土方さんのことを、忘れたかった。
恋したことも、ずっと見つめてきたことも。
みんな、忘れてしまいたい。
あの時、私はそう願ったのだ。
神とも仏ともわからぬ何かに。
幼い頃から、土方という男に恋をしていた。
だが、彼にはお琴という美しい許婚がいた。それを知りながら、想いつづける切なさ、辛さを幼い頃から抱えてきたのだ。
それでもいいと思っていた。
一縷の望みもない恋だから、己さえ秘めていけば堪えてゆけるのだと、そう信じていた。
だが、そんなの嘘だった。
自分に嘘をついていただけだった。
『この文か? お琴にだよ』
訊ねた近藤に、そう答えていた土方の、ちょっと照れたような笑み。
総司がそっと見つめている事に気づかぬまま、二人は会話をかわしていたのだ。
許婚のお琴に文を書いているようだった。それも、婚儀が間近なのだという。
からかった近藤に、土方はまた小さく笑ってみせた。
優しげで柔らかで、彼がどれほどお琴を大切に想っているか、わかる笑顔だった。
……堪えられなかった。
お琴と婚儀をあげてしまえば、土方はもう既婚者だ。
妻を娶った男を想い続けるなど、清廉で真っ直ぐな総司にできるはずがなかった。かと云って、諦めることも、土方に告げることも出来ない。
彼を愛した時から、総司はその恋を秘めてゆくために、己を厳しく律するようになった。
許されぬ恋だ。
その恋を抱える罪悪感故に、総司は控えめになり、我儘も甘えも云わなくなり、口数の少ない従順な若者となった。土方の気持ちに逆らうような事は、一度としてした事がなかった。
そんな総司が、土方に己の恋を吐露できるはずもない。彼を困らせるような事だけはしたくないのだ。
ならば、残された道は、一つしかなかった。
逃げたい。
そして、彼のことを忘れる事が出来たなら。
そう願い、総司は新撰組から逃げ出したのだ。否、この世界から逃げ出し、どことも知れぬあの不思議な静かな世界に身を潜めた。
何が理由でここへ戻されてしまったのかはわからないが、それでも、総司は一度逃げたのだ。
この辛く哀しい恋、彼との思い出。
愛する男の存在さえも忘れてしまえたなら、私は幸せになれるのだろうか──?
そう自分に問いかけながら。
なのに、結局は、この世界に戻ってきてしまった。そして、再び彼と出逢い、やはり彼に恋したのだ。心から愛してしまったのだ。
記憶を失っていても尚、惹かれずにはいられなかった。
逢った瞬間から、彼を愛していた……。
京の町を、総司は足早に歩いた。
もう何もかも思いだしていた。すべては蘇り、総司は、この世界の沖田総司へと戻されたのだ。
初めから、総司は一人だった。この世界にも、どこの世界にも、沖田総司は、ただ一人だったのだ。
そして、夢は覚めてしまった。
「……夢は覚めた、覚めてしまったんだ」
そっと唇を噛みしめた。
もうかなり長い間、京の街を歩きつづけていた。
だが、目的とする場所はある。あの神社だ。
自分をこの世界から連れ出してくれる、場所だ。
そこへ逃げ込むことだけが、今の総司には救いだった。
(こんな辛い想い、二度としたくなかった。報われない恋なんてもうしたくなかったのに……)
涙がこぼれそうになった。
それを堪え、総司は懸命に歩いた。場所なんてわからない。だが、何故だか、一途に願えば、そこに辿りつける気がした。
忘れても何をしても彼を愛してしまうなら、もう他に手段はない。この世界から、自分を消し去る以外に術はないのだ。
彼を愛する気持ちごと、自分を消し去ってしまいたい。
「……」
気がつけば、いつのまにか、総司は古びた神社の一角に佇んでいた。ぼんやりと鳥居を見上げている。
そうだ、ここだった。あの時もこうして神社を訪れ、社の中にある鏡へと吸い寄せられるように近づいたのだ。
総司はきゅっと唇を噛みしめると、社前の石段をのぼった。手をかければ、ぎいっと音をたてて戸が開く。あの時と同じで、社の中はしんと静まりかえり、薄暗かった。
薄闇の中、一枚の鏡だけがひっそりと輝いている。
