翌日、別宅で年賀の挨拶が行われた。
 これは対外的であり、土方家の財界での取引先、そして、多くの分家の者たちも訪れてくるものだった。
 総司は躊躇いはしたが、結局、同行した。いつもどおり土方が傍を離れる事を決して許さなかったのだ。むろん、挨拶に出る必要はないと云われ、安堵の吐息はもらしたのだが。
「大丈夫だ、心配するな」
 車の中で、土方は優しい声で云ってくれた。
 もう車は都心へと入っている。正月のためか少し渋滞している道に眉を顰めつつ、丁寧な運転で車を走らせてゆく。
 年賀の挨拶のためか上質のスーツをすらりとした長身に纏った彼は、思わず見惚れる程だった。艶やかな黒髪、黒い瞳に、まっ白のプレスされたカッターシャツがよく映える。
「おまえは奥にいればいい。退屈だろうが、部屋からはあまり出るなよ。煩い奴らに見つかったら、ことだからな」
「……」
 それに、総司は僅かに潤んだ瞳を揺らせた。
 煙るように長い睫毛がそっと伏せられ、桜色の唇が噛みしめられた。

(……私を見せたくないということ?)

 思わずそんな事を考えてしまった。

(私が本当の正妻じゃないから、こんな私じゃ恥ずかしいから……?)

 いやな考え方だと思いつつ、代々の当主が愛人を住まわせてきたという別宅に向かっている今、ともすれば心が重く沈んでいってしまう。
 だが、そんな総司の様子を、土方は別の方にとったようだった。
「ったく、そんな顔するなって……」
 苦笑した彼は、信号待ちの時、そっと肩を抱きよせてくれた。
 彼の唇がそのなめらかな頬に優しくふれる。
「何も心配する事ないって云ってるだろ? おまえはただ奥でおとなしくしていればいいんだ。時々、俺も様子を見に行くし、斉藤もいるはずだ」
 準備のため、斉藤は前日のうちに別宅へ行っているはずだった。今頃は準備万端整え、使用人たちと一緒に土方の到着を待っているだろう。
 それを思うと、妙に胸奥がざわめいた。
 別宅へなど行きたくないのだ。
 そんな愛人がいた場所へ、連れてゆかれたくない。
 里の者たちではない、見も知らぬ人々に囲まれたくなかった。
「……い、や…っ」
 思わず総司は土方の広い胸もとに縋りついていた。頬を押しつけ、激しく首をふった。
「いや…です。いや……行きたくない」
「……総司」
「車の中で待ってるか、他の場所にいさせて。お願いだから、別宅には行きたくないの……っ」
「総司……頼むから我が儘を云わないでくれ」
 困惑しきった口調で、土方が云った。そっと優しく髪を撫でてくれる。
「連れてきちまった俺も悪いが、だが、どうしてもおまえを一人残していく気になれなかった。それはすまない」
 きちんと謝してから、土方は真剣な声音になった。
「だが、これは大事な年賀の挨拶なんだ。当主として行かない訳にはいかねぇ。それに……おまえを車の中なんざに残してゆけると思うのか?」
「だって……本当に嫌なのです」
「困ったな……」
 嘆息した土方は、ふと視線をあげた。
 青へと変った信号に、柔らかく総司の躯を引き離した。すっと躯を運転席に戻すと、アクセルを踏みこみ車を滑り出させてゆく。
 その傍らで、総司はきつく両手を握りしめた。
 まるで子供のようだと思った。
 あんな話を聞いたからって、愛人だとか正妻だとか考えたからって、行きたくないと駄々をこねるなんて。
「……」
 そっと見やった男の端正な横顔は、少し怒っているようだった。冷ややかな拒絶さえ感じさせた。
 形のよい唇を固く引き結び、ハンドルを操っている。彼はもう何も云わなかった。子供のような総司に呆れてしまったのか、言葉一つかけてくれない。
 それに、総司は泣き出したくなった。


 こんなにも──私はこの人にふさわしくないのだ。
 人でさえなくて、しかも少年で。
 三百年前には、自分の弱さのためにこの人を死に追いやった。なのに、それでも飽きたらず、今またこの人の命を奪おうとしている残酷な私。
 こんなにも愛してくれる優しい人を裏切って。
 なんて身勝手で、なんて残酷な。
 この世でもっとも憎むべき相手がいるなら、それは私自身だ。
 私は、この世の誰よりも自分自身が憎いのだから……!


