東山にある料亭だった。
 離れの一室の襖を開いた総司は、丁寧に頭を下げた。
 それに、中から穏やかな声がかけられる。
「総司、久しぶりだな」
「はい……」
 顔をあげた総司は、そっと微笑んだ。
 それが、どこか儚げな花のように思え、久しぶりに見る弟子を前に、近藤は眉を顰めた。
「また痩せたのではないか」
「いえ、大丈夫です」
 総司は部屋の中に入ると、近藤の前に端座した。きちんと手をつき、頭を下げた。
「ご無沙汰致しております。今日は突然お呼びだてして申し訳ありませんでした」
「いや、いいのだ」
 近藤は微かに笑った。
「おれは、おまえに逢えて嬉しいのだよ、総司」
「近藤先生……」
「元気に過しているのか。足りないものがあれば、斉藤に云いなさい。すぐ届けさせよう」
「斉藤さんには、いつもよくして貰っています」
「そうか。ならいいが」
 近藤は安堵したように頷いた。
 あの嵐の夜、総司を隊から出し京の町家へ住まわせてから、ずっと気にかけていたのだ。時折、斉藤が報告してくれるとはいえ、その病もちの身や傷ついた心を思うと、やはり心配だった。
 だからこそ、今日、総司からの呼び出しにもすぐ応じたのだが───
「……話は、歳のことか」
 出来るだけ穏やかな声で問いかけた近藤に、総司はびくりと肩を震わせた。俯いたまま、黙り込んでいる。
 その青白い顔を見ながら、近藤は嘆息した。
「歳からも聞いている。おまえの元へよく通っているようだな」
「……はい」
「まだ記憶は戻っておらんが、それでも、歳は明らかにおまえに惹かれている。それも当然のことだと思うが」
「……」
「総司……おれは聞きたいのだ」
 静かな声で、近藤は訊ねた。
「これから先、おまえがどうしたいのかを訊ねたい。歳と縒りを戻したいのか、それとも別れたいのか」
「……」
「どちらにせよ、今度はおれも何も云わん。おまえの意志を何よりも尊重したいと思っているのだ」
「近藤先生……」
 総司は目を見開いた。
 以前の事への悔恨なのだと思えば、申し訳なかったが、自分を思ってくれる近藤の言葉がただ純粋に嬉しかった。
 長い睫毛を伏せた。
「ありがとうございます、近藤先生」
 ゆっくりと言葉をつづけた。
「私は……土方さんと逢えた時、怖いと同時に幸せでした。いけないとわかっていながら、あんなにも好きだった……一度は恋人と呼ぶ事が許された人です。傍にいるだけで幸せで、泣きたくなるほどでした」
 その時の事を思いだしたのか、そっと吐息をもらした。
「でも……そんな事、許されるはずがないのです。土方さんを傷つけた私が、またあの人の傍で幸せになるなど……そんなの絶対に許されない」
「総司、それは」
「いいえ……わかっているのです。土方さんの為を思うなら、今回も身を引くべきだと。今度こそ……京を去るべきなのだと」
「!」
 総司の言葉に、近藤は、はっと息を呑んだ。思わず、その愛らしい顔を凝視する。
「……総司、おまえ」
「はい」
 総司は深く澄んだ瞳で、近藤をまっすぐ見つめた。静かな声で告げた。
「私は、京を去ります。二度と土方さんには逢いません」
「総司……」
「今までお世話になりました、近藤先生」
 そう云って深々と頭を下げた総司の声音に、迷いは全くなかった。決然とした意志の強ささえ、感じさせられる。
 愛らしく素直で優しい総司の中にある、凜とした強さだった。あの時も、だからこそ、土方のために身を引いたのだ。別れを告げたのだ。
 再び、恐らく身を斬るような思いで決断を下した総司を、近藤は痛ましげなまなざしで見るより他なかった。












 近藤と別れた総司は、真っ直ぐ家へ戻った。
 帰りつく頃には夕暮れとなり、美しい夕焼けが空に広がっていたが、むろん、今の総司にはその光景を眺める心の余裕などなかった。
 家の中に入ると、ため息をついた。
 張っていた気が緩んだためか、板床に坐り込んでしまう。
 とうとう云ってしまった、と思った。決めてしまったのだ。
 京を去る事を。
 彼の前から姿を消す事を。
「……」
 総司は板床に坐り込んだまま、ぼんやりと夜空を見上げた。窓の枠から覗く夜空に、月がうかんでいる。
 それを見つめるうちに、恋人だった頃、彼と一緒に月の下を歩いたことを思い出した。


