翌朝、土方は総司を連れて家を出た。
 いつものように朝ご飯も食べさせ、身支度も彼の手で整えてやった。だが、その間、総司はずっと俯いていた。泣いているようだった。
 その事に気づいてしまったとたん、土方はたまらなくなった。


(……総司……)


 切ないほど、抱きしめてやりたいと思った。
 いつものように優しく甘えさせて。
 昔のように──あの、菓子をあげた頃のように、総司が喜んでくれるのなら、どんな事でも叶えてやりたかった。
 だが……、出来るはずがなかった。


「診察が終るまで、待っていて」


 昨夜、総司が彼に願った事だった。
 甘く激しい情事の後、土方の腕の中で、まだ息づかいがおさまらぬまま、そう懇願したのだ。
 それに、土方は何も答えられなかった。答えられるはずがなかった。


(待つことなど、できない)


 総司が晒しを取れば、この世界は終るのだ。
 夢は終わりを告げる。
 隼人が実は土方だった事を知ったなら、総司は嫌悪の悲鳴をあげるだろう。怒りに震え、彼を詰る総司の姿が目にうかぶようだった。
 考えただけで、指さきまで冷たくなるほど恐ろしかった。
 本当は、このままここに閉じこめておきたかった。
 二人きりの世界で、互いだけを求め愛しあってゆけたなら、どんなに幸せだろう。
 だが、それは叶えられぬ──叶えてはならない望みだった。
 夢はもうすぐ終るのだ。


 ぎゅっと手を握りしめる総司に、土方は何も返さなかった。
 綴ることさえしなかった。
 そのためか、医者の家への道すがら、総司も黙りこんだまま歩いた。
 雨は降っていなかったが、曇り空だった。雨が降る前兆なのか、木の葉の匂いが息づまりそうなほど濃い。
「……」
 総司は見えぬまま、頭をめぐらせた。
 ぎゅっと、土方の手を縋るように握りしめる。
 空気が変わったと思った時、その手をひいて歩いていた土方が足をとめた。
「着いた」
 掌に綴られた言葉に、総司は、はっと息を呑んだ。
「……ぁ」
 医者の家は、綺麗に刈られた生け垣に囲まれていた。中からざわめきが聞こえてくる。
 それを耳にしながら、土方はゆっくりと総司の手を離した。
 だが、総司は堪えきれず、彼の腕に縋りついてしまった。
「お願い……!」
 半ば泣き出しかけていた。
 むろん、いけないとわかっている。
 矜持の高い彼に、こんな縋るような真似、尚更嫌われるだけだと思った。だが、どうしても云わずにはいられなかった。
「嘘でもいいから! ここで待っていると云って……っ」
 昨夜、何度も懇願した言葉だった。
 だが、それに、土方が応じる事はなかった。
 いつものように優しく抱きしめてくれながら、それでも、彼が漂わせる雰囲気はひどく冷たく固いものだった。
 それは、まるで、総司の恋人だった隼人から、新撰組副長土方へ戻ろうとしているようだった。
 総司は泣き出したくなった。
 今までの日々が否定されたような、気がしたのだ。
 それとも、彼は違うのだろうか。
 自分のように、ずっと一緒にいたいと思ってくれていないのか。


 面倒な事をおえられると、思っている──?


 胸を灼く辛さに唇を噛んだ総司の手が、静かにとりあげられた。
 はっとして顔をあげると、掌に綴られた。
「嘘はつきたくない」
「……なら……!」
 総司はきっとした表情で、彼の方へ顔を向けた。いけないと思ったが、口走ってしまう。
「今までの嘘は、何だったの……!?」
 びくりと男の躯が震えたのがわかった。だが、それでも、言葉をつづけた。
 云わずにはいられなかった。
 もう我慢できなかったのだ。
「いっぱい嘘をついているでしょう? でも、私、それでもいいと思っていた。あなたが傍にいてくれるなら」
「……」
「だって、私……あなたが好きだから! 好きで好きでたまらないから、だから、どんな事でも許せ……」
「!」
 不意に、総司の躯が男の腕に抱きしめられた。背が撓るほど抱きしめられ、熱い口づけをあたえられる。
「っ…ぁ……っ」
 狂おしいほど激しい口づけだった。
 男の指が総司の髪をかき乱し、離さないとばかりに腰をかき抱き、深く口づけてくる。
 何度も角度をかえて口づけられるうち、総司の躯に力が入らなくなってしまった。がくんっと膝の力が抜けたとたん、男の腕が素早く抱きとめる。
 総司は土方のぬくもりに、吐息をもらした。男の広い胸もとに凭れかかる。
 その時だった。