 いつのまにか、視界がぶれていた。彼に悟られぬよう、慌てて窓の方に顔をむける。
 必死に涙をこらえつつ、きつく唇を噛みしめた。
 そんな総司の華奢な躯が、不意に優しく抱きすくめられた。驚いて見やると、車は路肩に停められてあり、土方はシートベルトを外して総司の細い躯に両腕をまわしていた。
 そっと引き寄せ、胸もとに抱きすくめてくれる。
「……すまない」
 囁かれた低い声に、総司は目を見開いた。
 だが、それに気づくことなく、土方は言葉をつづけた。
「俺はおまえを泣かせてばかりだな。我が儘なのは俺の方だ。いつでも、おまえの意思を無視して、俺の独占欲ばかり優先させて……本当にすまない」
「……歳三さん……」
「だが、今更戻る訳にもいかない。それに、どこかのホテルで過ごさせるのも、かなり時間がかかるから無理だ。俺はおまえのすぐ傍にいれなくても、少しでも近くにいて欲しいんだ。本当は一瞬たりとも離したくないんだよ……その理由がわかるか?」
「いいえ……」
 彼を見上げて首をふった総司に、土方は深く澄んだ黒い瞳をむけた。
「あの時、俺はおまえを置いて里を出た。ほんの一月……なんてことないと思っていた。なのに、おまえは……」
「──」
 さっと悔恨と罪の意識がよぎった総司の表情に、ゆるく首をふった。
「俺はおまえを責めているんじゃない。俺は……自分自身を責めているんだ。生まれ変わってからも、何度も何度も己を責めた。あの時、どうして里を離れたのだろうと。どうして、おまえを連れていかなかったのかと」
「そんな……歳三さんのせいじゃ……」
「誰のせいでもないとわかってる。だが、それでも、あの時の悔恨は強く俺に残って……それで、今、どうしてもおまえを自由にしてやる事が出来ねぇんだ。一瞬たりとも離したくない。皆が呆れる程の執着を見せてしまう。常軌を逸してると噂される程の、狂気じみた執着と独占欲で、おまえを縛りつけてしまう……」
 土方は深くため息をつくと、総司の華奢な躯を両腕に抱きしめた。
 その頬に頬を擦りよせ、目を閉じる。
「俺は……おまえを本当に愛してるんだ。おまえだけだ。こんなにも俺の心を虜にしたのは、俺の心を奪い去ったのは。あの三百年前の時から、ずっと……おまえだけを愛してきた。求めてきた。だから、わかってくれないか。傍にいて欲しいと望む俺の気持ちを。おまえに執着してしまう俺を……」
「歳三さん……ごめんなさい」
 小さな声で、総司は謝った。さらりと流れる柔らかな髪を指さきでかきあげ、優しくキスしてくれる愛しい彼に、囁いた。
「ごめんなさい……私が我が儘でした。もうあんな事云わないから、ちゃんとあなたの云いつけを守るから……お願い、許して」
「総司……」
「私、待ってます。だから、できるだけ早く戻ってきて……私も、一瞬でも多くあなたの傍にいたいから……」
 それに、土方はもう何も答えなかった。
 黙ったまま、ただ優しく抱きしめてくれただけだった。もう一度だけ甘いキスを落とされる。
 そのあたたかな腕の中、総司はそっと静かに目を閉じた……。








