近藤は深々と嘆息した。
先程から脇息に凭れかかり、手にした扇子を閉じたり開いたりしている。
外は、冬の夜だった。
その中を先程、総司を送っていった土方は、もう屯所に着いた頃だろう。己が殺したはずの恋人を。
むろん、土方は全く総司の事を覚えていなかった。思い出しもしなかった。それは、他人行儀な彼の態度から、すぐさま見てとれた事だった。
総司は落ち着いた表情で土方に対していたが、近藤たちの方へは懇願するような視線を時折送っていた。何も云わないでくれと、必死に頼んでいたのだ。
頼まれずとも告げられるはずがない、と、斉藤は奥歯を食いしばった。
数箇月前の夜。
あの夏の嵐の夜、斉藤の必死の蘇生により、総司は息を吹き返した。奇跡的だった。
むろんのこと、総司の方は土方に殺されかけた事も皆、覚えていた。自分を襲った出来事に、呆然としているようだった。
だが、そのまま隊に置いておけるはずもなかった。
土方は総司を殺しかけたのだ。
再会すれば、何が起こるかわからない。
二人を引き離すべきだと判断した近藤は、総司を隊から出した。二度と、土方と繋がりを持たぬよう願って。
だが、二人は、また出逢ってしまったのだ。
静まり返った部屋の中、じっと黙り込んでいた斉藤が顔をあげた。鋭く光る鳶色の瞳を近藤に向ける。
「……どうされるつもりです」
咎めるような口調に、近藤は瞼を閉じた。眉間に親指を押しあてている。
低い声で答えた。
「どうするも何も……どうにもならんだろう」
「どうにもならないって……あの時、オレは云ったではありませんか!」
斉藤が手を握りしめ、きつい口調で云った。
「総司を京から出し、江戸へ帰すべきだと。こんな狭い街の中なのです、いつか再会すると決まっていたのに」
「しかし、総司自身が望んだ事だ。仕方がない」
「それにしても……」
まさか、あんな出会い方をするとは、思ってもみなかったのだ。
ただすれ違うだけならいい。
それぐらいでは、土方も総司に目もとめぬだろうし、総司も彼から身を隠すに違いなかった。
だが、今夜の出来事は違うのだ。
斬り合いになった処へ通りがかり、土方が襲われているのを見た総司が助けに入るのは、当然のことだった。
殺されかけたとはいえ、愛した男なのだ。
否、今も心から愛している男。
だからこそ、江戸へ帰るのを嫌がり、遠目にでも土方を見守っていたいと、総司は京に留まっていたのだ。
「……たとえ、総司が望んだ事でも」
斉藤は腕を組み、沈痛な面持ちで言葉をつづけた。
「あいつのためを思うなら、江戸へ帰すべきだった。オレは今、本当にそう思いますよ」
「だが、歳は記憶を取り戻していない。おまえも見ただろう。他人行儀なあの態度を」
「今は未だ、です。いつ戻るかわかりません」
そう云ってから、斉藤は近藤をまっすぐ鳶色の瞳で見据えた。
「方法は一つだけです」
「何だ」
「今すぐ総司を京から去らせましょう。今なら未だ間にあう」
「総司が承知せんだろう」
「なら、土方さんに総司を殺させてもいいのですか!」
斉藤は思わず声を荒げた。
「今度こそ助けられない。そうなれば、総司はもちろん、土方さんも破滅だ……!」
痴話喧嘩の挙げ句、新撰組副長が一番隊組長を手にかけるのだ。
醜聞沙汰になるのはむろん、指弾と非難、嘲笑の的になる事は間違いなかった。
先の事は近藤たちが秘密裏に始末したからいいものの、今回もそう上手くいくとは限らないのだ。
近藤は再び嘆息し、斉藤を眺めやった。
「なら、総司に云えるのか」
「……」
「今すぐ京を去れと、おまえは云えるのか」
「……そんな」
斉藤は泣き笑いのような表情をうかべた。黙り込み、目を伏せてしまう。