 それは、黒谷からの帰りだった。
 公務だったが、それでも二人きりで美しい月の下を歩けることが、とても幸せだった。
 二人きりになれるなど、本当に久しぶりだったのだ。
 黒谷屋敷を出て、周囲に人影がなくなったとたん、甘えるように寄りそった総司に、土方が黙ったまま肩を抱きよせてくれたことを覚えている。
 月が綺麗と云った総司に、おまえの方が綺麗だと囁き、優しく口づけてくれた。それが嬉しくて幸せでたまらなくて、屯所の近くまで来たとたん、総司はつい、我侭を云ってしまったのだ。
『まだ、帰りたくないのです……』
 口にしたとたん、我に返り、慌てて謝ろうとした。だが、土方はちょっと驚いたように目を見開いてから、総司の耳もとに唇を寄せた。
 そして、悪戯っぽい声で、こう囁いてくれたのだ。
『奇遇だな、俺もなんだよ』
 と──。
 結局、その夜は道を戻り、途中にあった茶屋に泊まってしまった。
 総司は忙しい彼に申し訳なくて何度も謝ったが、土方はまるで気にしていないようだった。総司の頬に、額に、口づけを落し、とろけそうなほど甘く優しく愛してくれた。
 ……いつだって、そうだった。
 いつも、彼は自分を大切にしてきてくれたのだ。心から、深く愛してくれた。
 なのに、それを裏切ったのは、自分の方だったのだ……。


「もう……私から逃がしてあげなくちゃ」
 小さく呟いた総司は、くすっと笑った。


 逃げるのではなく、自分が彼を逃がしてあげるのだ。
 捕らえていたのは、自分の方だから。
 未練がましく京に残りさえしなければ、こんな事にはならなかったのに。
 だが、今からでも遅くないはずだった。
 まだ間に合うのだ。


 総司は燭台に火を灯すと、立ち上がり、部屋を横切った。葛籠をあけ、中の物を取り出し始める。
 丁寧に袋に包み、旅の準備を整えた。それ程の荷物はない。あらかた片付き、明け方には京を発つ事ができそうだと思った。
 ほっと安堵の息をつく。
 その時だった。
「……また逃げるのか」
 突然かけられた低い声に、鼓動が跳ねあがった。
「!」
 慌ててふり返った総司は、大きく目を見開いた。男は土間に佇み、切れ長の目で総司を見据えている。
 思わず、両手で胸もとを握りしめた。
「……土方、さん……っ」
 言葉が出なかった。ただ、その名を呼ぶ事しかできない。


 何故、ここにいるのか。
 それも、こんな時刻にどうして。


 だが、疑問を口にする事はできなかった。ただ、呆然と彼を見つめている。
 そんな総司を見据えたまま、土方はゆっくりと框に上がってきた。黒い着物が薄闇にとける。
 冴え冴えとした光を湛えた瞳が、鋭く向けられた。
「また逃げるのか。俺から逃げだすつもりか」
「逃げるって……」
 喉に声が酷くからんだ。だが、それでも、懸命に言葉を紡いだ。


