飛び降りた瞬間、耳もとで風が鳴った。
 あっと思った時にはもう、愛しい男の腕の中だった。その懐かしいぬくもりや匂いに、躯中が震えた。
「……歳三さん!」
 思わず、その名を呼んだ。
 嬉しくて嬉しくて、細い両腕でぎゅっとしがみついてしまう。
 土方も拒まなかった。それどころか、優しく抱きしめてくれた。少年の細い背に腕をまわし、柔らかな髪に顔をうずめる。
 男の吐息が──唇が、頬を甘くかすめた。
「……」
 見上げた総司を、土方は濡れたような黒い瞳で覗き込んだ。
 しばらく見つめあった後、低い声で訊ねた
「怖かったか……?」
 そう訊ねられ、総司はすぐに首をふった。
 本当は怖かったが、思わず強がってしまったのだ。そのくせ、細い指さきは縋るように男のシャツを掴んで離さない。
 土方の瞳がとけるように優しくなった。小さく笑うと、もう一度引き寄せ、胸もとに抱きこんだ。男の腕の中、華奢な少年の躯はすっぽりとおさまってしまう。
 思わず吐息をもらした総司の耳もとで、優しい声が囁いた。
「大丈夫だ」
「歳三さん……」
「もう、怖い思いはさせねぇから。全部…俺にまかせておけばいい」
「はい」
 素直にこくりと頷いた総司に、微笑んだ。
「……いい子だ」
 そう囁きざま、少年の唇に甘いバードキスを落とした。
「!」
 総司は驚き、目を見開いた。頬がかぁっと熱くなってしまう。恥ずかしくなり、思わず男の胸に顔をうずめてしまった。
 そんな少年の可愛らしい様を見下ろし、土方はくすっと笑った。が、すぐに少年の躯を抱きあげると、己の膝上から助手席シートへうつした。
 シートベルトを締めてくれながら、あれこれ気づかった。
「どこか痛い処はねぇか? 今ので怪我したりしてなきゃいいが」
「大丈夫です。それより、あなたの方が……」
「俺は大丈夫さ。そんなやわな造りじゃねぇし、おまえ、すげぇ軽いしな」
 そう笑うと、土方はハンドルを握り直した。そのままアクセルを踏み込み、滑るように車を出した。
 漆黒の闇の中、車は疾走してゆく。ふり返った総司の目に、どんどん遠ざかってゆく屋敷が映ったとたん、ハッと気がついた。
「あの…あのっ、斉藤さんは……」
「あいつはバイクで逃げる。抜かりはないさ」
「ご無事ならいいんですけど……」
 ほっと息をついてから、総司は俯いた。小さな声で云った。
「すみません。何かすごく迷惑かけたみたいで……里についたら、すぐに山へ帰らせて頂きますから……」
「帰さねぇよ」
「え?」
 さらりと云われた男の言葉に、総司は戸惑った。顔をあげ、きょとんとして男の端正な横顔を見つめる。
 それに、土方はハンドルを丁寧に扱いながらも、ちらりと切れの長い目で一瞥してきた。
 ふっと形のよい唇の端がつりあがる。
「悪いが、絶対に帰さねぇ」
「あの……それって……」
「芹沢みたいな扱いはしねぇが、おまえは俺の屋敷にいて貰う。それが助けた礼だと思ってくれ」
「私を…売り飛ばすんですか?」
 思わずそう訊ねた総司に、土方は一瞬だけ目を見開いた。が、すぐに、くっくっと喉を鳴らして笑い始めた。
「まさか。俺がそんな事する訳ねぇだろ? ま、もし、おまえがオークションにでも出されたら、何億積んででもセリ落としてやるけどな」
「……私はお人形ではありません」
「むろん、わかってるさ。だが、それだけ俺はおまえに執着してるってことだ。自分でも物狂いじみてると笑っちまうぐらいな」
 苦笑まじりの男の言葉に、総司は綺麗な瞳を見開いた。
「いったい、どうして……」
「さぁ、どうしてだと思う? 俺の屋敷でよく考えてみればいさ」
