驚いてふり向くと、土方が立っていた。
 切れの長い目で、総司を見下ろしている。
 すらりと引き締まった長身に、今日は濃紺の着物を着流し姿だった。伊達に締めた帯に両刀を斜めに差した姿は、男の色香が匂いたち、思わず見惚れてしまう。
「どこへ行く」
 低い声で問われ、総司は小首をかしげた。
「どこって……お昼ですけど」
「屯所で食わねぇのか」
「はい。外で待ち合わせしているのです」
 総司の言葉に、土方の眉が不機嫌そうに顰められた。
「待ち合わせだと?」
「えぇ」
「誰と」
「斉藤さんとです」
 あっさり答えた総司に、土方は一瞬、押し黙った。だが、すぐに思いきり上から目線の口調で云いきった。
「断れ」
「え……?」
「断れと云ったんだ。斉藤と食事なんざ、絶対に許さねぇ」
「……」
 呆気にとられ、総司は土方を見上げた。それに、土方は話は終わりだとばかりに、さっさと踵を返そうとする。
 思わず叫んだ。
「そんな、土方さんの命令聞く理由ないんですけど!」
 思わず叫んでいた。
 ふり返った土方を、総司は大きな瞳で睨みつけた。ぎゅっと両手を握りしめる。
「何で、土方さんの云うことを聞かなくちゃいけないの? 誰と食事しようが、私の勝手じゃない」
「勝手なはずねぇだろう」
 土方は眉を顰め、低い声で云った。
「おまえが斉藤と二人きりで食事すると聞いて、俺がいい気がすると思っているのか」
「それ…は、思いませんけど……」
 思わず口ごもってしまった。
 総司だって、わかっているのだ。
 土方は、ちゃんと何度も、意思表示をしてくれていた。
 好きだと告げ、おまえが一番大切だと、宝物みたいに総司を甘やかしている。その総司が他の男と食事するというのだ。当然、面白くはないだろう。
 でも。
「……のものじゃないし」
 小さな声で呟いた総司に、土方は「何だ?」と聞き返した。それに、きっと顔をあげ、大きな声できっぱり云いきってやる。
「私、土方さんのものじゃないし! 念者になんかなったつもりないし!」
「……」
「そんなふうに云われて、迷惑なんだから。い、嫌なんですから!」
 総司がそう叫んだとたん、土方の黒い瞳に傷ついた表情がうかんだ。だが、それは一瞬で、すぐさまいつもの傲慢な冷たい表情になってしまう。
 ゆっくりと腕を組み、冷めたまなざしで総司を見下ろした。口角を微かにあげる。
「……なるほど、ね」
「……」
「嫌か。なるほど、よくわかったよ」
 そう低い声で呟くなり、土方はすっと背をむけた。着物の裾をひるがえし、無言のまま歩み去ってゆく。
 総司は、遠ざかる広い背に、小さく息を呑んだ。
 云いすぎたと思った。人一倍矜持の高い彼に、あんな言葉を告げるべきじゃなかったのだ。
 だいたい、全部、嘘だった。
 嫌だなんて、迷惑だなんて、思ったことなかったのに。むしろ、噂を聞いた時、感じたのは、気恥ずかしいぐらいの嬉しさだったのに……。
「……」
 総司はのろのろと俯いた。爪が食いこむほど、手を握りしめる。
 今、追いかけて謝れば、許してくれるかもしれなかった。
 だが、総司も、土方に負けず劣らず矜持が高いのだ。勝ち気のせいで、どうしても彼を追いかける事ができない。
 総司は土方を追いかけるかわりに、下駄をはき直した。そして、屯所の外へと歩み出てゆく。
 だが、その大きな瞳は潤み、今にも涙がこぼれそうだった……。












