「一応、丁寧に詫びておくさ」
 土方は文を片手で弄びながら、唇の端をつりあげた。
「隊の仕事上という事にすれば、波風もたたんだろう?」
「……」
 あれ程いい縁談を断るという土方に、しばらくの間、近藤は絶句していた。やがて、畳の上に腰をおろすと、絞り出すような声で云った。
「日野にはどう説明するつもりだ」
 あの縁談は、彼一人のものではないのだ。
 日野から持ち込まれた話であり、容易に断れる話ではない。だからこそ、近藤も薦めざるを得なかったし、挙げ句、総司にあんな酷い事を強いてしまったのだ。
 その事を思い出す近藤の前で、土方はくすっと笑った。
「まぁ、何とでも適当に」
「……」
 まるで他人事のように云ってのける土方を、近藤は信じられないものを見るように凝視した。
 やがて、呻くような声で呟いた。
「……他に想う者がある故なのか」
「……」
「そうなのだな、歳」
「──」
 土方は酷く冷めた一瞥を、近藤にむけた。ふっと口角をあげる。
 その表情からは、彼の中にあるだろう思惑も感情も、全く伺い知れぬ。


 もともと底知れぬ、何を考えているのかわからぬ男だった。
 だが、それが最近、より一層増した気がした。
 理解できぬ何かを捨て去り、限界を超えてしまったような表情。
 それが、長年の友である近藤に、奇妙な焦燥感と恐れを抱かせるのだ。


「歳、おれは」
 近藤は膝上に置いた拳を固めつつ、云った。
「おまえが……心配だ」
「……」
「おまえが、どこかとんでもない場所へ突き進んでいる気がする。己自身を追い詰めている。そんな気がしてならんのだ」
「大丈夫だよ、近藤さん」
 土方は静かな表情で答え、手をのばした。近藤の肩をかるく叩き、深く澄んだ瞳で友人を眺める。
「俺は自分が何をしているか、よくわかっている。この縁談を断ったのも、結局は忙しい隊に身を置いている俺では、所帯をもつなど難しいと判断しての事さ。あんたが心配するような事じゃない」
「だが、歳」
「あんたには迷惑をかけない。約束する」
 そう、きっぱり云いきった土方を、近藤は見つめた。
 土方は端正な顔に柔らかな笑みをうかべている。だが、その黒い瞳は冷たく澄んでいるのだ。
 底知れぬ闇のように。
「……」
 近藤は何も云うことが出来ぬまま、奥歯を噛みしめた。












 近藤が部屋を去った後、土方は黒谷へ向う準備を始めた。
 会津藩の重役たちと会うため、正装しなければならないのだ。手早く着付けていきながら、ふとある事を思い出し、目を細めた。


『……土方さん……』


 いつか、己にふれた細い指さきを、思い出したのだ。
 静かに帯を締め、羽織をかけてくれた細い指さき。
 ふり返った彼に微笑みかけ、刀をさし出した、あの───


 思わず固く瞼を閉ざした。


 まるで恋女房のようだと悪戯っぽく笑った自分に、あの愛しい恋人は恥ずかしそうに頬を染めたのだ。
 伏せられた長い睫毛、ぞくりとするほど艶めかしい白い項。
 一つ二つ、戯れ言を云えば、つんと尖らせた桜色の唇で云い返された。そのくせ、大きな瞳は甘く潤み、男の心をたまらなく浮きたたせたものだ。
 幸せな日々。
 夢のように幸せだった日々。
 あの頃はもう二度と帰らぬのだと。
 真夏の嵐の夜、己自身の手で絶ちきってしまったのだとわかっているが、それでも、この胸に息づく想いを捨て去る事はできない。
 愛してる──と。
 たとえ、二度とその瞳に誓う事も、囁きかける事も出来なくとも、己の気持ちを裏切る事だけは出来ないのだ。


 土方は目を開くと、両刀を取り上げた。
 こんなにも愛する者がいながら、どうして何故、他の者を娶らなければならないのか。それは己自身への裏切りである気がした。
 狂ってしまうほど愛し、囚われているのなら、いっそ地獄へ堕ちたとしてもその愛を貫いてしまいたい。あの最愛の恋人が己を拒み、逃げつづけたとしても。
 とうの昔に、その気持ちは彼から失せてしまっているのだと、わかっていても。
「……それでも、愛してる」
 低い声で、土方はそっと囁いた。
 その存在が目の前にいるかの如く、優しく──そして、狂おしい表情で。
「愛してる……」
 男の瞳が、一瞬、燃えるような焔を宿した。












