呆然としている総司の耳元で、男の低い声が囁いた。
「白い山茶花を見て想ったのは、おまえのことだ」
「……っ」
「この花のように、おまえは綺麗で愛らしい」
 まるで睦言のような言葉に、総司は躯中が震えるのを感じた。狂おしい程の歓喜がこみあげる。
 総司の胸の前で腕を交差させ、土方はその白い首筋に顔をうずめた。そっと、彼の唇が押しあてられる。
「……ぁ」
 思わず甘い吐息をもらしてしまった総司に、土方は小さく、くすりと笑った。
 それに、はっと我に返った。


 私は今、この人と何をしていたの。
 こんな事、許されるはずがないのに……!


 思わず強く身を捩った。彼の腕から、懸命に逃れ出る。
 それに、土方も不思議と抗わなかった。黙って、そのままにしてくれる。
 総司は彼の腕から逃れると、向き直り、叫んだ。
「な、何を考えているのです……!」
「総司」
「私は男ですよ。なのに、いったい……っ」
「綺麗なものを綺麗だと告げて、何が悪い」
 悪びれた様子もなく、土方は前髪を片手でかきあげながら、悠然と笑った。男らしい精悍な笑顔に、目眩がする。
「俺はおまえに逢った時から、惚れている」
 堂々と告げられ、総司は大きく目を見開いた。
 まさか、こんな風にはっきり告げられるとは、思っていなかったのだ。
「おまえが好きだ」
「そんな……っ」
「確かに、俺には許婚がいる。だが、一目見ておまえが気にいってしまったのだから、仕方ねぇだろう。おまえは……俺が嫌いか?」
 傲慢でありながら、どこか不安げに訊ねられ、総司は言葉に詰まった。
 彼を嫌いと云えるものなら、そう云ってしまうべきだった。
 その方がいいに決まっているのだ。
 だが、どうしても出来なかった。こんなにも好きで好きでたまらない人に、嫌いだなどと、どうして云えるだろう。
「……っ」
 思わず俯いてしまった総司に、土方は手をのばした。そっと腰に腕をまわされ、引き寄せられる。
 びくりと躯を震わせた。それに、土方が苦笑する。
「何もしやしねぇよ」
「土方…さん」
「たとえ、おまえに嫌われていたとしてもな。何しろ、俺はあの新撰組の土方だ。おまえに嫌われても、仕方がない」
「嫌ってなんか」
 掠れた声で、総司は否定した。それだけは、と思ったのだ。
 こんな悲しげな表情を、彼にさせたくない。孤独を味あわせたくない。
「嫌ってなんか、いません」
「本当に?」
「はい」
 こくりと頷いた総司に、土方は嬉しそうに笑った。少年っぽい笑顔に、思わず見惚れてしまう。
 深く澄んだ瞳がこちらを見つめた。
「好きだ、総司」
「土方、さん……」
「一目見た時から気にいって、欲しくてたまらなくなってしまった。俺のものにしたいと思った。こんな風に思った事は、正直、初めてだ」
「……」
 総司は黙ったまま、目を伏せた。


 記憶というものは不思議だと思った。
 あの頃、愛されていた事は、確かだった。それも、殺してしまうほど愛されていたのだ。
 そして、今。
 総司の名も二人過した日々も皆、忘れ去っていながら、それでも、土方は総司に惹かれている。


「……土方さん」
 総司は狂おしいほど愛しい男の腕の中、彼の名を呼んだ。
 そして、あの頃のように広い胸へ頬を寄せると、静かに目を閉じたのだった……。












 突然、斉藤が訪ねてきた。
 もっとも、以前からよくあった事だ。総司が住んでいるこの家は、彼が用意してくれた為、尚更のことだった。
「……躯の調子はどうだ」
 手みやげの卵や菓子を渡しながら、斉藤が訊ねた。それに、中へ入るよう促しながら、小さく笑う。
「ここの処、ちょっと風邪気味かもしれません」
「無理するなよ」
「えぇ、わかっています」
 総司は座布団をすすめ、しゅんしゅん沸いている鉄瓶から、湯を急須へ注いだ。茶と共に、斉藤が持ってきてくれた練り菓子をさし出す。
 いいのか?という顔をする斉藤に、くすっと笑った。
「一人で食べるより、おいしいですから」
「じゃあ、遠慮なく」
「遠慮って、斉藤さんが持ってきてくれたものでしょう?」
「まぁ、そうなんだが」
 斉藤は照れたように笑ってみせた。それに、ころころと笑う。


