が、微かに震えた。


 彼の秘密が知りたいと思った。彼のすべてを教えて欲しいと。
 だが、それでいったい何をするつもりだったのだろう。何をしてあげられると思っていたのか。
 彼の秘密を知った時、そのすべてを支えてゆくだけの強さが今の自分にあるのだろうか。
 いつも彼に守られてばかりの自分。
 なのに、彼の中にあるかもしれない闇を、地獄を突きつけられた時、それを受けとめて支える自信が……。


(……そんなの、ない)


 総司はぎゅっと両手を握りしめた。


 あるはずがなかった。自分は大天使なのだ。どれほど彼の事を想っても愛しても、最後の一線がそこにひかれてしまう。
 愛しているからこその自信のなさだった。以前、クリスマスの時、どれほど彼を傷つけてしまったか。すべてを受け止められると思っても、再び傷つけない保証はどこにもないのだ。また、間違いをおかしてしまうかもしれない。
 しかし、彼を救う事ができないのなら、知りたいと思う事はただの独占欲だった。我侭だ。
 彼の秘密を知り、それで満足しようとする自分自身のエゴだ。
 なのに、それを望んでしまった。
 自分自身の身勝手さに、たまらない羞恥心を覚えた。


「……あ」
 総司は頬を赤らめ、よろめきながら立ち上がった。デスクに置かれた細い指さきが震えている。
 それを眺めながら、女は静かな声で云った。
「代償がいると云ったでしょう。それなりの覚悟と代償が。そうでなければ、望むべきではないわ」
「は…い」
「闇に堕ちた星を救ってあげられるのは、あなただけ。なら、今は、ただぬくもりをあたえてあげて。望むべくもなかった幸せを、彼にあたえてあげなさい」
「……」
 総司は息をつめ、彼女を見つめた。


 何もかも、過去も未来も現在も。
 すべてのことを、彼女は知っている気がした。
 総司が大天使である事も、彼という愛しい存在の事も皆───


「……ありがとうございました」
 だが、総司は何も云わぬまま代金をそこに置くと、踵を返した。幾つか置かれたソファの間をすり抜け、店を出てゆく。
 ギィッと軋む扉を開けて外へ歩み出た総司の髪を、ふわりと風が撫でた。とたん、異質な世界から現実へと舞い戻ってきた気がする。
 ふり返ってみた総司の目に、店奥にいるだろう女の姿は映らなかった……。












「あぁ、これがいい」
 土方はそう云うと、Aラインの白いコートをさし出した。
 戸惑って見上げる総司に、それを押しつけ、「早く手を通してみなさい」と、命じてきた。
「……」
 総司は何度めかのため息をつきながら、そのコートを受け取った。


 青山にあるブランドショップだった。紳士物から婦人物まで幅広く展開している店だ。
 吹き抜けになった広い店内に飾られた商品は、総司から見ればとんでもない値段のものばかりだったが、土方はごく当然のようにそれらを次々と総司に試着させてくる。
 今手渡されたコートも、ピュアカシミアでさすがに柔らかく軽かったが、値札を見た総司は思わず息を呑んだ。


「土方さん!」
 慌てて、ソファに悠然と坐っている土方に駆け寄り、それをさし出した。
「ぼく、こんなの買えません」
「当然だ。支払うのは俺だよ」
「だったら、余計に駄目です。買ってもらう理由がないし」
「今夜は俺の我侭につきあう──そう約束したと思うけれど?」
 土方はソファの背に凭れかかり、口角をあげてみせた。どこか意地悪い笑みだ。
 それに、総司は思わずため息をついてしまった。
 いつも優しい彼は、時々こうして意地悪になる。冷たく拒絶されるよりはいいが、こんな時もかなり怒っているのだ。

(もしかして、バレた? あの店に行った事がバレたの?)

