突然、刀の鋭い音が響いた。
 はっと身構えた総司は、周囲を見回した。音は角の向こう側から聞こえる。
 やはり新撰組に身をおいていた時の癖だろう。反射的に駆け出していた。
 角を曲がったところで、数人の男たちが斬り合っていた。否、襲っていたのだ。複数の男たちが、一人の男を取り囲んでいる。
 だが、その襲われている男を見た瞬間、総司は、あっと息を呑んでいた。


(土方さん……!)


 思わず心に叫んだ総司は、次の瞬間、刀を抜き放っていた。気が付けば、無我夢中で男たちの中へ飛び込んでいた。
 彼を助けなくては。その事しか頭になかったのだ。
 突然の加勢に、当然、男たちは浮き足だった。それを総司は鮮やかに斬り捨てた。傍らで土方が驚いているのがわかったが、今更引けるはずもなかった。
 傷を負った男たちが逃げ出した後、総司は左腕に微かな痛みを感じた。薄く斬られていたのだ。
 それに、土方はすぐさま気がついた。手をさしのべてくる。
「大丈夫か」
「……大丈夫、です」
 そう答えた総司は、顔を背けた。
 今更遅いとは思うが、月明かりの中だ、何とか誤魔化せるかもしれなかった。
 だが、そんな総司の思いとは裏腹に、土方はその手を不意にとった。明かりのある方へ無理やり連れていき、傷の具合を確かめはじめる。
 総司は慌てて逃れようとした。
「い、いいです。たいした傷ではありませんから」
「……だが、きみは命の恩人だ」
 そう答えた土方に、総司は目を見開いた。
 彼の口調でわかったのだ。土方は何も思いだしていない。総司を見ても、言葉をかわしても、思い出さないのだ。
「……」
 総司は呆然と、土方を見上げた。


 あなたは、本当に何も思い出さないの?
 私を、あんなに愛してくれたのに。
 その手で殺してしまう程、愛してくれたのに。


 思わず、土方の端正な横顔を見つめた。
 胸が張り裂けそうに痛くて、それを堪えれば、涙がこぼれそうになる。
 そんな総司に気づいたのか、傷を確かめていた土方が顔をあげた。怪訝そうに眉を顰めている。
「何か?」
「……いえ」
 総司は目を伏せた。それに、土方は淡々とした口調で云った。
「傷が痛むのだろう。とりあえず、この近くに知り合いの家があるから、そこで手当を」
「そ、そんないいです」
 慌てて、総司は後ずさった。
 知り合いというのが誰なのか、すぐわかってしまう。近藤に決まっていた。今、土方と共に近藤と顔をあわせるなど、出来るはずがない。
 だが、怯える総司に、土方は微かに苦笑した。
「何も怖がる事はない。俺が誰なのか知っているようだが……」
「……新撰組の」
「そう。土方だ」
 さり気ない口調で名乗った土方に、総司は唇を噛んだ。
 先に名乗られれば、答える他はない。もっとも、顔を合わせても思い出さぬ彼に、この名は何の意味もなさぬだろうが。
「私は……沖田と申します」
「沖田君か」
 土方は何の感慨もない様子で頷き、それから言葉をつづけた。
「とにかく、手当をさせてくれ」
「でも」
「でなければ、俺の気がすまぬ」
 そう云いざま、土方は総司の手をかるく引いた。久しぶりに感じる冷たい指さきに、肌ざわりに、どくりと胸の鼓動が高鳴る。


 愛しくて愛しくて、たまらなくて。
 いけないとわかっていても、今にも縋りついてしまいそうな自分を、彼から引き離せるはずもなかった。
 久しぶりに間近で見た、きれいな微笑み、耳ざわりのいい声、彼の姿そのすべてが、泣きだしそうなぐらい嬉しかったのだ。


 だが、訪れた家で、当然のことながら、近藤と斉藤は複雑な表情をしていた。
 土方は全く気づいてないようだったが、その場の空気は張り詰め、息苦しい程だったのだ。
 そのため、手当を終えて家を出た時には、思わず安堵の吐息をもらしてしまった。ほっと息をついて、両手で己の躯を抱く。
 傍らを歩いていた土方は、それを誤解したようだった。僅かに苦笑する。
「そんなに恐れなくとも、大丈夫だ。俺たちは無法者ではないぞ」
「あ……すみません」
 頭を下げた総司は、まだ躊躇っていた。送ってもらうという事は、自分の家を教えてしまうのだ。
 だが、そんな総司に構う事なく、土方は柔らかな口調で訊ねてきた。
「家は? こちらの方向で良いのか」
「はい……」
 頷くより他ない総司は、土方と並んで歩いた。そっと見上げれば、月の光にふちどられた端正な横顔が目に入る。


 艶やかに結い上げられた黒髪に、僅かに伏せられた目。形のよい唇。
 ……何もかもが愛しかった。
 すうっと通った鼻筋、頬から顎にかけての鋭い輪郭。
 男らしく精悍な顔だちは、あの頃と何一つ変わらない。


