その日、土方は休息所へ急いでいた。
いつもより早めに行ってやりたかったのだ。
昨夜の行為が総司の躯に負担をかけているのは、よくわかっていた。だからこそ、少しでも早く訪れ、優しくしてやりたかった。
そして。
それは、角を曲がったとたん、土方の目に飛び込んできた光景だった。
「!」
声さえ出なかった。
どこか浮き足だっていた彼の胸に、ぐさりと鋭い刃が突き立てられた。
呆然と立ちつくす土方の目の前で、総司が斉藤に身を寄せていた。柔らかな甘えるような表情で、話しかけている。
やがて、斉藤が総司を抱きしめた。その内に秘める恋慕のままに。
小柄な躯が、他の男の腕の中におさまるのを見た瞬間、土方の視界が真っ赤に霞んだ。
怒りに嫉妬に、気が狂いそうだった。
さわるな!
俺のものだ。
総司は俺だけのものだ……!
そう叫びたかった。
だが、できるはずがなかった。
総司の前で己の正体を明かすことができぬ以上、何もできなかったのだ。奥歯をくいしばり、必死に己の激情を押し殺して、抱きあう二人を見つめるしかなかった。
やがて、斉藤は土方に気づくことなく、その場から去っていった。
総司も家の中へ戻ってゆく。
「……」
土方はきつく唇を噛みしめた。思わず視線を落とし、俯いてしまう。
自分に責める資格があるのだろうか。
嫉妬する資格があるのか──?
今、戸を開けて訪れれば、総司は何も知らぬ顔で彼を迎えるだろう。先程まで他の男に抱かれていた躯を、彼の腕にゆだねるだろう。
総司自身、何の罪悪感もないに違いなかった。斉藤はともかく、無邪気で初な総司の事だ、あれは友人としての行為だと信じているのかもしれない。
だが、それでも許せなかった。
総司を前にして、いつもどおり振る舞う自信がなかった。
又、そんな事をしたくなかった。総司にだけは、素直な気持ちを見せたかったのだ。欺くなど、己の正体を隠すだけでもう沢山だった。
(だから、俺は……)
だが、しかし。
総司に拒絶され、家の戸を閉めた時点で、土方は深く悔いていた。戻って謝ろうかと思ったが、今、戻っても拒まれるだけだと、仕方なく屯所へと帰ってきた。
気落ちしたまま屯所に戻り、何か話しかけてきた近藤を無視し、自室に引きこもってからも、さんざん後悔に苛まれた。
「……俺は、本当に何やっているんだ」
土方は文机に突っ伏し、呻いた。
もう少し冷静に対応すればよかったのだ。
優しく訊ねてやれば、素直な総司のこと、嘘偽りなく話してくれた事だろう。
そうすれば、今頃、総司の傍にいられたはずだった。
幸せな時を過ごせたはずだった。
なのに。
「あんな事を云っちまうなんて……っ」
嫉妬と怒りに我を忘れていたとはいえ、総司を酷く責めてしまった自分が情けない。
恋をすると、ここまで男は愚かになるのか。これも本気の恋だからなのか。
経験した事もない、まるで極楽と地獄をいったりきたりするような状態に、気が変になりそうだった。
心から、総司を愛していた。
可愛い少年だと思っていた気持ちが少しずつ変化してゆき、いつか、彼にとって誰よりも大切な愛しい存在となっていたのだ。
なのに、一度失った。いや、今も失いつづけているのかもしれない。
総司への恋を半ば諦めかけていた彼にとって、今回の事は、まさに降ってわいた僥倖に等しかった。
だからこそ、大事にしたかったのに。もっと大切にするべきだったのに。
「もう二度と、ここへは来ないで……!」
総司の声が耳奥によみがえった。
とたん、それこそ、土方は、地獄に突き落とされてしまった。
隼人という男も、嫌われてしまったかもしれないのだ。あんな事を云ってしまったのだから、当然だろう。
だが、それでも、逢いたかった。
あんな酷い事をしたのに、逢いたいと思ってしまう自分の身勝手さに呆れたが、可愛い、愛しい、逢いたいと思う気持ちだけはどうしようもなかった。
「……」
立ち上がった土方は、襖を開けてみた。
庭の向こうに広がる闇は濃い。
あの位置に月がある事からして、もう夜半を回ってしまっている事だろう。
今夜、総司はどうしているのか。
褥の中に一人横たわり、まだ彼への怒りに震えているか。
それとも───
「……っ」
土方はきつく唇を引き結ぶと、踵を返した。暗闇の中を歩いてゆく男の足取りに、一切の迷いはなかった。
カタン。
小さな音に、総司は顔をあげた。だが、それが風の音だと知ると、また、しゅんとなってしまう。
布団の中でそっと身を丸めた。
さんざん泣いたせいで、頭が少し痛い。気がたかぶっているためか、なかなか寝付けなかった。
むろん、その理由もわかっている。
(どうして? 土方さん……)
あんな事を彼が云うなど思ってもいなかった。あんな酷い事を思っているとは、考えてもみなかったのだ。
でも、そう思われても仕方ないのだろうか。
総司はきゅっと唇を噛みしめた。
土方は自分の正体がばれていると知らないのだ。なのに、総司は彼に身をまかせた。
土方にすれば、逢って間もない男に躯まで許してしまうなど、なんていい加減な奴だと呆れたのではないだろうか。
優しく抱きながら、その実、呆れられていた……?