妖しく美しく、総司を誘い込むかのように。
「……っ」
一瞬、総司は躊躇った。
だが、やがて、ゆっくりと鏡へと歩み寄った。手をのばし、鏡にふれようとする。
その瞬間だった。
「!?」
突然、鏡が割れたのだ。突き立てられた小柄。ぱしっと音をあてて罅が入る。あっという間の出来事だった。
まるで雪がとけるかの如く砕け、鏡は零れ落ちた。
床に、銀色の欠片だけが降りつもる。
「……ぁ」
信じられない思いで、総司はそれを見つめた。だが、やがて、突き立てられた小柄にハッと息を呑み、己の背後を勢いよくふり返った。
そこには、一人の男が佇んでいた。開いた戸口に凭れかかり、鋭い瞳でこちらを真っ直ぐ見つめている。
黒髪に、黒い瞳。
先程見たとおり黒い着物を纏った男。
「……」
総司は彼を呆然と見つめた。何も云うことができない。まるで金縛りにあったように身動き出来ず、声さえ出なかった。
それを冷然と見据えたまま、土方は僅かに目を細めた。
低い声が呟いた。
「これで……あの世界へ逃げることは出来ない」
「……」
「おまえは俺から逃れられねぇんだよ、総司」
そう云って笑った男の瞳が、ぞっとするほど冷たかった。思わず後ずさりかけるが、横切ってきた土方に腕を掴まれ、ぐっと間近に引き寄せられる。
息を呑んで見上げれば、怜悧な黒い瞳が総司だけを見つめていた。
「総司……」
低い声で呼びざま、そっと頬を撫でられた。彼の指さきがひやりと冷たく、思わず身を竦める。
その反応の一つ一つをつぶさに見つめたまま、土方は囁いた。
「何故逃げる。捕えても甘やかしても、厳しくしても、おまえは俺の手から逃げてしまう。それが俺には許せないという事が、何故わからない」
「だって……」
「云ったはずだ。逃げれば殺すと」
耳元に唇を寄せ、まるで睦言を囁くように告げた土方が、この世の誰よりも怖く、そして、愛しかった。
身勝手で、激しくて冷たくて甘くて、狂ったように愛してくれる男。
そんな彼を、本当に心から愛しているのだ。
こうして逃げ出す自分こそが、狂ったように彼だけを愛している───
総司はゆっくりと両手をのばし、白い両腕で彼の首をかき抱いた。
黒目がちの瞳が、土方をじっと見つめた。桜色の唇が訊ねかける。
「なら、私を殺す……?」
「……」
「私を殺して、その亡骸を抱きながら、妻を迎える……?」
「──」
土方の目が僅かに見開かれた。探るように総司を見つめてから、押し殺した声で聞き返した。
「……何のことだ」
「今更誤魔化すの?」
総司は愛らしく小首をかしげた。だが、その目は男をじっと見つめ、きらきらと光っている。
ぞっとするほど、美しく艶めかしかった。
「あなたにはお琴さんという許婚がいるでしょう」
小さな声で、つづけた。
「だから、私はあの時、あなたの許を去った。あなたがもうすぐ彼女を娶るのだろうと知ったから、あなたから逃げて、あなたを忘れてしまいたいと願った」
「だが、おまえは戻ってきただろう」
「自分の意思じゃない!」
激しく叫んだ総司に、土方は喉奥で低く笑った。暗い翳りが瞳に落ちた。
「そうだな、おまえの意思じゃない。この俺が連れ戻したんだ」
淡々と告げた土方に、総司は目を瞬いた。意味がわからなかったのだ。
それに、土方は静かな声でつづけた。
「俺はおまえを探し、この神社に何故か辿りついた。そして、鏡の中におまえの姿を見つけたんだ。連れ戻すのは無理だと悟った俺は、神社の境内に咲いていた花を腕いっぱいにつみ取り、道に零れさせ、おまえをこの神社へおびき寄せた」
「!」
総司は大きく目を見開いた。
あの花は、土方の仕業だったのだ。
土方自身が摘み取り、総司のために零れさせた花。
その花に導かれ、総司はこの世界に戻ってきた……。
「なら、土方さん、あなたは……!」
総司は信じられないものを見るように、土方を凝視した。指さきが震える。
「あなたは、全部初めから、わかっていたの。私がこの世界の人間である事も、一度は逃げ出した事も……全部!」
「あぁ、わかっていたさ」