「……すまない」


 一言だけ。
 低い声が、耳もとでそう囁いた。
 総司は息を呑んだ。思わず縋ろうとした瞬間、かるく突き放される。
「っ!?」
 よろけた総司は、慌てて生け垣に寄りかかった。だが、彼が身をひるがえす気配に、血の気がひく。
「お願い……待って……!」
 慌てて手をのばしたが、何も指さきにふれなかった。
 土方はもう踵を返している。
 その場から、立ち去ってゆくのがわかった。
 総司は必死になって追おうとした。だが、目が見えぬ身では、到底無理なことだ。追いつけるはずもなかった。
 呆気ないほどの別れだった。
「……ぁ」
 己の周囲から、彼の気配が全く消え失せてしまった。
 その事を知ったとたん、総司の世界は真っ暗闇に閉ざされた。呆然としたまま、傍の生け垣の支柱に縋りつく。
 これから光を取り戻すはずだった。目が見えるようになるはずだった。
 だが、違うのだ。
 目が見えずとも、今まで彼と共にあった日々は、どれほど光にあふれていた事か。
「……土方…さん……っ」
 掠れた声でその名を呼び、総司は両手を唇に押しあてた。嗚咽がもれる。


 もう、彼は戻ってこない。
 行ってしまったのだ。
 夢は……終ってしまったのだ。


 総司はその場に蹲ると、ぽろぽろと涙をこぼした。












 ……堪らなかった。
 苦しくて辛くて、息さえできなくなった。
 縋りついてくる総司が愛しくて、かわいくて、抱きしめたその細い躯を、いっそ死ぬまで離したくないと渇望した。
 だが、駄目なのだ。許されないのだ。
 どんなに総司が愛してくれても、それは、彼がつくりだした偽りの男。
 自分を抱いた男が土方だったと知れば、総司がどれほどの衝撃を受け、苦しむか。そんな事できるはずもなかった。
 だからこそ、身を切られるような思いで総司を残し、立ち去ったのだ。
 かなり離れてからふり返った土方は、その事を深く後悔した。見なければよかったと思った。
 総司は──泣いていた。
 人気のない小道で生け垣の傍に蹲り、子どものように泣いていた。
 それがいとけなくて可哀想で、あまりの辛さに胸が張り裂けそうになった。自分を恋しがっての事だと知っているなら、尚更のことだ。
 今すぐ駆け戻り、抱きしめてやりたかった。
 ずっと一緒にいると約束し、安堵させてやりたかった。
 だが、そんな事をしてどうなるのか。ほんの一時の夢と引き替えに、総司を地獄に叩き落としてしまうのだ。
「……っ」
 奥歯を食いしばり、土方は背を向けた。後ろ髪ひかれる思いのまま、懸命に前だけを見据えて歩みつづける。
 己が引き起こした事とはいえ、帰る道すがら何度も悔やんだ。愚かだと罵った。
 誰のためにもならぬ事だとわかっていたのに、自分の恋情に我を忘れ、その結果、誰よりも愛しい大切な総司を苦しめてしまった。
 どこまで、自分は愚かになれるのか。
「……許してくれ、総司」
 男の唇から、懺悔の言葉がもれた。
 それは、切なさと愛と苦しみがない混ざった、獣の呻きのような声だった。












 時が過ぎた。
 二人があの家での日々を終えてから数日後、初雪が降り、冬が訪れた。
 まるで、夢の終わりを告げるように。
 医者から直接、屯所へ戻ってきた総司は、全快した事を近藤に報告した。
 総司の目は、元通り綺麗に見えるようになっていたのだ。
 むろん、その事を近藤は喜びながら、どこか探るような表情だった。その理由に総司は半ば気づいていたが、今更どうしようもない事と口を閉ざしていた。
 土方は望んでいないのだ、明らかにされる事を。
 あれは、彼一流の気まぐれだったのだろう。
 なら、黙っている他なかった。
 それに、総司もあの日々がまるで夢だったような気がしていた。本当にあった事なのだろうかと、自問してしまう程だった。
 何故なら、土方の態度は今までと全く変わらなかったのだ。
 廊下で逢っても、一瞥をくれる事もなく歩み去ってゆく。
 思わず見上げた端正な横顔は、冷徹な副長そのものだった。総司の存在など、彼の眼中にないのだと、痛いほど思い知らされた。


(あの人は、本当に土方さんだったの……?)


