「……斉藤さん」
 総司は小さな声で、友人の名を呼んだ。
 白っぽい朝の光がみちた光景の中、斉藤は申し訳なさそうだった。柔らかな口調で、話しかけてくる。
「悪い、寝ていた処を起したみたいだな」
「いえ……」
 思わず口ごもってしまった。
 どうしても、後ろが気になるのだ。
 戸を閉じる訳にゆかず開いたままだが、襖が陰となり、斉藤の位置からは土方の姿は見えないはずだった。だが、中へ入られれば、お終いだ。
 もし、そうなれば……と、不安で胸のあたりが苦しくなった。
「朝早くから仕事で、こっちへ来たんだ」
 斉藤は優しく微笑んだ。
「ちょっと寄ったみただけど、元気そうで安心したよ」
「大丈夫です…よ、私は」
「もうすぐ隊へも戻れるのだろう? 皆、待っている」
「……」
 総司は微かに息を呑んだ。
 突然、現が押し寄せてきた気がしたのだ。だが、それをふり払うように首をふり、総司は斉藤にむかって頭を下げた。
「わざわざ来てくれて、ありがとう」
「いや、無理はするなよ」
「わかってますよ」
 くすっと笑った総司に、斉藤も笑った。髪をくしゃりとかきあげてから、ふと、どこか切ないような表情になる。
「じゃあ、またな」
 踵を返し、斉藤は歩み去っていった。
 その気配を追いつつも、総司は体を固くしていた。息をつめてしまう。
 中へ入り、戸を閉めながら思った。


(土方さんは、どう思っただろう……?)


 先日の二の舞になるのだけは、嫌だった。
 怒っていなければ、いいのだけれど……。
 総司は手探りしつつ、土方がいる部屋へと戻っていった。












 土方は、ゆっくりと身を起した。
 そうして褥に坐ったまま片膝を抱えこみ、表の様子を伺う。
 襖の陰になって見えないとわかっていても、つい息をひそめてしまう己に、思わず苦笑した。


(まるで……間男だな)


 九つも年下の若者に溺れこみ、連日通いつめる男。
 それは確かな事実なのだが、秘めなければならないという定めが、どこか後ろめたいものを感じさせていた。
 何も疚しい事がなければ、斉藤の前にでも堂々と出てゆけばいいのだ。
 斉藤が総司に片恋しているとわかっているなら尚のこと、彼の前で、総司は自分のものだと云ってやればよかった。
 だが、実際はそんな事できるはずもなく、二人の会話を聞いている。
 口惜しいとは思わなかった。ただ、己の罪深さに、つい目を伏せてしまう。


 白日の下に晒すことのできない恋。
 愛する者を欺きつづけている、恋。


 先が見えないだけに、こうして何度も抱いてしまえば、より罪深くなる、深みに嵌ってしまう。
 そうわかっていながら、総司に溺れ込んでゆく自分が、信じられない程だった。
 こんなにも愛していたと、総司をここへ連れこんでから、改めて自覚したことだ。
 もはや狂気じみたと云ってもよい執着に、土方はきつく唇を噛みしめた。


 こんなに愛している者を、今更、手放せるのだろうか──?





「……隼人さん」
 気がつくと、総司が傍に戻ってきていた。
 その後ろを伺ってみれば、固く戸は閉じられてある。斉藤は立ち去ったのだろう。
「ごめんなさい。友人が来て……」
 総司の言葉に、見えぬとわかっていながら首をふった。
 斉藤の事を総司がどんなふうに思っているか、傍から見ていたのでよく知っている。
 友人なのだ。
 年頃も同じであり、ましてや、剣術でも総司と並び称されるほどの腕前。
 総司にとって、隊の中で唯一と云ってもよいぐらい、気のおけない友なのだろう。
 それらの事を全部わかっていながら、先日、嫉妬してしまった己の執着ぶりに、苦笑してしまった。
「帰る」
 土方が掌につづると、総司の顔がさっと強ばった。きゅっと桜色の唇が噛みしめられる。
「怒った……から?」
 口ごもってしまった総司に、すぐさま言葉をつづけた。誤解だけはさせたくない。
「違う。仕事がある」
「あ、そ…そうですよね。昨日ずっと付き合わせちゃったんだもの。当然ですよね」
 総司は自分に云いきかせるように、こくこくと何度も頷いた。
 その仕草が可愛い。
 だが、それでも淋しいらしく、傍にぺたんと坐り込み、土方の肩あたりに頭を押しつけてきた。
 まるで「行かないで」と云うように、両手で彼の腕をしっかりと掴んでいる。
 いじらしい仕草に、思わず笑みがこぼれた。
「……」
 そっと引寄せてやり、髪に、頬に、接吻の雨を降らせた。
 桜色の唇にも口づけてやれば、甘い吐息がもれ、その細い躯が従順に男の腕へ凭れかかってくる。
 細い指さきが、おずおずと彼の襟元にはわされた。襟元からのぞく鎖骨を、なぞるように指さきでふれる。
「……っ」
 幼いゆえに艶のある誘いに、思わずそのまま褥へ押し倒しそうになった。だが、ぎりぎりの処で堪える。
 幾ら何でも、二日続けてはまずかった。屯所に戻れば、仕事が山積みになっているのだ。
 土方は秘かに嘆息しつつ、総司の手に綴った。
「今日は、訪れが遅くなる」
「わかっています」
 総司はこくりと頷いた。名残惜しげに彼の胸もとへ、すりっと頬を擦りよせながら、小さな声で淋しそうに云った。
「お仕事たくさんたまっているのでしょう? 仕方ありませんよね」
「……」
「でも、今夜も来てくれますか?」
「いやか」
「まさか!」
 総司は不意に両手をのばし、土方の首をかき抱いた。膝だちになって抱きつき、耳もとで囁きかける。
「我侭だってわかってるけど……来て下さい」
 耳もとでふれた声は、甘く掠れて。
 たまらなく愛らしくて。
 屯所に戻る道すがらも、土方の耳奥から消えることはなかった。