そう考えたとたん、恥ずかしさで躯中がかっと熱くなった。
どうにも、いたたまれなくなってしまう。
愛しているから、抱かれたのに。彼だからこその行為だったのに。
なのに、その想いは絶対に届かないのだ。
この世の誰よりも恋しい相手に侮蔑されるなんて、これ以上みじめな事があるだろうか。
だが、そうであるのなら、土方の言葉もわかる気がした。そう思っていたからこそ、あんな言葉を吐いたのだ。
「……あぁ! もう最悪」
総司は子どものように両膝を抱えこみ、ぎゅっと目を閉じた。
きっと、もう彼は来ない。
あんな言葉を投げつけられた彼が、ここへ来てくれるはずもないのだ。自分を侮蔑しているのなら、尚のこと。あれだけ矜持の高い彼、女に不自由など全くしていない彼なのだ。
こんな子どもの事など、すぐさま切り捨ててしまうだろう。
どんなに泣いても、後悔しても遅い。だい好きな彼を遠ざけてしまったのは、自分自身なのだ。泣いても、彼が戻ってきてくれるはずもないのだから。
だが、そう思った傍から、涙があふれた。
唇を噛みしめたまま、ぽろぽろと涙をこぼす。
その時、だった。
「!」
カタンと物音が鳴った。そう思った瞬間、がらりと戸が開かれる。
つっかえ棒をしておくのを忘れたのだ。だが、泥棒であるはずがなかった。この気配はすぐわかったのだ。
「……っ」
総司は玄関の方へ背を向けたまま、息をつめた。必死に寝ているふりをする。
土方は躊躇っているようだった。だが、すぐに戸を閉め、部屋の中へあがってくる。
やがて、傍らに土方が腰をおろす気配がした。覗きこまれ、ひんやりした指さきが頬にふれる。
「……ぁ」
もう堪らなかった。我慢できなかった。
突然、総司は跳ね起きると、むしゃぶりつくように土方に飛びついた。両手を彼の逞しい背にまわし、力いっぱいしがみつく。
それに、土方は息を呑んだ。慌てて片手を後ろにつきつつも、抱きとめてくれる。
「ごめん…なさい……っ」
涙声のまま、謝った。
「来ないでなんて、云ってごめんなさい。ずっと後悔していたの……っ」
泣きじゃくる総司に、しばらくの間、土方は無言だった。やがて、いつものように手をとると、そっと綴ってくれる。
「俺の方こそ、すまない」
優しく頬に口づけを落としてから、つづけた。
「妬いた」
「……え……」
「お前に妬いたから、あんな事をした」
「え……えぇっ!?」
総司はびっくりして、声をあげた。思わず男の胸もとに縋ってしまう。
「妬いたって……私に?」
「おまえをとられそうで、怖かった」
土方の正直な言葉に、総司は目を見開いた。
彼の言葉の意味がわかったとたん、たまらない嬉しさがこみあげたのだ。
それに、土方が尚更、甘い言葉を綴ってくれた。
「おまえが大切だ。誰にも渡したくない」
「……っ」
かぁぁっと頬が火照った。どきどきと胸が高鳴る。
誤解だったのだ。彼は自分を大切に想ってくれている。だからこそ、嫉妬したのだ。
それなら、いいと思った。全部、何もかも許せると思った。
「……嬉しい」
素直に、己の気持ちを告げた総司に、土方は驚いたようだった。
耳朶まで赤くしながら、言葉をつづける。
「とても……その、嬉しいです。あなたが私を大切だと云ってくれて、だから抱いたのだとわかって」
総司はちょっと顔を伏せた。
「あなたは……私を軽蔑していると思っていたから」
「何故」
「だって、誰にでも身をまかせると……あなたと知り合って間もないのに、あんな事をして。それで、軽蔑されていると思って……」
「そんな事するものか」
「本当に?」
「俺こそ、強引だった」
「そんな事ないです。だって……」
総司はなめらかな頬をかぁっと赤らめた。恥ずかしそうに俯いてしまう。
「だって、とても優しかったし……その、気持ちよかったし」
土方が笑った気配がした。優しく胸もとに抱きよせてくれる。
