土方は手にしていた傘を畳み、ざっと雨を払った。
 そうして雫を落とした傘をたてかけてから、框を上がろうとした時だった。
「……遅い帰りだな」
 いきなり真上から声をかけられ、ぎくりとした。
 慌てて見上げれば、近藤がそこに立ち、今にも笑いだしそうな表情でこちらを眺めていた。それに、思わずむっときた。


 外泊の届けは出していったはずだぞ!


「……届けは出している」
「なるほど。しかし、朝帰りどころか、昼前ではないか」
「別に構やしねぇだろ」
 そっけない口調で云い捨て、框をあがった。それに、近藤がふと心配そうな表情になる。
「総司はちゃんと療養しているのか」
「あぁ」
「もしかして……おまえが遅くなったのは、総司のためか? 体調が悪かったのか」
 ある意味、的を得た問いかけに、うっと言葉につまった。
 さり気なく視線をそらしつつ、答えた。
「ま、まぁ……そんな処だ」
 これ以上問われては叶わぬとばかりに、土方は、そそくさと立ち去った。
 本当の事など、告げられるはずもない。
 まさか、朝から名残を惜しみ、総司と褥の中でいつまでも睦みあっていて、こんな時刻になってしまったなど、とても云える事ではなかった。
 正直な話、自分でも信じられないぐらいだった。あんな事、今まで一度だってした事がない。
 どれ程美しい女と躯を重ねても、終ればそれきりだった。あっさりしたものだった。
 朝の陽光をあびながら、褥の中でさんざん戯れるなど、ありえぬ事だったのだ。
 なのに。


『……隼人さん』


 腕の中、甘くかすれた声で呼んだ総司を思い出したとたん、土方は片手で口許を覆ってしまった。
 目を覚ました時、腕の中にいる総司に夢のつづきかと思った。だが、総司が、甘えたな仔猫のように彼の胸もとへ擦りよってきたとたん、ようやく実感がわいたのだ。
 総司を抱いた。
 この体を、昨夜、本当に抱いたのだ。
 当然ながら、土方が少年を抱くのも初めてなら、総司の方も初めてだった。色々と手間取ったが、決して総司を傷つけたくなかった土方が執拗なほど馴らしたためか、それ程苦痛はあたえずに済んだようだった。
 深く交わると、総司は必死になって彼にしがみついてきた。
 その細い指さきが背や肩に縋りつくたび、可愛くて可愛くて気が変になってしまいそうだった。
 むしゃぶりつくように頬や首筋に口づけたが、かえってそれが良かったのか。
 彼の腕の中で、強ばっていた躯から力が抜けた。
「っ…は、ぁあ……ッ」
 掠れた、だが、どこか甘さのある喘ぎが唇からもれたのは、しばらくたってからの事だ。
 その後はもう無我夢中だった。
 総司の甘い声を聞いたとたん、かっと躯中が熱くなった。獣のように喉を鳴らし、深く突き入れたことを覚えている。
 その時、彼の腕の中で、総司の華奢な躯がしなり、細い腕が彼の背にまわされた事も。
「んっ…ぁ、んっ、ぁっ」
 揺さぶるたび、短い悲鳴が桜色の唇からもれた。
 白い晒しで目隠しをしたまま男に抱かれる総司は、息を呑むほど艶やかだった。匂いたつような色香に、何もかももっていかれそうになる。
 土方は総司の背に手をまわし、半ば抱きあげた。交わりがより深くなる。
「ひ、ぃ…ッ」
 総司が甘い悲鳴をあげ、彼にしがみついた。
 きゅうっと蕾が彼の猛りを締めあげ、思わずもれそうになった声を喉奥で殺した。
 掠れた声が耳もとで響くのを感じながら、土方は総司の躯を激しく揺さぶった。自然と息づかいが荒くなる。
 総司の泣き声が甘くとろけた。
「ぃっ、ぁ…あぁんっ、あッ」
「……っ」
「ぁ、ぃあッ……ぁああーッ」
 一際甲高い悲鳴をあげた瞬間、総司は頤をつきあげ、達した。
 同時に、土方もその躯の奥に熱を叩きつける。
 そのまま、おおいかぶさるように、総司の細い躯をきつく抱きすくめた。火照った肌がふれあい、心地よい。
 やがて、総司が彼の裸の胸に頭を擦りつけた。
 甘えるような仕草に気づき、頬に口づけを落としてやると、小さな声で訊ねられた。
「……よかった?」
 意味がわからず小首をかしげていると、頬を染めてくり返した。
「気持ち……よかった?」
 不安げに訊ねてくる様が初々しく、とても可愛らしかった。思わず笑みがこぼれる。
 掌をとり、綴った。
「もちろん」
「本当に……?」
「信じられないぐらい、気持ちよかった」
 そう答えたとたん、総司は、かぁぁっと真っ赤になってしまった。恥ずかしそうに、土方の胸もとへ顔を押しつけてくる。
 あまりの可愛さに、土方はその細い躯を抱きしめ、何度も口づけを落とした。
 額に、頬に、髪に、唇に。


