「あぁ……いいなぁ」
思わず声に出てしまった。
それが意外と、静まり返った部屋の中に響いて、総司は少し焦ってしまった。慌てて周囲を見回したが、誰もいない。
その事に、ほっと安堵の息をつき、総司は視線をテレビの方へ戻した。
「……」
土方のマンションだった。
時刻はもう真夜中の12時をまわっている。だが、この部屋の主はまだ帰ってきていなかった。
今夜はもともと約束していた。店を閉めてから、総司がここに来たのは夜の8時頃だ。
綺麗なキッチンで二人分の食事をつくった処に、土方から電話が入った。
「仕事だもの。仕方ないよね」
ため息をつきながら、総司はソファの上で膝を抱え込んだ。
もうお風呂は入っている。今夜は泊るつもりだった。
遅くなるから帰ってくれても構わないと云った土方に、待っていると答えたのだ。明日は昼まで一緒にいられると聞いたから、尚の事だった。
だが、それでも淋しいことは淋しい。
早く帰ってきて欲しいと、つい願ってしまうのだ。
「わがまま、だよね」
小さく呟きながら、総司はテレビをぼんやり見つめた。
画面には美しい映像が映っている。
外国の公園の映像であり、そこで樹木の下、恋人たちがささやかなピクニックをしていた。二人でキスをかわしたり、お喋りをしたり、コーヒーを飲んだりしている。
そんな何気ない光景だったが、今の総司には、とてもうらやましく見えた。
否、今でなくともそうなのだ。
二人の逢瀬は、いつもホテルや土方の部屋に限られていた。
もちろん、外出することもある。
だが、考えてみると、こんなふうに日常的な光景をともにした事はなかった。
さり気ない、ごくあたり前の光景。
なのに、そんな事をしたことのない自分たちが、たまらなく切なく思えたのだ。
背徳的な恋だからこそなのかと、胸が痛んだのだ。
誰にも明かされることのない、恋だった。
秘密の恋……。
それは土方ではなく、総司が望んだ故だったが、だからこそ、尚更切なかった。
彼の為ならばいつでも身をひく覚悟は出来ているが、それでも、ふとした瞬間に淋しさをおぼえるのだ。
「……」
総司はソファの上で膝を抱えたまま、ぼんやりとテレビ画面を眺めた。
美しい楓の紅葉の中、恋人たちが楽しそうに笑いあっている。
それに、ふと妬ましささえ覚えた。だが、すぐに自分を恥じた総司は、いっそテレビを消そうとリモコンに手をのばした。
とたん、リモコンは傍らから柔らかく取り上げられた。
「……え」
驚いて見上げれば、いつのまに帰ってきたのか、土方が総司を見下ろしていた。目があうと、優しく微笑いかけられる。
「ひ、土方さんっ」
慌てて立ち上がった総司に、土方はくすっと笑った。
「ただいま」と云いながら頬にキスを落とし、濡れたような黒い瞳で見つめてくる。
それに頬を染めつつも、総司は「お帰りなさい」と答えた。そうして、目を瞬いた。
「いつのまに? 全然気づきませんでした」
「自分で鍵をあけて入ってきたからね。総司はもう眠っているだろうと思っていたし」
「出迎えなくて……ごめんなさい」
「謝ることはないよ。自分の家の鍵を自分で開けるのは、当然のことだ」
あっさり云いきると、土方は着替えるため寝室へと入っていった。今帰ってきたばかりらしく、まだコートにスーツ姿だったのだ。
その広い背をぼうっと見送ってから、総司は我に返り、慌てて声をかけた。
「あのっ、晩御飯は……」
「食べてきた」
「そ、そうですか」
少しがっかりしてしまった総司に、着替えを終えて戻ってきた土方は気が付いた。ちらりとキッチンの方へ視線をやってから、苦笑する。
「明日の昼にでも頂くよ。ブランチでもいいしね」
「そんな、無理しなくても……」
「別に無理ではない。総司の手料理が食べたい、それは当然の事だろう?」