「……」
 総司はもう何も云う事ができなかった。
 ただ、身をすくめるようにして助手席に坐り、目の前の闇を見つめている他に術はない。次第に疲れのため眠りに落ち始めた総司に、土方が自分の上着をかけてくれるのを、夢心地に感じた。
(雪の精が風邪なんかひくはずないのに……)
 ふとそんな事を思ったが、強引な言葉とは裏腹な男の優しさが、総司にはたまらなく嬉しかった……。







 青空に入道雲が広がっていた。
 それに、総司は少し目眩に似たものを感じた。
 腕の中に抱えた花が芳しいほどの香りを漂わせる。ちょっと顔をうずめてから、総司は歩き出した。むろん、夏のため日陰しか歩まないよう気をつけていた。でないと気分がすぐに悪くなってしまうのだ。
 早めに庭から屋敷内へ入ると、山崎が声をかけてきた。
「花瓶をご用意しましたので、あちらの部屋でどうぞ」
「土方さんの部屋でいいですのか?」
「えぇ、そのように望まれてますので」
 土方の総司への執着ぶりを肯定するような言葉に、総司はちょっと頬を赤らめた。が、嬉しい事は確かなのだ。
 小さく笑いかけると、総司は踵を返した。
 長い廊下を歩いてゆく途中、斉藤と行き合った。外出するところなのか珍しくスーツに身を固めている。
「おはようございます」
 にっこり笑いながら挨拶した総司に、斉藤はちょっと眩しそうに目を細めた。
「元気そうだな、顔色もいいし……いや、雪の精であるあんたにそれも変か」
 あの救出劇から十日の時が過ぎていた。
 結局、あの時、斉藤が持ち出した書類が証拠となり、芹沢は粉飾決算の容疑で逮捕された。また、捜査が進むにつれ様々な事が洗い出され、罪はより重くなってゆくだろうと云われていた。恐らく刑事事件にも発展するだろうと。だが、今の総司にはもう無関係な事だった。
 総司は目を伏せた。
「斉藤さんにも心配をかけて、すみませんでした」
「謝るのはこっちの方だ。まさか、土方さんがあんな事を言い出すとは思わなくて……」
 言葉を濁した斉藤に、総司は小さく笑った。
「でも、私も望んだことですから」
 あの夜の言葉どおり、土方は総司を山へ帰そうとしなかったのだ。
 むろん、拘束されたりする訳ではない。だが、屋敷を出ることは一歩も許されず、まさに軟禁状態に等しいものがあった。
「……土方さんの傍にいたいのか?」
 斉藤がふと訊ねた。それに目を伏せてしまう。
 長い睫毛を伏せた総司の綺麗な横顔を見つめながら、言葉をつづけた。
「もしかして、あの人を……三百年前の男と重ねあわせているのか。土方さんがあんたの許婚だった男の子孫だから……」
「違います」
 不意に、総司が顔をあげた。
 大きな瞳でまっすぐ斉藤を見つめ、はっきりと云い切った。
「違う、違うんです。そんなのじゃありません」
「それなら、どうして……」
「私はただ土方さんの傍にいたいと思っただけです。ここにいる事が幸せなんです」
 そう答えてから、総司はぺこりと頭を下げた。
 まだ何か言いたげな斉藤を感じながらも、そのまま擦れ違った。斉藤の心遣いや優しさは嬉しい。だが、それでも、決して口にはできない想いがあったのだ。
 自分自身でも確信がもてないだけに、尚更のこと───
「……総司です」
 襖の外から声をかけると、応えがあった。
 中に入ると、土方は柱に凭れかかるようにして坐り、何か書類に目を通していた。
 さすがに真夏のため、部屋には冷房がきいている。それが総司にとっても有難かったが、ガラスの向こう庭でゆらめく陽炎に、ちょっと目眩を覚えた。