 ……愛しくてたまらなかった。
 名も告げず、まるで騙すような行為だったが、それでも総司をこの腕に抱いたのだ。
 想像していたより、ずっと細い躯。
 きめ細かな白い肌。甘く掠れた声。
 自分の背を抱く、細い腕。
 何もかもが愛しかった。
 ずっと求めてきたものが手にはいった喜びに、土方はそれこそ目が眩みそうだった。
 そのため、翌朝、目を覚ました時もつい褥の中で戯れてしまい、挙げ句、そんなふわふわした心地であの家を出たのだ。名残惜しげに、何度も何度も口づけて。
 今から思えば、よく浪士たちに襲われなかったものだと思う。
 新撰組副長がと、呆れられても仕方ないほどの浮つきぶりだった。


(……総司……)


 自室に戻った土方は、ぼんやりと己の手を見つめた。
 まだ、総司にふれた感触が残っている気がした。一方で、今も尚、あれが全部夢だったような気さえしてしまう。
「……骨抜きにされているな」
 苦笑まじりに呟き、庭先へ視線をむけた。もう雨はあがり、庭の樹木にある雫がきらきらと眩い。
 ふと、総司の笑顔が思い浮かんだ。一刻も早く、抱きしめたくなる。
 土方は頬杖をつくと、小さくため息をついた。












 ようやく雨はあがったようだった。
 外はきれいな青空が広がっているのだろう。子どもがきゃあきゃあ歓声をあげて走ってゆくのが聞こえた。
 それを聞きながら、くすっと笑う。
 柱に凭れたまま、そっと足を引寄せた。とたん、ずくんと走った微かな痛みに、総司は頬を染めた。


(昨日、土方さんに抱かれた)


 嘘のようだが、夢のようだが、本当の事だった。
 彼に抱かれ、彼の裸の肌にふれ、彼のものに貫かれたのだ。
 確かに痛みはあったし、少し怖くて不安だったが、そんなものを遙かに凌駕した、花びらに包みこまれるような幸福感。
 甘やかな陶酔と幸せに、息さえつまりそうだった。
 好きと、囁きたかった。
 土方さん、あなたが好きです──と。
 だが、そんな事をしたが最後、この夢は終ってしまうとわかっていた。彼がいなくなってしまう事も。
 それが怖くて、黙ったまましがみついた。
 土方は本当に優しかった。
 むろん、何もかも初めてなので比べようがないが、総司に苦痛を少しでも和らげるよう、怖がらせないよう、気づかってくれた。これ以上ない程、優しく抱いてくれたのだ。
 まるで、世にも稀な宝物のように。
「宝物……」
 そう呟いてから、ことんと総司は頭を柱に凭せかけた。


 どうして、抱いてくれたのだろう。
 彼の想いがわからなかった。
 その手のことに不自由はしてないはずなのに、どうして、私なんかを。
 いつも、美しい女に纏わりつかれている土方さんを見てきたのだ。物陰からこっそり見つめては、涙をこぼした。
 でも、その彼がふり返ってくれた。私を抱いてくれたのだ。
 偽りの形ではあったけれど……。