笑いかけてくれる土方に、総司は、ほっとして頷いた。ソファに座りなおすと、土方も傍に腰かけてくる。
髪を撫でられ、口づけられた。
「お風呂はもう済ませた?」
「はい」
「そうか。残念だ、一緒に入りたかったのに」
悪戯っぽい声で耳もとに囁かれた言葉に、総司はたちまち真っ赤になってしまった。
先日、このマンションのバスルームでさんざん戯れたことを思い出してしまったのだ。恥ずかしくて俯いてしまう。
そんな総司の細い肩を抱き寄せながら、土方はもう一度テレビのスイッチを入れた。先ほどの映画が映し出される。
「これを見ていたのか?」
「えぇ。でも、もうかえますね。途中から見ても……」
「大丈夫だ。この映画なら知っている」
「えっ、恋愛映画を?」
総司はびっくりして声をあげてしまった。
土方がこんな恋愛映画をわざわざ見るなど、想像もつかなかったからだ。
だが、それに、土方はかるく肩をすくめた。
「別に自分から見たのではないよ。斉藤の店でチェスをしている時、傍で黛がタブレットで見ていたんだ。いちいち説明するものだから、全部わかってしまった」
「そうなんですか」
なら、理解できる話だった。
だが、斉藤の店でチェスなんて、しかも黛が傍にいたなんて、総司は、ふと羨ましいなぁと思ってしまった。
そんなふうに何気ないことをしたいのは、一緒に普通の恋人らしい事をしたいのは自分なのに、土方は自分以外の誰かとそれをしてしまっているのだ。
斉藤であれ、黛であれ、総司よりもずっと彼の近くにいる気がした。
それが切なくて、思わずぎゅっと両手を握りしめてしまう。
だが、そんな総司に、土方は気づいていないようだった。立ち上がると、「何か飲み物でもいれよう」とキッチンへむかって歩いてゆく。
「総司は? 何がいい?」
「あ、ぼくがします」
「いいよ。坐っていて、紅茶でいいかな」
「はい」
こくりと頷いた総司に、土方は優しく微笑いかけてくれた。
こんなにも優しいのに。いつも自分を大切にしてくれるのに。
そんな彼に不満をもってしまっている自分が、総司はとても情けなくなった。胸の奥が罪悪感と淋しさで痛くなり、よくわからなくなってゆく。
(ぼくって、やっぱり我儘だ……)
総司はきつく唇を噛みしめた。
「チェス?」
訝しげに、斉藤は小首をかしげた。
大きな窓ガラスの外では、美しいイルミネーションが輝いている。道を行きかう車、人々。だが、その喧噪もこの店に入ったとたん、息をひそめた。
ここにくるたび、総司はいつも別世界みたいだと思う。
仄かな明かりだけが灯された店内。ぼうっと浮かびあがる美しいアクセサリー。
そこは店というより、まるで小さな美術館のような趣だ。
総司は窓枠に腰かけ、こくりと頷いた。
「そう、チェスです。この間、土方さんが斉藤さんとチェスをしたと云っていましたけど」
「あぁ」
思い出したらしく、斉藤が笑った。
「確かにね。この店で、あれは何だったか……そう、劇場へ行く前に寄った土方さんと時間つぶしにチェスをしたんだ。ちょうど黛さんもいた時で」
「聞きました」
ふと俯いてしまった総司に、斉藤は眉を顰めた。
「もしかして、土方さんと黛さんのこと……」
「え、違います。ちゃんとわかっています、そうじゃなくて」
総司はふるりと首をふり、長い睫毛を伏せた。膝上においた手をぎゅっと握りしめる。
「なんか、うらやましいなぁと思ったのです」
「羨ましい?」
「少し。こういうお店で、チェスをしたり、映画を覗きみたり、お喋りしたり……とても日常的なことでしょう? 隠す必要もないだろうし、そういう事が簡単にできるのが羨ましいというか」
「総司は、土方さんとそういう事をしないのか?」
「しない……かな」
総司は微笑ってみせた。だが、その笑みは、斉藤の目には、ひどく淋しげに儚く見えた。