 仕事中だったのかと躊躇っていると、土方が顔をあげた。書類を畳の上に置き、そっと片手をさしのべてくる。
「おいで」
 そう云われ、総司はほっとして歩み寄った。
 彼の傍に寄りそうと、甘い花の香りが広がったのだろう。土方が僅かに笑った。
「濃厚な花の香りだな……おまえは花を選ぶのがとても上手い」
「いつも花や木に囲まれ過ごしてきましたから」
「そうだな」
 総司は用意された白い花瓶の前に坐ると、馴れた手つきで生け始めた。無造作に見えるが、洗練された動きで花がより美しく見える形をつくり出してゆく。
 出来上がったものを見せると、土方は満足そうに頷いた。
「綺麗だ。見事なものだな」
「この部屋に飾ってもいいですか?」
「あぁ。あそこの床の間に置いてくれ」
「はい」
 立ち上がり、総司は花瓶を床の間にそっと置いた。
 ふり返ると、土方が僅かに目を細め、総司を見つめていた。それに小首をかしげた。
「土方さん……?」
「いや、綺麗だなと思って」
「花が?」
「おまえがだよ。その着物もよく似合っている」
 男の言葉に、総司はなめらかな頬を紅潮させた。恥ずかしそうに、そっと長い睫毛を伏せてしまう。
 その可憐な姿は、美しい花のようだった。
 この里の名である花雪そのものだ。
 華奢な身に纏っている着物は、先日土方が買い与えたものの一つで、艶やかな紅の曙染めだった。絹糸のような長い黒髪にまっ白な肌とあいまって、何とも妖しいほどの魅力を醸し出している。
 少年でありながら少女のような、精霊独特の不思議な儚さだった。
 だが、総司自身はまったく己の美しさに気づいていない。
 その潤んだような瞳に見つめられるたび、男が僅かに息をつめている事にも、むろんのこと全く気づいていなかった。
「色々として頂いて……本当にありがとうございます」
 土方は苦笑した。
「礼を云われるような事じゃねぇよ。おまえはこの里の守り神同然だし……それに、そのおまえを山へ帰さず無理やりここに引き止めているのは俺だ」
「無理やりなんて……」
 総司は土方の傍によると、甘く澄んだ声で云った。
「私は自ら望んでここにいるんです。お願いですから……そんなふうに云わないで下さい」
「総司……」
 土方の黒い瞳がとけるように優しくなった。
 そっと総司のなめらかな頬を掌で包みこみ、仰向かせる。それに、総司はどこか甘えるような表情で長い睫毛を瞬かせた。
「……」
 ゆっくりと男の腕がその細い腰にまわされ、抱き寄せた。やがて、微かな吐息が頬をかすめる。
 静かに──唇が重ねられた。
 それに、総司はうっとりと目を閉じた。
 助け出されたあの夜から、幾度もくり返されたキスだった。だが、男の意図は掴めない。
 それでも、優しい抱擁と甘いキスを、総司も拒まなかった。あれほど長い間、恋焦がれた男からのキスなのだ、拒む理由などなかった。
「……おまえの唇は冷たいな」
 キスの後、そう呟いた土方に、総司は苦笑した。
「だって、雪の精ですから」
「そうだな。だが、おまえの躯はどこもかしこも冷たいが……唇の中だけは別だ。とても熱くてとろけそうだ」
「本当に?」
 驚いたように、総司は目を見開いた。
 自分では全くわからなかったのだ。
「人でなくなってから、熱さなど失ってしまったと思っていました。もう三百年近くも……私は冷たさだけを味わってきたから……」
 そう云って目を伏せた総司に、土方は唇を噛みしめた。一瞬、苦痛に似た色がその黒い瞳をかすめた。
「……総司」
 どこか喉にからんだような声で、つづけた。