寝着のままの総司を、柔らかく膝上に抱きあげた。何度も何度も、啄むように口づけてくる。
それが心地よくて、総司は細い両腕で男の首をかき抱いた。甘えるように身をすり寄せる。
「やっぱり、あなたがいいです」
うっとりした声で、囁いた。
「目が見えなくなってからね、人恋しくなっている気がするのです。でも、あなたでないと……だめ。あなたでなきゃ嫌なの」
「欲しいのは俺だけ?」
「そう。あなただけ……」
小さな声で恥ずかしそうに告げてくれる総司が、可愛い。
だが、一方で、土方は胸奥に小さな痛みを感じた。
総司は、今、土方に恋しているのではない。
彼がつくりだした、隼人という男に恋しているのだ。
それが虚像である事は、土方が一番よく知っていた。
このままでいいはずがない。こんな事をしては駄目だ。
そうわかっていながら、腕の中にいる総司を手放したくなかった。自分に向けられる恋慕ではないとわかっていても、つい錯覚してしまいそうになる。
愛されているのかと、心をうきたたせてしまう。
総司が想っているのは、自分ではないのに───
「……隼人さん?」
不意に、ぎゅっと抱きしめた土方の胸もとで、総司が不思議そうに訊ねた。それに、黙ったまま髪に頬を擦りよせる。
今、ここで真実を告げたら、どうなるのだろう。
総司を騙すようにしてここへ連れ込み、挙げ句、その躯までも抱いてしまった男が、土方だと知れたなら。
「……っ」
思わず固く瞼を閉ざした。
驚愕し、嫌悪し、罵り叫ぶ総司の姿が目にうかぶようだった。彼をどこまでも拒絶し、この手の中から逃げてしまうだろう。
男の欲望を、ずっと向けられていたという事実だけでも疎ましいだろうに、その上、恋敵であるはずの男だ。嫌悪に身震いし、生涯、彼を憎みつづける事だろう。
そんなこと、堪えられなかった。
他の誰から憎まれても、気にもとめた事はない。だが、総司だけは別だ。
これ以上、総司に憎まれたくなかった……。
「……どうしたの?」
じっと抱きしめたままの土方に、総司が問いかけた。細い指さきで彼の頬に、唇にふれてくる。
「まだ……怒っている?」
おずおずと訊ねてきた総司に、我に返った。
あまり己の思考に沈み込むのもまずいだろう。どんな処から、水が漏れるやもしれぬ。
「怒ってなどいない」
「でも」
「少し疲れただけ。眠ろう」
「あ、そうですよね。もう真夜中でしょうし」
総司は慌てたように立ち上がろうとした。彼の布団を出そうと思ったのだろう。
だが、土方はその手首をつかんで引き戻すと、悪戯っぽい笑みをうかべた。その掌につづってやる。
「独り寝がいい?」
「え」
「一緒に休もう」
「……あ」
とたん、総司の頬がかぁっと火照ってしまった。何を思ったのか、耳朶まで真っ赤にしてうろたえている。
それに思わず笑った。
「可愛い」
「や、やだ。もう……意地悪云わないで」
「一緒にと云っただけ」
「そうだけど……」
総司は恥ずかしそうに頭を小さく振ってから、土方の胸もとに縋りついてきた。いやいやと首をふって羞じらっている様が、たまらなく可愛い。
土方はその細い躯を両腕に抱いたまま、ゆっくりと身を横たえた。一つの布団にもぐりこみ、身をよせあう。
甘い口づけを落とした男の腕の中、総司が幸せそうな吐息をもらした。
朝、目を覚ますと、しなやかな指が頬にふれていた。
ゆっくりと輪郭をたどるように、指さきで撫でてゆく。まるで、土方の方が目が見えぬようだと思った。
くすくす笑ったとたん、土方が覗き込んでくる気配がする。
「おはようございます」
そう挨拶してから、総司はふと違和感を覚えた。何だか、周囲がとても明るいのだ。いつもの朝より、明るい。
幾ら晒しで目隠しをしていても、瞼を閉じながら察することができるように、光や闇の気配はちゃんと感じ取れていた。また、感覚が鋭敏になっているためか、様々な事を感じとりやすい。
