最悪だった。
むろん、取引云々ではない。
この道行きと云ってもよい状態が、最悪なのだ。
夕暮れの京の町を歩きながら、土方は考えた。
黙り込んだままついてくる総司を思うと、知らず知らずのうちに眉間に皺が刻まれてしまう。
屯所の玄関先に、総司が突然現われただけでも驚きだったのに、「近藤先生に護衛を頼まれました」と云われた時には、親友のあまりのお節介ぶりに「いらん!」と怒鳴りつけそうになった。
だが、不安げな表情でこちらを見ている総司に気づいたとたん、そんな気持ちはたちまち胡散してしまったのだ。
まるで、あの時の総司のようだった。
目隠しをした総司を連れ、東山の家へ導いた時のようだ。
あの時も、こんな不安げな表情だった。愛おしさが胸にこみあげるようだった。
だからこそ、拒絶する気も失せてしまったのだ。
だが、今、土方はそれを深く後悔していた。
「……」
思わず嘆息したとたん、総司がびくりと身を竦ませたのがわかる。それに、ますます苛立ちがつのった。
あの日々以降、総司は土方の前に出ると、酷く怯えた仕草を見せるようになった。視線をそらし、いつも彼を避けている。
挙げ句の果てには、彼が視界の端をかすめただけで、さっと顔色をかえて逃げ出す始末だった。
当然のことながら、愛しい者からのその仕打ちは、土方を酷く傷つけた。
そんなにも嫌悪されているのかと、苦しさで息さえできなくなった。隼人として振る舞っていた時は、あんなにも素直で可愛い笑顔を見せてくれたのにと思えば、尚更の事だ。
一度味わってしまった蜜は、あまりに甘美だった。
それがもう二度と手に入らないと思い知らされているからこそ、辛くて堪らない。
人目がなければ、叫んでしまいそうだった。
欲しいのだ。
あの若者だけが、欲しくてたまらない。
総司……!
夜、その想いはより募った。
総司を腕に抱いた甘やかな夜を、独り寝につい思い出してしまうのだ。彼の胸もとに身をすり寄せ、愛らしく甘えていた総司を思うたび、息がとまりそうになった。
欲しくて、辛くて、苦しくて。
気が狂ってしまいそうだった。
だが、そんな彼のもがき苦しむ様を知る由もない総司は、ひたすら土方を避けつづけ、挙げ句、こんなふうにして突然、姿を現したのだ。
男の苦しみを、より増すためかのように。
しかし、すぐ傍に現われても、ふれる事はできない。
共にいても、息づかいさえ感じられる程すぐ傍にいても、その手を握りしめる事さえできぬのだ。
まるで、拷問だった。
何度も抱いた。何度も抱きしめたその細い躯に、ふれる事さえ許されぬ。
そんな事をすれば、たちまち総司から激しい拒絶を受けるに決まっていた。
土方は傍らを歩く総司を、一瞥した。
こうして同行していても、相変わらず彼を全身で拒絶していた。
土方も出来るだけ、優しく接しようと思ったのだ。これ以上、嫌われたくないという思いが強かった。
だが、そんな彼の切ない願いさえ否定するように、総司は全く応えなかった。ただ、怯えた表情で俯いているのだ。
震える長い睫毛、己を見る時のどこか潤んだような瞳。
ぎゅっと噛みしめられた唇。
何もかもが同じであるはずなのに、何もかもが違っていた。
そこには、あたたかさも、優しさも。
心許した笑顔もなくて───
(夢は終ったのだ。いつまでも未練がましいのは、俺だけか)
胸を灼くほろ苦さに、土方は堪えきれず視線をそらした。
それに、総司がますます俯いてしまったのがわかる。
だが、どうする事もできぬまま、目的を果たし、二人は帰路についたのだ。
「……」
何度めかのため息をついた。
その時、だった。
突然、空が暗く翳ったかと思うと、ざぁーっと音をたてて物凄い雨が地面に叩きつけられてきた。
一瞬にして、前が霞んでしまう程の豪雨だ。
「!?」
さすがの土方も呆気にとられ、その場に立ちつくした。だが、すぐ、はっと我に返った。
総司だ。
病もちの総司を、こんな冷たい冬の雨に濡らせてはいけない。一刻も早く、どこかで雨宿りさせなければならなかった。
「来いッ!」
あれこれ考えている余裕はなかった。気がつけば、総司の腕を引っ掴み、抱えるようにして走り出していた。