 総司にとって、斉藤は大切な友人だった。
 剣術は総司と互角の腕をもち、そのくせ、どこか飄々としている斉藤といると、総司はいつも心がやすまった。
 土方とはまた違う意味で、大切な存在なのだ。


「……一つ、聞きたいのだが」
 あれこれと隊の事を話してから、斉藤が不意にあらたまった様子で姿勢を正した。見れば、その鳶色の瞳は真剣な色をうかべている。
 それを見つめ、総司は両手を握りしめた。
「土方さんの事ですか」
「あぁ」
「時々、ここへ訪れてきてくれます」
「そうか……最近、外出が増えた、花街ではないかと噂になっていたが、おまえの処だった訳か」
 困ったようにため息をついた斉藤を、総司は不安げに見つめた。
「……近藤先生は、お困りでしたか?」
「困っているというより、どうすればいいのかと考えあぐねているようだ」
「すみません」
 総司は思わず目を伏せた。
「私が京に残りたいと云ったばかりに……それに、あの夜、私があんな行動をとらなければ……」
「総司が強く望んだ事だ、今更云っても仕方がないさ」
「でも……」
「それより、これからの事を考えるべきだろう?」
 斉藤の静かな声音に、総司は、はっとして顔をあげた。
 それを見つめつつ、斉藤はゆっくりと言葉をつづけた。
「どうすべきかなど、オレがおまえに云う事ではないと思う」
「……」
「だが、これだけは云わせてくれ。このままでは元の木阿弥だ。土方さんはおまえに再び逢って、夢中になってしまった。また殺されるかもしれない、そんな危険におまえを晒す気に、オレは到底なれないんだ」
「斉藤さん……ありがとう」
 総司は小さく微笑んだ。小首をかしげ、僅かに潤んだ瞳で彼を見つめる。
「いつも、本当にありがとう。あの時も……今も、こうして私の事を心配してくれる。私の事を思って、助言してくれる」
「……」
「なのに、それに従えず、我侭ばかり云って困らせているのは私ですね。本当に、ごめんなさい」
 頭を下げる総司に、斉藤はきつく唇を噛みしめた。
 はっきり口に出した訳ではなかった。だが、これはある意味、拒絶なのだ。斉藤の、近藤の薦め──つまりは、京から去るべきだという言葉への、拒絶。
「土方さんを……破滅させてもか」
 どこか掠れた声で問いかけた斉藤に、総司は顔をあげた。大きな瞳がまっすぐ見つめる。
 それを見返しながら、言葉をつづけた。
「このまま、土方さんがおまえに溺れてゆけば……いつか隊にも知れる。そうなれば、醜聞沙汰だ。縁談も駄目になるだろう。それでも、おまえは構わないと云うのか?」


 残酷だと思った。
 こんな酷い事を、詰るように云いたくなかった。
 斉藤にとっても、総司は大切な存在だ。愛しい存在だ。
 それを傷つけるなど、出来るはずもなかったが、総司の不幸へ繋がるとなれば話は別だった。
 総司を守るためなら、鬼にもならなければならないのだ。


「構わないなんて、そんな」
 総司はゆるく首をふった。しばらく黙った後、だが、僅かにため息をついた。
「以前なら、私は黙って京を去ったと思います。それで終わりに出来ると信じていた。でも」
「でも?」
「私は、あの人の激しさを知ってしまったのです」
 長い睫毛を伏せ、きゅっと細い指さきを握りこんだ。
「確かに、愛されていると思っていました。でも、あんなに狂ったように……奪われたら殺してしまう程、愛されているなんて思ってもみなかったのです」
「……総司」
「土方さんは、また私を愛してくれました。前と同じ熱っぽい瞳で私を見つめ、求めてくる。その彼の前から私が姿を消せば、どうなるかなんて、もうわかりきった事じゃないのですか……?」
「……」
 思わず黙り込んでしまった。


