「今日はここまで」
 総司が澄んだ声でそう云うと、子どもたちは一斉にお辞儀をした。
 口々に明るい声で挨拶しながら、部屋を出てゆく。賑やかな子どもたちの声が遠ざかると、後は、庭先で囀る雀の声だけになった。畳の上に、冬にしては珍しいあたたかな日射しが降り注ぎ、とても気持ちがよい。
 その日射しの中で、総司はせっせと寺子屋の後片付けをした。不意に、庭先から声をかけられる。
「今日は、もう店じまいか?」
「土方さん」
 声だけですぐにわかった。ふり返れば、庭の戸を押して土方が入ってくる処だ。
 それに、総司はすぐさま立ち上がり、駆け寄った。
「今終った処なので、どうぞ上がって下さい」
「いいのか」
「えぇ。もう後はお昼を頂くだけですから、あ、もしよければ一緒に」
「今から用意では、大変だろう」
「いいえ。一人で食べるより、おいしいですし」
「じゃあ、遠慮なくそうさせて貰うよ」
 土方は柔らかな笑顔でそう云うと、縁側から上がってきた。部屋に入り、着流しにした小袖の裾を払って腰をおろす。
 その流れるような仕草にちょっと見惚れつつ、総司は訊ねた。
「お昼と云っても、ただの雑炊ですけど、いいですか?」
「贅沢は云わねぇよ。そうだ、これを土産に持ってきた」
 そう云って土方がさし出したのは、卵が幾つも入った籠と、えび芋や堀川ごぼうなどの京野菜だった。どれも滋養がつくものばかりだ。
「こんなに沢山……いつもありがとうございます」
 丁寧にお礼を云った総司に、土方はかるく肩をすくめた。
「代わり映えのしないものばかりで、悪いが」
「悪いなんて、とんでもない。有り難く使わせて貰いますね」
 総司は大事そうに受け取り、さっそく土間へ運んだ。もともと試衛館で賄いを手伝っていた事もあり、こうした事は慣れている。手早く雑炊をつくると、囲炉裏にかけた。
 蓋をあければ、ふわりと湯気がたちのぼる。
「旨そうだな」
「さっき頂いた卵も入れたんですよ」
 総司はまず土方の分をよそい、それから、自分の分を椀に入れた。葉野菜と卵が主なあっさりした雑炊だ。だが、出汁がきいていて、とてもおいしい。
 土方は一口食べてから、頬を綻ばせた。
「あぁ、旨いな」
「本当に?」
 総司は、嬉しそうに声を弾ませた。
「私、料理の方、それ程出来るという訳じゃないのですが、こうした大人数で食べるようなものは結構つくれるのです」
「そうか」
「でも、土方さんは……」
 総司の声が僅かに掠れた。
「この間、持ってきてくれたみたいな料亭のお料理、いつも食べているのでしょう? 綺麗な女の人と一緒に」
「さぁ、どうだろう」
 悪戯っぽく笑ってみせた土方に、総司はきゅっと唇を噛んだ。箸を握りしめ、黙って雑炊を食べはじめる。
 そのどこか拗ねたような様子を、土方は面白そうに眺めた。
「妬いてくれているのか?」
「え」
「そんな拗ねた顔になるという事は、妬いているのだろう」
「ち、違いますっ」
 耳朶まで真っ赤になっている様は、そうだと肯定しているようなものだった。
 土方はくすくす笑いながら、総司の頬をそっと指さきで撫でた。
「大丈夫だ。最近はとんとご無沙汰さ」
 そう云った土方に、総司は小首をかしげた。
 少し躊躇ったが、思わず訊ねてしまう。
「……本当、に?」
「あぁ。そんな暇があるなら、おまえに逢いに来るからな」
「……」
 総司は驚いたように目を見開いた。それを、土方は不思議そうに見返した。
「実際こうして逢いに来ている。今更驚く事でもねぇだろう」
「でも……」
 ふと長い睫毛を伏せた。なめらかな白い頬に翳りが落ち、ぞくりとするほどの艶めかしさだ。
「あなたは忙しい身の上なのに、その上、女の人の処にも行かず、こんな……私の処になんか来て」
「俺がおまえに逢いたいから、来ているんだ」
「逢いたい……」
「おまえは? 総司はそう思ってくれねぇのか」
 濡れたような黒い瞳で見つめられ、どきりと鼓動が跳ね上がった。かぁっと頬が熱くなるのが、自分でもわかる。
 何も答えられぬまま、また食事をつづけてしまったが、土方がじっとこちらを見つめているのがわかった。それに、泣き出したくなってしまう。