 屯所に戻った土方は、廊下でいきなり斉藤と出くわした。
 何しろ、先程、愛しい総司と甘い一時を過している処を、思いっきり邪魔してくれた相手だ。
 顔を見るだけでも腹ただしいので、声をかける気など全くなかった。
 だが、斉藤の方は違ったらしい。
 さっさと通り過ぎようとした土方に、斉藤が呼びかけた。
「……副長」
 そう呼んでから、いやと首をふった。
「土方さん」
 それに、土方は鋭い視線を返した。
「何だ」
「総司が今どこにいるか、知っていますか」
「……」
 思わず目を細めた。
 あの家が彼の休息所だと知っていて、探りを入れているのか。
 それとも、本当に知らないのか。
 いずれにせよ、警戒すべき相手だった。
 今度の絡繰りを斉藤に知られれば、総司にも全部伝わってしまうだろう。
「知らん」
 そっけない口調で云い捨てた土方を、斉藤は鳶色の瞳でじっと見据えた。固い表情になっている。
 しばらく黙ってから、静かに云った。
「東山、ですよ。オレも局長から聞いて、訪れたのですが」
「……」
「土方さんは見舞いに行かないのですか」
「行く訳ねぇだろう」
 土方は口角をあげ、嘲るような笑みをうかべた。切れの長い目が斉藤を一瞥する。
「俺なんかが見舞いに行っても、あいつは嫌がるだけだ」
「そうですね」
 斉藤はあっさりと頷いた。
 不意に笑みをうかべると、挑戦的な口調で、云い捨てた。
「総司は、あなたを嫌っている。喜ぶはずがないですよね」
「……」
「呼び止めて申し訳ありませんでした。失礼します、副長」
 丁寧に頭を下げると、斉藤は土方の横をすり抜けるようにして、歩み去っていった。
 その背を見送りつつ、土方は拳を固める。


(嫌っている、か)


 わかっていた事ながら、改めて人に云われると胸に応えた。
 斉藤の言葉は、ぐさりと突き刺さったのだ。
 むろん、土方も、総司に嫌われたいなど、一度として思った事はなかった。むしろ、好かれたかった。
 愛しあう事が出来ずとも、せめて昔のように、兄代りとして傍にありたいと何度も願ったのだ。
 だが、それは叶えられなかった。
 総司は土方という男自体を軽蔑し、嫌っているようだった。京にのぼってからは、私的な場では、ほとんと言葉も交わしていない。
 いつしか、それが当然のようになってしまっていた。
 自分に冷たい態度をとる総司を見るたび、おかしいほど気が滅入った。嫌いだと云われた時には、正直、地獄へ突き落とされた。
 だが、どうする事もできなかった。
 いつも云い寄られる立場だった土方は、誰かを口説いた事など一度もなかったのだ。そのため、頑なに自分を拒絶する総司を前にして、どうすればいいのかと途方にくれた。
 何をすれば、何を云えば、総司の心を取り戻せるのか全くわからなかったのだ。
 むろん、今もとり戻せてはいない。それどころか、更にややこしい状態になっていた。


 総司を騙しているという罪悪感は、常に彼を苛んでいる。その一方で、狂ったように執着し、あの九つ年下の若者だけを溺愛している事も、自覚していた。
 手放す自信など、何処にもないのに。
 ましてや、すべてを明かす勇気もない。


(八方塞がりだな)


