「土方さん……!」
部屋に入ったとたん、畳の上へ荒々しく押し倒された。息を呑んで見上げれば、すぐさま男がのしかかってくる。
思わず両手で彼の肩を突っぱね、首をふった。
「お願い! 話を……話を聞いて」
「煩い、黙ってろ」
江戸の頃のままの乱暴な口調で云い捨てると、土方は総司の後ろ髪を掴み、引き寄せた。そのまま噛みつくように口づけてくる。
舌がさしこまれ、荒々しく舐めまわした。いやと首をふれば、より深く唇を重ねられる。
「んっ…ん、ぅ…っ」
頭の芯まで霞むような濃厚な口づけに、総司は陶然となった。躯から力が抜け落ちる。突き放そうとした手も、今や男の肩口に縋りついているだけだ。
ふっくらした唇を甘咬みしてから、頬に首筋に、口づけた。細い躯を息もとまるほど抱きしめ、土方は呻いた。
「……俺のものだ……っ」
「ぁ、あ…ぁ、土方…さ……」
「俺だけのものだ。誰にも渡さない……!」
狂気じみた声音だった。
いつもの冷静沈着な副長の姿など、何処にもない。そこにいるのは、気が狂ったように恋人を愛し、執着している若い男だ。
だが、その愛が総司にはわからない。執着しか見えぬ故に、混乱してしまうのだ。
「……土方…さん……っ」
髪に指をさしいれられ、かき乱された。何度も、甘く激しく口づけられる。
いつもとはまるで違う、余裕のない男の様子に、総司は身を竦ませた。
「……どうして」
それに、土方が眉を顰める。
男が顔を覗き込むため身を起すのを感じながら、総司は喘ぐように言葉をつづけた。
「どうして、私に……執着するの……」
「総司」
「私が憎いなら、恨んでいるのなら……殺せばいいのに。なのに、こんなふうに抱きしめて、口づけて……どうして?」
声が涙に濡れた。
「優しくしたり、冷たくしたり……これも仕返しなのかもしれないけれど、でも、あなたがこんなふうに私に執着するのは、いけないのに。駄目なことなのに」
「何故、駄目なんだ」
一時の激情が去ったのか、土方の声は落ち着いていた。まだ何か激しいものを孕んではいるが、つとめて己を抑えている。
「おまえに執着するのが、何故いけない。醜聞沙汰になるからか。それをおまえは恐れているのか」
「当然でしょう?」
総司は鋭い声で叫んだ。土方に組み敷かれたまま、潤んだ瞳で彼を見上げる。
「こんな事をしていれば、いつかは暴かれる! 指弾の的にされる。それでも、あなたはいいと……」
「構わない」
きっぱりと云いきった土方に、総司は目を見開いた。それに、土方は低い声でつづけた。
「醜聞沙汰など、今更のことだ。おまえ以外、欲しいものはない。そんな俺が醜聞を恐れると思っているのか」
「何を……云って……」
呆然と彼を見上げる総司に、土方はゆっくりと嗤ってみせた。
冷たく、底知れぬ笑み。
「俺はもう……狂っている」
うっとりとした表情で総司の頬を撫でながら、囁いた。
「おまえを連れ戻した時から」
「……」
「狂っているんだよ……総司」
(……堕ちてゆく)
抱きしめる男の腕を感じながら、総司は思った。
もう行きつく処まで来てしまったのか。私たちは今、煉獄に堕ちてゆこうとしているのか。
こんな恋ではなかったのに。
優しく穏やかな、夢のような恋だった。睦みあい、ゆっくりと愛を育ててゆくはずだったのに。
なのに、どうして。
どうして、こんな風になってしまったの……?