 雨が降っていた。
 京の町の屋根に柔らかく降りしきる春の雨だ。
 久しぶりの雨に新緑も鮮やかに濡れ、梔子の花が甘く香った。雨と花の匂いを含んだ空気は、どこかひんやりとして心地がよい。
 それを感じながら、土方は縁側をゆっくりと歩んだ。
 渡り廊下の処で、原田と行き会った。外から帰った処なのだろう、少し肩を濡らした原田は、土方を見ると、「よう」と片手をあげてみせた。
 すれ違いかけてから、ふと思い出したように声をかけてきた。
「土方さん」
「何だ」
 ふり返った土方に、原田は「いや、あのさ」と云いかけ、ちょっと躊躇った。それに嫌な予感を覚えたが、土方は苛立った口調で促す。
「何だ、さっさと云え」
「だからさ、総司の事なんだよ」
「……」
 とたん、沈黙してしまった土方を見やりながら、原田は言葉をつづけた。
「可哀相だとは思わねぇのかい?」
「何故」
「何故って、そりゃ、あんたにすげなくされてさ」
「……それは逆だろう」
 土方は微かに唇の端をあげた。
「すげなくされているのは、俺の方さ」
「そうかねぇ。総司に全然声かけなくなったの、あんたの方だろ」
「総司も、俺に話しかけるどころか、近寄りもしねぇだろうが」
「そりゃ、総司の方から出来る話じゃねぇよ。あんたが怒っているの丸わかりだし」
「……」
 黙ったまま中庭に視線をむける土方に、原田は、はぁっとため息をついた。



 土方と総司が仲違いして、もう十日だった。
 喧嘩どころか、口もきかない状態がつづいているのだ。
 だが、原田をはじめ隊士たちにとっても、副長である土方の機嫌が悪いと、色々と仕事がやりにくい事この上ない。
 それに、萎れた花みたいにしゅんとなっている総司も、可哀相でたまらなかった。



「この辺で勘弁してやれよ」
 宥めるように云う原田に、土方は無言のまま口許を引き締めた。懐手しながら、僅かに目を伏せている。
 それに、原田はちょっと躊躇ったが、思いきって云った。
「土方さん、あのさ」
「……」
「総司、あんたの背中ばかり見ているよ」
 土方が目をあげた。それに、言葉をつづけた。
「泣きそうな顔してさ、あんたの背中ばかり目で追いかけているんだよ」
 原田の言葉に、土方は微かに息を呑んだ。全く知らなかったのだろう。驚いたような表情で、原田を見返している。
 それに、背中を軽く叩いてやった。
「だから、な? そろそろ許してやりなって。でなきゃ、他の誰かさんに奪られちまうぜ?」
「……」
 押し黙ったままの土方に、原田はちょっと笑った。それから、もう一度ぽんっと肩を叩いてから、歩み去ってゆく。
 向こうの方で、永倉が「左之」と呼んでいるのに、手をふった。
 それを見送らぬまま、土方は傍らの柱に背を凭せかけた。雨に濡れる中庭を眺めながら、先程の会話を反芻する。


(奪られちまう、か)


 確かに、その通りだった。
 このまま意地をはっていれば、そうなってしまう事は必定だろう。
 もともと、一方的な関係なのだ。土方は何度も好きだと告げたが、今もって、総司からは何の返事もなく、それどころか、彼の言葉をまだ信じていない節がある。
 なのに、総司のつきあいを制限するなど、実際、身勝手だとよくよくわかっていた。わかってはいるが、感情が許さない。
 他の男といるだけで我慢できないのに、相手がもともと総司に片恋している斉藤だと聞けば、尚更の事だった。
 彼の念者とされるのが嫌だと云われた時には、視界がすうっと暗くなるのを感じた。
 そんな言葉を平気で口にした総司が憎らしく、そして、愛しかった。憎らしくて愛しくて、こみあげる感情の激しさに、体中が熱くなった。
 あれが人目につかぬ場での事だったなら、あの小柄な躯を抱きあげ、強引にさらっていただろう。どんなに嫌がっても、今度こそ彼のものにしてしまったかもしれない。
 だが、あれ以上の口論は土方の矜持が許さなかった。だからこそ、言葉少なく云い捨て、背をむけたのだ。
 ずっと愛してきた、大切な存在だった。この手の中で見守り、育て、慈しんできたのだ。
 なのに、何故、心から愛することが許されないのか。あの愛しい存在が彼だけのものになってくれるなら、他のすべてを投げ捨てても構わないのに。
 いっそ全部話した方がいいのかと思った。
 正直に、真実のすべてを。
 だが、今度こそ、総司が自分を完全に拒絶しそうで怖かった。あの時の総司の行動の理由がわからない以上、どうしても踏み切ることができない。


