総司は土方の恋人だった。
 それを総司も理解しているし、もちろん、承知している。何しろ、先日、身も心も彼のものとなったのだ。思い出すだけで頬が火照り、だが、一方でたまらない幸福感につつまれる記憶。
 なのに、総司は実感ができていなかった。
 あの土方が、自分の恋人なのだということを。
 何しろ、屯所の内で、土方はいつも端然としていた。副長としての態度を決して崩さず、冷厳そのものなのだ。
 そのため、総司には、いつも二人きりの時、恥ずかしくなるぐらい甘やかしてくる彼との差に戸惑い、とくに新撰組の内にいる時は、どうしても実感できていなかった。
 新撰組副長土方が、自分の恋人なのだということを。
 だから、突然こんな時が訪れると、心底びっくりしてしまうのだ。
「土方さん!」
 思わずそう叫んでから、慌てて両手で口をおおった。人を呼びはしなかったかと、周囲を見回す。
 その姿に小さく笑いながら、土方はもう一度、そのなめらかな頬に口づけた。それに、総司が急いで後ずさる。
「だめ、だめですよ」
「何で? 俺はおまえの念者だろ?」
「そう、ですけど。でも、駄目。ここ、屯所の縁側なんですよ。こんな処、人に見られたら」
「見られていいじゃねぇか。俺とおまえが念兄弟だって事なんざ、皆に知れ渡っているさ」
 もともとの噂を消すどころか、思いっきり増長させているだろう土方を、総司は耳朶まで赤くなりながら見上げた。
 今もって、信じることが出来ないのだ。
 こんなにも何もかも優れた男が、自分の恋人だなんて。
 土方がとっても俺様で、上から目線の上にめちゃくちゃ強引で、身勝手な男だという事は、よくよくわかっている。だが、一緒にいると、そんな事すっかり忘れてしまうぐらい、土方は総司に優しかった。
 優しくて、包容力があって、頼りがいがあって、行動力があって。
 その上、誰もがふり返るほど見栄えのいい男だ。引き締まった男らしい長身に、端正な顔だち。時々見せる悪戯っぽい笑顔など、うっとり見惚れてしまうぐらいだった。
 理想的な恋人、と云ってもいいだろう。
 だが、だからこそ、総司は今ひとつ実感できなかったのだ。


(土方さんは、私のどこが好きになったの?)


 ずっと疑問に思っていたことを、総司は二人きりになった事を幸い(先程、近くの人気のない小部屋へひっぱりこまれ、さんざん抱きしめられたり、口づけられた)訊ねてみることにした。
「あのね」
 口づけの後、そう云いかけると、土方がとけるような優しい瞳で、総司を見つめた。柔らかく微笑みかけてくれる。
「何だ」
「うん、あの……」
「おねだりか? 欲しいものでもあったのか?」
「そうじゃなくて」
 総司は慌てて首をふった。


 前々から思っていたのだが、本当に、この男は総司に甘い。
 どんな我儘でも聞いてくれるし、それがまた楽しいとまで云ってのけるのだ。
 あまりに甘やかす土方に戸惑い、困ってしまうと、柔らかく抱き寄せ「俺の楽しみなのさ。これぐらい許してくれよ?」と耳朶を甘咬みするように囁いてくるのだから、どうしようもない。