さらりとした髪を肩先にふれさせながら、総司は言葉をつづけた。
「土方さんと逢うの、ホテルやマンションだし、秘密にしなくちゃいけないし」
「だから、隠す事なく逢ったりできるオレたちが、羨ましいと思ったわけ?」
「ごめんなさい」
申し訳なさそうに謝る総司に、斉藤は苦笑した。カウンターに肘をついて身をのりだしながら、笑いかける。
「謝ることじゃないよ。ただ、オレもたいして土方さんと逢ってないけどね。あの人が店を訪れた時に相手するぐらいだし……」
少し黙ってから、斉藤は小首をかしげるようにして問いかけた。
「もしかして、二人の関係を隠していくことに疲れてしまったのか?」
「えっ、違います」
総司は慌てて首をふり、否定した。
「疲れたとかじゃなくて。それに、土方さんとの関係を秘密にするのは、ぼく自身が望んだことだし」
「……」
「そうじゃなくて、ただ、ちょっと思ったのです。ぼくは、土方さんの一番近くにいる事が許されていると思っていたけど、でも、実は、一番遠い場所にいたんじゃないのかなって……」
「土方さんの一番近くにいるのは、総司、おまえだよ」
「……うん。そう思うんだけど、でも」
それきり黙り込んでしまった総司のきれいな横顔を、斉藤は眺めやった。
(でも、不安なんだよな。そして、その不安を土方さんに伝える事は決してない)
総司はとても控えめだった。
土方が魔王であることを知らないはずなのに、いつも控えめに一歩ひいて振る舞っている。
斉藤からすれば、もっと自分の望みを云えばいいのにと、少し歯がゆくなってしまう程だ。
土方自身も総司の控えめな性格を好みながらも、少し手を焼いたりしているらしい。
実際、この間などもそれで喧嘩にまでなってしまったのだ。
あの時、総司は土方ともう隠さない、素直になると約束したはずだが、控えめな性格までが変わるはずもない。
ましてや、自分自身よくわからない感情や不安を、総司が土方に伝えるはずもなかった。もっとも、斉藤にしてみれば、それを云われた土方がどう対応するか、見ものだと思ってしまうのだが。
あの邪悪で美しい魔王の心を、唯一動かすことのできる存在。
それが、総司なのだ。
「すべてを共にしたい……なんて、我儘なんですよね」
ぽつりと呟いた総司に、斉藤は首をかしげた。
「すべてを?」
「えぇ。土方さんとすべてを共にしたいと、願ってしまうのです。もちろん、わかっています。土方さんにもプライベートがあるし、別々の個人です。でも、そうじゃなくて、喜びや悲しみを共にしたいというか……その……」
「生きるということそのものを、共にしたい?」
そう訊ねた斉藤に、総司は「あ」という顔になった。そして、頬を染め、頷く。
斉藤は後ろのショーウインドに凭れかかりながら、云った。
「共にして、いいんじゃないのかな。恋人なんだし」
「でも」
「我儘じゃないよ、ごく当然のことだ。いっそ、土方さんにそう云ってみたら?」
「土方さんに……? でも……」
総司は黙りこんでしまった。じっと目を伏せ、考え込んでいる。
沈んでしまった様子に、斉藤は何か可愛い小動物をいじめてしまったような気持ちになった。奇妙なほどの罪悪感を覚える。
「昼食でも食べに行こうか」
突然、明るい声で云った斉藤に、総司は驚いたように顔をあげた。
「お昼……ご飯ですか?」
「あぁ。この近くに、おいしいベーグルを出す店が出来たんだ。ベーグルは好き?」
「あ、はい」
総司は慌てて頷いた。
「好きです、ぼく」
「じゃあ、行こう」
総司を仲良く店を出て、「lunch break」のプレートを出しながら、斉藤はさり気ない口調で云った。
「土方さんも、総司の一番傍にいたいと思っているはずだよ。このオレみたいにね」