「総司……おまえは俺のものだ」
土方は低く囁き、総司の細い躯を抱きしめた。着物の襟を引き下ろされ、晒された白い肌に男が唇を押しあててくる。
──愛など、どこにもない。
狂ったような執着だけを見せる男に、その瞬間、総司は絶望した。
久しぶりに訪れた家だった。
総司が土方に殺されかかった後、京から離れる事も出来ぬまま住み続けていた家だ。
突然、寺子屋を畳んだ時、子どもたちは皆別れを惜しんでくれたが、総司もとても悲しかった。小さな安らぎを見つけたような気がしていたのだ。出来ることなら、ずっとあのまま、時折訪ねてくる土方を待ちながら、ここで穏やかに暮らしてゆきたかった。
あの頃、優しく笑いかけてくれた彼が、泣きたくなるほど遠く感じる。
「……」
総司は木戸に手をかけ、押し開いた。きぃと微かに軋む音も、あの頃のままだ。
後ろから、斉藤が静かに云った。
「この家……今も、まだ借りつづけているんだ」
「斉藤さん……」
「おまえが戻りたいと思うかもしれないし」
そう云った斉藤に、しばらくの間、総司は黙り込んでいた。やがて、木戸に手をかけたまま俯くと、小さな声でぽつりと呟いた。
「……戻りたい」
「総司」
「あの頃に戻りたい。土方さんに愛されていた頃に戻りたいなんて……そんな烏滸がましい事は思わないけれど、せめて、ここで暮らしていた頃に戻れたら……」
痛ましげに眉を顰める斉藤の前で、総司は長い睫毛を伏せた。
ふわりと風が柔らかな髪を吹き乱してゆく。
そうして俯く様は、まるで絵のように美しかった。玲瓏で柔らかく、そして、優しい。
斉藤は総司の手をひいて歩いてゆくと、縁側に坐らせた。自分も並んで腰かけながら、できるだけ穏やかな声で話しかける。
「総司……おまえはもう少し、自分の気持ちに素直になるべきだ」
「……」
「戻りたいのなら、戻ればいい。隊を脱し、療養のためにここへ住むと云えば、近藤先生も許して下さるだろう」
「土方さんは……許しません」
総司は目を伏せ、低い声で答えた。
「あの人は決して私を離さない。どんな事があっても、私を傍に留め置くつもりです」
「総司……」
「こんな事をしていれば、いつか危うくなると云いました。でも、土方さんは構わないと、醜聞沙汰になってもいいと……! そんな事、許されるはずがないのに」
膝上に置いた手をぎゅっと握りしめた。
しばらくの間、総司はじっとその自分の手を見つめていたが、やがて、静かな声で云った。
「斉藤さん」
「何だ」
「私……隊を出ようと思います」
「──」
驚いて目を見開く斉藤の前で、総司は言葉をつづけた。
「伊東先生の派に入るつもりはありません。ここへ戻る訳でもない。ただ、隊を出ようと思うのです」
「だが、そんな事をすれば」
斉藤は身を乗り出した。
「おまえは殺される……! 脱走は、隊規違反になってしまうのだぞ」
「わかっています」
総司は顔をあげ、斉藤を見つめた。大きな瞳が微かに潤んでいる。
「でも、こうするより他ないのです。何度も考えた末の事なのです」
「……」
「私たちは……限界まで来てしまっている。私が殺されるか、あの人を殺すか……そんな酷い選択をしなければならない程に」
「総司」
思わず呼びかけた斉藤の前で、総司は立ち上がった。庭を歩きながら、小さな声でつづけた。
「私はもう……土方さんを愛していないのかもしれません。恋しくて切なくて、誰よりも大切で……だけど、何かが違ってしまった。本当に大切なものが違ってしまったのです」
そう云った総司は俯き、両手で口許をおさえた。掠れた声がこぼれる。
「……こんなの、愛じゃない」
「──」
小さな小さな声なのに、叫びのようだった。
心からの慟哭に聞こえる痛々しさに、斉藤は胸奥を抉られた。それでも、黙ったまま総司を見つめる。
総司の辛さ、切なさ、その結論に到るまでの苦痛がわかるからこそ、何も云えなかったのだ。
押し黙る斉藤の前で、総司はふり返った。初夏の緑にあふれる光景の中、そっと微笑んでみせる。
白い手をさしのばし、囁くように云った。
「斉藤さん、ありがとう」
「……」
「今まで、本当に……ありがとう」
「……総司」
まるで別れのように聞こえる言葉に、斉藤は胸がつまった。黙ったまま立ち上がると、強引にその腕を掴んで引き寄せ、抱きしめる。
息もとまるほど抱きしめる斉藤に、総司は驚き、だが、すぐに身をゆだねた。そっと、斉藤の背に手をまわす。
ずっと支えてきたくれた友人だった。
愛することは出来なかったけれど、でも、とても大切な人だったのだ。