「からきし、だらしねぇな」
 土方は呟き、苦笑した。
 だが、それも総司だけだった。本気の恋だからこそ、なのだ。
 花のように愛らしく、そして、誰よりも澄んだまなざしをもった若者。
 清らかで凜とした心は、変わらなかった。記憶があろうが無かろうが、本質的なものは何一つ変わっていないのだ。
 だからこそ、心から愛していた。
 深く激しく──総司だけを愛してきたのだ。
「……」
 土方は身を起すと、静かに踵を返した。
 愛しい存在を、この手にとり戻したいと強く願った。原田の言葉が本当であるのなら、こちらから手をさしのべるべきなのだ。きっと、あの仔猫は今も一人泣いている。小さな少年だった頃のように。
 土方の胸奥に熱いものがこみあげた。早くこの腕に抱きしめたい。
 山積みになった仕事を片付け、今夜にでも総司の部屋を訪れようと思った。そう決意しながら、土方は廊下を足早に歩いた。
 副長室の障子をからりと開く。
「──」
 とたん、目に入った光景に、息を呑んだ。













 玄関口で口論になってから、十日がたっていた。
 だが、今も謝る切っ掛けが掴めず、総司は鬱々とした日々を過していた。
 あの日、予定どおり斉藤と待ち合わせ、食事をした。それはそれで楽しかったのだが、屯所に戻って土方とすれ違ったとたん、胸の奥がぎゅっと痛くなったのだ。
 土方は切れの長い目で総司を一瞥し、だが、それだけだった。すっと冷たく視線をそらすと、何事もなかったようにすれ違っていった。
 つい昨日まで、甘やかされ優しい笑顔ばかり見せられていた総司にとって、それは酷い衝撃だった。刺すような視線に、息がとまった。指さきまできんと冷たくなり、その場で泣き出しそうになったのだ。
 謝りたいと思った。
 だが、土方の冷たい態度は総司を完全に拒絶していた。
 冷徹な副長としてのみ振る舞う彼に、総司から声などかけられるはずもなかった。この屯所へ来た当初、きゃんきゃん生意気な事を云って困らせたが、あれは、やはり土方が鷹揚に許していたからこその行為だったのだと、今更ながらに気づかされた。
 本来の土方は矜持が高く、冷徹で容赦がない。切れの長い目で冷たく見据えられれば、誰も反論などできなかった。
 総司がいない場でも、土方は常に張りつめていた。その端正な顔は冷たく、笑みをうかべる事など全くなかった。
 そんな彼を遠くから見つめながら、総司は縋りつき、懇願しそうになる己を必死に堪えていた。


 お願い、私を見て。
 前みたいに、優しく笑いかけて。


 そんな事、云えるはずがなかった。
 ごめんなさいと謝る事さえ出来ないのに、どうして、そんな身勝手な事が云えるだろう。
「……云える訳ないよね」
 小さく呟き、総司は僅かに身じろいだ。
 雨音が少し大きくなった気がする。土方が外出しているかどうか、わからなかったが、少なくとも副長室にいない事は確かだった。何故なら、先程からずっと総司はこの部屋で彼を待ちつづけているのだ。


 ごめんなさいと、云いたくて。
 好きです。
 私の傍にいて下さい──と。


 十日もの間、土方に冷たくされ、わかった事がたくさんあった。
 初めのうち、腹がたって意地をはって、自分も知らん顔をしてやろうと思っていた。だが、それがどうしても出来なかった。
 つい目で追ってしまうのだ。ふり向いて欲しいと願ってしまうのだ。
 どうでもいい相手なら、平気だった。もともと総司は土方が苦手なはずだった。だが、いつのまにか、あの男は、総司の気持ちの奥深くに、こんなにも入り込んでしまっていたのだ。
 彼がいない世界は、何もかも色あせて見えた。
 そして、決定打は昨日うたれた。
 散策の途中、土方を見かけたのだ。
 彼は一人ではなかった。
 祇園の芸伎らしい艶やかな女が、傍に寄りそっていた。そっと白い手を彼の腕にかけ、何か話しかけている。
 土方も微かな笑みをうかべ、応じていた。
 ただ、それだけの光景だったが、総司の胸に錐で貫かれるような痛みが走った。気が付けば身をひるがえし、その場から立ち去っていた。まるで逃げるように、足早に去ったのだ。
 辛かった、息さえできない気がした。