 あまりの冷たさに、そんな事まで考えた。
 だが、すぐ、ふるりと首をふった。
 間違えるはずがないのだ。
 ずっとずっと、恋してきた男だった。
 初恋も、大人になってからの恋も、全部彼相手なのだ。この世でただ一人、彼しか見てこなかった。
 なのに、それほどまでに愛している相手がわからなかったとなれば、自分で自分が情けなくなる。
「……でも」
 総司は柱に凭れかかり、そっと指さきで唇にふれた。
 口づけも優しい抱擁も、あの睦み合った一時さえも、今となってはまるで夢のようだった。
 儚くて脆くて、本当に硝子玉みたいだった日々。
 夢であったのなら、夢のまま終らせた方がいい。
 そう──思いきるべきなのだろうか。
「……そう、だよね」
 総司は俯き、ぎゅっと両手を握りしめた。


 忘れた方がいい。
 もう思い出さない方がいい。
 でなければ、何事もなかったように振る舞う土方さんの前で、もっともっと惨めな気持ちになってしまう。
 あの人はもう、あんな気まぐれの事など忘れてしまっているのだから。
 覚えている価値もないと、云いたげに……。


 震える唇を噛みしめた総司の白い頬を、涙がこぼれ落ちていった。












 冬の空の下、総司は一番隊隊長として戦いつづけていた。
 それは、すべてを吹っ切るような戦いぶりだった。
 他の者は皆、そんな総司を賞賛したが、斉藤だけは別だった。眉を顰め、云ったのだ。
「……無理しすぎだ」
「え?」
 意味がわからず、目を見開いた総司に、斉藤はゆっくりとした口調でつづけた。
 鳶色の瞳が、何もかもわかっているように、総司を見つめる。
「最近のおまえ、頑張りすぎているよ。無理しすぎだ」
「無理しすぎって、私がですか?」
 不思議そうに聞き返し、総司は小さく笑った。
「そんなふうに云われたの、初めてです」
「……」
「皆、私が頑張っていると褒めてくれましたよ」
「あの人も?」
 不意の言葉に、総司は目を瞬いた。
「え……?」
「あの人も、なのか? 土方さんもそう云ったのか」
「……っ」
 とたん、総司は声を呑んでしまった。小さな桜色の唇が震えるのを見て、斉藤は思わず罪悪感を覚える。
 慌てて頭を下げた。
「ごめん……余計な事を云った」
「い、いえ。そんな……でも、どうして」
「何が」
「どうして……その、土方さんの…名を出したのですか」
「……」
 おずおずと問いかけてきた総司に、斉藤は僅かに苦笑した。
 どんな事でもいい、どんな小さな事でもいいから、彼のことを話したいという表情だった。
 片思いとはいえ、こんな一途な瞳を見せられれば、もの悲しくなってしまう。
「さぁ」
 斉藤は肩をすくめた。
「どうしてだろうな」
「斉藤さん」
「何にしろ、無理をするなと云うことさ。どんな事でも、無理はよくない」
 そう告げると、斉藤は背を向け、歩み去っていってしまった。
 総司は道場の中に立ちつくしたまま、友人の後ろ姿を見送った。


 何もかも見透かされてしまっている気がした。
 あの家も訪れてきたのだ。
 本当は、あの時、彼が中にいる事を知っていたのではないだろうか。
 つい先程まで、その腕に抱かれていた自分を……。


 思わず、ぎゅっと手を握りしめた。


 いけない。
 思い出しても辛いだけ。
 もう忘れなければ、いけない事なのだから。


 そう、自分に云い聞かせた時だった。
 不意に、傍らから声がかけられた。
「──総司」
 驚いてふり返ると、道場の入り口には近藤が立っていた。穏やかな笑みをうかべている。
 総司は慌てて駆け寄った。
「近藤先生」
「稽古中だったか?」
「いえ、もう終るつもりでしたから」
「ならば、これから少しつきあってくれんか」
「はい」
 こくりと頷いた総司に、近藤はさり気ない口調で云った。
「着替えの後、急ぎ玄関へ向って欲しいのだ。そこに、歳がいる」
「え……っ」
 総司は大きく息を呑んだ。どきりと胸の鼓動が跳ね上がる。
「ひ、土方さんが?」
「あぁ。今日、人を訪れる予定なのだが、その護衛を頼みたいのだよ。歳は一人でいいと云うが、やはり心配でな」
「あ、あの……」
 思わず断りかけた総司に、近藤はおっかぶせるように云った。
「悪いが、急いでいる。ほら、早く着替えてきなさい」
 大きな掌で背を押されれば、もうどうしようもない。
 昔から、素直な総司は、師である近藤の言葉には一切逆らえないのだ。
「は、はい」
 慌てて返事し、総司は弾かれたように走り出した。
「……」
 遠ざかる、その細い背と揺れる黒髪を見送り、近藤は小さく苦笑した。
 そして、やれやれとばかりに、肩を回しながら呟いたのだった。
「これでうまく収まれば、いいのだがな……」