土方は平然と笑ってみせた。
「逃げ出したおまえを、今度こそ捕まえるつもりだった。まさか、二度も逃げられるとは思ってもいなかったがな」
「……っ」
怒りのあまり、声が出なかった。
妻を娶る身でありながら、総司まで己のものにしようとする。その傲慢さに、呆然となった。
この人にとって、自分はその程度の存在なのか。
こんなにも愛しているのに。
気が狂いそうなほど、命よりも何よりも、彼だけを愛しているのに。
なのに、この人は自分を腕に抱きながら、妻を娶ろうとしているのだ。
自分を妾同然の立場に堕とそうとしているのだ。
そんな酷い事をするぐらいなら、放っておいてくれたら良かったのに。
連れ戻さなければ良かったのに。
こうして最後の逃げ場まで奪ってしまうなんて、どこまで残酷な男なのか。
「離して!」
総司は叫びざま、大きく身を捩った。土方から逃れようと、必死になって暴れる。
だが、それを土方は力強い腕で抱きすくめた。首筋に顔をうずめる。
「絶対に逃がさない……」
掠れた低い声が、耳もとで告げた。
おまえは俺のものだ。
それを聞いた瞬間、総司の意識は暗闇におおわれた────
気がつくと、風が頬を撫でていた。
神社の境内だ。否、もと神社だった場所か。
社はなく、ただ大きな樹木だけが残されていた。辺りに人気はなく、しんと静まりかえっている。ただ、さわさわと葉擦れの音が聞こえるのみだ。
「……気がついたか」
低い声に、はっとした。
慌てて自分を見回せば、樹木の根元に坐り込んだ男に後ろから抱かれていた。驚いて逃れようとするが、すぐさま引き戻され、より強く抱きすくめられる。
「頼むから、もう……逃げるな」
耳もとで囁かれる声に、びくりと肩が跳ねた。だが、逃げようがないのだ。もうあの鏡も割られてしまった以上、自分にはどこにも逃げ場はない。
「……」
大人しくなった総司に、土方は安堵の吐息をついた。小柄な躯を抱きしめながら、話しかける。
「おまえは気を失ったんだ。気持ちがはりつめ過ぎていたのだろう」
「ここは……?」
「あの神社があった場所さ。社から出たとたん、この場所に戻った」
「そう……」
本当に、逃げ場を失ったのだ。
この人を愛する切なさ、苦しさに、泣きながら逃げ込む場所さえ失ってしまった。否、この人が奪い去ったのだ。
「総司……」
声をかけてくる土方に、総司は唇を噛みしめた。涙がこぼれそうになる。
しばらく黙った後、ぽつりと云った。
「もう……私を放っておいて」
「……」
「あなたには、お琴さんという人がいるでしょう? 私は妾のような立場なんて、堪えられそうにないから」
「おまえが妾?」
驚いたように、土方は目を見開いた。
「そんな事するはずねぇだろう」
「……」
男の言葉に、切なさ、惨めさがこみあげた。
いったい、この人は自分をどうするつもりなのか。妾にもしないなんて、いったい……。
総司は俯き、ぎゅっと両手を握りしめた。
それを、土方は黙ったまま見つめていた。やがて、低い声で云った。
「おまえ……何を誤解しているか、知らねぇけどな」
「……」
「お琴と俺は、許婚でも何でもねぇよ」
「──」
一瞬、意味がわからず、総司はのろのろと土方を見上げた。大きな瞳いっぱいに涙があふれ、今にもこぼれそうだ。
それを痛ましげに見つめながら、土方は、落ち着いた声でつづけた。
「前々から縁組解消の文を出していたが、今日ようやく承諾の文を貰ったんだ。義兄の手前、色々とてこずったがな」
「……」
「まぁ、お琴からの文には、いつ帰ってくるかわからぬ男など、待っていられんと書いてあった。お琴もほっとした事だろう」
総司はまじまじと土方を見つめた。かなり長い間黙り込んでいたが、やがて、小さな声で訊ねた。
「土方さん、ふられたの……?」
「……」
土方は思わず苦笑した。
誰のために苦労して縁を切ったと思っているんだと云いたくなったが、それにはふれなかった。
ただ僅かに肩をすくめると、悪戯っぽい口調で答えた。
「あぁ、その通りだ」
「……」