「おまえは……憎んでいるのか。三百年前、おまえが助かることを願ったせいで、精霊なんかにしてしまった男の事を……」
「……まさか」
 総司は首をふり、その大きな瞳で土方を見あげた。
「私があの人を憎むことなどありえません。むしろ、あの人の方こそ……私を憎んでいると思います。命まで奪うことになってしまった私を」
「……」
 その答えに、土方はしばらくの間じっと黙り込んでいた。だが、不意に総司の手をとると、静かな声でこう訊ねた。
「……もう忘れる事はできねぇのか?」
 総司は小さく息を呑んだ。
「忘れる……?」
「三百年前のことだ。もう全部忘れて、新しい生き方を選んでみないか。山へも帰らず、このまま俺と一緒に……」
「……」
 総司は目をみはったまま、呆然と土方を見上げた。が、やがて、その瞳に涙があふれ、ぽろぽろとこぼれ落ちた。
 それに、土方は息を呑んだ。
「すまない」
 慌てて手をのばし、総司の背を撫でさすった。
 それに、総司は嗚咽をあげて泣きじゃくり出した。
「……ふ…ぇっ、えっ……」
「悪かった。総司、泣かないでくれ」
 土方は総司の躯を膝上に抱え上げると、胸もとにすっぽりと抱きすくめた。子供をあやすように優しく揺らしてくれる。
「おまえにとっては大切な思い出なんだな……それを忘れろなんて云って、本当に悪かった」
「……土方…さん…ごめ、んなさい……っ」
「あぁ、謝らなくていい。おまえが悪いんじゃねぇよ」
 囁きながら、なめらかな頬をつたう涙を唇でぬぐった。そのまま唇を重ね、また舌をからめあう。
 頭の中がぼうっと霞むような濃厚なキスをあたえられ、総司は小さく喘いだ。
 その細い指さきが男のシャツをぎゅっと握りしめた。
「ぁ…ん、ん…ふ……っ」
「……総司……」
 ひとしきり唇を重ねてから、土方はまた少年の華奢な躯を優しく抱きすくめた。まるで花びらを降らすように、額や頬へ落とされるキスが心地よい。
 それを受けながら、うっとりと男の広い胸もとに凭れかかっていた総司は、不意にびくりと躯を震わせた。
 突然、襖の向こうから声がかけられたのだ。
「──失礼致します。宜しいでしょうか」
 山崎の穏やかな声だった。
 総司は慌てて男の腕の中から抜け出そうとしたが、それを土方は素早く押し留めた。どこに力を入れているのか、総司の躯は男の腕に柔らかく抱きしめられ、身動き一つできない。
「何だ」
 そっと優しく総司の頬にキスを落としながら、土方は応えた。
 男の指さきが首筋から頬を柔らかく撫であげ、思わず甘い吐息がもれてしまう。総司は慌てて袂で唇をおって声を殺し、その可愛らしい仕草に土方はくすっと笑った。
 山崎は襖の向こうから告げた。
「近藤様がおいでになられました。こちらへご案内しても宜しいですか?」
「……わかった。こっちへ通してくれ」
 山崎が去ると、土方は総司の躯をそっと畳の上に抱きおろした。僅かに小首をかしげ、黒い瞳で悪戯っぽく笑ってみせた。
「まぁ仕方ねぇか。おあずけって奴だな」
「土方さん……」
 思わず総司は縋るように彼を見上げてしまった。長い睫毛の陰で、潤んだ瞳が艶かしく揺れる。
 それに、土方は短くちっと舌打ちした。
「そんな目で男を見るんじゃねぇよ。まったく、おまえは自覚なしだから堪らねぇよな」
「自覚って……どういうこと?」
「男を煽るなってことさ」
「……」
 総司は思わず沈黙してしまった。
 三百年前ならともかく、今の自分は少年の姿でしかも人でないのだ。そんな自分が男を煽るなんて、まったく理解できなかった。
 それとも、本当に彼を惹き付けるような魅力が、自分にあると考えていいのだろうか……?