長い沈黙の後、やがて、ゆっくりと首をふった。自嘲するような口調で呟いた。
「オレも、わかっているんですよ。そんな残酷な事、出来るはずがないと」
「斉藤……」
「総司は、土方さんだけを愛している。殺されかけたのに、あんな酷い目にあわされたのに……それでも、子どもの頃から抱いてきた想いは変わっていないのです」
「……」
「なのに、そんな総司に、江戸へ帰れと云うなんて……」
斉藤はきつく唇を噛みしめてしまった。じっと俯いている。
云えるはずがなかった。
斉藤も、総司を愛しているのだ。
その形は土方とは違っていたが、それでも、確かな深い情愛だった。
ずっと見守りつづけてきた斉藤が、総司を傷つけられるはずもない。
「どうしたものか……」
近藤は呟き、視線を窓外に向けた。
夜の闇に、紅く霞みがかった月がのぼっていた。
美しいが、どこか不吉な印象をあたえる光景だ。
それがまるで、恋人たちの行く末を暗示している気がして、近藤は思わず目を背けた。
翌朝は、清々しい青空だった。
総司は雨戸を開け放つと、朝の光を部屋の中に入れた。
小さな家だが、大切な住まいだ。
隠れ家と云ってもよいその家で、静かな暮らしを送っていた。子どもたち相手に寺子屋のようなものも開いている。
子どもたちは皆、総司に懐き、慕ってくれた。それが嬉しく、心を慰めてくれる。
むろん、独り寝の夜、淋しさに──逢いたくてたまらぬ彼への恋慕に袖を濡らす事もあった。だが、すぐさま自ら選んだ事だと己を戒めた。
あの時、私を見た彼の瞳が、忘れられない。
あの嵐の夜、総司は土方の部屋を訪れた。彼はまだ仕事中だったが、突然訪れた総司を優しく迎えてくれた。
書類を片付けながら、小さく笑いかけてくれたのだ。
「どうした、嵐で眠れないのか」
「いえ……」
総司は首をふり、彼のすぐ傍に端座した。じっと大きな瞳で見上げれば、それに気づいた土方が僅かに眉を顰める。
手がのばされ、頬にそっとふれられた。
「体調が悪いのか。あまり顔色がよくねぇな」
「大丈夫です。それより、土方さん……お話があるのです」
「話?」
土方は首をかしげ、だが、すぐに頷いてくれた。膝をくずし、何だと問いかけてくる。
その姿を、静かに見つめた。
だい好きな彼だった。
この世の誰よりも愛しい男だった。
子どもの頃からずっと憧れ、恋しつづけて。叶わぬ恋だと諦めていたのに、この人はふり返ってくれた。
ふり返り、手をさしのべ、総司をその腕に抱きしめてくれたのだ。愛してる……と初めて囁かれた時の喜びは、今も覚えている。
それからの日々は、信じられないほど幸福だった。
甘い優しい蜜月。
愛しあう恋人たちだけに許された、夢のような日々。
だが、それも──終わりだった。終わりにしなければならなかった。
愛しているからこそ、自分よりも何よりも愛しているからこそ、この手で終わりを告げなければならないのだ。
「……別れたいのです」
小さな声で云った総司に、土方は「え?」と聞き返した。
それに、視線をそらしつつ、くり返した。
「土方さんと別れたい、のです」
「……」
きんと耳奥が痛くなった。
彼は何も云わない。無言のままだ。
だが、その驚きを、怒りを、痛いほど感じた。注がれる彼の視線が怖かった。到底受け止められず目を伏せ、総司は口早につづけた。
「ごめんなさい、土方さん。あなたとの関係はもう終わりに……」
「……何を云っている」
不意に、土方が言葉を発した。感情を押し殺した、低い声だった。
「おまえ……別れるだと? 俺と? いきなり何を云いだしやがる」
「土方さん……」
「何故だ。俺と別れたいと云うのなら、理由があるだろう」
激しい感情を孕んではいたが、まだ、彼の声音は落ち着いていた。