 なんとか誤魔化さなければならないのだ。
 今夜さえ、うまくやり過せばどうにでもなる。
 明日の朝、此処を発ってしまえば、もう二度と逢う事はないのだから。


 そう思うと胸が酷く痛み、涙があふれそうになったが、それを必死に押し殺し、土方を見つめた。
「そんな事……どうして云うのです。それに、何故、ここに?」
「おまえが気になったからだ」
「え……?」
 訝しげに目を瞬いた総司に、土方は唇の端だけで冷たく嗤った。
 それに息を呑む。
 今まで見たこともない、酷薄な表情だった。
 仕事上ではどんなに残酷な仕打ちをしても、いつでも、総司には優しく甘かった彼。それは、再会してからも同じ事だった。
 なのに。
「今日の昼間、おまえは近藤さんと逢っただろう」
 土方は静かな声で云った。
 どうして、それを知っているのかわからぬまま、曖昧に頷くと、鋭いまなざしを向けられる。
「何を話していたか知らねぇが、おまえが決めた事だけはわかる。京から去るつもりだろう? この俺から、また逃げ出すつもりなのだろう……?」
 低い掠れた声に、総司は両手を握りあわせた。
 頭の奥で警鐘がなる。
 何かがおかしいと告げていた。異常なのだと。
 本能が恐れを察したのか、無意識のうちに躯が細かく震え出す。知らず知らずのうちに、後ろへ後ずさった。
 それを、慌てる事なく追いながら、土方はゆっくりと笑った。
 手をのばし、そっと総司の頬にふれてくる。冷たい指さきに、びくりと竦み上がった。
「優しく甘やかして、馴らしていってやろうと思っていたのにな」
「土方…さん……?」
「考えが甘かったか。それとも、おまえが頑なすぎるのか。結局、何をしても、おまえは俺から逃げようとするんだな」
「……まさか」
 大きく目を見開いた。
 どくどくと鼓動が激しくなり、呼吸ができなくなってゆく。
 総司は震える手をのばし、後ろの壁にすがった。でなければ、立っている事さえ出来なかった。足下が覚束ない。何もかもがぐずぐずと崩れ落ちていってしまいそうだ。
「まさか、土方さん……っ」
 掠れた声で問いかけた総司を、土方は傲然と見下ろした。
 微かに口角をあげる。
「……記憶の事か?」
「ぁ……」
「そんなもの全部、思い出しているよ。とっくの昔にな」
「!」
 次の瞬間、弾かれたように総司は身をひるがえしていた。
 もう彼の前にいる事さえ出来なかったのだ。恐ろしくて息がとまりそうで、いっそ消えてしまいたいと願った。
 だが、それは叶えられない。
 縁側から飛び降りようとした処で、男の片腕に抱えこまれた。そのまま引き戻され、畳の上へ押し倒される。
 乱暴な扱いに息がつまったが、必死になって身をおこした。這って逃げようとすると、足首を掴まれ荒々しく引き戻された。
「ッ、ぃ…や、離し……!」
「逃がすか……っ」
 熱を孕んだ声が部屋に響いた。
 ふり返れば、土方が欲情に濡れた瞳で総司を見下ろしている。まるで、獰猛な獣のような瞳だった。
 獲物に喰らいつく寸前の、獣だ。そして、喰らわれるのは己か。自分が彼の獲物なのか。
 男の手が着物の襟元にかかり、乱暴に引き下ろすのを感じた。畳の上に組み伏せられ、着物を剥がされてゆく。
「やッ、ぃやああッ!」
 総司は気が狂ったように暴れた。必死に土方の胸や肩を叩き、抗う。
 だが、それを土方は楽々と押さえつけた。両手首を一纏めにすると、総司自身の帯をぐるりと回し縛りつける。
 そのまま頭上の柱に括りつけられ、総司は大きく目を見開いた。
「な……っ」
 信じられない。
 あの優しい彼がこんな事をするなど、思ってもみなかったのだ。
 呆然とする総司の前で、土方はゆっくりと嗤ってみせた。ぞっとするほど酷薄な笑みだ。
 膝に男の大きな掌がかかり、するりと撫であげた。あっと思った時には、左右に押し広げられる。
「ぃ、や…だぁッ」
 開かれる下肢に、顔が火照った。恥ずかしくて堪らなくなる。


 土方に抱かれるのは、初めてではなかった。
 あの幸せだった頃、何度も躯を重ねたのだ。
 だが、それは、甘い睦言と口づけをかわしながらの行為だった。優しく互いを愛しあった。
 こんな手込めまがいの行為では決してない。


「やめ…て……」
 総司は弱々しく首をふった。潤んだ瞳で彼を見上げる。
 幸せな記憶が壊される予感がした。それだけは嫌だった。あの幸せな思い出に縋るようにして、今まで生きてきたのだ。
「お願い、やめて……許して……!」
「……」
「こんな事、おかしいです。土方さんらしくない……っ」
 気持ちを告げたつもりだった。優しい彼に戻って欲しくて、彼がこんな酷い事をするなど信じられなくて、云ったのだ。
 だが、それは逆効果だった。
「……俺らしくない、だと?」
 土方はぎらりと底光りする瞳で、総司を見据えた。切れの長い目の眦がつりあがり、頬が強ばっている。
 ぎりっと食いしばる奥歯の音が聞こえるようだった。
 突然、痛いほど肩を掴まれ、揺さぶられた。
「俺らしくないだと!? よくもそんな事が云えるな」
「土方…さ……」
「おまえに、俺の何がわかる! あの時、どんなにおまえを愛していたか知ろうともせず、他に男が出来たからと俺を切り捨てたおまえに、何が……っ!」


 弁解の余地などなかった。
 すべて、彼の言葉どおりだったのだ。
 幾ら彼のためだったとはいえ、彼を傷つけた事にかわりはない。
 彼を理解しようともしなかった事も、また真実だった。


 何も云い返せず唇を噛みしめた総司に、土方は歪んだ笑みをうかべた。
「おまえに、本当の俺を教えてやる……」
「土方さん……」
「総司、俺はおまえを縊り殺した。だが、二度目はない。もう……殺したりしねぇよ」
 くっくっと喉奥で低く嗤い、愛しげに目を細めた。
 しなやかな指さきが、ゆっくりと首筋から胸もとへと降りてゆく。
「殺すだけじゃ飽き足らねぇ」
 土方は耳もとに唇を寄せると、まるで睦言のように、囁きかけたのだった。
「死ぬまで飼い殺しにしてやるよ……」