激しく雨が降りしきる中、二人は懸命に走った。
そして、駆け込んだ先が、例の東山の家だったのだ。
どうしようもなかった。ここが一番近くであった以上、他に選択肢はない。
「……っ」
さすがに家へ入る時、土方は一瞬躊躇ったが、大丈夫だろうと判断した。
総司は目が見えていなかったのだし、万一追究されても、近藤に頼まれて貸したと云えばいい。
そう自分を納得させ、土方は戸を開けた。総司を中に入れる。
物珍しげに周囲を見回す総司を感じながら、土方は框をあがった。中に入れば、あの頃過したままなので、箪笥の中に手拭いなどが仕舞ってあるのだ。
それを取り出し、総司の方へ放り投げた。
「早く拭け」
ぶっきらぼうな調子で云った土方に、総司は一瞬、悲しげな表情になった。だが、結局はおとなしく受け取り、髪や着物を拭いはじめる。
雨が降り出してすぐ対応したためか、幸い、二人ともそれ程濡れてはいなかった。
その事に安堵しつつ外を見やるが、当分の間、やみそうにない。
「しばらくここで休んでいこう」
そう云った土方に、総司はこくりと頷いた。躊躇いがちに、部屋の中へあがってくる。
畳の上に坐った総司を見下ろしつつ、土方は自分も手拭いでざっと雫を拭った。
髪を、肩の雫をはらうように、拭った。だが、その最中、痛いほど総司の視線を感じた。
相手にするべきではないと、しばらくは無視していたが、とうとう堪えきれずふり返った。
「何だ、何か云いたい事があるのか」
不機嫌そうに眉を顰める土方を、総司は大きな瞳でじっと見つめた。
それから、きゅっと唇を噛んでから、ゆっくりと問いかけた。
「ここは……土方さんの家ですか?」
「あぁ」
「もしかして、休息所?」
「そうだ」
素っ気ない口調で答える土方に、総司は一瞬黙り込んだ。だが、すぐ思いきったように云った。
「でも、お妾さんがいません」
「まだ段取りをつけている最中だ」
「ふうん」
総司は目を細め、何かを考えこむように、桜色の唇にふれた。
「なのに、ここ……生活感ありますね。手拭いとか、ちゃんと出てくるし」
「俺がよく寄るからな」
「そうですか? 手拭いが仕舞ってある場所なら、私も知っていますけど」
「……」
一瞬、何を云われたかわからなかった。
だが、すぐ、それが引っかけだと気づいた。手拭いを握ったまま、土方は平然とした様子で総司を見返した。
薄く笑いながら、答える。
「そうか、おまえはここで暮らした事があるからな」
「認めるのですか」
「おまえがそう云うのなら、そうだろう」
「……」
「近藤さんに頼まれて、しばらく貸したのさ」
土方は、出来るだけゆっくりとした口調で云った。
こういう時は、目をそらした方が負けだとわかっている。だからこそ、黒い瞳でまっすぐ総司を見据えたまま、言葉をつづけた。
「おまえの療養のためにな。女はまだ手に入れていなかったし、ここは静かだから都合がいいだろうと云われたんだ。それで、貸した」
「……」
「それがどうかしたのか」
静かな声で聞き返した土方を、総司は見つめた。
綺麗に澄んだ瞳で見つめたまま、しばらくの間、押し黙っていた。だが、やがて、微かに桜色の唇を開いた。
そして、呼んだ。
「……隼人さん」
一瞬、声が出なかった。
頭の中がまっ白になり、ただ呆然と総司を見下ろしてしまった。
するりと手拭いが畳へ滑り落ちるのを感じたが、拾う事さえできなかった。
その視線の先で、総司が嬉しそうに微笑うのを見た瞬間、はっと我に返った。だが、もう遅かった。
「土方さん」
彼の名を呼び直して、総司はゆっくりと立ち上がった。土方の前までくると、その手をとり、ぎゅっと握りしめる。
大きな瞳で、彼を覗き込んだ。
「それとも……隼人さんと呼んだ方がいい?」
「……っ、総司、おまえ……」
「我慢しようと思っていました」
総司は微かに吐息をもらした。それがどこか色っぽい。
「ずっと、気づかないふりを続けようって思っていました。でも……」
そう云って長い睫毛を伏せる総司を見下ろしているうちに、土方の頭がようやく回りはじめた。
我慢しようと思っていた?
気づかいないふりを続けようと思っていた、だと?