 逢いたい、なんて。
 逢いたくて逢いたくて、たまらないのに。
 あの幸せだった頃のように──新撰組の屯所にいた時のように、いつも傍にいられたら。
 愛してる、と告げてしまいたい。
 逢いたいです、と告げてしまいたい。
 だが、今の彼は何も覚えていないのだ。
 ここにいるのは、総司との記憶をすべて失ってしまった男。あの甘やかな日々も、あの恐ろしい嵐の夜も、何もかも捨て去り、また新たな人生をやり直そうとしている彼の───


(……私は、何をやっているの)


 総司はきゅっと唇を噛みしめた。
 やり過していくつもりだった。こうして、流されるまま息をひそめていくつもりだった。
 だが、土方はそれを許してくれない。そして、許されるべきではなかった。
 彼は今、新たな人生をやり直そうとしているのだ。大事な時なのだ。なのに、そんな彼に再会してしまった挙げ句、また、同じ事をくり返そうとしている。
 今はまだ、土方もかるい気持ちでしかないだろう。突然出逢った自分に興味をもち、こうして訪れてくれているに過ぎない。好きだと告げられても、それを話半分にしか聞く事ができなかった。
 そんな逢ったばかりで、男に惚れてしまうなど、ありえるはずもないのだから。
 気まぐれにすぎないに決まっている。
 だが、このまま時を過していけば、もし、土方が飽きるどころか、また自分を愛してくれるようになったら……。


 総司は目を伏せ、微かに苦笑した。
 ───愛されるなど。
 そんな事、考えるだけでも烏滸がましいのに。
 彼に再び愛される資格など、何処にもないのだ。あれ程傷つけ、裏切った自分が何を云っているのか。
「……」
 考えに沈んでしまった総司だったが、不意に、はっと我に返った。
 彼の前で、あまり己の感情を出すのは危険な事なのだ。決して気づかれてはいけないのだから。
 そう思いつつ顔をあげた総司は、とたん、息を呑んだ。
「──」
 男の鋭い瞳が、総司を見つめていた。
 一瞬、声が出なかった。息をつめたまま、彼を見つめ返す。
 まるで別人のようだった。柔らかく微笑んでいた土方とはまるで違う、鋭いまなざしだ。
 だが、総司がこちらを見た事に気づくと、ふっと視線をそらした。表情をやわらげ、椀を口にはこぶ。
 目を伏せたまま、ゆっくりとした口調で訊ねた。
「明日も、寺子屋はあるのか」
「……え…、いえ」
「なら、どこかへ散策に出かけよう」
「……」
 何事もなかったように話をする土方の前で、総司は動悸がなかなかおさまらなかった。微かに指が震えた。
 それが見抜かれてはいないかと、伺ってしまう。
 あらためて思い知らされた気持ちだった。
 記憶を失っても、彼は彼なのだ。決して、優しいだけの男ではない。
 新撰組の副長として常に冷徹な判断を下し、時には残酷とも云える所業を眉一つ動かさず行ってきた。
 総司にとっては、甘すぎるほど優しい恋人だったが、彼自身の本質は決してそうではない。激しく燃え上がる焔のような熾烈さをもった男なのだ。
 その彼が一瞬垣間見せた、本性。


(土方さんは、私をどう思っているの……?)


