土方が花雪の里の本宅に帰ってきたのは、その翌日だった。
車から降り立った彼は、玄関先まで出迎えた総司を、無言のまま一瞥した。
端正な顔には何の表情もうかんでいない。冷たく澄んだ黒い瞳が怖い程だった。
「……お帰りなさい」
小さな声で総司が云ったが、土方はそれにも返事一つしなかった。すっと視線をそらすと、そのまま框をあがって行ってしまう。
男の広い背に押し殺された怒りを感じ、思わず身を竦ませた。
だが、彼が怒るのも当然なのだ。何しろ、総司は言づて一つ残さず、あの東京の別宅を無断で後にしてしまったのだから。
独占欲の強い土方が、そんな勝手を許すはずもなかった。
のろのろと後を追った総司は、奥の部屋に入った。
土方はこちらに背を向けたまま、コートを脱いでいる。するりとカシミアの黒いコートが滑り落ち、次にスーツの上着が脱ぎ捨てられた。
「……」
畳に膝をついてそれに手をのばし、引き寄せた。
見上げれば、土方がタイトに結んだネクタイに指をさし入れる処だった。シュッと音をたてて引き抜くと、形のよい唇から微かに息をもらす。
僅かに目を細めたその表情は、どきりとするほど艶っぽかった。
それに、総司は息を呑んだ。
まさかと思うが──そんなことありえないと思うのだが、一つの疑惑が胸奥に満ちた。
本当なら昨日のうちに帰宅するはずだった彼。
なのに、別宅に一泊してから戻ってきた。
その別宅にいたのは、あの美しい娘、琴───……
「……っ」
思わず顔をそむけてしまった。
自分の胸を焦がすどす黒い嫉妬が、逆に疎ましくてたまらなかった。
もしもそうであったとしても。
たとえ、彼が他の誰をその腕に抱いたとしても。
私には嫉妬する資格など、欠片もないのに。
三百年前、この人を死へ追いやり、挙げ句、またこの人の命を奪おうとしている罪深い私には……。
「──」
思わず項垂れてしまった総司に、土方は眉を顰めた。
さらりと柔らかく落ちた髪にかくれ、その表情はほとんど伺えない。だが、可愛らしい桜色の唇が震えている事だけは、容易に見てとれた。
「……総司」
低い声で呼びかけると、総司はびくりと肩を震わせた。だが、それでも顔をあげない。
土方はその綺麗な顔が見たくて、目の前に跪いた。手をのばし、総司の細い顎を掴んで仰向かせる。
「……い、や……っ」
微かに喘ぎ、総司は固く瞼を閉ざした。
その瞳の色さえ見せてくれぬ総司に、とたん、土方は激しいまでの焦燥と怒りを覚えた。
いったい、どれ程心配したと思っているのか。
体調を崩したからか。
それとも、誰かに何か云われでもしたのか。
一人淋しく泣いているのではないかと思い、昨夜は何度も電話した。だが、どうしても出たくないと云ってると、山崎が答えるばかりで───
訳がわからず、だが、怒りよりも尚、心配ばかりしていたのだ。
本当はすぐにでも帰りたかったが、挨拶の他に様々な事が重なり、一泊するより他なくて。だが、昨夜は総司の事ばかり考え、ほとんど眠れなかった。
なのに、帰ってみれば、この有様だった。
先に帰った事への謝意一つある訳でもなく、顔を見たいと仰向かせれば、強情に瞼を閉ざしてしまう。
そんな総司に、さすがの土方も怒りを覚えた。
「……」
固く唇を引き結ぶと、総司の顎から首筋に手をすべらせた。そのまま項を掴んで引き寄せ、噛みつくように唇を重ねた。
「!」
総司が大きく目を見開いた。
慌てて彼の胸に両手を突っぱね、逃れようとする。だが、土方はその細い腰に片腕をまわすと、強引に抱きよせた。