土方も半信半疑なのだろう。総司が思いつきや、何か拗ねているために云い出したと思っているようだった。
だが、違うのだ。固い決意に基づいている事を、口にしなければならなかった。たとえ、彼が傷ついても、それでも。
総司は瞼を閉じた。
(ごめんなさい、土方さん)
膝上に置いた両手をぎゅっと握りしめた。そうして、絞り出すような声で答えた。
「……他に」
声が僅かに震えた。
「好きな男が、できたのです……」
「──」
「その人も私を好きになってくれて、それで……契りを交わしました」
重苦しい程の沈黙が落ちた。
外の風が鳴る音しか、部屋には響かない。土方は身動き一つせず、総司を凝視しているようだった。
息づまるような沈黙に、総司は堪えられなくなった。意を決すると、おそるおそる顔をあげる。
とたん、鋭く息を呑んだ。
「!」
土方は、総司を見つめていた。
だが、それは予想していたような、怒りの表情ではなかった。悲しみでも驚きでもない。
まるで、捨てられる子どものような表情だった。
ただ呆然と、総司だけを見つめている。その黒い瞳には感情があふれ、今にも唇が震えだしそうだった。
「……土方…さん」
思わずその名を呼んだ総司に、土方は膝上に置いた拳をぐっと固めた。
しばらく黙り込んだ後、奇妙なほど掠れた声で云った。
「おまえは……俺を捨てるのか」
「土方さん、私は」
「他の男を好きになった? 契りを結んだ? 俺は、おまえだけを愛してきたのに」
「……」
「こんなにも、おまえを愛している俺を捨てて、おまえは……っ」
不意に、土方の声が激した。
あっと思った時には、腕を掴まれ引き寄せられていた。離さないとばかりに抱きしめられる。
「そんな事が許されると思っているのか。許さない。俺はおまえを絶対に離さない」
「土方さん」
「おまえを愛しているんだ、ずっと愛してきた。なのに……今更、他の男に奪われるだと? それぐらいなら、いっそ……っ」
ただならぬ声音に、顔をあげた。息を呑む。
暗く燃える瞳が、総司を見つめていた。
そして、ゆっくりと彼は笑った。
ぞっとする程、冷えた黒い瞳が総司を見つめ、形のよい唇が弧を描いた。恍惚と云ってもよい笑み。
柔らかく、優しく抱きしめられた。
まるで睦言のように、土方の低い声が耳もとで囁きかけた。
「絶対に許さない。奪われるぐらいなら」
「……土方、さ……」
「おまえを……殺してやる」
その告白が最期だった。
突然、彼の手が首にまわったかと思うと、凄まじい力で締め上げられた。あっという間に息が出来なくなり、視界が暗くなる。
苦しさに思わず抗った。彼の手に爪をたてたかもしれない。
最後に覚えているのは、自分を見つめている彼の瞳だった。
狂気に染まった瞳。
いつも静かで包容力があり、子どものような総司を優しく受けとめてくれた恋人。
大人の男であったはずの彼が初めて見せた、生々しい男の激情だった……。
後の事は何も覚えていない。
気がつけば、総司は自室に寝かされており、斉藤が心配そうに覗き込んでいた。
何も考えられない総司に、斉藤は口早に状況を告げた。
驚く事ばかりだったが、中でも、土方が己の存在を消し去ってしまった事実は、先程の出来事を上回る衝撃だった。
呆然としたまま、近藤の言葉に従って隊を出て、この家に身を落ちつけた。
京に残っても、何をするつもりもなかった。
ただ、彼を、遠目に見ていたかったのだ。傍にいたかったのだ。
むろん、それは憎しみや恨み故ではなかった。
殺されかけても──否、そうされたからこそ、尚、総司の土方への恋慕はつのっていた。愛しくて愛しくて、たまらなかった。
(……土方さん……)