それ故、不思議に思ったのだ。
「……今、何刻ですか」
そう訊ねた総司に、土方は答えた。
「四つ刻ぐらいか」
「ぇ……えぇっ!?」
総司は驚いて飛び起きた。慌てて周囲を見回すが、もちろん、何も見えない。
それに、土方も驚いたようで、息を呑んだ。
慌てて布団を押しのけ、立ち上がりかけるが、ぐいっと手首を掴まれて引き戻される。それに身を捩った。
「だ、駄目! もうそんな時刻だなんて」
どうしようと思った。
土方は新撰組副長なのだ。目も回るような多忙ぶりなのだ。それがこんな処で朝の四つ刻までのんびりしていていいはずがない。
いつ、山崎あたりが駆け込んでくるかと、びくびくしてしまった。
だが、それを直接云う訳にはいかず、総司は一生懸命頭をめぐらせた。
「え、えーと、お仕事があるでしょう? こんな時刻までいていいはず……っ」
「大丈夫」
土方は身を起すと、総司の腰に腕をまわし、柔らかく抱きよせてきた。甘い匂いのする白い項に唇を寄せ、そっと口づける。
「今日は、一日ここにいる」
「ここにって……えっ、え?」
「明日の朝まで、一緒」
「でも、お仕事は? そんな……大丈夫なのですか」
「……」
まるで、彼の仕事が何であるか、それがどれほど多忙であるか知っているような口ぶりに、土方は思わず眉を顰めた。
だが、気づいているはずがないのだ。
彼が誰なのかわかっていれば、こんなふうに身をまかせてくる事などありえない。
「心配ない。大丈夫」
「そう……なら、いいのですけれど」
口ごもってしまった総司に、小さく笑った。ちゅっと音をたて頬に口づけてやりながら、訊ねかける。
「一緒なのはいやか」
「そんな事ありません。とても嬉しいけれど、でも……何だか申し訳なくて」
総司は俯いた。
「昨日もあんな事云ったのに、なのに、また迷惑をかけてばかりで……」
「迷惑だと思っていない」
「本当に?」
「一緒にいたい。だから、休んだ」
そう綴って口づけた土方に、総司の頬がかぁっと真っ赤になった。ちょっと恥ずかしそうにしながらも頷き、嬉しそうに彼の胸もとへ凭れかかってくる。
柔らかな朝の光の中、しばらく二人はそうして戯れていたが、やがて、いつまでもそうしていてはと布団をあげた。
土方は、手伝いの女性の処へ食事を受け取りに行き、夕食と風呂の用意だけを頼んでおいた。むろん、総司が家にいる間にだ。
食事の後、土方は総司の髪を櫛で梳いてやった。
絹糸のように艶やかな黒髪だ。
それを一つに束ねてから、着物を着せた。総司は羞じらっていたが、あちこち悪戯するように口づけながら、着付けていってやる。
「やっ、もう……駄目ですってば」
悪戯ばかりする土方に、総司は桜色の唇を尖らせた。きゅっと彼の手をつねり、身を捩ってくる。
それに笑いながら、腕の中にある華奢な躯を抱きしめた。拗ねた表情も可愛いと思ってしまうのだから、どうしようもない。
土方が用意した着物は、淡い色合いの小袖だった。総司の清楚さをひきたてている。
「外へ出かけよう」
着替え終えたとたん、そう綴った土方に、総司は驚いた。慌てて首をふる。
「無理です。そんなの……目が見えないし」
「手をひいてゆく」
「恥ずかしいです。それに、また迷惑をかけてしまいます」
「迷惑じゃない」
「でも」
まだ躊躇う総司の手を、土方はそっとひいた。握りしめ、柔らかくいざなう。
不安げな総司の頬に、そっと口づけてやった。
「俺がいる」
そう告げると、総司がはっとしたように顔をあげた。見えない目で彼を見つめてくる。
ぎゅっと彼の手が握りしめられた。
「本当に?」
「ずっと一緒だ」
彼の言葉に、総司が嬉しそうに微笑んだ。本当に嬉しそうに笑い、いそいそと寄りそってくる。
そんな小さな言葉にも無邪気に喜んでくれる総司に、土方は僅かに目を細めた。
漢数字だと四は肆と書くのですが、読みづらいので、ふつうに「その四」としました。