深く唇を重ねてゆく。微かに開いた唇の間から舌をさし入れ、総司の甘い咥内をを思う存分味わった。怯えたように逃げる小さな舌をとらえ、いやってほど吸って舐めてやる。
「んんっ、んぅ…っ、ぅ……っ!」
いやいやと首をふる総司に薄く笑うと、そのまま胡座をかいた己の膝上に抱きあげた。
着物の袷から手をさし入れ、ぐいっと乱暴に襟を引き降ろしてやる。もろ肌ぬいた格好にされた総司は、思わず小さく悲鳴をあげた。慌てて男の手から逃れようと、身を捩る。
「いや……!」
だが、男がそれを許すはずもなかった。
その細い両手首を鷲掴みにして一纏めにすると、鮮やかな程の手際で縛り上げてしまう。男のネクタイが白い腕に絡みついた。
「や、やめて! こんなの……いや!」
総司は今までされた事もない仕打ちに怯えきり、半ば泣き出していた。
その大きな瞳は潤み、桜色の唇を小さく震わせている。その怯えた可愛らしい表情は、だが、男の嗜虐心を煽るばかりだった。
「……どうして先に帰ったんだ」
土方は低い声で初めて問いかけた。
それに、総司が黙ったまま涙をぽろぽろと零す。
「俺に何の断りもなく、どうして帰った」
「……っ」
「答えろ、総司……!」
叱咤するように鋭い声で、訊ねられた。だが、それでも総司はただ泣いているばかりで、答えない。
それに、土方はぎりっと奥歯を噛みしめた。
どうして答えないのか。
斉藤と二人して、俺を欺こうとしているのか。
いったい、何があったのか。
疑惑と嫉妬が、土方の胸を激しく突き上げた。できる事なら、総司のこの細い肩を掴んで揺さぶり、もっと詰問してやりたかった。
だが、それよりも尚。
怒りによる熱い欲望が、彼の躯の奥で渦巻いたのだ。
今すぐ抱いてしまいたいと思った。この細い躯を征服し、屈服させ、可憐で優しげに見えながら、実は強情なこの妻に思い知らせてやりたかった。
おまえは俺のものだと。
俺の傍から、一瞬たりとも離れる事など許されないのだと──!
「ぁ……いやあっ!」
不意に、総司が悲鳴をあげた。
音をたてて乱暴に畳の上へ押し倒されたのだ。慌てて起き上がろうとしたところへ、すぐさま男がのしかかってくる。
帯紐を引き抜かれ、そのまま締めていた名古屋帯も全部抜きとられた。伊達巻きだけになった状態で、裾を大きく捲り上げられた。白い下肢がむき出しになる。
これから男に何をされるか察した総司は、激しく抗い始めた。
「いや! いやだ……やめてッ!」
縛られた腕で必死になって暴れると、土方が忌々しげに舌打ちした。手首を縛ったネクタイの端を、傍の座卓の脚にくくりつけてしまう。そうして上半身の自由を奪ってから、露にされた下肢を大きく開かせた。間に己の逞しい躯を割り込ませ、閉じられないようにしてしまう。
唾液で濡らせた指を蕾にさし入れ、乱暴にまさぐった。
総司は涙をぽろぽろ零しながら、それでも抗った。ひっきりなしに腰を動かし、何とか逃れようとしている。
それに、土方は眉を顰めた。
「……そんなに、おまえは俺に抱かれるのが嫌なのか」
「だって……こんなの……っ」
総司は涙目で男を見上げた。気丈にも睨みつける。
「こんなの……手込めじゃありませんか」
「おまえは俺の妻だろうが。妻を抱いて何が悪いんだ」
それに、総司はきつく唇を噛みしめた。顔をそむけ、小さな声で呟く。
「……んかじゃない……」
土方は眉を顰めた。
「何だと……?」
「だから……」
総司は視線を戻すと、まっすぐ土方を見つめた。
「私は……あなたの妻…なんか、じゃない……っ!」