「斉藤さん……」
目を閉じる総司を、斉藤はより深く抱きしめた。
そんな二人の上に、木洩れ陽が柔らかく落ちていた───。
夜明け前だった。
すべてが暗闇に沈む中、総司はゆっくりと障子を開いた。屯所の中はしんと静まり返っている。
「……」
総司は息をつめたまま、そっと廊下を歩き出した。
隊を出るつもりだった。むろん、土方の承諾は得ていない。
昨夜のうちに近藤へは話をしてあった。療養という形で隊を出ることを許してくれた近藤に、申し訳なさと同時に深く感謝した。子どもの頃から、いつも優しく穏やかに見守ってきてくれた師だったのだ。
総司は屯所の玄関を出ると、やがて、西本願寺の境内からも歩み出た。大きな門をくぐり、まだ明けやらぬ京の町を歩いてゆく。
そこは材木が並ぶ一角だった。塀が続き、柳が風に揺れている。
突然だった。
後ろから足音が迫ったかと思うと、腕を掴まれたのだ。
「!」
心臓が跳ね上がった。男の手で口を塞がれ、そのまま路地裏へ荒々しく引きずりこまれる。
「……どこへ行く」
耳元で低い声が囁いた。
まるで、情事の時のように艶めいた声音だった。耳朶を噛むようにしながら、言葉をつづける。
「こんな朝早く、どこへ行くつもりだった」
「……っ」
「なぁ、総司……?」
くっくっと嘲るような笑い声に、総司は目を見開いた。
震えながら見上げれば、土方が端正な顔に冷たい笑みをうかべ、見下ろしていた。黒い瞳が嘲りをうかべている。
何もかも、見透かされていたのだ。
今日、逃亡を図ることを予測され、挙げ句、こうして捕まってしまった。このまま連れ戻されれば、二度と逃げることはできないだろう。今度こそ、土方も鎖を緩めないに違いない。
だが、総司はそのこと故に、震えたのではなかった。怖いとは思わなかった。
思い知らされた気がしたのだ。己の気持ちさえ理解できず、逃げだそうとしたのに、今、こうして抱きしめられるだけで息がとまる。鼓動が早くなる。
気持ちよりも何よりも、躯が彼への想いを叫んでいた。
この人を愛している、と。
だが、一方でわかっていた。愛しているからこそ、離れなければならないのだ。
このままでは、彼を破滅に陥れてしまう。壊してしまう。
そんな事、許されなかった。自分が醜聞にまみれ、堕ちてゆくだけなら構わない。だが、彼を巻き添えにする訳にはいかないのだ。
「……離して」
総司は男の胸を押し返しながら、静かな声で云った。
「離して下さい。私は隊を出るつもりなのです……近藤先生にもお許しを得ました」
「……」
「隊を出ます。もう二度と、あなたの元へは帰らない」
「成程」
土方は低い声で呟いた。微かに片頬を歪める。
「贖罪は終ったという訳か」
「……贖…罪?」
「そうだろうが。今まで、おまえが黙って俺に従っていたのは、贖罪のためだ。だが、それも終ったという訳か」
「そんな……っ」
総司は息を呑んだ。
「贖罪だなんて! あなたの傍にいたのはそんな理由からじゃない」
「嘘つけ」
土方は苦々しげに、くっと喉を鳴らした。
「好きでもない、それどころか、かつて別れを告げた男に犯され束縛され、地獄を見てきたのだろう。それでも堪えていたのは、俺への罪滅ぼしのためだ」
「土方さん……やめて」
総司は思わず手をのばした。男の胸もとに縋り、懸命に訴えた。
「私は、あなたに犯されたなんて思ってないし、地獄なんかじゃなかった。あなたの傍にいられて、私は幸せだったのです。時々、あなたが優しくしてくれると、まるで昔の戻った気がして……泣きたいくらい、幸せだった」
「……幸せだと?」
不意に、男の声音が怒気を含んだ。総司の腕を乱暴に掴み、荒々しく引き寄せる。
はっと息を呑んだ総司に顔を近づけ、切れの長い目で鋭く睨みつけた。
「幸せだなどと、よくも云える! いつも怯えた顔をしやがって、罪滅ぼしだとばかりに身を縮め、笑顔一つ見せず、それのどこが幸せだ。ふざけるんじゃねぇよッ」
激しい本性のまま荒っぽい口調で云い捨てた土方は、総司の躯を突き放した。どんっと後ろの壁へ背を打ちつける総司を、ひどく冷めた目で眺めやる。
形のよい唇が侮蔑の笑みをうかべた。
「口先だけの誤魔化しや嘘はもう御免だ。俺は云ったはずだろう、おまえを飼い殺しにしてやると。俺から離れるなど絶対に許さない」
「私…だって、離れたく…ない……っ!」
壁に縋ったまま、総司は思わず叫んでいた。
もう我慢ができなかった。
こんなにも好きなのに愛しているのに、どうして伝わらないのか。
何故、あなたから離れなければならないの?