「けど、俺はおまえがいてくれれば、それでいいのさ」
土方は真摯な声で云った。
「誰を何を失っても、おまえが俺の傍にいてくれれば、それでいい。だから、頼む……総司、俺から逃げないでくれ」
そう云って握りしめた土方の手は、ひどく冷たかった。見上げれば、緊張した面持ちでこちらをじっと見つめている。
総司は、小さく息を呑んだ。
土方さんは私を愛している。
私がこの人を愛しているのと同じぐらい、私を愛してくれている。
怒ったり、泣いたり、意地をはったり。
本気の恋だからこそ、一生懸命すぎて見えなくなるものもあるけれど、それも本気の恋だから。
最初で最後の恋。
だからこそ、私たちはこんなにも不器用なのだろう。
だが、それも全部、愛しているからこそで……
「土方さん……」
そっと呼びかけた。それに、土方が静かに見下ろしてくる。
黒い瞳が自分を見つめるのを感じながら、総司は一瞬だけ目を閉じた。
ずっと、ずっと昔から。
私が逃げ出してしまった時も、あなたのことを忘れてしまった時も。
いつも、見守ってきてくれた人。
この世で一番大切な、誰よりも愛しい人。
「愛しています」
記憶を取り戻してから、伝えていなかった言葉を、そっと口にした。
震える胸をおさえて。
好きという言葉以上の、すべてを捧げる言葉を。
「土方さん、あなただけを……愛しています」
「……」
総司からの言葉に、土方は息を呑んだ。
しばらく黙りこんでいたが、不意に、総司の躯を胸もとに引きこんだ。きつく抱きしめられる。
男の腕の中、彼のぬくもり、鼓動を痛いほど感じた。
掠れた声が耳にふれた。
「……真か、今の言葉は」
「はい」
「本当に、俺を愛しているのか」
こくりと頷いた総司を、土方はより強く抱きしめた。背中が撓るほど抱きしめられ、息ができなくなる。
だが、それでも、彼の胸もとに縋りついた。
土方はそんな恋人を抱きしめ、告げた。
「なら、二度と逃げるな」
「土方さん」
「いつまでも俺の傍にいて……俺を愛しつづけろ」
相変わらずの俺様な物言いに、男の腕の中で、総司は小さく笑った。
再会した時から、驚くぐらい強引で身勝手で、でも、たまらなく惹かれた人。
きれいな黒い瞳で私を見つめ、愛してくれた人。
その強引ささえ、愛おしいの。
彼からの甘やかな鎖は、優しくつかまえてくれるから。
私をつれもどした──あの花のように。
「あのね、土方さん」
総司は土方の背に手をまわしながら、大きな瞳で彼を見上げた。
「あの花の名前、思い出しました」
「花?」
「えぇ。あなたが道に降らせてくれた、あの花です」
「……」
土方の黒い瞳が、微かに笑った。顔を覗き込み、悪戯っぽい表情で見つめる。
「それは偶然だな。俺もさっき思い出した処だ」
「嘘ばっかり」
「どうして」
「だって、あの花……わざとでしょう?」
「さぁ、どうだろう」
土方は総司の頬にふれ、くすっと笑った。
そして。
幸せそうに微笑う可愛い恋人を、今度こそ、しっかりとつかまえたのだった。
その花の名は
───勿忘草
[あとがき]
「花の名は」完結です。
結局、異世界は、白河藩士である総司がいた世界の方だった訳です。幕末の総司がそこへ逃げ込み、土方さんが連れ戻したのです。でも、総司自身が望んだから、記憶は失われていた。
ちょっとややこしい話だったと思います。すみません。いつものお遊び妄想なので、あれれ? と思われても、スルーしてやって下さいませね。
このお話は、とにかく、元気いっぱいな総司と俺様土方さんの恋愛を書きたいと思って、書いたものです。なので、とても楽しく書くことが出来ました。
無事完結させる事ができましたのも、メッセージを下さった方々、拍手を下さった方々のおかげです。本当に、ありがとうございました♪
このお話で、ほんのちょっとでも皆様が楽しんで下されば、とっても嬉しいです。楽しかったよ♪と思って下さった方は、ぜひ、ぱちぱちお願い致しますね。今後の更新への大きな励みになります♪
ラストまでおつきあい下さり、ありがとうございました♪