「あのね、前から聞きたいと思っていたのです」
 そう云った総司に、土方は僅かに小首をかしげた。
「前から聞きたい? 何を?」
「……土方さんが、その……私のどこを好きになったのかなって……」
 そう云って俯いてしまった総司に、土方は驚いたように目を見開いた。思ってもみない事を云われたからだろう。しばらく、まじまじと総司を見つめていたが、やがて、小さく笑うと、その小柄な躯をぎゅっと抱きしめる。
「全部だ」
「え?」
「おまえの全部が好きだって、云ったのさ」
「そん…なの」
 総司は顔を真っ赤にして、云い返した。
「そんなの嘘だもの。全部だなんて、都合のいいこと云って」
「嘘なものか」
 土方は総司の長い睫毛に、頬に、唇に、口づけの雨を降らせると、甘い声で囁いた。
「生意気な処も、意地っぱりな処も、元気いっぱいで九つも年上の俺にも平気で云い返す気の強さも、全部好きだ」
「……なんか、褒められている気しないんですけど」
 思わず唇を尖らせた総司に、土方はくすっと笑った。もう一度頬に口づけてから、言葉をつづける。
「そうやって拗ねる時、上目づかいになる癖。花が咲いたような可愛い笑顔、澄んだ声、細い躯も、きれいな髪も、優しさも素直さも、みんな全部好きさ」
 一気に云ってのけた土方に、総司はびっくりして目を見開いた。だが、すぐに首筋まで赤くすると、恥ずかしそうに男の胸もとに顔をうずめてしまう。柔らかな黒髪からのぞく小さな耳も桜色で、可愛い。
「すげぇ可愛いな」
 思わずそう囁いた土方に、総司はぎゅっとしがみついた。小さな声で、ちょっとまだ拗ねたように云う。
「やっぱり、土方さんってたらしです」
「否定はできねぇな。けど、おまえが可愛いのは本当だぜ?」
「土方さん、目、悪い?」
「さぁ。人よりは見える方だと思うけどな」
 小さく笑った土方は、ふと耳を澄ますような表情になった。そう云えば、遠くで「副長」と探しているのが聞こえる。
 思わず見上げると、土方は忌々しげに舌打ちした。
「まったく、おまえと逢瀬も楽しむ事も出来やしねぇな」
「だって……屯所の中だもの」
「じゃあ、今度は屯所以外で逢おう。そうだな、明日、花見でもどうだ」
「花見って、桜はもう終っていますよ」
「別に、桜でも桃でも、何でもいいさ。おまえと二人きりになることが目的だ」
 あっさり云った土方は、もう一度だけ総司の躯をぎゅっと抱きしめた。そうして、頬に口づけをおとすと、身をひるがえし、部屋から素早く出ていってしまう。
「……」
 総司は接吻された頬を手でおさえ、はぁっとため息をついた。
 嬉しいのか、幸せなのか、不安なのか。
 よくわからないのだ。
 全部好きだなんて云われて、恥ずかしいけど嬉しかったのは確かだった。だが、一方で、本当に? と、何度も何度も聞いてしまうのだ。
 本当に、彼の言葉を信じていいのだろうか。
「駄目だよね、こんなんじゃ」
 あんなに大切にしてくれる彼の言葉を信じないなんて、たまらなく罪悪感がこみあげた。だが、それでも、不安は消すことができない。
 どうしてだか、何故だか、いつも総司の胸奥には、小さな不安があるのだ。
 その理由はわからなかった。
 土方が自分なんかとでは釣り合わない事はもちろんだったが、それだけではなかった。別の何かわからない理由があるのだ。
 ただ、その理由を知る事さえも怖かった。理由がわかった時、すべてが終ってしまう……そんな予感がするのだ。


 不安の予感……?