 戸惑いながらも、総司はかるく身繕いした。きゅっと着物の襟をあわせ、坐り直す。
 やがて、案内され入ってきた近藤に親しく話しかける土方を見ながら、総司はこみ上げる想いにきつく唇を噛みしめたのだった……。








 総司にとって、土方は謎そのものだった。
 本来なら、精霊である総司の方が謎であるはずなのに、人である土方はまったくそれを上回っていたのだ。
 気まぐれで冷ややかで、だが、誰よりも優しい。
 総司を可愛がり甘やかしてくれたかと思うと、次の日には全く寄せ付けなかったりした。だが、そのくせ、総司が拗ねて屋敷のどこかに隠れてしまうと、すぐに気づき探しに来てくれるのだ。そうして、またとろけそうなほど甘やかしてくれる。
 いったい何を考えているのか、まったくわからなかった。
 時折、昏く翳った瞳を庭にむけている姿を見たこともあった。その端正な横顔はぞっとするほど美しく、だが冷たく不吉だった。
 思わず総司はその背に縋ってしまったほどだった。
 男に縋り、抱きついたのだ。
 それに、土方はふり返り、いつものように微笑みかけてくれた。だが、それでも、総司の中にわきおこった不安は消せなかったのだ。
 だからなのか。一番肝心な事を、総司は訊ねることができなかった。
 ──あなたは、あの人なの……?と。
 三百年前、永遠の愛を誓いあった恋人。この世の誰よりも愛しい男。
 確かに、彼は死んだ。
 自分の弱さゆえに、彼は死んでしまったのだ。
 だが、総司は同時に知らされていた。いつか、輪廻転生の末に再びめぐり逢えるのだと。
 総司自身は弾かれてしまった輪廻ゆえに、あの愛しい男はまた戻ってきてくれる。
 それを信じ、総司は生きてきたのだ。むろん、もし彼が生まれ変わりだったとしても、前世のことを覚えてる事などありえない。
 聞いてどうなるものではなかった。
 だが、なら──もうすべてを諦めた方がいいのか。いったい、どうすればいいのか。
 土方が望んでくれたように、この里に身を落ち着けた方がいいのだろうか。
(……そんなこと、できるはずがない……!)
 総司は激しく首をふった。
 己の定めを考えると、そんなこと出来るはずもなかった。本当なら、今すぐでも山へ帰ってしまった方がいいのだ。
 総司はため息をもらし、土方の部屋に入った。
 だが、そこには誰もいない。きっと外出でもしたのだろう。
 そう考えながらぼんやりと部屋の中を見回した総司は、ふとある物に目をとめた。
 文机の上に無造作に置かれた白い包み物。雪色の絹に包まれたそれは、何か細長い形をしていた。
 それを認めたとたん、総司の心臓がどきんっと跳ね上がった。
「……まさか……」
 躊躇いはあったが、引き寄せられるように歩み寄った。そっと手をのばし、それを掴みとる。
 布を解くと、思ったとおりの物が現れた。
 あの時、自分と彼の血を吸った刀だ。
 そして、これを最後に見た時、この刀を握りしめて彼は息絶えていた───
「……っ」
 総司は息をつめ、それを見つめた。
 すらりと抜き放つと、銀色の刃が目を射た。鼓動が早くなる。
 その瞬間だった。
「……何をしている」
 低い声を突然かけられ、総司はびくりと躯を震わせた。ふり返ろうとしたところへ、後ろからのびてきた力強い手が無理やり刀をもぎ取った。
 それに思わず声をあげた。
「土方さん……!」
「こんな物を出して、何をしようとしてたんだ」
 苛立った声音で土方は問いかけた。
 冷たく澄んだ黒い瞳がまっすぐ総司を見据え、その口許には酷薄な笑みをうかべられた。
「おまえの物だと云いたいのか? これはあの時にあたえられた己の刀だと」
「……ちが…っ」
「違わねぇだろう。これは確かにおまえのものだ。だがな、総司」
 土方はゆっくりと鞘に刀をおさめながら、低い声で云った。
「これはおまえのものであると同時に、俺のものなんだ。同じ事をくり返すのは、もう二度と許さねぇ」
「え……?」
 男の言葉の意味がわからず、総司は目を瞬かせた。