 別宅は東京でも少し郊外にあった。
 所謂高級住宅地と呼ばれるあたりに存在し、高い塀で囲まれたそれは広大な敷地を誇っていた。いつも閉じられてあるだろう門扉は開かれ、その中へ土方は何の躊躇いもなく車を滑り込ませた。
 大きな玄関前に停めると、土方は車から降り立った。慌てて助手席のドアを開けようとする使用人を片手でおさえ、彼自身が開いた。
「ほら……総司」
 優しく手をとり、降ろしてくれる。
 総司は好奇にみちた使用人たちの視線をむけられ、息苦しくなった。思わず土方の傍に寄りそい、その腕に縋ってしまう。
 そんな怯えも何もかもわかっている土方は何も云わず、ただ守るように細い肩を抱き寄せてくれた。
 屋敷の中へ入ってゆくと、そこは花雪の里の本宅とはかなり違っていた。厳密には日本家屋というより、瀟洒な洋館風だと云えばいいのか。確かに、愛人を住まわせるに相応しく、女性的な美しい建物だ。
 廊下を歩いてゆくと、向こうから足早に斉藤がやってきた。
「すみません、出迎えもしないで……」
「いや、いい。面倒をかけたな」
「それ程ではありません。……総司を連れて来たのですか」
 ちらりと総司の方へ視線をむけ、斉藤は複雑な表情になった。昨日の会話を思い出したのだろう。思わず総司も目を伏せてしまった。
 だが、土方はそんな二人の様子に気づかぬまま、頷いた。
「あぁ……里に置いてゆくのは、この俺が嫌だったからな」
「相変わらずですね」
「何とでも云え。それより、そろそろ皆が集まってくる頃か?」
「えぇ。分家筋はもう来てますよ」
「鬱陶しい連中が先に来てるって訳か。さっさと帰ってくれればいいんだがな」
 舌打ちし、土方は総司の細い肩をより強く抱き寄せた。
「あいつらとは逢わせたくない。総司を奥で待たせようと思っているんだが」
「わかりました。では、こちらへ」
 斉藤は二人を奥の部屋へ案内してくれた。中庭に面した畳敷きの部屋に、総司は思わず安堵の息をもらした。やはり、洋室は落ち着かないのだ。
「退屈だろうが……」
 ちょっと困ったように云った土方に、総司は微笑んでみせた。
「大丈夫。刺繍をしようと思って、それをもってきましたから」
「何だ、準備がいいんだな」
「だって、どのみち待つことはわかっていたもの」
 くすっと笑い、土方は総司の躯を抱きよせた。斉藤がいるにも関わらず、優しく頬を掌で包み込んで仰向かせ、口づけてくる。
「ぁ…ん……」
 甘くとろけるようなキスに、総司は思わず彼の胸に縋ってしまった。が、すぐ我に返ると頬を紅潮させ、慌てて後ずさる。
「……歳三さん……!」
 唇を両手でおさえて叫んだ総司に、土方は悪戯っぽい笑顔をむけた。
「つづきは後でな」
「つ、つづきって……」
「いい子にして、待ってろよ」
 そう云うと、土方は踵を返した。後はもうふり返りもせず、出ていってしまう。
 斉藤も苦笑しつつ、それを追った。
「……歳三さんったら……」
 甘酸っぱい想いに頬を染める総司は、もう別宅にいる不安など忘れてしまっていた。








 1時間程たった頃だったか。
 総司は刺繍をしていた手をふと止め、中庭の方へ視線をやった。
 本宅とはまた異なる趣だが、とても美しい庭が広がっている。総司が見たことのない、外国ものらしい花もたくさん咲いていた。
「こんな冬なのに、綺麗……」
 思わず刺繍をしていた布を置き、立ち上がった。
 ちょっと躊躇いはしたが、掃き出し窓に履き物が用意されてあるのを見ると、心を決めた。草履にそっと足をさしいれ、庭へと出てゆく。
 とても美しい庭だった。
 紫色や黄色の花が咲き乱れ、まるでここだけ春のようだ。総司がいた部屋前の庭はまだ小さいもので、アーチを抜けると別の大きな庭に出た。そこもまた樹木が茂り、花々が綺麗だ。遠く、ガラス製の温室が見えた。
「……もしかして、薔薇とかあるのかな」
 前に花屋で見た花を思い出し、声が弾んだ。
 あの時、うっとり見つめていた総司に気づき、土方が両腕いっぱいの薔薇を買ってくれたのだ。その驚きと嬉しさ、甘やかな芳香は今も鮮やかに思い出せた。
 総司はゆっくりと庭を横切り、ガラスの温室に近づいた。
 だが、中が見えそうになった瞬間、反射的に足をとめていた。
 その目が大きく見開かれる。



 美しい繊細なつくりのガラスの温室だった。
 だが、そこには人がいたのだ。
 柔らかな色合いの着物を纏っている娘だった。美しい娘だ。
 その繊細な横顔に、総司は見覚えがあった。

(……あの人は……琴…さん……?)

 確かに、琴だった。
 土方のもと許婚だった娘だ。だが、どうして今、その彼女がこの屋敷にいるのか。
 総司は全くわからなかった。
 戸惑いながら見ていると、その彼女の躯を誰かの手が引き寄せた。その瞬間、それまで樹木の影にかくれていた男の姿が、総司の視界に入る。  
 鋭く息を呑んだ。

(……土方さん……!)