 思わず見惚れてしまった総司に、土方がふと気づいたように視線を流した。
「? どうかしたのか?」
「いえ……」
 首をふった総司に、土方はさり気ない口調で訊ねた。
「沖田君は、何処のご家中なのか」
「違います……浪人です」
 土方の肩が強ばったように見えて、総司は慌てて言葉をつづけた。
「日々、子どもたちに習字などを教えております。そうして静かに暮らす日々が幸せなので……」
「幸せ……か」
 土方はふと目を細めた。
「穏やかな日々なのだろうな。殺伐とした毎日を送る俺たちには想像もつかんが」
「……」
「いや、余計な事を云った」
 小さく謝った土方に、総司は「……いえ」と首をふった。たまらなくなる。
 隊にいた頃、総司は土方の支えだった。諸刃の上を渡るような日々をおくる男を慰め、支え、できる限りその心に寄りそってきたのだ。
 なのに、今、土方は独りなのだ。独りきりで闘っている。その事が切なくてたまらなかった。


(……土方さん……)


 送ってもらった昨夜の事を思いだしつつ、総司は庭先を眺めやった。
 風がさらりと髪を吹き乱してゆく。
 昨夜の思いもかけぬ出会い。
 己を忘れてしまった、愛しい男との再会。
 だが、もう二度と逢う事もないだろうと思った。
 あの人は誰よりも多忙なのだ。こんな些細な出会いなど、すぐさま忘れてしまうに違いない。
 むろん、それは淋しく胸が痛くなるほど辛いが、その方がいいに決まっていた。もう逢うべきではないのだから。
「……」
 総司は一つ息をつき、部屋の中へ戻りかけた。朝の様々な支度をしようと思ったのだ。
 その時だった。
 不意に、庭先で人の気配がたったのだ。
 それに何気なく視線をやった総司は、目を見開いた。
「……土方さん」
 思わずその名を呼んでしまってから、あっと慌てて口を塞いだ。
 どう呼ぶべきなのかはわからないが、昨日知り合ったばかりの者としては馴れ馴れしい気がしたのだ。
 そんな総司に、土方は一瞬目を見開いた。だが、すぐ、柔らかな笑みをうかべた。
 歩み寄ってくると、その黒い瞳で見つめた。
「俺の名を覚えていてくれたんだな」
「え、えぇ……はい」
 総司は長い睫毛を伏せた。縁側に坐りながら、小さな声で謝る。
「すみません、馴れ馴れしい呼び方をして……」
「構わんさ。そう呼んでくれた方が気楽でいい」
「じゃあ……」
 総司は顔をあげ、土方を大きな瞳で見つめた。一瞬、息を吸い込んでから、意を決して口にした。
「私の事は、総司……と呼んで下さい。沖田総司です」
「総司…君?」
「年下なのですから、呼び捨てで結構です」
「だが、それでは」
「私が望んだ事ですから。お願いします」
 強い口調で云う総司に、土方は戸惑ったようだった。だが、すぐに微笑った。
「わかった。言葉に甘えよう」
「はい」
「総司……それでいいんだな?」
「はい……」
 ふと涙がこぼれそうになった。だが、それを堪え、土方の端正な顔をじっと見つめる。


 総司の名を口にしても、彼の表情に変化はなかった。
 それはつまり、総司の事を思いだしていないという事だった。
 彼の記憶の中からは、総司を愛した事も、総司の存在さえも、綺麗に消し去られてしまっているのだ。
 わかっていた事でも、いざ目の前にすると辛かった。
 もしかして、と思っていたのだ。
 忘れてしまっていても、自分と逢った瞬間、思いだしてくれるかもしれないと。
 だが、それは儚い望みだった。その証に、彼は総司の姿を見ても、言葉をかわしても、その名を口にしても、全く思い出さなかった。
 幸せだった日々も忘れ、来春には妻を娶ろうとしている男。
 自ら望んだ事とはいえ、身を斬られるように辛かった。彼と過した甘い蜜月が思い出される。


 総司は思わず俯き、ぎゅっと両手を握りしめてしまった。縁側に坐り込んだまま、息をつめる。
 その様子に、土方もさすがに気づいた。慌ててその細い肩に手をかけると、顔を覗き込んでくる。
「どうした、気分でも悪いのか」
「違います……」
 総司はゆるく首をふってから、顔をあげた。黒い瞳が気遣わしげな色をうかべ、総司を見つめている。

 間近に感じる息づかい、彼の匂い、ぬくもり。
 ふれたい、と思った。
 あの頃のように優しく抱きしめられ、彼のすべてを感じたい。
 だが、思った傍から、総司は己の弱さを恥じた。


 思いきったつもりだったのに。
 こんなに大切な人を傷つけてまで、選んだ別れだったのに。
 なのに、今更。
 私はなんて身勝手なの……?