 気まぐれなのか、それとも、本当に愛しいと思い始めているのか。
 まさか、と思いつつも、考えてしまわずにはいられない己の弱さに、総司は唇を噛んだ。












 翌日、土方は約束どおり迎えにやってきた。
 そのまま家から連れ出され、駕籠に乗せられる。不安を抱いたまま着いた先は、北野天満宮だった。
 賑やかに広がる天神市に、思わず目を見開いた。
「土方さん、これ……」
「おまえの好きそうなものが、色々ありそうだろう?」
 土方は柔らかな笑顔で、総司の細い肩を抱きよせた。耳もとで優しい声が囁く。
「何かふさぎ込んでいるようだったからな、いい気晴らしになればと思ったんだ」
「……」
 総司は息を呑んだ。


 ほんの少し考えこんでいただけで、こんなふうに気づかってくれるなんて。
 彼の優しさが胸に染みるようだった。
 嬉しくて嬉しくて、たまらなくなる。


 土方と総司は連れ立ち、市をゆっくりとまわった。
 様々な珍しいものが売っている店に、総司は思わず見入ってしまう。
 だが、土方の途方もない甘やかしぶりには困ってしまった。総司が手にとったものを、すぐさま「気にいったのか」と買ってしまうのだ。
「もう……やめて下さいってば」
 何度めかのやり取りの末、桜色の唇を尖らせて云う総司に、土方は小さく笑ってみせた。はっと見惚れてしまうぐらい、綺麗な優しい笑顔だ。
 その笑顔で総司を見つめ、訊ねた。
「欲しいと思ったのだろう?」
「そうですけど、でも……」
「なら、買ってやる。遠慮をするな」
「そういう事じゃないんですってば」
 いったい、どう云えばいいのか。
 ため息をついた総司は、ふと思い出した。


 昔からだったのだ。
 宗次郎だった頃も、土方はよく祭に連れていき、色々と買ってくれた。菓子や玩具など、欲しそうに見ているだけで買ってくれたものだった。
 そうして、帰りは彼に背負ってもらった。
 広い背がどれ程心地よく、安心できたか。その感じを今でもよく覚えている。
 だい好きな彼を独り占めできることが嬉しくて、ぎゅっとしがみついた宗次郎に、土方は笑い声をたてた。試衛館へ帰る道々、色々な話をしてくれたのだ。
 その優しさは、恋人になってからも変わらなかった。
 だからなのか、自分は、いつも彼の愛情が兄弟の延長線上にあるような気がしていたのだ。男の情念のようなものを感じず、ただ、その優しさに甘えていた。
 挙げ句、彼を傷つけて……。


 物思いにふけり、黙り込んでしまった総司に、土方は切れの長い目をむけた。そっと肩に手をかける。
 我に返って顔をあげた総司を、土方は覗き込んだ。どこか心配そうな表情になっている。
「……怒ったのか」
「え?」
「妙に黙り込んでいるからな、怒ったのかと」
 ちょっと驚いてから、総司は首をふった。
「違いますよ。ただ……」
「ただ?」
 聞き返す土方に、総司はきゅっと唇を噛んだ。少し突き放すような口調で云い放つ。
「贅沢すぎます。土方さん、私を甘やかしすぎです」
「そうかな。贅沢ではないと思うが」
 土方は肩をすくめた。
「惚れた相手に甘くするのは、当然のことだろう?」
「……」
 臆面もなく云ってのける土方に、総司は顔を赤らめてしまった。