 私には冷たいのに、その人には笑いかけるの?
 やめて、やめて、やめて。
 お願いだから、もう冷たくしないで……


 みっともなく泣き出してしまいそうだった。
 今、土方に逢えば、恥も外聞もなく縋りつき、懇願するだろう。
 それを総司は堪え、だが、とうとう我慢できず、この副長室に来てしまったのだ。
「……」
 総司は膝を抱え込み、その上に顔を伏せた。


 ずっと逃げつづけていた。
 そんな事あるはずがないと、目をそらしつづけてきた想いだった。
 だが、これが本当の気持ちなのだ。
 好きだった。
 彼でないと、駄目なのだ。あの人以外、欲しくなかった。
 どんな花よりも、どんな喜びよりも。
 この世のすべてよりも、彼が大切だから。


「土方さん……」
 小さくその名を呼び、総司は目を閉じた。愛しい彼の名を。
 誰よりも優しく、そして、冷たい男の名を。
 くり返し呼びながら、総司は彼の帰りを待ちつづけたのだった。













 紙を捲る音が聞こえた。
 さらさらと筆をすべらせる音、微かな墨の匂い。
 外では障子越しに、雨がしめやかに降っている。
 たまらなく心地がよかった。何もかもが、総司の身も心も包みこむようで、気持ちがふわりとあたたかくなる。
「……ん……」
 総司は布団の上、ころんと寝返りを打った。
 いつのまに夜になったのか。それとも、朝なのか。
 それにしては、妙に周囲が明るい気がするのだけれど……
 そんな事を思いながら、薄く目を開いた総司は、初め、自分の置かれた状況が全くわからなかった。
 布団の上へ横になっているのはいいが、ここは何処なのだろう。自分の部屋でない事は確かだ。
 なら、いったい、どうして……?
 まだ半ば夢うつつのまま、そう考えた総司に、突然、低い声がかけられた。
「ようやく起きたか」
「……え?」
 どきりと心の臓が跳ね上がった。慌てて身を起せば、文机の前に坐った男がこちらをふり返っている。
 切れの長い目でまっすぐ見つめられ、かぁっと頬が上気した。
「ひ、土方さん……っ」
「副長室でうたた寝なんざ、おまえぐらいのものだろうな」
 いきなり皮肉られ、総司は息がとめた。だが、彼の口調は柔らかい。
 おずおずと見上げれば、土方が腰をあげ、こちらに歩み寄ってくる処だった。半身を起している総司の傍に膝をつくと、そっと手をのばしてくる。
 頬を大きな掌で包みこまれ、思わず目を見開いた。
「……すまなかった」
 低い声で謝られ、総司は目を瞬いた。それから、はっと我に返ると、慌てて言葉を返す。
「そ、そんな。謝るのは私の方なのに……っ」
「総司」
「私が悪かったのです。土方さんに酷い事を云いました。嘘をついて、あんな……ごめんなさい」
 まくしたてるように云ってから、頭を深々と下げた総司に、土方はしばらくの間、黙っていた。だが、やがて、ふわりと両手でその小柄な躯を引き寄せる。
 男の逞しい胸もとに抱きこまれ、総司は息を呑んだ。彼の鼓動に、ぬくもりに、体中が熱くなる。
「土方……さん」
「嘘をついたのは、俺も同じだ」
 土方は総司の細い躯を抱きすくめながら、呟くように云った。
「おまえがいなくても、平気なふりをした。本当は傍にいて欲しいのに、知らぬ顔でおまえを放っておいた。おまえを傷つけて……本当に悪かった」
「そんな、謝らないで。私が悪かったのです」
 総司は土方の胸もとに凭れかかり、目を伏せた。小さな声で告げる。
「私は……あなたが、土方さんがいてくれればいいのに、一番大切なのに、嫌だなんて云って。本当は、念者だと云われて……とても、その、嬉しかったのに」
 真っ赤になって告げる総司に、土方は目を見開いた。驚き、思わず顔を覗き込もうとするが、総司は「いや」と首をふり、抗う。
 だが、そのかわり、土方の胸もとに顔をうずめた。彼の背中に手をまわし、ぎゅっとしがみつく。
「……好き……」
 小さな声が、告げた。
















総司もやっと自覚して、告白です。


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