それは、つまりつまりつまり……
「私、初めから、土方さんだとわかっていました」
あっけんからんとした表情で、あっさり云いきった総司に、土方は絶句してしまった。
何か云いたいのだが、何と云ってよいのか皆目見当もつかない。
そんな彼の前で、総司は、はぁっとため息をついた。
「だって、土方さん、わかり易すぎるんですもの」
「……」
「東山に休息所をもたれたって話、知っていましたし。挙げ句に、隼人って名前。土方家の当主の名前じゃないですか、これで違うとは誰も思いませんよ」
「……いや、しかし」
「それにね」
彼の言葉を遮り、総司は土方をまっすぐ見つめた。一瞬、唇をきつく引き結んでから、真剣な表情で云った。
「あんな事、土方さん以外の人に許すはずないでしょう?」
「……っ、総司」
土方の目が見開かれた。それに、総司は告げた。
「ずっとずっと好きでした。愛していました」
「えっ?」
思わず聞き返してしまった。あまりにもさらりと云われたため、一瞬意味がわからなかったのだ。
それに、総司は土方の手を握りしめた。それから、はっきりとくり返す。
「あなたが好き、と云ったんです」
「……嘘だろ。おまえ、俺を嫌っているはずじゃ……」
「嫌ってなんかいません」
「けど、おまえ、紅杏に片恋しているんだろ?」
まだ信じられない土方は、どこか拗ねたような口調でつづけた。
「俺があの文を受け取った時、すげぇ怒っていたじゃねぇか。恋敵の俺のこと、嫌っていたじゃねぇか」
「だーかーら!」
総司は地団駄踏まんばかりの様子で、叫んだ。
「嫌ってなんかいませんってば! その逆で、だい好きなんです!」
「……」
「あの時だって、怒ったの、やきもち妬いたからだったんだもの。あなたが女の人にもてまくったり、囲まれたりしているの、ずっとずっと昔から嫌で嫌でたまらなくて……」
それらの事を思いだしたのか、総司はきゅっと唇を噛んだ。
「土方さんが、ずっと好きだったの。あなたが好きで好きでたまらなくて、もう頭がおかしくなりそうなぐらい、だい好きだったの」
土方は呆然としたまま、総司を見下ろしていた。あまりの急展開に、まともな返事すらできない状態だ。
そんな彼の前で、総司は言葉をつづけた。
「好きだから、土方さんが私を屯所から連れ出してくれた時も、おとなしくついてきたんだもの。あなたが口づけた時も、抱いてくれた時も、夢みたいで嬉しくてたまらなかったのに、なのに……っ」
いつのまにか、総司の声が涙まじりになっていた。
はっと我に返って覗き込めば、目に涙があふれ、今にもこぼれそうだ。桜色の唇がわななき、潤んだ瞳が土方だけを見つめていた。
「あんなふうに、私を捨てて。知らん顔で置いてきぼりにして……」
「……」
「嘘ばかりついて、私を騙して誤魔化して、土方さんなんかもう……っ」
「総司!」
思わず、その躯を抱きしめた。両腕で力いっぱい、息もとまるほど抱きしめてしまう。
なんて愚かな男だったのだろう。
ずっと総司は知っていたのに。
彼だからこそ、何もかも許してくれていたのに。
「すまない。本当に……すまない」
細い躯を抱きしめ、謝りつづける土方の腕の中、総司は涙をぽろぽろこぼした。手が男の背にまわされ、ぎゅっとしがみつく。
それが愛しくてかわいくて、土方は柔らかな髪に頬をすり寄せた。
「俺だと知れたら、憎まれると思っていた。騙すように抱いた俺を、決して許してくれないだろうと……すまない、総司」
「土方さん……私こそ、ごめんなさい」
総司は小さな声で謝った。
「あなたを避けて、ごめんなさい。女の人と沢山遊んでいるあなたを見て、勝手にやきもち焼いて。あなたにとって、私なんか、どうでもいいと、物の数にも入ってないんだと思っていたから……それが辛くて悲しくて」
「そんな事あるはずがねぇだろ!」
土方は思わず声を荒げた。
「俺はおまえが可愛いんだ。大切なんだ。そのおまえを、俺がどうでもいいなんて思うはずがねぇ」
「でも……っ」
総司が涙声のまま訴えた。
「土方さん、この家での日々の後も、私のこと見向きもしなかったし。だから、私、気まぐれだったと……」
「俺は、俺は……怖かったんだ。全部ばれたら、おまえに憎まれると思っていた。おまえに泣かれるのが怖かった。だが、それでも、あの時、おまえが欲しくて堪らなくて……我慢できなくて……」
「それは……」
総司は潤んだ瞳で彼を見上げた。そっと、小さな唇で問いかける。