 どうして、この人はこんな事をさらりと云ってしまえるのだろう。
 私は、自分の気持ちの一つさえ伝えられないのに。


 俯いている総司に、土方が手をのばした。そっと指をからめてくる。
 総司はそれをふり払うことが出来なかった。人波の中なので、見とがめられることもない。二人は手を繋ぎ、寄りそうようにして境内を歩いた。
「そろそろ、昼だな」
 土方が空を見上げ、云った。総司の手をぎゅっと握り、優しい笑顔で見下ろしてくる。
「近くにいい小料理屋があるんだ。そこで食事をとろう」
「そんな、高いでしょう?」
「おまえが気にする事ではないさ。俺の好きにさせてくれ」
「はい……」
 躊躇いつつも、総司は頷いた。その時だった。
「……あ」
 思わず声をあげてしまった。
 だが、すぐさま、しまったと思った。どうすればいいのかわからず、息を呑んでしまう。
 市の喧噪の中、一人の男が佇んでいた。
 斉藤だ。
 だが、その斉藤を、総司はよく知るはずもないのだ。あの夜、一度会っただけなのに、こうして気づくなどあり得ない。それを追究されたら、いったいどう答えればいいのか。
 総司は混乱しきった頭のまま、呆然と立ちつくした。
「……」
 一瞬、土方がこちらを鋭く一瞥した気がした。冴え冴えとした瞳が総司をかすめる。
 だが、またしても、総司が彼の方を見たとたん、視線はそらされていた。いつもの静かな表情で、斉藤の方にむかってゆく。
 凜とのばされた男の背を、総司は追った。
「奇遇だな」
 そう云った土方に、斉藤は無表情のまま一礼した。鳶色の瞳が総司を見るが、表情は変えない。
「副長がこんな処にとは、珍しいですね」
「あぁ、友人を連れてきていた」
「そうですか。私は一人です、これから屯所へ戻る処で……」
「昼時だろう。共にしないか」
 土方の言葉に、総司は思わず声を呑んだ。
 三人で顔をあわせてしまっただけでも気まずいのに、食事まで共にするなど、堪えられそうになかった。緊張のあまり、とんでもない事を口走ってしまいそうだ。
「あ、あの……」
 断ろうと、総司は慌てて口をはさみかけた。だが、先回りするように斉藤が云った。
「いえ、せっかくですが……」
「何か用事でもあるのか」
「稽古をつける約束をしていますので」
「そうか」
 土方は微かに笑った。
「それは、残念だな」
「……失礼します」
 斉藤は総司の方にも目礼し、踵を返した。歩み去ってゆく。
 それをぼんやり見送っていた総司に、土方が声をかけた。
「では、行こうか」
「え」
 何事もなかったような口調に、目を瞬いた。だが、すぐさま彼にとっては何でもない事なのだと思い返し、慌てて頷く。
「え、えぇ」
 土方は総司の肩をかるく抱くようにして、市の雑踏の中から連れ出した。ゆっくりと通りを下ってゆきながら、何気ない口調で訊ねる。
「おまえは、あの後、斉藤と逢った事があるのか」
「え」
 どきりとした総司に、土方はくすっと笑った。
「いや、一度しか逢った事がないはずなのに、あの雑踏の中でよくわかったなと」
「たまたま…ですよ」
「そうか」
 土方はかるく頷いた。
 それきり追究されなかった事に、総司は思わず安堵の吐息をもらした。だが、一方では思ってしまう。
 秘密というものは、こうした些細な事から、露見していってしまうのかもしれないと。
 どうすればいいのか、不安だけが激しくつのった。
 あんな処で斉藤と突然会うなど、まるで謀られたようだった。そんな事あるはずないが、つい思ってしまう。
 何しろ、咄嗟の事だっただけに、あんな反応をしてしまったのだ。あらかじめ心構えがあれば、自分も取り繕えるはずだった。
 なのに───


(秘密というものは、こうして綻びが出てゆくものなの……?)


 総司は云いしれぬ不安に、きつく唇を噛みしめた。
 その様子を傍らから、土方が鋭い瞳で見つめていた事に、気づかぬまま……。
















少しずつ少しずつ、手の内に総司をおさめてゆく土方さんです。