 男は琴の肩に両手をおき、かるく身をかがめるようにして彼女だけを見つめ、かき口説いている。
 その姿は、確かに土方だった。
 真剣な表情で琴を見つめ、何か懸命に話している。
 それを琴は俯きがちに聞いていた。今にも、その瞳から涙がこぼれそうだ。
 やがて、琴は小さく頷くと、そっと彼の胸に寄りそった。
 そんな彼女に土方は僅かに目を伏せると、優しく抱きとめた───








「……っ!」
 とても耐えられなかった。
 そのまま見ている事など到底できなかったのだ。
 総司は激しく顔をそむけると、その場を足早に離れた。馴れない履き物に転びそうになるが、必死に歩んだ。
 少しでも早く、その場から離れたかったのだ。
 抱きあう二人から。
 まるで、そうある事が当然であったような二人から。
(……土方さん……っ)
 総司は無我夢中で歩きながら、きつく唇を噛みしめた。
 ふり払っても払っても、抱きあっていた二人の姿が脳裏にうかんだ。
 とても似合いの二人だった。
 土方と琴ならまさに美男美女で、誰もが認める似合いの一組だろう。何しろ、彼らは生まれた時からの許婚なのだ。
 本来なら、結婚していたはずの二人──

(私さえいなければ……こんな私と逢わなければ、今頃は……)

 そう思った時だった。
 不意に、すぐ傍で笑い声がおこった。
 慌てて茂みの影にかくれた総司に気づかぬまま、数人の女性が傍を通り過ぎていこうとしていた。だが、後から来た一人が歩み寄った事で彼女たちは足をとめ、そこで何やら話を始めた。
 どうやら、土方が云っていた鬱陶しい分家筋らしい。尚更、出てゆく訳にはいかなかった。
 息をひそめていた総司は、不意に目を見開いた。
 彼女たちの話題が、土方と琴のことであると知ったのだ。





「──本当にねぇ、琴さんが戻ってこられて良かったですこと」
 甲高い女の声が突き刺さるようだった。
「わざわざ、ご当主が今日の年賀に琴さんを呼ばれたのでしょう? 今頃、どんな話をされてる事か」
「でも、もし琴さんを正妻にされようとしても、今はご当主、結婚されている身ではありませんか。どうなさるおつもりかしら」
「それがね、ここだけの話だけど」
 一人の女が嘲りにみちた声で云った。
「籍は入れてないらしいですのよ。つまり、ご当主は未だ独身ということで……」
「まぁ、それは好都合ですわね。ご当主もこうなる事を望んでいらっしゃったのかしら。あの娘を愛人とし、琴さんを正妻に……」
「あの娘と違って、琴さんなら申し分のない妻となれますものねぇ」
 彼女たちは笑いさざめくと、その場を離れていった。





 それを、総司はじっと聞いていた。
 今更、彼女たちのような悪意、辛辣さに傷つく総司ではなかった。もっと辛く苦しい経験も重ねてきたのだ。
 だが──それでも、突然、目の前に突きつけられた真実は、その胸を鋭く引き裂いた。

(……土方さんが……琴さんを呼んだの……?)

 呆然としたまま、今聞いた会話を脳裏に蘇らせた。

(私がこの別宅にいると知っていながら、琴さんを呼ぶなんて……それも二人きりで温室なんかで逢ってるなんて、そんな……)

 躯中が激しく震えた。
 あまりの事に目眩さえ覚え、立っていられなくなる。
 総司はふらふらとその場に膝をついた。しばらく呆然と、宙を見つめている。
 だが、もう何も考えたくなかった。
 苦しくて苦しくて。
 躯中が、心が、激しく悲鳴をあげているのがわかった。
 悲しみのあまり、声さえ出せない総司の代わりに。
「……っ」
 だが、それでもそこにいる訳にはいなかった。いつ土方と琴があの温室を出てきて、ここを通りかかるかわからないのだ。
 総司は自分自身を叱咤しながら、何とか立ち上がった。
 誰と逢っても構わないよう軽く見繕いすると、そこを離れた。先ほど来た道を戻り、自分にあてがわれていた部屋へと歩んでゆく。
 ようやく辿り着いたその部屋でも、総司は嫌な思いに囚われてしまった。

(……こんな奥の部屋に閉じこめたのは、琴さんと私を逢わせないため……?)