 そのとおりだった。総司の云うとおりだったのだ。
 土方は、総司を失う事を由としない。認めない。失った事で、逆に記憶を取り戻してしまうかもしれない。
 何もかも思い出せば、それこそ狂ったように探し求めるだろう。
 そうなれば、土方の破滅は目に見えていた。
 彼の心と同時に、地位も立場も、何もかもが崩壊してしまうのだ。


「私は……このままやり過そうと思っています」
 総司は静かな声で云った。
「このまま、土方さんの記憶が戻らない事を願って、こうして時々の訪れを待つだけの日々。それでいいのだと、心から思っているのです」
「だが、それでは」
 斉藤は眉を顰めた。思わず、総司の手をとり、握りしめてしまう。
「総司、おまえが辛いのではないか? 自分を覚えていない、土方さんを前にして……何もかも己の中に閉じこめて、そんな日々が幸せであるはずがないだろう」
「いいえ」
 ゆっくりと、総司は首をふった。
 そして、はっと息を呑むほど、きれいな花のような微笑みをうかべる。
「私は十分幸せです。あの人の傍にいられるのですから、あの人と逢えるのですから……それだけでもう、何も望む事はありません」
「……総司……」
 きっぱりと云いきった総司に、斉藤はもう何も云えなかった。


 どんなに引き離されても、めぐり逢い、また惹かれ愛しあってしまう二人。
 まさに、運命の恋人たちだった。
 それに、神でもない自分が何を云う事ができるだろう。


 黙りこんでしまった彼の手を、総司はそっと握り返した。
「色々ありがとう……斉藤さん」
 小さな声は、斉藤の胸に染みた。












 土方は縁側から庭に降り立つと、空を見上げた。
 形のよい唇から、白い吐息がもれる。
 黒紬の小袖を着流し、そうして懐手をして佇んでいる様は、まるで一幅の絵のようだった。
 端正な顔だちが冷たい朝靄の中、息を呑むほど美しい。
 しばらく何事かを考え、目を細めていた土方だったが、やがて、僅かに唇を噛んだ。憂いの翳りがその表情に落ちる。
「……歳」
 縁側の方から声をかけられ、土方はふと我に返った。ふり向けば、近藤が佇んでいる。
「あぁ」
 ゆっくりと縁側の方へ戻っていきながら、土方は微かに笑ってみせた。
「黒谷へ行く時刻か」
「いや、まだ早いが……」
 ゆるく首をふってから、近藤は縁側にあがってきた土方に、視線をむけた。躊躇いがちにだったが、問いかける。
「おまえ、まだあの家へ通っているのか……?」
「あの家?」
 怪訝そうに眉を顰め、だが、すぐに得心がいったようだった。
 部屋へ入って行きながら、ごく当たり前のように答える。
「総司の処か。むろん、行っている」
「むろんとは……どうして、また行くのだ」
「行ってはならぬ理由があるのか?」
 逆に問い返され、近藤は言葉に詰まった。まさか、その通りだとは云えぬ。
「そう…ではないが」
「なら、いいだろう。俺はあの家へ行くのが楽しいし、総司と言葉を交わすのも楽しい。それで仕事に支障をきたしている訳じゃねぇんだから、あんたが構う事ではないはずだ」
「しかし、通うのなら、別の場所があるはずだ。おまえには許婚がいるのだぞ」
「あぁ、成程」
 土方は文机の前に腰を下ろしながら、肩をすくめた。近藤の方を見やりながら、くすっと笑う。
「あんた、あっちの家からせっつかれたな。俺が全然よりつかねぇって、文句の一つでも云われたか」
「文句を云いたくもなるだろう」
 近藤は嘆息した。
「おまえ、文も何も寄越さず、顔一つも見せていないそうではないか」
「当然さ」
 くっと喉を鳴らし、土方は形のよい唇の端をあげた。黒い瞳が冷たい光を湛える。
「そろそろ、断りを入れようと思っていた処だからな」
「な…に……!?」
 驚愕に目を見開く近藤を前に、土方は不敵な笑みをうかべた。


















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