 伺うように見つめたが、土方は何も応えてくれない。
「ほら、早く着てごらん」
 そう促す彼に、総司は仕方なく頷いた。着てみてから、鏡の前に歩みよると、店員が「よくお似合いですよ」と営業トーク以上の声音で云ってくる。
 不安げにふり返ると、土方も満足げに目を細めていた。
 その彼自身は、仕事帰りのため一分の隙もないスーツ姿だ。ソファにゆったりと足を組んで坐っている姿は、メンズモデルさながらだった。
 ソファの肘掛けに頬杖をつくと、土方は柔らかく微笑んだ。
「とてもよく似合う。おまえの白い肌によく映えるよ」
「でも……」
「気にいらない?」
「そういう訳じゃなくて……」
「なら、素直に喜んで欲しいね」
 土方はすっと立ち上がった。先程から総司が試着した服をしなやかな指さきで示すと、
「そのセーター二着と、シャツ、このコートを貰おう。あぁ、それから、白いマフラーも」
「土方さんっ」
 慌てて止めようとする総司に、土方はまったく知らぬ顔だった。そればかりか、
「手袋もあった方がいいね。コートによく似合うだろうし」
「……」
 もはや何を云っても無駄だと悟った総司は、これ以上注目の的にならぬよう口を閉ざした。
 もっとも、ここは店の奥の個室であり、彼が贔屓にしている店なので大丈夫だという話だったが。
 それでも、絶大な人気のある独身代議士が、少年にこれだけのものを貢いでいるなど、リークされれば立派なスキャンダルだ。
「本当に大丈夫なのですか?」
 不安そうに問いかけた総司を、土方はふり返った。
「何が」
「だから、あなたの立場が……こんな事してばれたら……」
「悪い事をしている訳でもないだろう。恋人にものを贈って責められる謂れもない」
「それはそうなんだけど」
 口ごもり俯いてしまった総司に、土方はくすっと笑った。女性店員たちの前であるにもかかわらず、その肩を抱きよせると、頬にかるく唇を押しつけた。
「!」
「本当に、総司は心配性だね」
「ひ、土方さん」
「大丈夫、何の心配もいらないよ」
 事もなげにそう云ってから、土方は支払いのため歩み去ってしまった。その間に、総司は買ったばかりの衣服に着替えさせられる。
「……いいね、よく似合っている」
 総司を上から下まで検分するように眺めてから、土方は満足げに微笑んだ。そっと髪を撫でてくれる。
「百合のように綺麗だ。それとも、白い薔薇の蕾かな」
「土方さん……」
 低めた甘い声に、総司は思わず頬をそめた。長い睫毛を瞬かせて見上げると、土方は僅かに目を細めた。もう一度抱き寄せられ、耳もとにキスを落とされる。
 店を出ると、土方は少し歩こうかと云ってきた。
 食事は先に済ませている。その待ち合わせに遅れてしまった事で、謝った総司に、「お詫びに、俺の我侭につきあって欲しい」と云われたのだ。
 だが、これが彼の我侭とは到底思えなくて。むしろ───
「あの……買ってくれてありがとうございました」
 おずおずと云った総司に、土方はちらりと視線をむけた。それがまるで流し目のようで、男の艶っぽさにどきりとする。
「俺の我侭だから、気にする必要はない」
「でも、とっても高かったでしょう。こんな……」
「値段以上に楽しませてもらったよ。もっとも、おまえは喜んでくれなかったようだが」
「えっ、そんな事ありません」
 総司は慌てて首をふった。
「こんなに沢山買ってもらって、ぼく……嬉しかったです」
「そうは見えなかった」
「ごめんなさい。申し訳ないって気持ちの方が強くて……それで……」
「なら、今度はおまえが心から喜んでくれるプレゼントをしよう」
「え……?」
 土方は総司の細い肩を抱くと、目的をもった様子で足早に歩き出した。イルミネーションに彩られる街だが、夜なので、すれ違う人々も彼の存在には気づいていない。
 路地裏を入った処にある小さな店前にくると、土方はその扉を押し開いた。とたん、甘い匂いが二人を包みこむ。
「わぁ……!」
 思わず歓声をあげてしまった。
 ショーケースに並んだ、色とりどりのチョコレート。抹茶やストロベリー、レモン色。
 まるで小さな花畑の中に迷い込んだようだった。それも、甘い甘いスイーツの花畑だ。
「おいしそう。とっても綺麗ですね」
「あぁ。おまえが好きなのを選んでごらん」
「え」
「ほら、好きなだけ買ってあげるから。ここなら、それ程気兼ねしなくてもいいだろう」
 優しく微笑いかける彼に、胸の奥がきゅんっとなった。


 いつでも、こうして甘やかしてくれるのだ。愛してくれるのだ。
 自分が思っているよりもずっとずっと、深く優しく愛して、その力強い両腕で包みこんでくれる。
 なのに、そんな彼の秘密を探ろうとしたなんて。
 この愛する人の心を守れる覚悟もないくせに……。