 まるで初恋をした娘みたいだと、総司はそっと唇を噛んだ。












 元の世界に戻ることを、諦めた訳ではなかった。
 確かに土方といる事は幸せだったし、この世界はとても居心地が良かった。だが、それでも、帰らなければと思ってしまうのだ。もしかすると、予感が現実となる前に、消えてしまいたいのかもしれなかった。
 だい好きな彼がいる、この世界から。
 そんな総司の気持ちを、土方も感じとっているようだった。だからこそ、告げるのだろう。
 美しい木立の中を歩きながら、右手で総司の肩を強く抱きよせ、耳もとに囁きかけるのだ。
「……逃がさねぇよ」
「!」
 びくりと目を見開いた総司は、慌ててゆるく首をふった。
「逃げるなんて、考えていませんよ」
「そうかな」
「だって、逃げる必要ないでしょう? 待ち合わせまでして、こんな綺麗な花を見せてもらって、あなたと一緒にいて……」
「だからこそ、逃げたいんじゃねぇのか」
 突き放すような口調で呟いた土方は、「え?」と戸惑う総司に構わず、前方の花を指さした。
「ほら、綺麗だ。今が盛りだな」
「……」
 総司はまだ土方の態度に心揺れていたが、それでも、彼の指さす方を見た。とたん、息を呑む。
 紫陽花の花が満開だった。
 鮮やかな色あいが咲きこぼれ、その合間をぬうように小道がつづいてゆく。
「綺麗……」
 思わずそう呟いた総司に、土方は満足げに微笑んだ。
「ここの紫陽花は見事だからな。おまえもきっと気にいると思った」
「来た事があるのですか」
「あぁ」
「……前の私と?」
「おまえ自身とだ」
 きっぱり断言した土方に、総司は俯いてしまった。
 自分自身であるはずがないのだ。記憶の有無ではない。ここにいるのは、紛れもなく別人の沖田総司なのだから。
 そんな事をつらつら考える総司に、土方は僅かに眉を顰めた。総司の躯を己の胸もとへ引き寄せ、耳もとに唇を寄せて囁きかける。
「余計な事を考えるな」
「土方さん……」
「おまえは今、俺といる、俺に愛されている。それだけを信じていればいい」
「そん…なの」
 泣き笑いになった。
「無理ですよ。出来ません」
「無理でも信じろ。俺の想いしか、信じるな」
「土方さんって、強引……」
 そう拗ねたように云った総司だったが、思わず小さく笑ってしまった。男の広い胸もとに凭れかかり、くすくす笑う。
 それに、土方も安堵したようだった。形のよい唇に笑みをうかべ、小柄な躯をぎゅっと抱きしめる。
「機嫌、なおったか」
「別に悪かった訳じゃありませんよ」
「何でもいい。明るく笑っている方が、おまえには似合う」
「土方さん、本当にたらしなんだから」
「おまえ相手だけだと云ってるだろ」
 土方は総司の手をひき、紫陽花が咲き乱れる小道へと歩み入った。色とりどりの紫陽花が揺れ、まるで夢の世界のようだ。
 そんな事を思った総司は、ふとあの時の花を思い出した。小さく呟く。
「あの花……」
「え?」
「私が、この世界へ来た切っ掛けとなった花があるのです。あの花は何という……」
 不意に、ぐっと手を引き寄せられ、総司は驚いて顔をあげた。見れば、土方が眉を顰め、鋭い瞳で見下ろしている。
「……土方、さん?」
「逃がさんと云っただろう」
「あ……」
「俺から逃げようなどと、考えるな」
 総司は目を見開き、息をつめた。それから、のろのろとした口調で答えた。
「逃げたりなんか……」
「しないと云うのか。だが、おまえはいつも探している。その世界とやらへ帰る道を」
「──」
 どきりとした。心の内までも見透かされたようで、思わず目をそらしてしまう。
 その総司を、土方は両腕できつく抱きすくめた。首筋に、頬に、耳もとに口づけられる。
「逃げるな」
「土方さん……」
「頼むから、逃げるな。今度おまえに逃げられれば、俺は何をするかわからない。逆上した挙げ句、おまえをこの手で……」
「……殺す…の……?」
 小さな声で問いかけた総司に、土方は何も答えなかった。だが、否定する事もせぬまま、小柄な躯を胸もとに抱きしめる。
 息もとまるほどの、きつい抱擁。
 だが、総司は、小さな歓びが胸の内にわきおこるのを感じていた。
 傍から見れば奇妙な、歪んだ想いだっただろう。
 だが、総司にとって、逃げれば命奪うほどの執着、激しい愛情は、それほど深く愛されていることの証だった。
 彼の傍にいて良いのだと、許しを得た気持ちになれたのだ。
「土方さん……愛している」
 不意に、そう告げた総司に、土方は驚いたようだった。
 身を起し、驚いた顔で腕の中の総司を覗き込んでくる。
 それに、総司は小さな花のように微笑みかけた。そっと、細い指さきを男の胸にはわせ、身を寄りそわせる。
「あなただけを愛しています……誰よりも、いつまでも」
「総司」
 土方は思わず問いかけていた。
「おまえ、俺を受け入れてくれるのか。逃げれば殺すなどと云う……こんな狂った愛情を向けてしまう俺を、おまえは」
「はい」
 こくりと頷いた総司は、なめらかな頬を染め、男の胸もとに顔をうずめた。ぎゅっと、男の襟もとにしがみつく。
「だって……好きだから。あなたの、冷たさも激しさもみんな……愛しているから」
「あぁ、総司」
 土方はその細い躯をきつく抱きすくめた。柔らかな黒髪に頬をすりよせ、目を閉じる。


 愛しくて愛しくてたまらなかった。
 二度と、手放したくない。
 本当に、総司が逃げるような事があれば、狂ってしまうだろう。狂って、この手で殺してしまうかもしれない。
 彼自身、己を恐ろしくさえ感じるのに、総司はそんな彼さえも受け入れてくれるのだ。
 優しく、素直な心で。
 愛していると、囁いてくれるのだ。