 強く己を戒めつつ、総司は土方を見つめた。出来るだけ感情を抑えた声で、訊ねる。
「それで……今日はどうされたのですか」
「……いや」
 土方は縁側の端に腰を下ろしながら、僅かに苦笑した。
「昨夜の礼を、あらためてと思ったのだ。それに、怪我の具合はどうかと」
「たいした傷ではありません。もう大丈夫です」
 総司は綺麗だが、他人行儀な笑みをうかべた。


 彼は、優しい男だった。
 人は皆、彼を冷酷だとか非情だとか云うけれど、本当はとても心優しい人なのだ。
 だから、今も、一度手助けしただけの私を気づかい、こうして訪れてくれる。
 でも……それは拒絶しなければならなかった。
 この人の事を本当に想うのなら、これ以上近づくのは危険だ。


 それに──と、総司は目を伏せた。


(中途半端な優しさは、辛いだけ……)


「新撰組副長ともなれば、お忙しいのでしょう?」
 総司は何処か拒むような口調で、云った。
「私の事など気にされなくても……」
「忙しいと云っても、これぐらいの時間はある」
 ぶっきらぼうな口調で云った土方は、ふと形のよい眉を顰めた。どこか心配そうな表情で、総司を眺めやる。
「もしかして……邪魔だったか」
「え」
「俺みたいな男……新撰組副長などが訪れては、迷惑だったのか」
「そんな事ありません」
 総司は思わず強い口調で答えた。だが、すぐさま、あっと思った。
 いっそ迷惑だと云ってしまえば良かったのだ。なのに、だい好きな彼にそんな事を云えなかった。
 今も、本当は、あと少しだけと、彼がここにいてくれる事を願ってしまう。
「よかった」
 土方は嬉しそうに笑った。
 ちょっと照れたような、まるで江戸の頃のような笑顔で言葉をつづけた。
「何故か、おまえと話すのが心地よくてな。だから、嫌がられるかもしれないと思いつつ、ここへ来てしまった」
「そんな、嫌がるだなんて……」
「あぁ。おまえが迷惑ではないと云ってくれて、嬉しかったよ。ありがとう」
「……」
 総司は、土方の優しい笑顔を見ることができなかった。


 この人を、私は本当の意味で裏切っているのだ。


 何も云えない自分に堪らなくなりながら、総司は深く俯いた。














 その後、土方は総司の家を度々訪れるようになった。
 京の町中にある、小さな家。質素だが、独り住まいの侍にしては小綺麗に整えられていた。
 どこか懐かしい感じのする、とても居心地のいい家だ。清楚で凜とした総司に、よく似合っている。
 何度も訪れるうち、土方はそう思った。
 忙しい仕事の合間をぬって訪れる彼に、総司は初め戸惑っているようだった。だが、最近は少しずつ笑顔を見せてくれるようになっている。
 何よりも、訪れた時、彼の姿を見つけたとたん、ぱっと笑いかけてくれる表情が好きだった。
 まるで、花が咲きこぼれるような愛らしさだ。


(愛らしいと、思うなど……)


 土方は今日も屯所からの道を歩きながら、苦笑した。
 初めて逢った時、別にたいした感慨は受けなかった。それよりも、新撰組副長としての警戒心が走り、探るような事ばかりを聞いてしまったのだ。だが、言葉をかわすうちに、土方は総司に惹かれてゆく自分を知った。
 不思議なほど、心惹かれた。
 総司は、何もかも、彼の想いに適っていた。それは驚く程だった。
 愛らしい笑顔も、澄んだ声も。しなやかな手足も、華奢な躯つきも。
 他愛のない話でもころころと笑い、まだ逢って間もない土方に親しんでくれる。心を癒してくれる。
 優しく素直で、仕草も愛らしいのに、ふとした瞬間に見せる凜とした気性の強さがまた魅力だった。


 どうして、こんなにも惹かれるのだろう──?


 土方は、己の想いに戸惑った。
 縁談の相手にも抱いた事のない想いだ。その相手は申し分のない聡明さ、気だての良さ、美しさを兼ね備えていた。だが、それでも、心惹かれた事など一度もない。
 相手も彼に恋慕は全く抱いていないようだった。ただ、夫として選ばれた相手としてだけ、こちらを見ている。ある意味、取引のようなものだ。それは双方よく理解している事だった。
 その上、総司は男なのだ。自分と同じ同性を愛する事は、この時代、忌むべき事ではなかったが、土方にすれば戸惑わざるを得ない。
 他の男を好いてしまうなど、考えただけでもぞっとするが、何故か、総司は別だった。逢えば逢うほど、心惹かれてゆくのだ。逢っている時は他のいつよりも心やすらぎ幸せで、逢えぬ日は堪らなく辛くなる。
 恋に狂った男のようだった。
 まるで、惚れ込んだ花魁のもとへ通いつめる男のようだと、土方は苦く笑った。

















総司の不安をよそに、土方さんは積極的になっていきます。