 だが、それを問いただす暇はなかった。
 不意に、柔らかな声が後ろからかけられたのだ。
「……歳三さま」
 他に人がいたなどとは思わなかった総司は驚いた。
 慌ててふり返ると、勝手に入る事を憚ったのだろう、部屋の入り口あたりにひっそりと一人の娘が立っていた。きちんと着物を身につけた、いかにも育ちがよさそうな綺麗な娘だ。
 目を見開いた総司に、娘は小さく微笑んでみせた。
「驚かせてしまってごめんなさい。あなたが……総司さん?」
「あ、はい」
「よろしく。わたしは琴といいます」
 気立てのよさそうな娘だった。だが、総司はどうしても笑い返す事ができなかった。
 土方の傍に寄りそう姿に、どす黒いまでの感情を覚えたのだ。
 強張った表情で土方を見ると、彼も鋭い視線を返してきた。が、総司の不安げな瞳に気づくと、ふっと表情を和らげた。
 手をのばし、そっと頬にふれてくれる。
 その仕草に安堵しかけた総司は、だが、男の次の言葉に息をつめた。
「総司……すまないが」
 酷くよそよそしい口調だった。
「俺は琴と話があるんだ。しばらく、席を外してくれないか」
「……はい」
 小さく頷く他はなかった。
 総司は目を伏せると、そのまま足早に部屋を抜け出した。
 途中、キッチンでお茶を運ぶ仕度をしている山崎を見た。それに思わず駆け寄り、声をかけてしまった。
「あの……山崎さん」
「はい?」
 ふり返った山崎に、総司は問いかけた。
「今いらしてるお客さま……琴さんという娘さんなんですけど」
「えぇ、琴さまですね」
「あの娘さんは、その……土方さんとはどういう……」
「婚約者でいらっしゃいます」
 さらりと山崎は答えた。
 手元の急須に注意深く上質の茶葉を入れながら、言葉をつづけた。
「ご当主になられる前からご婚約されてました。この里の出ではありませんが、土方家と同じような旧家の方でいらっしゃいます。あの通りお美しく、また気立てもよい方ですので、申し分のない奥様になられるだろうと皆喜んでおります」
「──」
 総司はもう何も云う事ができなかった。
 ただ、呆然と目の前の山崎の手元だけを見つめている。やがて、はっと我に返り、小さく礼を云ってから踵を返した。
 のろのろと自分に与えられた部屋に戻った総司は、その場に坐り込んでしまった。
「……婚約者……」
 小さく呟いた。
 が、すぐに笑いがこみあげた。
「っ…くっ……く…っ」
 総司は両手で唇をおおい、笑い声をたてた。
 大粒の涙を、ぽろぽろこぼしながら──
 なんて……馬鹿だったのだろう。
 あの人の優しさを気まぐれを、都合のいいように解釈していたなんて。
 こんな──人でもなく、少年の姿をした自分を、あの人が愛してくれるはずもないのだ。
 なのに、あの人が優しく甘やかしてくれるから、つい夢を見てしまった。あの三百年前のように、この人の腕の中でまどろみ、優しく愛されたいと……。
「でも、もう……あの人はいないんだ」
 総司はぎゅっと目を閉じた。
 たとえ生まれ変わりだったとしても、彼には新しい生活があるのだ。今の人生があり、それを誰に邪魔される謂れもない。
 ましてや、三百年前、あの人を死へ追いやった自分には何の……
「……出ていこう」
 涙を両手でぬぐい、総司は震える声で己に云い聞かせた。
「やっぱり、ここにいちゃ駄目だったんだ。私は……山へ帰った方がいい」
 総司はそう決意すると、素早く着替えを始めた。ここへ連れて来られた時に纏っていた雪色の着物を取り出し、身につけた。ひんやりした空気が己を包みこむのを感じた。
 少し考えてから一筆だけ残し、それを畳んだ着物の上に置いた。そっと部屋を抜け出した総司は、静かに廊下を歩いた。
 人目につかぬよう、縁側から降り立った。来客中のためか、誰とも全く会わぬまま出ることが出来た。
 広い庭を横切り、裏木戸を押し開く前にふり返った。
 屋敷の中──あそこに、愛しい男がいる。おそらく、あの彼の生まれ変わりであるはずの……。
 だが、今はもう彼の幸せだけを願うべきだった。
 心から。