あの頃に戻れるたら。
誰か、お願い……戻して。
あの頃の、幸せだった私たちに。
男を見上げ、半ば泣き出しながら総司は叫んだ。
「こんなにあなたを愛しているのに、離れたいなんて思う訳がないでしょう!? ずっと傍にいたい、あなたさえいれば他には何も望まない。なのに、あなたに嫌われ憎まれて……もう、どうする事も出来なくて……っ」
ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「堪えられない……っ」
「……」
胸の内をすべて明かした告白だったが、男の表情は変わらなかった。冷めた目で総司を眺めながら、薄暗い路地裏に端然と佇んでいる。
やがて、ゆっくりと俯いた。
「……愛している、か」
喉奥で低く嗤った。
「そんなもの、今更信じられる訳ねぇだろう」
「土方…さん……」
「おまえが俺を愛してる? なら、どうして別れを告げた。挙げ句、逃げて隠れて……連れ戻してからも、俺に心を開かなかった」
「それは」
云いかけた総司の言葉を、土方は強引に遮った。
「総司、おまえは何度も嘘を重ねた、俺を騙した。そのおまえを、今更、信じられると思っているのか」
「……」
男の言葉に、深く俯いてしまった。返す言葉もなかった。
彼のためを思ったとはいえ、嘘を重ねてしまったのは自分なのだ。
黙って足下を見つめる総司を、土方は切れの長い目で見つめた。
やがて、ゆっくりと告げた。
「……愛してる」
「!?」
驚いて顔をあげた総司の前で、土方は冷ややかに嗤った。
嘲りの色をうかべた瞳。
今、愛を告げたとは到底思えぬ男の表情だった。
一瞬でも鼓動を早まらせただけに、総司は、絶望で目の前が暗くなるのを覚えた。愛する人からの刃はこんなにも痛くて辛い。
震えながら見つめ返す総司に、土方は淡々とした口調で告げた。
「俺の言葉を、おまえは信じられるのか」
「……」
「今更……俺がおまえを愛しているなどと、信じられるのか」
「……っ」
きつく唇を噛みしめた。
彼の云うとおりだった。信じることなど出来なかった。
何故なら、彼は自分を愛していない。そんな事あるはずないのだから。
(……でも……)
きゅっと手を握りしめた。息をつめる。
心の奥底が、強く強く叫んでいた。
信じたい。彼の言葉を心から信じたい。
今も愛されていると、そう信じることができたら、どんなに幸せだろう。
もしも、本当に愛されているのなら───
叶うはずもない夢だと知りながら、総司は土方を見つめた。
澄んだ瞳で彼を見つめ、ゆっくりと答えた。
「……信じます」
「──」
土方の目が見開かれた。
総司は小さな声で、それでも懸命に言葉をつづけた。
「あなたが私を愛してると云ってくれるなら、それを信じます」
「……」
しばらくの間、土方は、信じられぬものを見るかのように、総司を凝視していた。
だが、やがて、激しく顔を背けた。きつく両手を握りしめた。
「どうして、だ」
「土方さん」
「何故、俺なんかの言葉を信じられる。俺はもう……昔の俺ではない。あの頃、おまえを一途に愛していた俺は、どこかへ消え失せてしまった。今の俺は、おまえを愛しているのか、憎んでいるのか……それさえもわからない」
男の言葉に、総司の胸奥が痛んだ。
やはり、愛されていなかったのだと切なく、泣き出したくなる。だが、それよりも、こうして吐き出すように話す男の表情が、痛ましかった。
総司は思わず手をのばした。そっと彼の腕にふれようとする。
だが、それを土方は身をすらすことで避けた。息をつめる総司に構わず、低い声で云い捨てる。
「……好きにしろ」
「え」
驚く総司を見る事もなく、土方は顔を背けたまま云った。
「隊を出たいのなら、好きにすればいい。俺はもう……何も云わねぇ」
「……土方、さん」
突然の言葉に、彼の名を呼ぶしかできなかった。
土方は総司を見ると、僅かに目を細めた。
「どこへ行っても……躯だけは大事にしろよ」
それが最後の言葉だった。
呆然と立ちつくす総司の前で、土方は踵を返した。その場に総司を残したまま、立ち去ってゆく。
角の向こうに黒い小袖の袂がひるがえり、そして、消えた。
その瞬間、総司は泣き叫びそうになった。夢中で彼を追いかけ、縋りつきたくなる。
お願い、おいていかないで。
私を捨てないで……!
逃げる事を選んだのは自分であるはずなのに、心にあふれたのは、彼への強い恋慕だった。悲しみだった。
切なくて辛い、見捨てられたという慟哭だった。
だが、それを表に出す訳にはいかないのだ。彼に聞かせる訳にはいかない。
自分があの人にとって災いとなる前に、去らなければならないのだから。
「……っ」
総司は胸奥からこみあげる叫びを、必死に堪えた。唇を噛みしめ、それでも足りず両手でおおった。口の中に血の味がひろがる。
両手で唇をおおったまま、総司はその場に蹲った。
躯中が痛い。
何よりも胸が痛い、痛くてたまらない。
(土方さん、土方さん、土方さん……!)
涙が頬をこぼれ落ちていった……。
次で完結です。二人の想いが行き着く先は?