 総司はきゅっと唇を噛みしめた。
 責めようとは思わない。聞こうとも思わない。
 ほんの一時の夢であるのなら、最後まで見たいと望んだのは自分なのだ。今更、それを壊すなどできるはずもなかった。
 この幸せがほんの少しでも長くつづいて欲しかった。夢でも構わない。
 一時の夢さえあれば、これから先、頑張ってゆける。生きてゆけるのだ。
「今だけでいいの」
 総司は両膝を抱え込み、呟いた。
 己自身に、云いきかせるように。
「今だけ幸せなら、もう何も望まないから」


 だから、お願い。
 この夢が少しでも長くつづきますように。


「……土方さん」
 愛しい男の名を呼ぶと、総司はそっと瞼を閉ざした。















 かたんと戸が音をたてた。
 それに総司は、はっとして顔をあげた。いつのまにか、うたた寝していたらしい。
 慌てて玄関の方へ出た総司は、だが、思わず足をとめた。
 土方ではない。気配が違うのだ。
 目を覆ってから不思議なもので、他の感覚が酷く鋭敏になっていた。おそらく、彼相手だけだろうが、土方が来ればその気配でわかってしまうのだ。
 だが、これは彼ではない。
「……誰?」
 怯えきった口調で訊ねた総司に、相手はかるく身じろいだ。
 それから、静かな声で云った。
「総司、オレだよ」
「え」
「斉藤だ」
「あっ」
 総司は頬に血をのぼらせた。
 こんな姿を見られる事は恥ずかしかったが、やはり、親しい友人が訪れてきてくれた事は、素直に嬉しかったのだ。
 斉藤は総司の一番の友人だった。同じ剣術師範代であり、年齢も近いこともあって、親しくしている。
「斉藤さん!」
 総司は框に坐り込むと、手をのばした。それを、斉藤が優しくとってくれる。
 彼が目の前に跪く気配を感じた。
「わざわざ来てくれたのですか?」
「あぁ。近藤さんに場所を聞いて……しばらく療養らしいな」
「七日ほどですけど。いい休養になっていますよ」
「身の回りの事はどうしているんだ」
「ちゃんと通いの人がいてくれるから、大丈夫です。それより、斉藤さん?」
 総司はかるく小首をかしげた。さらりと艶やかな髪が細い肩にかかり、とても可憐だ。
 それを斉藤が見守るように眺めている事に、気づいているのかいないのか、総司は小さな声で訊ねた。
「隊の方はどうですか? 変わりはありません?」
「大丈夫だ。いつもどおり、皆やってるさ」
「そう……よかった」
 総司は安堵したように微笑んだ。
 だが、本当は、隊の事ではなく、ある一人の男の動向を聞きたいのだと、斉藤もよくわかっていた。ずっと片思いしてきた総司を、傍らから見ていたのだ。
 だが、斉藤もそこまでお人良しにはなれない。
「……そろそろ帰るよ」
 立ち上がった斉藤に、総司はちょっと拗ねたような表情になった。
「もう、ですか?」
「今日は立ち寄っただけだし、それに、あまり長居すると門限に遅れる」
「あ、そうですね。ごめんなさい」
 総司は手探りで框を降り、戸口まで斉藤を見送った。斉藤の腕に手をかけ、どこか甘えるような声で云った。
「また……来てくれますか?」
「たぶん」
「たぶんって、斉藤さんはつれないなぁ」
「わかったよ。きっと来るから」
「約束ですよ」
 総司はくすくす笑い、斉藤の腕に額をかるく押しつけた。
 猫がじゃれるような行為だったが、もともと総司に片思いしている斉藤にすればたまらない。
 久方ぶりに逢えた喜びもあり、思わず引き寄せてしまった。その小柄な躯を、ぎゅっと胸もとに抱きすくめる。
 それに、総司が戸惑ったように彼の名を呼んだ。
「斉藤…さん?」
 はっと我に返った。慌てて手放し、身をおこした。
「ご、ごめん」
「え? 何?」
「いや、その、何でもないんだ。また来るな」
「えぇ」
 どこか足早に立ち去る斉藤の気配を感じながら、総司はゆっくりと戸を閉めた。中へ戻り、框に腰かける。
 何か悪い事をしてしまった気がした。こんな状況だからか、ひどく人恋しくなっているのがわかる。