「私を……好いてくれている、と云うこと?」
「あぁ、誰よりも」
もう躊躇わなかった。何も偽ることはないのだ。
彼は、彼自身として、総司に想いを告げられる。
こんな幸せなことはなかった。
土方はかるく身をかがめると、総司と瞳をあわせた。
そして、心からの言葉で、告げた。
「総司、おまえが好きだ。誰よりも愛してる」
「土方…さん……っ」
「あの時、云った言葉に嘘はない。おまえは大切な恋人だ。一番大切な……俺の総司だ」
「……っ」
たちまち、総司の頬が紅潮した。耳朶まで桜色に染め上げ、恥ずかしそうに土方の胸もとへ顔をうずめてくる。
そんな可愛い恋人の仕草に、土方は躯中が熱くなるのを覚えた。思わず髪を指さきでかき乱し、その頬に、瞼に、唇に、熱い口づけの雨を降らせてしまう。
総司も素直にそれを受け、甘えるように細い両腕で彼の首をかき抱いた。
抱きしめた男の腕の中、愛らしい恋人が囁きかけた。
「土方さん、だい好き……」
ずっとずっと、云えなかった告白。
硝子玉のように儚く脆い、夢ではなく。
これからも、いつまでも続く。
二人の甘く優しい日々を、夢見て……
「……帰ってこんな」
「はぁ、帰ってきませんね」
夜も更けた、屯所の一室。
その名も京中に響き渡った新撰組局長の部屋で、近藤と斉藤は月を肴に酒をくみかわしていた。先程まで降っていた雨はあがり、綺麗な夜空が広がっている。
斉藤が月を見上げ、ため息をつく。
「わかっていましたけどね、こうなる事は」
「まぁ、わしが仕組めば、ざっとこんなものだ」
「自慢げに云わないで下さいよ。こっちは失恋確実なのですから」
「総司の幸せのためならと、おまえも云っていたではないか」
「まぁ、そうですけど」
肩をすくめるようにして、斉藤は苦笑した。
「あんな悲しそうな総司を見たら、いくら何でも……可哀想でたまらなかったんですよ。早くどうにかすればいいのに、土方さんは遠くから何か云いたげに眺めているだけだし、だんだんいらいらしてきましてね」
「まぁ、確かに、あれには苛ついた」
近藤は、うむと頷いた。
「歳も遊びでなく本気の恋となると、からきし意気地がないからなぁ。だからこそ、おれが一計を案じてやったのだが」
「今夜、土方さんと総司を同行させた事ですか。まぁ、帰ってこないから……成功なのでしょうね」
「例の家で、今頃、二人仲良くしているだろう」
そう楽しげに云った近藤を、斉藤は不思議そうに眺めた。ちょっと考えてから、訊ねる。
「しかし、近藤さん。総司が倒れれば、土方さんがあの休息所へ連れていくと、初めから予測していたのですか?」
「まさか」
「じゃあ、棚からぼた餅だった訳ですね」
「家へ連れていったのはな」
「は?」
意味がわからぬという顔の斉藤の前で、近藤はにんまり笑った。ちょっと周囲を見回し、「内緒だぞ」と前置きしてから、話す。
「総司の目の怪我だがな」
「はい」
「実は、あれ、嘘なのだ」
「は?」
斉藤は目を丸くした。呆然と呟く。
「う…そ……?」
「まぁ、確かに一時は目が開ける事もできず大変だったが、入ったのは火の粉ではない、煙だ。半日もすれば治るものだった。それをおれの一案で、七日晒しをしたままという事にしたのだ」
「そ、それ……総司は」
「むろん、知らん。歳も当然、なーんにも知らん」
「……」
「医者にも云い含めておいたからな、二人とも何にも気づいておらんだろう」
「えぇっ、医者まで抱き込んで?」
「せっかくの策だ。水漏れがあってはならんからな」
はっはっはっと楽しそうに笑う近藤に、斉藤は深くため息をついた。
まさか、あの二人も、この一見のほほんとした、策など到底弄しそうもない近藤の手の上でコロコロ転がされていたとは、思ってもいないだろう。
しかし、それが事実なのだ。
人は見かけによらないものである。
「恐れ入りました」
そう云って頭を下げた斉藤の杯に、近藤は苦笑をうかべつつ、酒を注いでくれた。
なみなみと酒を注がれた杯を手にし、斉藤は夜空の月を仰ぎみる。
硝子玉のような美しい月が、ぽっかりと紺色の空にうかんでいた。
それが、泣けてきそうなほど優しい。
(幸せになれよ、総司)
斉藤はそう心に呟くと、ぐいっと杯をあおったのだった。
[あとがき]
「硝子玉のゆめ」は、これで完結です。
とても楽しく書く事ができました。ラストまでおつきあい下さり、ありがとうございました♪