「! 総司ッ!」
かっと土方は激昂した。思わず手をふりあげてしまう。
「や……!」
総司は反射的に身を竦ませ、ぎゅっと目を閉じた。
だが、殴れるはずがなかった。そんな事できるはずもないのだ。
土方はしばらく肩で荒く息をしながら、己の下で震えている総司を見据えていたが、不意にその白い右脚を抱え上げた。
それを己の肩に担ぎあげながら、片手で己のベルトを外した。カチャカチャと鳴る金属音に、総司は鋭く息を呑んだ。
彼は、このまま強引に交わるつもりなのだ。
昨夜、琴を抱いたであろう、彼の躯で。それもこんな畳の上で、彼自身は衣服をほとんど脱がず。
まるで強姦するように。
そんなこと絶対に嫌だった。我慢できなかった。
「いや! 抱かれたくない……っ!」
泣きじゃくりながら必死に逃れようとしたが、もうどうする事もできない。
まだ固く窄まった蕾に、熱い彼の猛りがあてがわれた。獣のように濡れた瞳で、彼が自分を見下ろしているのがわかる。
「……力を抜け」
そう低く命じた瞬間、土方は強引に腰を進めていた。体重をかけ、まだ固い蕾を一息に貫く。
「ッ、あぁあーッ!」
総司は悲鳴をあげ、仰け反っていた。
かぁっと目の前が真っ赤になり、苦痛が下肢を引き裂く。今まで味わった事もない痛みだった。初めての時でさえ、こんなに酷くなかったのに。
「い…痛いッ、痛い…っ、ぁあ…許して…ッ!」
大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。
甲高いその声は、もしかすると屋敷の者たちにも聞こえたかもしれない。だが、今の総司にはそんな事考えられなかった。
ただもう助けて欲しい、この痛みから逃れたい。
それだけだった。
泣きじゃくる総司を見下ろし、土方は僅かに眉を顰めた。
「力を抜けと云っただろう」
「そん…な、できなっ…ひッああッ…ぅ──」
「しょうがねぇ奴だな」
肩をすくめると、土方は深く繋がったまま、総司のものに手をのばした。酷い行為とは逆の、繊細な動きで優しく揉みあげていってやる。
男の柔らかな愛撫に、竦み上がっていた総司のものは少しずつ勃ちあがり始めた。
総司の頬にも赤みがさし、微かな喘ぎがもれ始める。躯の力が抜けた。
それを満足げに見やり、土方は総司のものを愛撫する手をとめぬまま、ゆっくりと抽挿を始めた。
緩やかに引き抜くと、また己の猛りを蕾の奥へじっくりと味わうように突き入れてゆく。何度も奥深くを甘やかに捏ね回してやった。
「…っ、は…あっ、ぁあっ…あ……」
総司の声も次第に甘く濡れはじめる。
それを見てとり、土方は手をのばすと総司の拘束を解いてやった。すすり泣く総司の背に手をまわして引き起こし、そっと優しく抱きすくめる。
熱い唇が首筋から耳もとにキスを落とし、囁きかけた。
「……愛してる……」
「…ぁ、ぁあ…っ…」
「総司……おまえだけを愛してる」
男の言葉を霞んだ意識の中で聞きながら、総司は固く目を閉じた。
もう……冷たくしてくれたらいいのに。
あの美しい琴を娶るというのなら、自分など置き捨ててくれたらいい。
なのに、あなたは囁くのだ。
愛してると。
それが尚、私の心を引き裂くのだという事も知らぬままに。
「ぁ…ぁあっ…ん、ん……っ」
次第に、抽挿が早まってゆく。
男の動きのまま激しく躯を揺さぶられながら、その身の奥深くに男の楔を打ちこまれながら、総司は涙をこぼした。
躯の痛みではなく。
心の痛みゆえに──泣いて、泣いて、泣いて。
(……歳三さん……!)