 土方さんが早く来てくれればいいのに。
 来て、そして、抱きしめて欲しい。
 夢のように……愛されたい。


 不意に、がらりと戸が開く音がした。
 斉藤が戻ってきたのかと思い、総司は顔をあげた。だが、すぐさま違う事に気が付いた。
 今度こそ、彼だ。
 彼が来てくれたのだ。
「隼人さん」
 弾んだ声でその名を呼び、両手をのばした。だが、何故か、その手はいつものようにとられなかった。
 抱きしめられる事もない。
 その代りに感じたのは、冷ややかな怒りの気配だった。
 土方は玄関に佇んだまま、こちらへ鋭い視線をむけている。
 総司は戸惑った。
「……あの……?」
 小さな声を出すと、土方が一歩前へ踏み出した。不意に、ぐっと手首を掴まれ、引寄せられる。
 びくんと身を固くしたとたん、掌につづられた。
「あいつの方がいいか」
「な、何を……」
 総司はゆるく首をふった。
「何を云っているのです。隼人さん、でしょう? 私がどうして」
「見ていた」
「え?」
「全部、見ていた」
 息を呑んだ。


 土方の言葉の意味がわかったのだ。
 彼は、先程の一部始終を見ていたのだろう。
 斉藤がこの家に訪ねてきたこと、総司がまた来てとねだったこと、抱きしめられたこと。全部見ていたのだ。
 いい気がするはずもなかった。
 この家は土方のものなのだ。彼が総司を住まわせてくれているのだ。
 なのに、斉藤にまた来てとねだるなど図々しいと思われたに違いない。


 総司は思わず謝ってしまった。
 それ自体が火に油を注ぐようなものだとは、思いもせずに。
「すみません……つい」
「……」
「淋しくて、ついあんな事をしてしまいました。すみませんでした」
「淋しいからか」
「はい」
「なら、誰でもいいのか」
 掌に綴られた言葉に、総司は「え?」と顔をあげた。
 意味がわからない。だが、土方が怒っている事は感じとれた。
 ふれる指さきは、とても冷たい。
「どういう事ですか? 誰でもって……」
「そうなのだろう」
「だから、何が」
「慰めてくれる男なら、誰でも」
「何を、云って……」
「俺でなくとも、抱かれたのか」
 その言葉が綴られた瞬間、総司の頭の中がまっ白になった。かぁっと頬が熱く火照る。
 気づけば、両手で思いっきり彼の躯を突き飛ばしていた。
 叫んだ。
「莫迦にしないで……っ!」


 この人は、私を何だと思っているの?
 土方さんだから抱かれたのに、あなただから許したのに。
 あんな恥ずかしいこと。
 なのに……!


「私がそんな人間だと思っているの!?」
 泣いたら駄目だと思った。だが、嗚咽がこみあげてくる。
「本気でそう思っているの!? あなただから抱かれたのに、全部、あなただから……っ」
 土方は押し黙ったままだった。
 それがどこか、駄々をこねる子どもを見下ろすような視線に感じられ、総司は尚更頭に血をのぼらせた。
 腹がたって、苛立って、どうすればいいのかわからなくなる。
 だから、叫んだ。
「だいっ嫌い!!」
 本当は、そんなこと欠片も思っていなかったのに。
「もう二度とここに来ないで!」
 とたん、土方が息を呑む気配がした。一瞬、手をのばしかけた気がする。
 宥めてほしいと思った。
 今の言葉を否定し、謝ってほしかった。


 そして、いつものように優しく抱きしめて。
 そうすれば、きっと。
 私はあなたを許すことができるから……


 なのに。
「……」
 土方の手が総司にふれる事はなかった。そのまま、すっと踵を返してしまう。
 やがて、戸の閉まる音が鳴り、男の気配は遠ざかっていった。
 それを感じたとたん、涙がこぼれた。
「……ぅ……ッ」
 後から後から、涙が頬をつたい落ちた。


 悔しくて悲しくて。
 切なくて──恋しくて。
 こんなに好きなのに、愛しているのに。
 ほんの一時の夢さえ、どうして許されないのだろう。
 今だけ。
 ほんの少しだけ、夢見ていたかったのに。


「……土方…さん……っ」


 総司の泣き声は、やがて、夜にとけた。