 井戸から水をくみ上げていた総司は、不意に軽くなったことに驚いた。
 ふり返れば、一人の男が後ろから抱きこむようにして、手をそえている。
「土方さん」
 目を見開いた。
 もう夕暮れ時だった。
 こんな時刻に彼が訪ねてくるなど、珍しいことだ。遅い頃になれば疲れているだろうと気づかい、朝や昼頃にしか訪れない男なのだ。
 むろん、総司は、彼に逢えるのならいつでも嬉しかったのだが。
「どうしたのです、こんな時刻に」
 総司は慌てて手を拭いながら、問いかけた。支度をしますからと家へ戻りかけたが、すぐさま引き留められる。
 土方は総司の細い手を掴み、ゆるく首をふった。
「通りがかっただけだ。長居はしないさ」
「え」
 顔に、がっかりした思いが出てしまったのだろう。
 土方が、くすっと笑った。指さきで、そっと頬を撫でられる。
「淋しいか? もっといて欲しいと思ってくれたのか?」
「そ、そういう訳じゃありませんけど」
 総司は頬をあからめ、口ごもった。だが、それが嘘である事は明らかだ。
 そんな表情に一瞬目を細めた土方だったが、すぐさま気持ちを切り替えた。縁側に腰を下ろしながら、微笑みかける。
「少しなら話をしていける。あぁ、そうだ。夕飯は済ませたのか?」
「あ……いえ、今から用意をする処ですけど」
「なら、これを食べるといい」
 土方は手にしていた風呂敷を広げ、中から弁当を取りだした。
 長芋や卵、蓮根、秋大根など滋養のつくものが彩りよく料理され、詰められてある。料理人が腕を奮っただろう弁当は花畑のように綺麗で、とても美味しそうだった。
「わぁ、おいしそうですね」
「俺の行きつけの店でつくって貰ったものだ」
「ありがとうございます」
 酢でしめた葉鮨もあり、どれも総司の好みに適いつつ、体に力をつけるものばかりだ。病もちであり、また好き嫌いの激しい総司の好みを知らなければ、揃えられぬような食事。
 だが、それを何の不思議にも思わぬまま、総司は有り難く受け取った。茶をいれ、さっそく縁側に座布団を敷いて食べる。
「うまいか?」
 問いかけられ、総司はこくりと頷いた。それに、土方が安堵したように微笑む。
「良かった。なら、今度からこの店のものを持ってこよう」
「でも、高いでしょう? こんな」
「それ程でもないさ。刀に比べれば、たいした事はない」
「比べる対象が違いすぎますよ」
 楽しそうにくすくす笑った総司を、土方は柔らかなまなざしで見つめた。その男の視線の中で、細い肩が僅かに竦んだ。
「寒いのか」
「え……あ、少し」
 総司がそう答えるなり、ふわりと躯があたたかくなった。見れば、土方の羽織をかけられている。
 驚き、慌てて返そうとした。
「こ、こんな……いいですよ。大丈夫です」
「風邪をひいたら困るだろう」
「でも、土方さんこそ風邪をひきます」
「俺が風邪をひくような柔な男か」
 くすっと笑い、土方は優しい手つきで総司の肩に羽織をかけ直させた。すっぽりとくるんでやりながら、柔らかな声音で囁く。
「いいから……こうしていろ」
「……はい」
 総司は頬を染め、こくりと頷いた。
 本当は嬉しかったのだ。手放したくなかったのだ。
 彼のぬくもりが残った羽織につつまれるなど、まるで彼に抱きしめられている気がした。それが嬉しくてたまらなかった。
 土方からの優しさは、くすぐったく感じながらも、やはり、愛しい男に甘やかされる心地よさにうっとりしてしまう。
 もともと幼い頃から、総司は、この男自身の手で育てられたようなものだった。
 十の年に道場へ入り、土方と出逢い、そして思うさま愛され甘やかされた。辛い事があれば必ず庇ってくれ、いつもその力強い腕の中、抱きこむようにして守ってくれたのだ。
 優しく甘く、愛された記憶しかない。


(……なのに)