いっそ、このまま。
彼の腕の中で死んでしまいたいと願いながら───……
なめらかな頬に残った涙の痕が痛々しかった。
土方はそれを眉を顰めながら見つめ、そっと唇で拭ってやった。
奥の部屋に敷いてやった褥の中で眠る総司は、とても華奢で可憐で。
そんな総司に激しい情事を──それも無理やり強いてしまった自分を悔いたが、今更どうしようもなかった。
それに、彼自身、嫉妬と怒りのために我を失っていたのだ。
「……」
もう一度だけ唇を重ねると、土方は静かに身を起こした。立ち上がり、僅かに身繕いを整えると部屋を横切る。
総司を起こさぬよう、できるだけ静かに襖を閉めた。
長い廊下を歩き、プライベートな棟から仕事場にしている棟へ入ると、その入り口に斉藤が立っていた。壁に凭れかかり、鳶色の瞳でじっと見据えている。
むろん、それに気づいたが、土方は声一つかけぬま通り過ぎた。
「……土方さん」
呼びかけられ、初めてふり返った。何だと云いたげな表情で、斉藤を見返す。
それに、斉藤は低い声で云った。
「総司の泣き声、ここまで聞こえてましたよ」
「……そうか」
「あなたが総司を傷つけてどうするんですか。総司を愛してるのでは、なかったのですか」
「愛してるからこそ、傷つけてしまう事もあるだろう」
僅かに目を伏せ、そう呟いた土方に、斉藤はぐっと拳を固めた。鳶色の瞳でまっすぐ彼を見つめる。
「総司を愛してると云うなら、もっと大事にすべきでしょう」
斉藤にしては珍しい、感情を露にした声音だった。
「執着や独占することだけが、愛ではないはずです。もっと総司の心を理解し、思いやって、総司を自由にしてやるべきじゃないんですか」
「……」
「愛してるからこそ傷つけるなんて……そんなの、おれには理解できない」
「そうか?」
土方は薄く笑った。
その黒い瞳が冷たく光り、形のよい唇に微かな嘲るような笑みがうかべられた。
「理解できないか……?」
まっすぐ斉藤だけを見据え、土方はゆっくりと揶揄するような口調でつづけた。
「何よりも、愛するもの自身の気持ちや心よりも、己の恋を愛を優先させてしまう。貪欲で我が儘で身勝手で……激しく奪うような恋を愛を、斉藤、おまえは理解できないと云うのか……?」
「!」
それに、斉藤は鋭く息を呑んだ。
鳶色の瞳が大きく見開かれ、信じられないものを見たように土方を凝視する。
長い沈黙の後、聞き返した。
「……どういう、意味です……?」
喉にからんだような掠れた声だった。
それを、土方は鋭い切れ長の目でじっと見据えていた。
だが、不意にふっと微かに笑うと、視線をそらせた。
「……わからなけりゃいいさ」
そう呟くと、土方は踵を返した。後はもうふり返らず、歩み去っていってしまう。
「……」
斉藤はその広い背を見送ったまま、いつまでも立ちつくしていた……。
日々は変る事なく過ぎていった。
あの日の夜には、土方が総司の行為を無理強いした事を謝り、総司も理由は告げぬままだが、勝手に帰宅した事を謝った。
そして、またいつもどおりの日々が始まった。
否、表面的にはそう見えたのだが、実際は違っていたのだ。
「……歳三さんは?」
朝食時、姿が見えない彼に、総司は山崎にむかって訊ねた。
それに、山崎は少し困惑の表情をうかべた。
「東京へ……行かれたようです」
「また?」
「えぇ。少しお忙しいようですね」
「でも……歳三さん自身が行かなくても……」
そう呟いてから、総司はハッと気がついた。
東京には、琴がいるのだ。
もしかすると、琴に逢うため、彼は東京へ行っているのではないだろうか。
激しい疑惑と嫉妬に、胸奥が鋭く引き裂かれるようだった。
こんなふうに彼の行動を疑ってしまう自分も疎ましい。だが、それでも思わずにはいられなかった。