「え……?」
びっくりしたように見上げる総司に、斉藤は微笑んだ。そして、柔らかくエスコートしてやりながら、歩き出していったのだった。
数日後のことだった。
その日は、朝からお店は休みだった。古書の整理のため、しばらく休みをとる事にしていたのだ。
「お洗濯ものしちゃおうかなぁ」
総司はミルクティを飲みながら、呟いた。朝食のシナモントーストを食べ終わったばかりだった。朝の柔らかな日差しがダイニングに射し込んでいる。
それをぼんやり眺めていると、突然、携帯電話が鳴った。取り上げて表示を見たとたん、どきりとする。
「……土方さん」
彼の名が表示されていた。こんな朝早くから電話など、とても珍しい。
何かあったのかと、慌てて通話をつなげた。
「はい、総司です」
そう答えると、電話の向こうから土方の低い柔らかな声が伝わってきた。
『おはよう、俺だ。起こしてしまったか?』
「いえ、今、朝ご飯を食べ終わったところです」
『そうか、なら良かった。急で悪いが、今からすぐ出て来て欲しいんだ』
「え……?」
意味がわからず、総司はきょとんとなった。それに、土方は淡々とした口調で告げた。
『荷物は何もいらないから、とりあえずパスポートだけ持って、今すぐ成田に来てくれ。前に待ち合わせた場所だ』
「パスポートって……海外? バリのホテル?」
何度か二人で訪れたことのあるホテルかと思った総司に、土方はあっさり否定した。
『いや、違うよ。とりあえず逢ってから話すから、来てくれないか?』
「行きます」
反射的に、総司は答えた。
何しろ、土方からの誘いなのだ。断れるはずがない。彼からの誘いなら、どんな事よりも優先したかった。
逢えるだけで嬉しいのに、海外へ一緒に行けるのだ。
いつものバリのホテルでない事は不安だったが、土方に任せていれば大丈夫だと、悪いようにはしないはずと、総司は無条件で信じていた。
むろん、彼が魔王なのだとと知らないからこそ、なのだが。
「あなたに逢えるなら、ぼくはどこにでも行きます。ぼくは……」
一瞬、躊躇った。だが、ずっと思っていたことなのだ。斉藤に告げたことは嘘ではなかった。だから。
「ぼくは、あなたといたいから、土方さん……あなたとすべてを共にしたいから」
想いをこめて告げた総司に、土方は電話の向こうで少し黙った。だが、すぐに優しい声で答えてくれる。
『俺もだよ』
「土方さん……」
『俺も……おまえとすべてを共にしたい。おまえに逢えるなら、どこにでも行こう』
ふんわりと胸の奥があたたかくなった。
総司は電話を切ってから、しばらく、ぼうっとその場に座り込んでいた。だが、はっと我に返り、慌てて支度を始める。
待ち合わせの時間まで十分余裕があったが、それでも、彼を待たせたくないという思いが強かったのだ。
せっかく逢えるのだから、少しでも長く彼と一緒にいたい。
先日はマンションでの逢瀬だったけれど、今度は旅行まで出来るのだ。ほんの数日であっても、彼と時間を共にできることは、総司にとって夢のような幸せだった。
むろん、これが許されぬ恋である事もわかっている。
大天使が悪魔に恋をしているのだ。
これが暴かれれば、他の大天使たちから指弾を受けるだろう。いくら伊東が庇ってくれても、難しいかもしれない。
だが、それでも、総司は土方の傍から離れるなど、到底できなかった。今や、土方は、総司にとって何よりも大切な存在となっていたのだ。
己自身よりも。
(翼をもがれても、ぼくはあの人とすべてを共にしたい……)
総司は長い睫毛を伏せ、小さく心に願った。
そして、手早く身支度を整えると、彼が待つ空港へと向かっていったのだった。
りんどうの花言葉は「あなたの悲しみに寄り添います」です。土方さんが総司を連れていった先は……?