 総司は思わず目を伏せた。
 傍に土方がいる事も忘れ、憂いの表情できつく唇を噛みしめてしまう。


 裏切ったのは、この人を傷つけたのは──私の方なのだ……。


「……総司?」
 気が付けば、土方が怪訝そうに総司を覗き込んでいた。
 箸を手にしたまま、考え込んでしまっていたのだろう。
 慌てて顔をあげたとたん、思いがけぬほど近くにあった端正な顔に、どきりと鼓動が跳ね上がった。
「あ、な…何ですか」
「それは、俺の台詞だ」
 くすっと笑い、土方は腕を組んだ。
「何を考えていたのか、かなり長い間、ぼんやりしていたぞ」
「すみません」
「謝る事ではないが、何か悩みでもあるのか?」
 その悩みの元である彼自身からそう問いかけられ、総司は思わず瞠目してしまった。困惑の表情がうかんだのだろう。
 土方はすぐに苦笑した。
「いや、そんな困った顔をさせるつもりはなかった。まだ知り合って間もないのに、踏み込みすぎてしまったようだな」
「踏みこみすぎだなんて……」
「なら……話してくれるのか?」
 再び訊ねられ、総司は目を伏せた。云えるはずがない。
 彼が記憶をもたない以上、話せる事ではなかった。云えば、何もかもが終わりだ。
「……ごめんなさい」
 小さな声で謝った総司に、土方は僅かにため息をついた。
 しばらく黙っていたが、やがて、総司の細い肩を抱いて己の胸もとに引き寄せると、そっと髪に口づけを落としてくれる。
「すまない、俺の方こそ……いやな思いをさせた」
「いやな思いなんて、してないけど、でも……」
「もういい。俺はおまえの笑顔が見たくて、ここに通ってきているんだ。今の事はすっぱり忘れて、いつもみたいな可愛い笑顔を見せてくれ」
 そう囁きかけた土方に、総司は耳朶まで真っ赤になってしまった。低い声で囁きかけられた睦言に、心がうきたつ。
「可愛いって、そんな」
「おまえは、すげぇ可愛いよ」
 土方は総司の躯をおこし、その愛らしい顔を覗き込んだ。
 微かに潤んだ大きな瞳で、従順に男を見上げている様は、可憐そのものだ。小さな、さくらんぼのような唇も、なめらかな頬も、まるで精巧な人形細工のようだった。
 笑顔ともなれば、それはもう花が咲き零れるようだ。
「誰よりも可愛いし、綺麗だ」
「私相手に、そんな事を云わないで下さい」
「何故? 本当の事を云ってるつもりだぞ。おまえはすげぇ可愛いからな」
「もう、土方さんったら」
 軽口を叩く土方に、総司も随分と気が晴れたようだった。男の腕の中、くすくす笑っている。
 それに土方は嬉しそうに笑い、総司の躯をぎゅっと抱きしめた。
「ほら、その笑顔だ。花みたいな笑顔だな」
「土方さん」
「すげぇ綺麗だよ。可愛い」
 何度もそうくり返す男の腕の中、総司はうっとりと微笑んだ。


 もういい、と思う。
 何がどうなってしまっても、今だけは構わない。
 この優しくて甘い時が限られたものであっても、いずれ、この人は他の誰かのものになってしまう運命であっても。
 今が幸せであれば、それでいいから。それだけで構わないから。
 この人を愛していられるのなら。


 総司は、土方の腕の中で、今この瞬間だけ許された幸せを噛みしめた。
 男の胸もとに凭れかかり、そっと目を閉じる。
 だが、だからこそ──知らなかったのだ。
 その総司を抱きしめる男が、どんな瞳をしていたか。
「……」
 先程までの甘やかな表情は、そこにはなかった。ぞっとするほど昏い光を宿した瞳が、総司を見つめている。
 それは、己だけの獲物を見つけ出した、獰猛な獣の瞳だった。
 奪われた愛に飢えたあまり、狂ってしまった男の。
 狂暴な──愛。
「……」
 土方は黙ったまま総司の小さな頭を、そっと胸もとに抱きこんだ。大切な大切な幼子のように、その柔らかな髪に頬ずりした。
 狂った愛を、刻みこむように。


(総司……愛してる、愛してる、愛してる)


 ようやく取り戻した最愛の恋人を抱きしめ、土方は、昏い愉悦の笑みをうかべた……。

















狂気じみた土方さんに、総司は囚われていきます。