「総司……愛している」
 想いのすべてをこめて、土方は囁きかけた。それに、総司が夢見るように目を閉じる。


 儚い夢だと。
 ひと時の夢にすぎぬ、儚い恋なのだと。
 何も知らぬままに。


 いつまでも抱きあう恋人たちを、紫陽花だけが静かに見つめていた。












 終わりは突然、訪れた。
 その日は朝から別に何の変事もない、平穏な日だった。
 朝起きてすぐ総司は土方の部屋を訪れ、一緒に朝食をとった。その後、土方は黒谷屋敷へ、総司は巡察へ出かけたのだ。
 巡察から戻り、しばらくすると、土方も帰営したようだった。それを聞き、総司は副長室へ向った。その途中だった。
「土方さん」
 廊下で、土方が呼びとめられていた。
 原田が文を手にしており、それを土方に手渡そうとしている。土方は僅かに小首をかしげた。
「何だ」
「あんたに文だよ」
「誰から」
「お琴さんからさ」
「……」
 土方の目が僅かに見開かれた。だが、すぐさま、嬉しそうに笑った。
「そうか、お琴からか」
「あぁ。けど、いいのかねぇ」
 原田はちょっと周囲を見回し、声をひそめた。それに、総司は慌てて角に隠れた。素早い動きだったので、気づかれていないはずだった。
 二人の会話だけが聞こえてくる。
「何が」
「総司のことだよ。あんた、ちゃんと話しているのかい」
「今度、話そうとは思っている」
「ふうん? ちゃんと話してやらなきゃ、可哀相だよ。総司だって、色々思う処があるだろうし」
「まぁ、怒るだろうな」
「あんたに許婚がいるなんて話聞いたら、誰だって怒るよ」


(……え?)


 総司は息をつめた。胸もとを両手で掴んだまま、目を見開く。


 許婚?
 許婚って、誰が……誰の?


「だいたい、今の総司は記憶ないんだぜ。何で、もっと早く話さねぇんだよ」
「切っ掛けがなくてな」
「そりゃ、お琴さんのこと、云いづらいのはわかるけどさ、いつまでも隠しておける話じゃねぇし」
「わかっている」
「とにかく、総司を大事にしてやれよ」
「云われなくても、そうするさ」
 土方は苦笑まじりに答え、踵を返したようだった。そっと角から伺えば、部屋へと向って歩み去ってゆく。
 それを確かめてから、総司は静かに自室へ戻った。
 部屋へ戻ってから障子を閉めきり、畳の上に崩れるように坐り込んだ。


(許婚、だって……)


 そんな人がいるなど、思いもしなかった。聞いた事もなかった。
 当然だ。
 土方が総司には聞かせぬよう、隠してきたに違いないのだから。


 でも、何故?
 どうして、私を騙したの?
 それとも、云う必要などないと思っていた? 男であり、決して妻にはなれぬ存在ならば、そんなやり方で十分だと……


 総司はのろのろと両手で顔をおおった。
 涙があふれそうだった。情けないとは思うが、それでも、指さきまで冷たくなり、耳奥がきんと鳴る。


(どうして? どうして、土方さん……)


 あの不安は、これを意味していたのだと思った。
 終わりがくる予感。寂しく辛い、何かが訪れてくる不安。
 彼のすべてを信じることが、どうしても出来なかった。
 それは、きっと、土方がふと垣間見せた何かに、不安を覚えていたのだ。
 信じきることが出来ない何かが、彼の中にあり、それを自分は敏感に察していたのだ。
「……ここにはいたら、駄目だ」
 掠れた声で、呟いた。
 胸もとをぎゅっと握りしめ、総司は己に云い聞かせるようにつづけた。
「戻らなくちゃ、あの世界に。私の居るべき場所に」
 この世界は、本来の自分の居場所ではないのだから。ここにいるのは、別の自分であるはずなのだから。
 そう思った瞬間、ぞくりとするものを覚えた。背筋が寒くなる。


 ここがそうでないのなら、私の本当の居場所は……どこにあるの?
 ううん。
 本当に、そんな場所があるの?
 私がいるべき、生きてゆくべき場所が───


 突きつけられた真実に、総司は大きく目を見開いた。



















次で完結です

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