 土方は傍らの柱に背を凭せかけると、深くため息をついた。
 その姿を、遠くから斉藤が見据えていた事に、気づかぬまま。












 その日、土方の訪れは言葉どおり遅かった。
 月は紺色の空にとうにのぼってしまっていた。柔らかな月明かりが彼の行く手を照らしだす。
 そんな夜道を辿り、土方は総司がいる家を訪れた。
「……あ」
 戸を開いたとたん、いつかのように抱きしめられ、総司は思わず声をあげた。だが、すぐ、その力強い腕に身をまかせる。
 ふわりと浮遊感が躯をおそい、気が付けば土方の腕に抱きあげられていた。
 そのまま框まではこばれ、そっと抱き下ろされた後も、ぬくもりが名残惜しくて彼の胸もとに身を擦りよせる。
 くすっと土方が笑った気配がした。掌につづられる。
「かわいい」
「だって……」
 総司はきゅっと唇を噛んでから、答えた。
「ずっと待っていたから……もう来てくれないのかと思って、不安で……」
「遅くなってすまない」
「ううん、ごめんなさい。私の方こそ我侭ですよね……ちゃんと断ってくれていたのに」
「……」
「お仕事、大変なのでしょう? なのに、いつも来てくれて……ありがとうございます」
 そう告げる総司が健気でいじらしく、土方は堪らず抱きしめてしまった。それに、総司がちょっと慌てたようにつづけた。
「でも、本当に無理はしないで下さいね。あなたの方が倒れたら、それこそ申し訳ないし……」
「大丈夫」
「そう云ってくれるのはわかっているけど、でも」
 まだ云いつのりそうな総司の唇を、接吻でふさいだ。それに、びくんっと細い肩が震える。
 啄むような口づけを与えてから、土方はふと視線を部屋の奥へやった。
 そこには、冷め切ってしまった食事が並んでいる。むろん、布巾がかけられてあるが、それでも出来たてとは到底云い難いだろう。
「夕食、まだなのか」
「えぇ……ごめんなさい。でも、できたら二人でと思ったから」
「嬉しいよ、ありがとう」
 彼の言葉に、総司はぱっと頬を赤らめた。羞じらいつつも、こくりと頷く。
 二人は部屋にあがると、さっそく食事を始めた。
 確かに冷めてしまってはいたが、それでも、おいしかった。優しい味付けが、疲れた体に心地よい。
 総司はいつものように土方に食べさせてもらいながら、幸せを感じていた。
 だい好きな彼とこうして夜を共にし、食事をさせてもらい、優しく甘やかせてもらっている今が、本当に夢のようだ。


(どうか、このまま醒めないで)


 叶わぬ事と知りつつも、総司は思わずそう願った。
 そして、それは確かに叶わぬ願いだったのだ。
 食事の後、土方は総司の躯を膝上にそっと抱きあげた。また、柔らかな口づけをくれる。
 ひとしきり甘い接吻をあたえてから、掌につづられた。
「明日、付きそう」
 初めのうち、総司は意味がわからなかった。きょとんとした顔で、土方の方に小首をかしげてみせる。
「付きそうって……何にですか」
 問いかけに、しばらくの間、答えは返らなかった。重苦しい沈黙が落ちる。
 やがて、ゆっくりと彼の指が綴った。
「医者へ行く日だ」
「あ……」
 息を呑んだ。


 そうだ。そうだったのだ。
 この晒しを外すのは、明日だった。光を取り戻せる日なのだ。
 そして。
 幸せな夢が終ってしまう日……


「……い、や」
 総司は、土方の腕に思わずしがみついていた。
 子どものように首をふり、云いつのる。
「行きたくない。医者になど行きたくありません」
 それに、土方は困惑したようだった。そっと、大きな掌が背を撫でてくれる。
「大丈夫だ、心配はない」
「……だって……っ」
「目は見えるようになる」
 その言葉に、総司はきつく唇を噛みしめた。


 土方は誤解しているのだ。
 総司が、失明の不安を訴えていると思っている。
 だが、それは違った。
 総司が何よりも恐れているのは、彼を失う事だった。
 何も知らぬ頃なら良かった。だが、こうして幸せな夢を見せられた後では、冷たい現にもどるのが怖い。
 この目に映る世界は、どんなにか冷たく凍えていることだろう。
 そして、その世界に、彼はいないのだ。
 少なくとも、総司が心から愛し、求めた彼はいない……。


「明日、一緒に行って……くれるのですか」
 小さな声で問いかけた総司に、肯と答えるように土方は手を握りしめた。指さきを深く絡めてくる。
 その感触に、体中が火照った。彼のしなやかな指に、身も心も熱くなって、気が狂いそうになる。
 総司は不意に彼の手をふりはらうと、驚く土方の胸もとにむしゃぶりついた。その広い背に両手をまわして抱きつき、身をすり寄せる。
「隼人さん……っ」
 偽りの名を呼びながら、総司は土方のぬくもりだけを求めた。


 いつでも、彼だけなのだ。
 ずっとずっと、この人だけ。
 土方さんだけを。


 かなしいぐらい、あいしてる───。