 たまらない罪悪感を覚え、思わず目を伏せてしまった。それに、土方が僅かに小首をかしげる。
「総司?」
「……」
「チョコレート、嫌いだった?」
「ううん、違うのです」
 総司はふるりと首をふると、可愛らしい笑顔を彼にむけた。
「ありがとう、だい好きだから。たくさん選んでもいい?」
「もちろん」
 優しく頷いた土方にもう一度笑いかけてから、総司はショーケースに向き直った。
 可愛らしい花畑のようなチョコレートを、一つ一つ選んでゆく。
 彼と一緒に食べる事も考え、甘さ控えめなものも入れてもらった。たちまち、白い箱は可愛い色合いでいっぱいになる。
 それを見つめ、総司は嬉しそうに微笑んだ。
「……」
 そんな幸せそうな恋人の後ろで、土方は無言のままゆっくりと目を細めた……。













 一つめにとったチョコレートは、ストロベリー味だった。
 それに、土方がくすっと笑う。
「? 何ですか」
 不思議そうに見ると、土方はソファの肘かけに頬杖をついたまま答えた。
「ストロベリーを一番初めに取るだろうなと思っていたから」
「予測があたって笑ったの?」
「そんなにストロベリーが好きなら、全部それにすれば良かったのに」
「だって、色々食べたかったのです」
 そう答えた総司は、嬉しそうにチョコレートを口に運んだ。
 ここは、土方があらかじめリザーブしていたホテルの部屋だった。贅沢なスイートの部屋は彼らしいのだが、総司には少し落ち着かない。
 ソファにならんで坐ったまま、二つめのチョコレートをとり、隣に坐る彼にさし出した。
「これ、ビター味って聞いたから、そんなに甘くないと思うのです。食べますか?」
「あぁ……一つだけ貰うよ」
 土方は頷いた。その形のよい唇にチョコレートをはこぶと、僅かに目を見開いた。くすっと笑ってから、一口食べた。
「……おいしい?」
 不安そうに訊ねる総司に、土方は小さく笑った。
「あぁ、割合」
「やっぱり、甘いもの苦手なんですね。土方さんでもこれならいけるかなぁと思ったのに」
「もともとおまえの為に買ったものだから、全部おまえが食べていいんだよ」
「だって、今日、ぼく貰ってばかりで……」
「全部お返しなのだから、気にする事ないだろう。三倍返しと聞くし」
「え……?」
 総司はきょとんとして、土方を見上げた。その様子に、少し呆れたようにつけ加える。
「今日は3月14日。ホワイトデーだ」
「え、えぇっ」
「完全に忘れていた訳だね。わざわざ今日を指定した意味、全くわかっていなかったと」
「……全然わかってませんでした」
 小さくなってしまった総司に、土方はわざとらしくため息をついてみせた。それに、慌てて抗弁する。
「で、でも、ぼく、こんなに沢山お返し貰う理由ないし。あんなチョコでこのお礼じゃ」
「だから、三倍返しだ」
「それでも軽く越えています」
「じゃあ、足りない分は今から頂こうか」
 そう云って、艶めいた笑みを投げてよこした土方に、総司は頬をピンク色に染めてしまった。
 男の言葉が何を意味しているのか、こっちはすぐさまわかってしまったのだ。
 恥ずかしそうに寝室の方へ視線をやってから、総司は少しだけ彼の方へ身を寄せた。土方の肩口に顔をうずめると、小さな小さな声で訊ねる。
「今すぐ……?」
「あぁ」
 頷きざま、土方は総司の華奢な躯を抱きあげようとした。とたん、軽く抗われ、眉を顰めてしまう。
「いやなのか?」
「違うの。運ばれるのがいやなのです」
「自分で行きたいとか?」
「そうじゃなくて」
 総司は細い両手をのばすと、彼の首をかき抱いた。男の耳もとに唇を寄せ、恥ずかしそうに囁く。
「ここで抱いて……」
「……」
 珍しく積極的な言葉に、土方はかるく目を見開いた。だが、すぐにくすっと笑うと、総司の躯を柔らかくソファの上へ組み敷いた。
「仰せのままに」
 後は、チョコレートのように甘い甘い一時が、ふたりを優しく浚っていった。