このところ、頻繁に土方は東京へ行っていた。そして、総司を決して連れていかないのだ。
今までならどんなに嫌がっても連れていったのに、なのに、最近は東京へ行く事も告げず一人で出ていってしまう。
その理由は、おそらく───
「山崎さん」
総司は居住まいを正すと、その大きな瞳でまっすぐ山崎を見つめた。
「今から訊ねる事に、正直に答えてください」
山崎は一瞬迷ったようだったが、結局、頷いた。
それに、ゆっくりと訊ねた。
「歳三さんは誰かに会いに行ったのではありませんか」
「むろん、どなたかとお会いになりはするでしょう」
「そうではなく、特定の誰かとです。……例えば、女性と」
「……」
とたん、押し黙ってしまった山崎を、総司は見つめた。
「山崎さんは答えたくない。つまり、そういう事ですね」
それにも、山崎は何も答えなかった。黙って視線を落としている。
土方家の執事でありながら、いや、そうであるからこそか、山崎はかなりの情報通なのだ。様々な情報を公私にわたって幅広く集めているという話だった。そんな山崎が土方のスケジュールを知らないはずがないのだ。
総司はしばらくの間、黙って窓外に広がる庭を眺めていた。やがて、そのままの姿勢で、静かに云った。
「……琴さんが帰ってこられたようですね」
「!」
弾かれたように、山崎が顔をあげた。大きく目を見開いている。
その顔にあらわれた表情に、総司はほろ苦く笑った。
「やっぱり……そうでしたか。歳三さんは琴さんに会いに行ってるんですね。おそらく、あの別宅で会っている」
「ご当主があなたを裏切られるような事は、決して……」
「裏切りじゃないのですよ」
ゆっくりと総司は立ち上がり、答えた。さらりと柔らかな髪が波打った。
「私はあの人の妻でもなんでもない。それどころか、ただの愛人です。そうであるのなら、これは裏切りではないでしょう?」
そう微笑んでから、総司は山崎の答えを待たず部屋を出た。
衝撃はなかった。
むしろ、諦めにも似たほろ苦い思いが胸の内に広がっていた。
こうなる事は定められていたのだと。
人でもなく娘でもない自分が──しかもあんな罪を犯した自分が、あの人と幸せになろうなんて。そんな驕った事を考えたのが間違いだったのだ。
あの人の人生をこれ以上、狂わせてはいけないのだから。
あの人は今度こそ、幸せにならなければいけないのだから。
こんな自分など、見捨てて──
「……逢わなければ良かった」
総司は廊下の片隅で柱に凭れかかり、小さく呟いた。
いくら輪廻転生を重ねても、出逢わなければよかったのだ。
あの人と逢わなければ、こんな苦しみも悲しみも味わう事なく、ただ三百年めの朝、儚い粉雪としてとけ消えてゆけたのに……。
運命の残酷さを呪っても仕方ない事だけれど。
「……歳三さん……」
この世の誰よりも愛しい男の名を呼び、総司は静かに目を閉じた……。
……少し微睡んでいたらしい。
髪を梳いてくれる優しい指さきに、小さく微笑んだ。
誰なのかは、わかっている。
この気配も雰囲気も、何もかも他の誰よりも感じ取れるのだから。
それでも目を閉じたままでいると、そっと囁かれた。
「……総司」
耳もとに、低い声で。
総司はそれに小さく身じろいだ。僅かな躯のけだるさを感じながら、ゆっくりと身を起こした。
「……お帰りなさい」
そう応え、だが、顔はあげなかった。
畳の上、横座りになったまま視線を落としている。
艶やかな黒髪が肩から背に流れ、美しい着物姿のままそうしてしどけなく横座りになった姿は、まるで一枚の絵のようだった。
玲瓏とした美しいその顔だちに、微かな憂いが落ちた。
「どうした」