 ただ、愛しい男の幸せだけを───
「……さよなら、歳三さん」
 小さな声で告げてから、総司はするりと裏木戸から外へ抜け出した。そして、戸を閉めると、静かに歩き出していったのだった……。








 琴が帰ったのはもう夕暮れだった。
 土方は疲れたようにため息をつくと、立ち上がった。
 先ほどの様子からも総司の事が心配になり、部屋へ向かった。襖の外から声をかけたが応えはなかった。
「……総司?」
 襖を開いた土方は鋭く息を呑んだ。
 部屋いっぱいに茜色の夕陽が射し込んでいたのだ。真っ赤な鮮血に染められたような錯覚に、思わず立ちつくしてしまう。
 だが、すぐに我に返った。ゆるく首をふり、部屋の中へ歩み入った。そこで、ようやく異変に気がついた。
「!」
 畳の上にきちんと畳まれた着物。その上には一枚の紙が置かれてあるのだ。
 土方は駆け寄ると、それを掴み取った。慌しく視線を走らせたとたん、思わず傍の畳に拳を叩きつけた。
「畜生……っ」
 怒りと激しい独占欲が男の中に渦巻いた。
 ぎりっと奥歯を噛みしめ、鋭い視線をあげた。黒い瞳が獣のようにぎらついている。それを己でも感じながら、土方は立ち上がると足早に部屋から出た。
「山崎!」
 怒気をおびた主の声に、山崎は慌てて走ってきた。
「どうかなさいましたか」
「あいつが……総司が逃げた!」
「え……っ」
「すぐ里を探させろ。総司がこの里を出る前に捕まえるんだ」
 そう命じた土方の背後から、静かな声がかけられた。
 ふり返ると、妙に落ち着いた表情で斉藤が立っていた。
「……もう手遅れですよ」
「斉藤?」
「総司が出ていったのは、昼過ぎの事だ。とっくの昔に山へ帰ってしまったでしょう」
「おまえ、知っていたのか!」
 思わず土方はかっとなった。手をのばし、斉藤の胸倉を荒々しく掴みあげる。
「知っていて、あいつを見逃したというのか!?」
「なら、どうだって云うのです。総司にだって自由がある。何もかも、あなたの思い通りになるはずがないでしょう」
「あれは俺のものだ! おまえが口出しするなッ」
 そう怒鳴りつけざま、土方は乱暴に斉藤の躯を突き離した。不意をつかれた斉藤は、ガンッと肩を壁に打ちつけてしまった。
 が、それに土方は冷ややかな一瞥をあたえただけで、身をひるがえした。足早に歩き出そうとする男に、斉藤が叫んだ。
「土方さん! 俺のものって、それはどういう意味なんです」
「……おまえには関係ない」
 土方は僅かにふり返ると、切れの長い目で斉藤を見据えた。すうっとその目が細められる。
「これは俺と総司の問題だ」
「……」
「斉藤、おまえが云う通り既に山へ逃げ込んだなら、それでも構わない。どこまでも追ってやるさ、この手で必ずつかまえてやる……っ」
 黒い瞳が憤怒にぎらつき、形のよい唇が固く引き結ばれた。ぎりっと奥歯を噛みしめる音が聞こえそうだ。
 まるで、男の全身を黒い焔がゆらっと包み込んだような錯覚さえおぼえた。
 斉藤は思わず息を呑んだ。
 これほど感情を激した彼の姿を見たことがなかったのだ。とくに当主となってからは、いつも怜悧で物静かだった彼が──
 だが、これが本来の彼だった。燃えあがる焔のような激しい本性だった。
 土方は背を向けると、足早に歩き出した。
 それを呆然と見送っていた斉藤はふと気づき、顔をあげた。
「……雨だ」
 あれほど美しく晴れ渡っていた空が翳り、黒い雨雲が天をおおい始めている。
 やがて、叩きつけるような雨音が屋敷の瓦に響いた。
 花雪の里は、激しい嵐に包まれた───











 

[あとがき]
 土方さんの元から逃げ出しちゃった総司。次回で最終話です。当然、土方さんが総司を連れ戻しにいく訳ですが、それでハッピーエンドではありません。いつものごとく、伏線ひきまくり魔の私が書くお話ですから(笑)。最後まで、読んでやって下さいね。


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