あんなにも、自分は求められていた。
誰もがふり返る、彼。今まで逢った中で、誰よりも特別な人。
その彼が自分に手をさしのべてくれただけでなく、自分を失ってしまう程愛してくれていたなど、思ってもみない事だった。
自分の想いの方が、ずっと強いと思っていたのだ。命を賭けてとまで思っているのは、己の方だけだと思っていた。
幼い頃から憧れ、恋しつづけた人。
綺麗な顔だちで、でも、どこか危うい雰囲気を漂わせ、誰よりも魅力的な男。
着流した小袖の裾をひるがえし歩いてゆく土方の、すっとのびた背中が好きだった。ふり返った時にむけられる、濡れたような黒い瞳も、時折、悪戯っぽい笑みをうかべる形のよい唇も。
癖のない黒髪、頬から顎にかけての鋭い線。意外な程、しなやかな指さき。
江戸の頃、自堕落に着流していた姿も好きだったが、今の癇性に詰められた着物の襟元、黒羽二重がよく似合う正装姿も、惚れ惚れとみとれてしまうぐらい好きだった。
ぼうっと見惚れてしまう総司に、苦笑しながら額を小突いてきた彼の笑顔は、今もよく覚えている。
何もかも、好きで好きでたまらなくて。
この世の誰よりも大切な、いとおしい人。
だからこそ、その土方に「奪われるぐらいなら」と殺されかけた時、総司が感じたのは、狂おしいほどの歓喜だったのだ……。
総司は障子の桟に凭れかかり、ほうっと吐息をもらした。
長い睫毛を伏せ、唇を噛んでしまう。
愛しいと、恋しいと。
躯中が叫んでいても、それでも、己を抑えてきた。堪えようと思ってきた。
二度と逢えぬ、言葉をかわす事も許されなくても、遠く見守ることが出来ればいい。それが許されただけでも、幸せなのだ。
そう思っていた。
なのに。
(まさか、あんな事になるなんて……)
思いもよらぬ出来事だった。
昨夜は、久しぶりの買い物に出かけた。
寺子屋で使う紙を買いに行き、帰りが遅くなってしまったのだ。
むろん、新撰組を離れても、総司は一流の腕をもつ剣士だった。それ故、夜も闇も恐れることはないが、新撰組という武装集団から離れてから時が経っている。
「近いうちに、どこかの道場で稽古をさせて貰おうかな」
そう呟いた総司は、だが、そんな事できるはずがないとすぐ思い直した。
この京にいたければ、決して見つからぬよう過していかなければならないのだ。それは身を守る術であり、また、愛する男のためでもあった。
目立つような事をしてはならぬのだ。
神社でまた素振りをしようと思いつつ、総司はふと夜空を見上げた。
紺色の夜空だ。初冬らしく、まだ凍りつくような寒さはない。だが、すぐに京らしい底冷えの冬が訪れてくるはずだった。
もうすぐ初雪も舞うことだろう。
それに、ふと去年の冬のことを思い出した。
初雪を彼と一緒に見たのだ。たまたま散策に出かけた先で、初雪にあった。後ろから抱きすくめてくれる土方の腕の中、とても幸せな気持ちで、空を見上げていた。
どんな事を話したのかは覚えていない。だが、時折、彼の唇が耳もとや頬にふれて、そのたびに顔が熱く火照った。羞じらう自分に、くすくす笑った彼は、近くの茶屋へ連れていったのだ。
そして、抱かれた。
初雪のように、優しく愛してくれたのだ。
幸せな──今となっては、夢のようにしか思えないささやかな記憶。
だが、総司にとって、それはとても大切な宝物だった。手のひらの中に包み込み、時折、そっと見つめて懐かしむ彼との思い出は、今の総司にとって生きる糧だ。
「……」
総司は吐息をもらし、再び歩き出した。
幾つかの角を曲がったところで、ふと周囲に見覚えがある事に気づいた。
その理由に思いあたった瞬間だった。
突然、刀の鋭い音が響いた。
次、土方さんが、総司を訪ねてきます。