総司の前に跪いた土方は、訝しげに眉を顰めた。そっと細い肩に手をかけてくれる。
「もしかして……怒っているのか?」
「いえ……」
「朝、おまえに何も云わず東京へ行った事を、怒っているのか。あれはすまなかった……急な報せが入って、どうしようもなかったんだ」
「そんな謝らないでください」
小さな声で、総司は答えた。
まだ伏せられた長い睫毛がそっと震えた。
「……お仕事なら、仕方ないと思ってます」
「総司……」
僅かに、土方が息を呑んだ気配がした。
それに総司は思わず両手を握りしめてしまう。
こんなこと確かめたくなかった。だが、どうしても知りたかったのだ。
嘘や偽りで、誤魔化してほしくなかった。
「あなたがお仕事で東京へ行かれるなら……仕方ないと。でも、もしそうでなくても……私的な用事でなくても、それを責める資格など私にはないと思っていますから」
「それは……」
土方の目が僅かに細められた。ぐっと細い肩を掴んだ手に力がこもる。
「いったい、どういう意味だ」
「意味も何も……ただ、言葉のままです」
「資格がないって、おまえは俺の妻だろう。俺がおまえを束縛するように、おまえも俺を責める資格があるんじゃねぇのか」
「……」
だが、それに総司は俯くばかりだった。
細い指さきで着物のたもとを掴み、じっと押し黙っている。
そんな総司に、土方は苛立ちを覚えたが、先日のような強引な事はしたくなかった。
愛しい総司を傷つける事はたまらないのだ、彼自身とても辛い行為だったのだ。
それに、何よりも、彼自身に罪悪感があった。
総司に隠れ、総司に秘密にしている事柄への罪の意識が──
「……わかった」
土方は低い声で答えると、立ち上がった。
そこで初めて総司は顔をあげた。ようやく気づいたのだが、彼はまだスーツの上に黒いコートを纏ったままだった。帰宅してすぐここへ来てくれたのだろう。
なのに……。
「正直に云うよ」
深く澄んだ黒い瞳で総司を見下ろし、土方は傲慢な口調で云った。
胸の前で腕を組みながら、薄く笑ってみせる。
「今日、東京へ行ったのは、仕事じゃない。この間から……ずっと仕事以外の私的な用事で出かけていたんだ」
「!」
総司の目が大きく見開かれた。さっと頬が強ばり、桜色の唇が微かに震える。
それを見つめたまま、土方はゆっくりと言葉をつづけた。
「おまえも知ってるだろう? 俺の元許婚……」
「……っ」
一瞬だけ、総司は思わず目を閉じた。
聞きたくない。もう何も聞きたくなかった。
だが、土方は容赦なく、それを口にした。
決定的な真実を。
「俺は琴と逢っていたんだ」
「──」
その言葉を聞いた瞬間、総司の躯の奥がしんと冷えた。
もともと冷たいそこが氷のように凍えたようだった。
冷たく固く、何もかも拒絶して。
だが、総司はそれを表には出さなかった。ただ黙ったまま、澄んだ瞳で土方をじっと見上げている。
それに、土方は問いかけた。
「これでもまだ、おまえは俺を責めないのか……?」
総司はゆっくりと目を伏せた。
しばらく黙っていたが、やがて小さな声で答えた。
「……責めません。そんな資格など、私にはありませんから」
「……」
それに、土方はきつく唇を噛みしめた。突き上げる激しい衝動を堪えるようにぐっと拳を固めた。
だが、彼はそれを抑え込んだ。黙ったまま踵を返すと、コートの裾をひるがえし、部屋を大股に横切ってゆく。
襖を荒々しく開いたかと思うと、そのまま閉じもせず出ていってしまった。
「……」
遠ざかる彼の足音を聞きながら、総司は両手で顔をおおった。
やがて、微かな嗚咽がその唇からもれた……。
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