 ありえる話だった。
 だが……もう何も考えたくなかった。
 畳の上に坐り込んでいると、外から声がかけられ襖が開いた。斉藤が入ってきたのだ。
「──退屈してるんじゃないかと思って……」
 何も知らない斉藤は歩み寄ってくると、総司の傍らに膝をついた。だが、すぐ傍に放り出された刺繍の道具に、小さく笑った。
「やっぱりもうやめたのか。なら……何か本でも持ってこさせようか?」
「……斉藤…さん……」
 優しい声音で話しかけてくる斉藤に、答えようと思った。だが、どうしても我慢できなかったのだ。
 辛くて悲しくて──何よりも不安でたまらなかった。
 確かにあると感じていた彼の愛が、儚く指の間から零れ落ちてゆくような、そんな錯覚さえ覚えていたのだ。
「お願い……」
 総司は手をのばすと、斉藤の腕に縋りついた。僅かに彼が息を呑んだのを感じたが、もうとまらなかった。
「お願いだから……私を連れ出して……!」
「え?」
「ここから、何処にでもいい……私を連れ出してください」
「総司、どうしたんだ」
 斉藤は眉を顰め、総司の顔を覗き込んだ。気遣う色が鳶色の瞳にゆれている。
「何があった。ここから連れ出して欲しいなんて、いったい……」
「今は云えない、云えないんです。でも、ここにいるのが辛いから、どうしても我慢できなくて……お願い、斉藤さん」
「里へ帰ればいいのか?」
「ここでさえなければ、何処でもいい」
 総司は掠れた声で答えた。
 本当は、里も怖かった。
 いくらここから逃げ出しても、土方と顔をあわさずにいられるはずがないのだ。
 むしろ、勝手に先に帰った総司を、彼は怒るだろう。
 だが、それでも、どんなに彼の怒りを買う事になっても、今ここにはいたくなかった。
 何よりも、今この瞬間、こんな気持ちを抱えたままで彼と逢うのが怖かった……。
「……わかった」
 総司の様子をしばらく見つめていた斉藤は、静かに頷いた。
 そっと総司の肩を抱いて立ち上がらせると、そのまま部屋から連れ出した。先ほどの玄関とは違う裏口の方へと一緒に歩いてゆく。
「タクシーを呼ぶから、おまえはそれで帰ればいい。里に戻ってもいいし……すべて、おまえの好きにすればいいんだ。後はおれがちゃんとしておくから」
 そう云ってくれた斉藤に、総司はこくりと頷いた。


 里以外の地へ行こうとは思わなかった。
 他に行く場所などなかった。
 今更、山へ戻れるはずもない。
 総司にとって、たった一つの居場所は、愛する男の傍だけなのだから。


「……ごめんなさい、斉藤さん。迷惑をかけます」 
 頭を下げた総司の華奢な躯を、斉藤はそっと抱き寄せた。優しく髪を撫でてくれる。
「迷惑なんかじゃないさ。おれはおまえのためなら、何でもしてやるよ。いつでも、おまえの幸せだけを望んでいる……」
「斉藤さん……」
「ほら、早く乗って。でないと土方さんに見つかってしまうぞ」
 促され、総司は斉藤が呼んでくれたタクシーに乗り込んだ。
 場所も斉藤が運転手に告げてくれる。
 かなり遠距離なので往復料金を払うからと気前よく前金を渡すと、かえって運転手は恐縮したようだった。
「大切な人だから、頼んだよ」
 そう云った斉藤は身を引いた。ドアが閉じられる。
 窓ガラスを開け、彼を見上げた。
「ありがとう、斉藤さん」
 それに小さく笑い、一歩後ろに下がった。ゆっくりとタクシーが走り出す。
 総司がふり返ると、斉藤は静かな表情で見送ってくれていた。
 何も聞かず、自分を別宅から出してくれた斉藤に、心から感謝した。
 土方にいったいどう説明するつもりなのかわからないが、一騒動ある事は確かだろう。里に帰ってきた土方に叱責されるのも確実だ。
「……」
 申し訳ないという気持ちと共に、躯の力が抜けるような安堵感。
 そして。
 この先に待ち受ける波乱への予感に、総司はそっと身を震わせたのだった……。















 


花雪綺譚完結編3へ       長いお話へ戻る      「花雪綺譚」扉へ戻る